第二章:傭兵と傭兵
01
木々に囲まれた湖面は空の色を写し取ったように青く、かすかに吹く風でできた波が遠慮がちに岸に打ち寄せている。どこかで鳥たちのさえずる声がしていた。
屋敷の窓から眺めたら、窓枠がそのまま額縁になる、まるで風景画のような光景だ。露台に置いた椅子にゆったりと座りただひたすら眺めていると、日々の忙しさを忘れてしまいそうだ。戦のあとの荒んだ空気が残る王都。そこから半日とかからない距離しかないのが信じられないほど、ここは静かで、周囲から切り離された別世界だった。
「こんな風光明媚なところで朝っぱらから椅子に寝そべってのんびりとは、さすがだねえ」
その世界を台無しにする無粋な声と荒っぽい足音に、ユヴィジークは眉をひそめ、体を起こした。
湖に向かって突き出した露台の端には、外へ降りられる階段がある。美しい光景に似合わない男はそこから入り込んできた。
「てめえで滅ぼした王族の別荘でくつろぐんだから、さぞかし気分もいいんだろ。まったく、俺も一度味わってみてえよ」
「朝っぱらからよく動く口だな、グラファト」
嫌みったらしい口振りには辟易する。この男はいつもこんな調子なので、長々と話していたい相手ではない。もっとも、本来であれば言葉を交わすどころか、こうやって対面して話をすることすら、お互いの身分からいうと考えられない。
「あんたはここでのんびり待ってりゃいいだけだろうけどな。俺は夜通し歩いてきたんだぜ」
「だったらもっと疲れた様子を見せたらどうだ」
「疲れを通り越して高揚してんだよ」
グラファトは、露台にあったもう一客の椅子に、断りもなく座った。大きくため息をついて、ああ疲れたとわざとらしく言う。
「疲労困憊しているようだから、早々に話を済ませよう」
「どうせ暗殺だろ? あんたが俺を呼び出すときはいつもそうだ。で、今度は誰だ?」
ユヴィジークは懐から折り畳んだ紙を取り出し、グラファトに放った。畳んだだけの紙はでたらめな軌道を描くが、グラファトは手を伸ばしてそれを空中で捕まえた。紙を広げて、へえ、と意外そうな、それでいて嬉しそうな声を上げる。
「美人じゃねえか」
「そう見えても魔術師だ。リューアティン兵十人ほどで追い詰めたが、取り逃がした。油断すれば返り討ちに遭うぞ」
「はっ、大して鍛えてない雑兵と一緒にすんなよ。俺を誰だと思ってんだ」
グラファトは椅子にふんぞり返り、憎たらしい口調で言う。ユヴィジークは隠しもせずにため息をついた。
この男は、本人の言葉を認めるようで癪だが、腕が立つ。グラファトを仲間に引き込みたい傭兵団は少なくないと聞くが、彼は集団よりも一人で行動することを好む男だ。戦にも行くが、今回のような暗殺依頼も秘密裏に引き受けている。
ユヴィジークは過去に二度、グラファトに暗殺を依頼したことがあった。相手が貴族だろうと王族だろうと、横柄な態度と乱暴な口調を改めることはなく、長く話せば話すほど苛立ちが募る男だ。だが、グラファトは滅多に失敗しない。そのため、どうしてもというときは、このいけ好かない男を呼び出していた。ほかにも暗殺を引き受ける傭兵はいるが、今回の標的が魔術師である点を考慮すると、グラファトが最適だった。
この傭兵自身は魔術師ではないが、魔術具の扱いに長けていて、下手な魔術師よりも魔術を巧みに操る。その上剣の腕も立つので、魔術師相手に引けを取らない。戦場でもその才能を遺憾なく発揮し、魔術師殺し、の異名を取るほどだ。
「ミファナスで追い詰めた際に重傷を負っている。その後の生死は不明だったが、二日ほど前、隣の街にそれらしい娘が現れたそうだ。致命傷に近かったという報告を受けていたが、魔術師であれば癒せるからな。生きていても不思議ではない」
