第10話 はじまり
それからの優斗は、知事からの指示を当初予算に計上するために奔走した。知事の言うとおり見切り発車でなんとか期日までに予算を計上することができたが、本当の戦いはそれから始まった。
北海道は、その広大な面積をカバーするために14の管内に分かれていて、それぞれに道庁の出先期間である「総合振興局」や「振興局」が存在する。教育庁もそれぞれの管内に「教育局」という出先機関が置かれ、公立学校に関する施策や人事は基本的にこの「教育局」が一定の役割を果たす仕組みになっていた。
年が開けた1月から3月までに、モデル校となる学校の選定をするために、北海道内の学校長で構成する「北海道小中学校校長会」の役員クラスの重鎮たちに根回しを行い、またモデル校として選定予定の学校が存在する教育局への根回しも行う必要があった。
意外だったのは、教育庁の中では「原課」として位置付けられている学校教育局の所管課や、出先機関である教育局の担当課が前向きに検討する姿勢を見せたことだった。その方法は多少強引ではあるが、ここに来てやはり知事の考える施策は現場の意向に沿ったものであるのだと実感する瞬間も数多くあった。それよりも悠斗の仕事を停滞させたのは、本来、政策を推進すべき立場の官房部局の職員が後ろ向きの姿勢を崩さなかったことである。
そして、そのストレスを発散するために、勤務時間が終わるとすすきのの風俗店に行き性欲を発散した後に、また仕事をしに職場へ戻るという生活を続いていった。気がつけば、精神科へ診察を受けるための通院も面倒になって病院には行かなくなっていた。それでも3月までに何とかモデル校の選定を終え、それに関わる教員の配置を行うこともできた。
4月に入って新しい年度が始めると、次は残った施策と、モデル校の成果の評価を行い、全ての学校の全ての学級を35人以下にするための仕事を始める必要があった。
総務政策局教育政策課の人事については、約束通り知事の配慮も伺えるものだった。次席係長だった松下は、最北の教育局である宗谷教育局の総務係長として異動した。その後任については、優斗に言わせれば可もなく不可もない人材であったが、何より大きなことは、優斗の部下として、道庁の秘書課から美加が配属になったことである。当然2人の関係を知らない知事や人事課長が優斗に最大限の配慮をした結果である。優斗も美加も、秘書課時代に2人の関係を隠しながら、また私情を仕事に挟まず仕事をしてきた経験があるので、2人で仕事をするということは大きな問題ではなかった。
優斗の性嗜好障害は、完全に再発をしていた。同じ職場で働く美加とは、調整をしなくてもスケジュールを合わせることは簡単だったし、奈美や静香とも度々交わった。入院前と全く変わらない生活を再び送っていると優斗自身は気付いてはいたが、深刻さは感じていなかった。風俗の利用も以前と変わらない頻度になっていて、いつも行くソープランドやファッションヘルスの店には、新たに顔馴染みの風俗嬢もできるほどだった。
6月になり、あの突然の人事異動の通告からもうすぐ1年間となる頃、いつも行くファッションヘルス店に向かっている途中に携帯電話のバイブレーションが着信を知らせた。
【佐谷 佳奈子】
退院してから一度も話をしていなかったので、すでに優斗の記憶からも消えかかっていた存在だった。優斗は一瞬、その電話に出るべきかどうか考えてから、立ち止まって通話ボタンを押した。
「久しぶりだけど、元気にしているの?」
優斗は病院での佳奈子との時間を思い出しながら、身構える心境で最初の言葉を探しながら電話に出た。
「松野さん、今どこ?」
明らかに泣きながら声を発している佳奈子の様子を察して優斗は狼狽をしたが、本能的に平静を装った。
「職場から帰るところだよ。どうしたの?」
佳奈子は絞り出すような声で話を続けた。
