無題の文学称汝

北口

第1話 紐を解く

夕焼けが沈む校庭の見える窓際の位置に、彼女の指定席はある。

『放課後の校庭を走る君がいた。遠くで僕はいつでも、君を探してた』

出典 村下孝蔵 『初恋』

彼女が好きな古い唄の歌詞にこんな一節があった。その唄に習い、歌詞をなぞるようにしてみたが…今日も、その収穫はない。


彼女はひとりの文学少女。身長は少し小さめ。細身の体系は、お世辞にも運動に向いているとは言えない。黒髪に眼鏡と揃えば、まずそうだと見抜かれることだろう。


彼女はあらゆる知識を本から得てきた。今の彼女の見た目も、その膨大な情報量から選んだ末の結果である。


彼女は物語上での楽しいことや、痛いこと、辛いこと、達成感など、様々なことを、まるで自分が経験したかのように味わってきた。

事実、彼女の脳は、その点において天才であった。しかし、同時に彼女の心はその脳に染められていき、結果として、彼女は‘コイゴコロ‘だけ失うこととなった。


物語上の人物達がお互いの良い部分を認め合い、やがて深く触れ合いたくなる。その部分を、彼女の心は理解しない。なぜ触れ合いたくなるのか。

彼女の周りにまさか、男がいたことがない、なんてことはありえない。実際、良い部分を知り合うことのできた男は過去にいただろう。


だが、そこまでだ。


そこからなぜ、触れ合いたい、という風に至るのか、彼女には理解できなかった。


胸がときめいたことなどない。喉に何か詰まっているかのような感覚が訪れたこともない。


出会いがないわけではないのだと思う。外見偏差値の良い男と話したこともあるし、告白されたこともなくはない。それでも、彼女はいつも同じ、まるで初めて出会ったときから時計の針が一歩も進んでいないのではないかというほど、何も変わらないままに、その相手を振っていった。


・・・彼女は今も、世界に自己紹介をしている。

金髪にエプロンドレスなら『アリス』、そんな世間の共通認識を利用して。


彼女は、眼鏡、黒髪三つ編み、本、無口、それらの外見的ステータスで、自分が『文学少女』であると世間に伝えているのだ。


恋愛における原則としてまず、会話がなければ始まらない。彼女から声をかけることはできない。それは彼女が『文学少女』だから。


『彼女は今日も、図書室で待ち続ける。それは、‘恋知らぬ文学少女‘という物語を読むために』






























男は友人に恵まれていた。小学校、中学校、そして高校といじめられながらも、それらを友人達と乗り越えてきた経験がある。勉強も人並み以上にはこなす。運動神経も悪くない。頭のネジが外れてるわけでも、口を常に開いているわけでもない。ただ、‘変‘なのである。この世界において、何か、人と違う。それが明白に、誰にでもわかる人間なのである。

北河きたかわ しん 小学校を経て身長は伸びるも、そこから一切成長しなくなる。彼は成長期がその時点で終わったのであろうということを理解する。

身体的特徴としてあげられるのは、‘大きい‘ということだ。身長がではない。身長はむしろ平均かそれ以下。筋肉質、というほど体ができているわけでもない。肥満体系、と、一緒くたにはできない程度に肉のついた体をしている。元運動部的な小太り体系、というイメージがしっくりくるかもしれない。

部活に三年間全力で取り組んだ彼は、一度ラブレターを貰ったことがある。名前はスペルのみ。どこかで待ち合わせ、などが書かれているわけでもなかった。友人たちによるいたずらだと考えた彼は即刻それを破り捨てた。

彼は受験期にはこの高校に受かれなかったら死んでもいいと考えていた。しかして本当に落ちた後、彼は自分へのご褒美として遊び呆け、結果として、遊ぶことを続けるために生きることに決めた。貧弱な決意だった。結局、好きなものがあるこの世の中を捨てるという選択は、彼にはできなかったのだ。


入学から1年、色々ありはしたけれど、今もこうして生きている。

それはさておき彼は今、誰かの物語を読むために図書室へと足を運んだ。

夕暮れに飲まれた図書室。赤い光が差し込むその空間には、1人の少女がいた。

窓際の椅子に腰掛け、外を眺める少女。ザ・文学少女という見た目のその女子は、視線を手元の本に戻すとページを捲り、再び読み始めた。

風が部屋を渡り歩き、彼女の元から彼の頬へと届く。本の、紙の・・・いや、そこには自然のにおいがあった。


『知識に囲まれた世界。忘れていた当たり前を思い出させるこの空間は、嫌いじゃない』


彼の無意識に浮かんだ願い、それを聞いてか聞かずか、一際強い風が、彼女の本を一気に捲り返す。

「っ・・・」


風に靡く彼女の黒髪。ふわりとその風に乗れてしまいそうな彼女の細い腰が妙に目に冴えた。


やがて風が止み、彼女は一旦本を膝の上に置く。風により乱れた髪を軽く整えていると視線に気づいたのか、彼の方を振り返った。


例えば、エレベーターで二人になった女の子が好みだったとか、たまたま席が隣になった子が話しかけてくれたとか、そんなレベルではなく・・・彼は確信した。


・これが物語なら、恐らくここが開始地点であろう。

・これは恐らく、いや、ここから先はきっと、二次元(空想)の世界だろう。

・ここが、今後を分ける大きな分岐点のはずだ。


『自分は、どうすればいい?ここから、どう、生きるべきなんだ』


心の中の自分の頬に、一筋の汗が浮かび上がる。


唐突に彼の心が物語の一節を描き出した。


彼はライトなノベルによくあるような、意味もなく悟っている系主人公、自分は他と違うということをどこかで確信している主人公が嫌いなのだ。


『自分よりもよっぽど素晴らしい人間は山ほどいる。自分よりも幸せな人間も同じく数えきれないほどいる。ただそれでも、俺は胸を張って幸せだったと言えるように生きる』


深夜の、一度沸騰した後に冷めた水のような心が、今一度流れ始める。

悟り系一族かよ、うっわ。自分で自分を俯瞰することで、また矛盾に痛めつけられたが、逆に落ち着くことに成功した。


1秒、彼女と彼の視線が重なった。そして同時にその混ざり合った視線を切ると、少女は再び本へと視線を戻した。


彼は軽くあたりを見回す。座れるような椅子を確認すると、そこにリュックを下ろしつつ腰掛け、机の上にノートと教科書、イヤホンとスマホを取り出した。


それらを装備し、いつものように勉強を始める。友人にもらったイヤホンから流れ出るのは、本当に小さなサウンドのみ。


国語は得意だが数学は苦手。だがそれでも理系の大学を選んだ彼は、ひたすら数学に取り組んでいた。今日の分は終わり、すでに帰ろうかと思っていたのだが、何となく、いつもの行動を取りたくなったのだ。



揺らめく風が伝えたのは、物語の始まりに他ならない。

瞳の中の小さな光が重なり合い、一瞬一際大きくなった。

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