「で、とどめを刺せなかったあんたの不甲斐ない兵士に代わって俺にしとめろ、というわけか」
「そういうことだ」
「ヴェンレイディール王家の最後の王女なんだろ、この娘は。いいのか、殺しちまって」
「ヴェンレイディールは既に滅びた。その王家はもはや必要ない」
「見たところ、まだ二十歳にもなってねえな。しかも美人だ。あんたの嫁にしたらいいんじゃねえの、リューアティンの王子様よ」
グラファトは肘置きに頬杖をついて、手配書をこちらに見せる。高額な懸賞金に見合わぬ可憐な娘が、ユヴィジークを見ていた。
「寝首をかかれる趣味はない」
「あんたまだ独身だろ。ちょうどいいじゃねえか」
ユヴィジークは手短に話を終えたいのに、グラファトはそれを知った上でこうしてからかうから始末が悪い。いちいちつきあっていたら話が進まない。
「王女には護衛らしき男が一人ついているらしい。目撃情報によると、なかなか強いそうだ」
グラファトが再び鼻で笑った。
「その護衛を見た奴が弱けりゃ、そんな話当てになんねえよ。それに、護衛がついてたところで標的はしとめられる。あんたも、それは知ってるだろう」
挑発的な笑みを浮かべるグラファトを、ユヴィジークは黙って見返した。
四年前のことを言っているのだろう。あのときも、ユヴィジークはある魔術師の暗殺をグラファトに依頼した。その魔術師は護衛を雇い、それがなかなか腕が立ったらしいが、グラファトは最終的に依頼を達成したのだった。魔術師自身もかなりの腕前だったのだが、魔術師でもないこの男は、それにも競り勝ったというわけだ。
「報酬は成功したときのみ払う」
「王子様のくせにけちくせえな。半分くらい前金として寄越せよ」
「ここで金をねだるより、さっさと行った方がいいぞ。賞金稼ぎやわたしの不甲斐ない兵士が先に王女を捕まえれば、おまえに入る金は銅貨一枚ないのだからな」
今まで上機嫌で横柄だったグラファトが、顔をしかめて舌打ちをした。
「嫌な野郎だ」
「わかったらさっさと行け」
グラファトは悪態をついて立ち上がり、手配書を懐にねじ込むと、来たときと同じように荒っぽい足取りで去っていった。
あの男がヴェンレイディールの王女イフェリカを暗殺できる可能性は、五分五分といったところだろう。手配書はリューアティンにも、今や旧とつくヴェンレイディール国内にもばらまいているし、兵士たちにも捜させている。グラファトへの依頼は、更なる対策だ。ユヴィジークとしては、ヴェンレイディール王家の血筋を完全に絶てるのなら、誰がそれを成し遂げても構わなかった。
リューアティンに逆らえば、国だけでなく王家の血筋も滅びる。
従属国の中には、ヴェンレイディールのように独立を密かに狙っている国がほかにもある。その意志をくじくために、ヴェンレイディール王家には見せしめになってもらわなければならなかった。
野蛮な傭兵がいなくなり、辺りに静けさが戻ってくる。ユヴィジークは背もたれに体重を預けた。
こうしてゆっくりできるのも、今日の昼までだ。王のいなくなったヴェンレイディールの統治を任されているユヴィジークは、すぐにまた旧王都シャロザートへ戻り、仕事に追われることになる。
●
日の出とともに起き出し、手早く荷物をまとめて宿を出た。まだ西の空に夜の残滓があったが、先を急ぐ者はハルダーたち以外にもちらほらいた。開いたばかりの門からは出て行く者だけでなく、待ちかねていたように入ってくる者の姿もあった。
人が少ないから検分されるだろうか、と思ったが、止められることなくあっさりと街を出られた。
城門が十分に遠ざかってから、追いかけてくる者がないか振り返ったが、その様子はない。
少しだけ緊張がほぐれ、ハルダーは息をついた。それにつられるようにあくびも出る。食堂の一件があったから、万が一のことがあるかもしれないと気を張っていて、眠りが浅かったのだ。