「食べ吐きが止まらないの。もう何が何だかわからなくなっちゃった。家を出ちゃったけど、どうすればいいの?」
病院で父が来た後のあの憔悴しきった佳奈子の姿を思い出される。そして、あれからずっと父と佳奈子が同じ家にいたことを想像して、優斗の意識は焦りで埋め尽くされそうになっていった。
「今どこ?迎えに行くから、場所を教えて」
そう言いながら優斗は、風俗街に入っていく通りから歩みを進める方向を変えて国道36号線に向けて走り出していた。あそこまで行けば、タクシーを捕まえるか地下鉄に乗るか選択肢が2つになる。
携帯電話の向こうからは、もうすでに佳奈子がすすり泣く音しか聞こえなくなっていた。
「ねえ、どこにいるの?今から迎えに行くから、お願いだから場所を教えて!」
「実家の近く。西18丁目駅のすぐ側」
居処を聞き出した悠人は、「じゃあ駅に向かって!」と叫ぶと電話を切り、タクシーに飛び乗って運転手に行き先を告げた。待ち合わせが地下鉄の駅ではあっても、ここからだと大通駅で南北線から東西線へ乗り換えなければならない。その時間を考えて、タクシーの方が早く着くと計算した結果だった。その計算通り、タクシーは10分足らずで駅の出入り口に着いた。
タクシーを降りて佳奈子の携帯電話にコールしたが、佳奈子は出てくれない。そのまま出入り口の階段を駆け下りながら、駅の細かい場所を伝えなかったことを後悔しはじめた時、改札口の近くでしゃがみこむ佳奈子を見つけた。その姿は病院で見ていたそれよりもかなりやせ細ったものだった。
「俺の家でよければ来てもらって大丈夫だから、まずは行こう。いいね?」
まさに力尽きたという感じでしゃがみこむ佳奈子を立ち上がらせ、佳奈子を支えながら再び出口に向けてゆっくりと歩き出した。佳奈子は、最後の力を振り絞って泣いているといった感じで、優斗に抱えられて歩くに任せていた。
再びタクシーを捕まえて、自宅の住所とマンション名を告げた後、車が走り出しても佳奈子は泣き止むことはなかった。時間にして10数分だったが、優斗にはとてつもなく長い時間に感じた。
タクシーが指示した通りの道順でマンション前に着くと、再び抱えるようにして佳奈子を降ろし、エレベーターに乗ってそのまま自宅に入ると、寝室に連れて行きベッドに横にならせた。いまだパニック状態の佳奈子に何を聞いても無駄だと考えた優斗は、佳奈子の状態が落ち着くのを待つことにして寝室を出ることにした。
優斗のスーツは、号泣する佳奈子の涙なのか涎なのか鼻水なのかわからない、そんなシミが無数についていた。
(先週クリーニングに出したばっかりなのに・・・)
3着ある夏用のオーダースーツは、クリーニングに出すローテーションを決めている。これからのスーツのローテーションをどう組み直せばよいか考えながらテレビのスイッチをオンにした。ほとんどのチャンネルがバラエティを放送していたが、ゴールデンタイムのそれは優斗にとって安っぽいネタを垂れ流しているものにしか映らない。しかし、今はそうやって時間を過ごす意外に優斗には方法がなかった。
1時間ほど待ってみても佳奈子は寝室から出てこなかった。優斗は物音を立てないように寝室を覗いてみたが、佳奈子は寝息を立てて眠っている。
(詳しい話は明日聞くしかないか・・・。)
ある程度落ち着いたら家に帰すか、近くのビジネスホテルに泊めようと思っていたが、今日はこのまま寝かせておく他はないという諦めて、優斗はリビングのソファーで寝る覚悟を決めた。仕事は定例議会の準備で追われているが、それは議会時期のいつものことであり、今日も変わらない1日の終わりを迎えられるはずだった。佳奈子からの電話で事態は急変したが、優斗ははまだその事態を受け入れられていなかった。
