忘れないで

不忘一息

第1話

 幼馴染の訃報を知ってから一月半が経った。

 自室のベッドで寝転び、ぼんやりと虚空を見つめる。

 小窓から見える黒い空は今にも泣きだしそうで、遠雷が鼓膜を震わせていた。

 窓から漏れる街灯の明かりが自室を薄ぼんやりと照らしている。

時計を見やると、時刻は夜の十一時。

 身体が重い。ベッドから立ち上がっただけで軽く息が上がっている。運動していないことが一番の原因――でないことは自分でも分かる。

 数メートルもない距離にある机に辿り着くまで一分以上かかった。運動不足もあるが、おおよその原因はゴミ屋敷寸前のごちゃごちゃになった部屋の惨状にある。

 引き出しを開けようとすると空っぽの通学鞄が引っ掛かった。足で適当にどけると、ドミノ倒しのように本の山が倒れていく。

 取っ手に触れると微かに指先が震えたが、思い切りキャスターを回し一番下の段を開帳する。

 奥にあるボロボロの装丁を纏った濃い赤のアルバムを見た――その瞬間、金縛りのように身体が動かなくなった。

 手を伸ばそうとするが、自分の意志とは反するかのように肩の関節から動かない。五分ほど格闘したところで諦めて、再びベッドに戻る。途中で隣家の窓枠が見え、また心に澱が溜まった。

 この一か月半で積もった澱の山は本のようには崩せそうにもない。じわじわと俺の体を侵食し今にも別の誰かに乗っ取られそうな気がしてならない。

 ベッドに倒れこみ、ため息を吐く。

 今日もまた、駄目だった。

 胸の内にまた一つ黒い塊が落ちる。蓄積された澱は濃度を増して深海より暗い色をなしていた。

 “あの日”以来、あれを見ると身じろぎひとつできないようになってしまった。

 そして日々、アルバムの中を見ようと格闘している。写真の中の幼馴染に会おうとしている。こんなことは無駄だと知っているのに、傷つくと分かっているのにやめない。

 壁越しに幼馴染の部屋を見る。

 近くに落ちた雷が薄暗い部屋をカメラのフラッシュのように照らした。


 ――目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだ。

 雨は上がったらしい。窓からの日光で部屋の中が明るい。

 大あくびを部屋にまき散らしながらドアノブに手をかけたところで、不意に内開きのドアが開いた。

 おかんが突撃してきたのかと身構えるが、廊下にいた人物の姿を見て――

「あ、もう起きたんだ! 今日は早いね」

 絶句した。

「ちょっと部屋汚すぎじゃない? 掃除しないとだめだよ。あ、そうだ朝ご飯出来てるから……ってどうしたの? 鳩が豆鉄砲喰らったような顔して」

 勝手に部屋の中を覗いてからかうように文句を言ったかと思うと、呆然とした俺をきょとんと見つめる。

「結花?」

「……私だけど、何? 顔に何か変なものでもついてる?」

 少し引き攣った笑みを浮かべ、自分の顔を触ってから首をかしげる。

「結花なのか?」

「……何、ふざけてるの? あんたに朝起こしに来る幼馴染なんて、あたししかいないでしょ」

 澄ました顔でさらっと毒を吐いてくる。それすらも、懐かしく思える。

「本当に、結花なんだな」

 勝気な吊り目。薄い白Tシャツとジーンズに包まれた細身でしなやかな身体。少し男っぽいショートカットの黒髪。紛れもなく、疑いの余地などなく、頭頂から足先に至るまで完全に結花だった。

「いい加減にして――ちょっと何泣いてるの? 朝からやめてよ。ほら、もう高校生なんだからみっともないところ見せないでよ」

 ダメだった。泉のように止めどなく涙があふれだす。この一月半の鬱屈した感情が流れていく。

 結花は仕方ないなあと呆れつつ俺を抱き寄せる。いつもならその上から目線な態度に嫌気が差すのだが、そんなことを考える余裕もなかった。すがるようにその肩に頭を乗せ、思い切り抱きしめた。優しく背中を撫でられ、結花のTシャツが濡れるのも構わずに泣きじゃくった。