「昨夜は、よく眠れませんでしたか」
再び大口を開けてあくびをするハルダーを見て、イフェリカが眉根を下げた。
「私のせいですね。あんな騒ぎを引き起こしてしまったから……」
「過ぎたことだ。気にしなくていい」
昨夜の一件が原因には違いないので否定できないのだが、いつまでもそれを引きずっていても仕方がない。
「……髪を切って染めるだけではなくて、顔も、何かすればよかったですね」
前を向き直ったイフェリカが、ぽつりとこぼす。気にしなくていいと言われても、はいそうですか、とはいかないようだ。
「顔はいじりようがないだろう」
化粧をするのがせいぜいだが、それで男のような顔に変わるとも思えない。いや、厚化粧をすれば別人のようになるだろうか。
「キシルのお店には、いろいろな薬もありますから。それを使えば」
「キシルの店の薬って――」
呆れを通り越して、ぞっとした。
キシルの店には魔術具以外に、髪染めの薬や、傷病に効くという、怪しげな色合いをした液体状の薬などもある。薬ではなく毒になるようなものも、少ないが扱っていた。その中には、強い刺激臭がして皮膚を侵す毒液もある。商品兼魔術具の原料らしい。イフェリカが言っているのは、そういう危険な薬のことに違いない。確かに、あの毒液を顔にかければ肌がただれて、かけた量によっては二目と見られないような顔になり、手配書とは人相が変わるだろう。
「なにも、そこまでしなくていいだろ」
髪を切ったり染めたりするのとはまったくわけが違う。
「でも、そうすれば昨夜のようなことは起きませんし、城門を通るときも、見つからないかとびくびくしながら進む必要もありませんよ」
毒液で肌を焼かれる痛みを想像しただけでも背筋が寒くなるというのに、イフェリカは、髪を切ったときと同じような調子である。
「あんたの言う薬は、肌にちょっとかかるだけでも激痛がするとキシルに聞いたことがある。人相が変わるほどかけたら、痛みで死ぬかもしれないぞ。それに、若い娘が自分で自分の顔を傷つけなくていいだろ」
イフェリカは、その端整な顔立ちを少しも惜しいと思っていないのだろうか。少しでも傷がつけばもったいない、とハルダーなどは思うのだが。もっとも、顔立ちなどに関係なく、自分で自分を人相を崩さなくていい。
イフェリカは顔をいじらなかったことをまだ悔やんでいるように、でも、と言う。そんな彼女の頭をぽんと軽く叩いた。イフェリカが驚いた顔でハルダーを見上げる。
「何のために俺を雇ったんだよ」
「……護衛として、です」
「イフェリカを守るのが俺の仕事なのに、雇い主が自分で自分を傷つけようとか言ってくれるな。髪を切っただけで、十分だ」
「髪くらい、大したことはありません」
「墓参りが済んだらまた伸ばせるしな」
ほんの短い時間しか目にすることはなかったが、短い黒髪よりも、長い金髪の方がイフェリカには似合っている。あれだけの長さに伸ばすのには時間がかかっただろうに、まったく惜しまず切り落としたのは潔すぎると、今頃になって思った。
それだから、毒液で肌を焼こうという発想になるのだろ。少々、いやかなり飛躍しているが、イフェリカの中では大した飛躍ではないというのは、よくわかった。
「どうした?」
ふと、イフェリカが押し黙ったことに気づき、首を傾げた。いつの間にか、うつむき加減になっている。
「……いえ、なんでもありません」
イフェリカは顔を上げて微笑んでみせたが、どことなく元気がなくなっていた。
早起きしたせいで、イフェリカも眠いのだろうか。ハルダーには、それ以外に理由を思いつけなかった。
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