翌日、優斗は出勤時間に余裕をもって目を覚ました。今は議会前に議員への根回しや庁内の調整といった仕事が山積みであり、仕事を休めるような状況ではなかったが、佳奈子の状態次第ではその決断もしなければならない。寝室を覗いてみると、すでに佳奈子は目を覚ましているようだった。
「朝ごはんはどうする?」
優斗は、部屋の外でドア越しにそう声をかけたが、摂食障害をもっている佳奈子にとっては大きな問題だったと、言ってしまってから後悔した。
「いらない」
部屋の中からは、佳奈子のそっけない答えが帰ってきた。
「入るよ」
自分の寝室なのに、わざわざ断わってから入っていかなければならない自分がとても滑稽に思えたが、返事を待たずに部屋の中に入っていく。
「で、何があったのか聞いてもいい?」
優斗は、ベッドの隅に腰を降ろして単刀直入に訪ねてみたが、佳奈子は起き上がらずに布団から顔だけを出して優斗を見つめてくる。
「うん」
佳奈子はそう言いながら起き上がろうと試みているようだったが、ベッドから出る体力は残っていないようだった。
「あのね、松野さんが退院してから、私もすぐに退院したの。体重を38キロ以下にしないっていう条件で、栄養士からも献立とかもらってさ。でもね、お母さんはとにかく太らせればいいって思ってるのか、その献立を無視してとんでもないカロリーのご飯を出すんだよね。朝からステーキと魚のムニエルとか出すんだよ。毎日だよ。考えられる?」
その献立を想像して、家での食事などいつも適当に済ませている優斗には贅沢さが羨ましくもあったが、佳奈子にとって食事のメニューは場合によっては生死に直結する一大事である。
「でね、栄養士の献立を守って欲しいって何度もお願いするんだけど、それ通りに作ったら、今度は父が怒り出すんだよね。うちって建設会社でしょ?食事は朝からしっかり食べなきゃいけないって、なんか代々続く家のしきたりみたいになっていて、それは栄養士の献立よりも優先なんだよね。家族で違う献立を食べるのも許されないし、結局すぐに元の食事に戻るんだ。それでも一ヶ月くらいは我慢してたんだよ。体重は38kg以上を維持すればいいだけなのに、すぐに40kgを超えて、それで我慢できなくなって食べ吐きが始まったの」
40kgでも、一般の女性ではかなり細いほうだが、佳奈子にとってはその数字はあり得ない、許すことのできない数字なのだろう。
「その生活、いつからなの?」
「去年の夏くらいから」
佳奈子は、もう1年近く、そんなストレスの中で生活していたのだ。
「それだけじゃないんだよ。父は精神科の病気を認めない性格をしてるから、私のことは全否定だよ。父は、順調に社長になったんだけど、社長になるまでは『大事なときに精神病にかかりやがって』って私を責めて、社長になってからは『社長の娘が精神病とか足手まといだ』って責められて。意思が弱いからだ、根性が曲がってるからだ、って毎日毎日言われるんだよ。私も我慢してきたけど、昨日、両親と大げんかしちゃってさ。それで私、家で出てきちゃった」
佳奈子は、話ながら溢れる涙をしきりに拭いている。
「これから、どうするつもりでいるの?」
優斗の問いに、佳奈子はしばらく沈黙した。
「働いてなかったし、お金は1円もないの。だけどあの家にはもう帰りたくないし、どうしていいかわかんない」
佳奈子はそう言うと、こらえきれなくなったように声をあげて泣いた。優斗もどうしていいかわからず、今すぐに結論を出せるものではないく、今はとりあえず時間をかけて考えるしかないと思った。
「あのね、今日は、どうしても一度職場に行って、部下に仕事の指示を出して来ないといけないんだ。1時間くらいで帰ってこれると思うから、それからゆっくりこれからのこと考えよう。それまでは、とりあえず外に出ないで家にいてね。いい?」
優斗はそう言うと、佳奈子が頷くのを確認してから出勤する支度を始めた。
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