 

 泣き止むまで待ってくれた結花は、「冷めるから早く」と言い残して足早に階下へ消えた。

 恐らく素に戻って抱き合ったことが恥ずかしくなったのだろう。……お互い。

 少しばかり気持ちを落ち着かせてから1階へ下りると、結花の言っていた通り。ダイニングにはかすかな湯気の立ち昇る朝食が用意されていた。

 以前結花の手料理を食べたときはあまりの不味さに走馬燈を見た。おかげで内心戦々恐々としていたのだが……。

「ごちそうさま」

「……どうだった?」

 最後の沢庵まで食べきり箸を置く。ご飯に味噌汁、焼き鮭と朝食にしては手が込んでいた。不安そうに身を乗り出した結花に驚きを交えながら感想を伝える。

「……美味しかった。正直、ビックリしてる」

「やった! お弁当もあるから期待しててよね!」

 勢いよく立ち上がりガッツポーズする結花。鼻歌を歌いながら二人分の食器を片付けていく姿が微笑ましくて、シンク横の布巾を取りに立ち上がる。台拭きなんて普段は全くしないのだが。

 結花の「お、珍しい」という軽口に「お前の飯ほどじゃない」と返しテーブルを拭こうとしたところで、ふと結花の言葉が気になった。

「弁当? どこか出かけるのか?」

「あれ、今日御影パーク行くって約束しなかったっけ?」

 御影パークは隣の市にあるテーマパークだ。中学のとき行動範囲が広がったからと一度結花と行ったことがある。

 そんな約束をした覚えはない。昨日は……。

 とまで考えたところで強烈な違和感に突き当たった。

 テーブルを拭く手を止めてシンクに手を突っ込んでいる結花を見つめる。ふと目が合い、結花は首を傾げた。

「何、どうしたの?」

「いや、何でもない」

「……そう」

 慌ててテーブル拭きを再開する。変なの、と結花の呟きが聞こえた。

 長方形の枠の向こうで結花のピントがずれる。世界が遠くに行ってしまって、一人だけ置いてけぼりにされたような感覚に陥った。

 何度か目を瞬かせて無理やり焦点を合わせだが、今見えているものが本物かどうか分からなくなってしまった。

 お前は、結花なのか? そう問いかけてみようかと思った。

 けれど鼻歌交じりに食器を洗う結花を見て疑念は喉の奥に詰まってしまう。

 着替えてくると伝え、「9時に出発だからね」という声を背中で受け止めてリビングの扉を閉めた。

 部屋に戻ったのは8時だったというのに、準備ができたのは出発の15分前になり結花が突撃してきてからだった。

 30分ほど電車に揺られ、10時まで少しとなった頃。俺たちは御影パーク前のミルフィーユのごとき折り返しの列の一部と化していた。

「すごい人だね」

 周りを見渡して結花が感嘆の声を上げる。前髪にヘアピンを留めお気に入りの青いショルダーバッグを肩にかけた以外は何も変わっていない。

「休日だしそんなもんだろ。そういやカメラ持ってきたのか?」

「もちろん。買ったばかりのニコンちゃんだよ」

 バッグから少し小振りなカメラを取り出す結花。にやにやとカメラを見つめていると思ったら、突然バッグの中に仕舞い俺に話しかけてきた。

 普段なら開演までずっと見つめていそうなものなのだけれど。珍しいこともあるものだ。

 カップルと間違われてもおかしくない距離で話しかけてくる姿は生前……というべきなのだろう、その頃と何も変わった様子はなかった。

 時折触れ合う腕に感じる熱ははっきりと、だが曖昧に結花の存在を知らせる。未だに俺は気がかりの種子を結花に話せずにいた。中々タイミングが見当たらないのだ。

「今日もいっぱい撮るからね!」

『御影パーク“、ただいま開園しました――』

 言わずもがなな結花の宣言とともにアナウンスが鳴り響き、大勢の客とともに俺たちはゲートをくぐった。


 日が傾き園内が紅く染まるにつれて、少しずつ人も減っていく。ほとんどのアトラクションを乗りつくしてしまった俺たちは休憩のため、園内のカフェで割高なアイスを舌の慰みにしていた。

