第2話 人魚の娘

 目の前のアルディンは別だが、彼だってべつにあだめいた気持ちで寄ってくるわけではない。ただの暇つぶしだ。彼にとってはメリジュスをからかうことは、勉学のあいまの息抜きみたいなものなのだ。

「坊ちゃん、どこまでついてくるんですか?」

「坊ちゃんっていうなよ。俺の方が一つ年上なんだから。井戸まで行くんだろう? 俺も井戸へ行くんだ」

 十四になってからアルディンは自分のことを両親と兄の目のないところでは〝俺〟と呼ぶようになった。せいいっぱい胸をそらして大人ぶる彼が、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、メリジュスを内心微笑ませる。

 なんだかんだ言っても、アルディンとはそれこそ生まれたときからの付き合いだ。

 亡母が彼づきの下女だったメリジュスは、当時は自分も幼児だったが、アルディンがおねしょをして汚した敷布を洗う母を見て育ったのだ。そのころの事を思い出すと、今のアルディンの小貴公子ぶりが滑稽だ。 

「坊ちゃん、お勉強はしなくていいんですか? 午後には家庭教師の先生がいらっしゃるんでしょ? 予習をしておかなくていいんですの?」

 メリジュスも大人ぶって、あえて生意気な態度をとってやった。怒って、臍を曲げて、はやく自分に背をむけて行ってしまってほしい。はやく視界から消えてほしい。望みはそれだけなのに……。

「なんだよぉ」

 相手は目もとを険しくしたが、立ち去ってはくれない。

「ただ手伝おうっていうだけじゃないか」

「手伝ってくれなくていいですよ。これは、わたしの仕事なんだから」

「だって……」

 相手はさも不満げに頬をふくらませた。

「おまえひとり、いつもしんどい仕事ばかりしているじゃないか? 水汲みや薪割りや、荷物はこびばかり。おまえだってもう十三だろう? 普通、そろそろ奥付きの仕事になるものなんじゃないのか?」

「いいんです。わたしはこういう仕事の方が好きなんですから」

 アルディンの言うとおり、お屋敷勤めの女児は、十三、四にもなると、よっぽど不器量か不器用でないかぎり、奥室の仕事にたずさわるようになり、女主の指示にしたがって衣装や室礼しつらいの管理や給仕など、内部の仕事に従事するものだが、メリジュスは今も厨房の下働きの仕事をしている。

「俺、てっきりおまえが俺つきの侍女になると思っていたんだけれど……」

「わたしが側にいたら苛めやすいでしょ?」

 メリジュスは、ちょっと嫌味に被衣のなかで赤毛の眉をゆがめて笑ってみせた。

「自分付きの侍女なら、どう扱おうがご主人様の自由ですものね」

 アルディンはさも心外そうに、瞳よりやや濃い、栗色の少年らしい凛々しげな眉をつりあげた。

「なんだよ、俺が本当にそんなことすると思っているのか?」

 勿論、思っていない。

 そもそも最初に、主君の子息という、雲の上のような存在だったアルディンと直接顔を合わせたのは、メリジュスの母が裏庭の井戸端でアルディンの汚れものを洗っているところへ、当の彼が近習の目を盗んで、自分のおねしょの始末をしてくれている下女に会いに来たのがきっかけだったのだ。

(ごめんね、メリーヌ。お布団、汚しちゃって。あの……洗ってくれて、ありがとう)

 よちよち歩きの小さな主は下級の召使に、さもすまなさそうな顔をしてうつむいた。

 朝焼けのなかで水仕事をする母はその様子に破顔した。身分の違いがなければ、おそらく相手を抱きしめていたかもしれない。

 それほどにアルディンの容姿は、聖堂の壁に描かれた天童てんどうが、壁から抜け出てきたのではないかと、幼かったメリジュスが本気で思ったぐらいに、清らかで優しげだったのだ。

 わずか三つ四つの頃でさえ、アルディンは自分に仕えてくれる者にたいして感謝の気持ちをきちんと持っていた。そして、十年の歳月を経て思春期をとおりぬけ、生意気ざかりの少年期にはいり、多少露悪的にふるまってはいても、心の内にはありし日の優しさをけっして失っていないことを、メリジュスも知っていた。

 だからこそ、彼にこれ以上近づいてはいけない。これ以上、彼と親密になってはいけないのだ。後で一番傷つくのは、他ならぬ自分なのだから。

「なぁ、俺から父上に、おまえを奥付きにしてもらうように言ったら、駄目か?」

 幼児の頃のようにあどけなく木漏れ日にかがやく鳶色の瞳。けれど、もはや自分たちは幼児ではない。アルディンは大人に近づいた証しに佩刀をゆるされ、メリジュスはつい二日まえ、粗末な褥の上に成長の兆しである薔薇の花びらのような薄紅色のしるしを見た。

「わたしはこれでいいの。今までどおり、この仕事でいいの……。だって……」

 メリジュスは大人と子どものはざまに立ち入ってから、人は嬉しくもおもしろくもないのに、笑顔をつくれるものなのだと悟った。

 そして小声でつぶやいた。

 わたしは……人魚の娘だから。

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