「いやー、撮った撮った」

 今日の写真を眺め口の緩みが抑えられないといった様子の結花。いつもの5割増しくらいに楽しそうな結花を見ているうちに違和感などすっかり忘れていて、いつの間にか純粋に遊園地を楽しんでいた。

 ジェットコースターなどの写真は撮れなかったが、メリーゴーランドに乗らされた俺の醜態などを二人して笑いあう。何度もこっそり写真を撮ろうとしたがそのたびにものすごい勢いで拒絶された。これもいつもより過剰反応だった気もするが、前から変わらないと言えば変わらない。

「そうだ! 卬輝、観覧車乗ろうよ!」

 唐突に立ち上がった結花の提案に、そういえば乗ってなかったなと賛成する。

 列もかなり短くすぐゴンドラに乗ることができて、扉が閉まった直後から風景を撮り続ける結花に俺は苦笑いが止まらない。

 4分の1ほど来たところで、結花が「あっ!」と叫び俺の背後を指さした。

 振り返ると、平野の向こうに俺たちの住んでいる辺りが夕焼けに照らされて赤々と燃え上がっている。

 横に並んだ結花は小さく見える住宅街を一枚カメラに収めた。

「いい町だね」

 ぽつりと漏らした結花の声はどことなく他人事のように聞こえる。ガラスに映るショートカットが家々と重なり、まるで向こうにいるような感覚に襲われる。

 初めて見る結花の寂しげな表情に、また世界がフェードアウトする感覚に襲われた。

 結花がどこか遠くに行ってしまう。そんな予感が脳裏をよぎる。

「そういえば、卬輝って彼女いないんだっけ?」

「いきなり何だよ。いないの知ってるだろ?」

 唐突な質問に言葉が詰まる。

 ガラスに映った俺の表情を見て、結花は少し微笑んだ。

「ふーん、もてなかったんだ」

「うるせえ。誰のせいだと思ってる」

「別にあたしのせいじゃないもん」

 くだらない会話を交わす。左右反転した虚像だというのにお互いの表情がよく見えた。

 ふと、結花の写真を撮りたいと思った。ここにいてもいなくてもいい、今日の思い出をこいつと共有したい。

 俺の願いが通じたのか。あるいは幼馴染の直感というやつなのだろうか。

 ガラスを挟んで視線が交わる。言葉はいらなかった。

 どちらからともなく、座席に座り直す。ちょうどゴンドラが頂上に着き、遮蔽物のない正面の太陽に目を細めた。隣に座った結花と肩を寄せ合う。

 そういえばツーショットなんて久しぶりだな、などと考えつつ結花のぬくもりに身を任せた。

 無機質な機械音がゴンドラに響く。

 手早くカメラを操作した結花は吹き出すようにして笑った。

「俺にも見せろよ」

「ダメ。これはあたしだけしか見れないようにする」

 覗き込もうとするが、取り付く島もなくカメラを仕舞ってしまう結花。帰った後にでも盗み見るとしよう。

 どうやってカメラを盗み出すか算段を立てていると、顔を上げた結花と目が合った。

 ゴンドラが落ちてゆき、住宅群が観覧車の向こうに消えていく。

 見つめ合った時間はどれくらいだったろうか。静寂で時間が無限に引き延ばされる。俺の網膜は結花の琥珀色をした瞳を捉え続けた。

 結花がいる。

喉に張り付いていた疑念が溶けていくのを感じた。解消されたわけではない。ただ、そんなことなんてどうでもよくなってしまった。

目の前に結花がいる、そのことが何よりも大事だった。

 数秒にも数時間にも感じられる時が流れ、自分でも判るくらい震える手を結花の両肩に添える。Tシャツ越しの体温がさらに結花の存在を強調するかのようで、自然掴む手に力が入った。

ゆっくり顔を近づける。吐息が近い。

結花の目に期待と不安と、その他のいろんな感情が浮かぶ。俺の目にはその瞳だけが写っている。

あと少しで唇が触れ合いそうになったとき、結花の指がわずかな隙間を埋めた。

「駄目だよ……これ以上は、忘れられなくなるから」

 そのまま顔を押され、結花の寂しげな目が遠ざかる。肩から手をはなすと、俺たちの間に一枚透明な幕が張られたように見えた。

「忘れられなくなる……?」

 おうむ返しに言葉が口をついた。結花はわずかに目を見開き、膝に目を落とす。

 それを見て、疑念が確信に変わった。

 下した手が虚空を彷徨う。指先から肩、身体全体が震えているのを知覚した。

 嫌だ、やめろと声にならない叫びをあげる。声帯が金縛りにでもあったように動かなくなった。

 手を伸ばすことすらできず――ただ、ぎゅっと握られた結花のこぶしを見ることしかできなかった。

 おもむろに結花は立ち上がり、俺と対面になるように移動した。太陽を背に俯いていたが、やがて勢いよく顔を上げる。

 笑顔だった。

「いつまであたしに囚われてるつもり?」

 結花は儚く消えてしまいそうな微笑を湛える。

「囚われてなんか――だって、お前は」

 頬を強張らせ、首を振った。握りしめた掌に爪が食い込んで痛覚を刺激する。それだけで、どうにか意識を保っていた。

 想いのまま口から零れた台詞も、途中で遮られる。

「いつまでも死んだ人間のことを考えちゃ駄目だよ……あたしはもう、いないんだから」

 やめろよ。そんな哀しい顔で笑うなよ。

 開いた口から何も言葉が出ない。代わりに喉が詰まるような音が漏れる。

「だから、さ」

 虚像は告げる。彼女の想いを。諦観に満ちた結花の願望を。

「もう、前に進んで」

 そう呟いて結花は一筋涙をこぼす。雫が頬を伝い、ジーンズに染みた。

 何も答えられなかった。とめどなく溢れ出る涙のせいで口を開けども言葉にならない。情けないうめき声と洟が出るばかりだった。

 結花はしょうがないなあ、と鼻をすすりながら呆れた声を上げる。

 ほとんど山間に消えつつある太陽の残滓が、後光のように結花を照らし出した。

「じゃあね、卬輝」

 バイバイ。

 待てよ。俺はまだ何も言えてないじゃないか。勝手に出てきて勝手にさよならなんて許されるわけないだろ。

 せめて、さよならの一言くらい言わせろよ!

 ほとんど姿のない太陽が最期とばかりに強烈に辺りを照らす。

 最後に見たのは、その中で一際輝く結花の満開の笑顔だった。


 目が覚めた。

 起き上がって窓の外に広がる青空と結花の部屋の窓を見て、確信する。

 もう結花はいない。

 そっと呟き、胸の内が空と同じ色に染まるのを感じた。

 ふとあることに思い至って、慌てて机の引き出しからボロボロのアルバムを取り出す。もうその暗い赤に金縛りを受けることもなかった。ざらついた感触が手になじむ。

 焦って何度も指を滑らせながらアルバムの最初からページをめくった。

 その一ページ一ページに刻まれた結花との想い出が浮かんでは消える。

 一粒、二粒と机に涙が落ちた。

 やがてアルバムに白紙のページが訪れても、俺はページを繰る手を止めない。

 そして最後の見開きに、それは挟まれていた。。

 幻影が勝手に忍び込んだのか。それとも神様のいたずらか。

 そこには二人の男女が仲良く写っていた。互いに赤面しているのは、きっと夕焼けに照らされていたからに違いない。

 何とはなしに、裏面を見てみる。

 見知った字で5文字、余計なことが書かれていた。思わず苦笑し、

「どっちだよ」

 と呟く。

 ああ、忘れねえとも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘れないで 不忘一息 @wasurezu2130

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る