第15夜
私には、とてもよくできた姉が居た。
本当に優しくて、綺麗で、明るかった。
その出来事は、私が小学4年の時に起きた。
その時、姉は中学2年だった。
姉は中学校でも人気があるらしく、よくラブレターをもらってきていたようだった。
「私、この男の子の事、良く知らないんだよね…」
そう言いながら男の子から送られてくるその手紙を見つめているとき、いつも明るい姉の表情は暗かった。
あの頃はよく分からなかったけれど、今なら分かる。
どう断れば良いか、それをいつも考えていたのだと思う。
新しい手紙を持って帰ってくるたびに、姉は辛そうな顔をした。
私はそれが、とても嫌だった。
ある日、姉がとても早く中学校から帰ってきた。
いつもは部活動があるからと言って夕方近くにならないと帰ってこなかった姉が、私が3時ごろに帰宅した時にはもう家に居たのだ。
水曜日だったのを覚えている。
そのころ、水曜日は5時間目までしか授業が無かったので、私はいつも3時前後には帰宅していた。
いつもなら帰宅してすぐ友達の家に遊びに行っていた。
両親は共働きだから、どちらにしても夜にしか返ってこない。
だから、いつも6時頃まで友達の家で遊んで、姉が返ってくる時間とタイミングを合わせて家に帰ってくるのが私の日課だった。
もちろん、雨の日とか家でゲームをして過ごす日もあったし、逆に友達を家に呼ぶこともあった。友達を呼ぶときは、両親に朝のうちに許可を取っていたし、姉にも伝えておくのが約束事だった。
小学1年の頃からずっとそうだったし、姉が私より先に帰ってきていることなどまずなかった。
だから、姉が私よりも先に家に居る事に、私はなんだかよく分からない不安を感じていた。
姉が家に居ることは、玄関にある靴を見て分かった。
いつもきちんと並べて置かれている姉の靴が、私が急いで靴を脱いだ時のように散らかっていた。
「おねぇちゃん、帰ってきてるの?」
私は不安からか、玄関で靴も脱がずに、家の中に大きな声で呼びかけていた。
大きな声…のつもりだったが、初めは思うように声が出なかった。
深呼吸をして、もう一度。
「おねぇちゃん、ねぇ、居るの?」
私の声が、家の中に響く。
返事はなかった。
私は何故だか音を立てちゃいけないような気がして、静かに玄関のドアを閉め、鍵をかけた。
靴を脱いで、家に上がる。
ランドセルを背負いなおして、私と姉の部屋がある2階へ目を向けた。
ゴクり。つばを飲み込む。
緊張していたのを、とても覚えている。
ゆっくりと、大きな音にならないよう、階段を上っていく。
ギチ…
階段が嫌な音を立てる。
2階の廊下が視線よりも少し下になるところで、姉の部屋が見える。
私は部屋が見える段の一段下で少し
姉の部屋のドアが、開いていた。
少しだけ隙間が見えた。
姉はキッチリしている性格なので、靴を揃えて置くのと同じように、部屋のドアを中途半端に開けたままにしておくようなことはなかった。
私は残りの階段を上り切ると、ゆっくりと姉の部屋に向かった。
とても長く感じた。
階段を上り切った場所から姉の部屋までは、当時の私の歩幅でも10歩も歩かない距離だった。
けれど、その距離がとてつもなく遠く感じた。
近づくにつれ、部屋から何かが聞こえるのが分かった。
何の音なのかは全く分からなかった。
ただ、姉の部屋から聞こえている事だけは分かった。
一歩近づくたびに、音が何なのか分かってくる。
次第にそれは、音ではなく、声であることが分かった。
姉の声だ。
でも、何かが変だった。
ずっと同じことを繰り返しているようだった。
「おねえ…ちゃん?」
私は恐る恐る、ドアの隙間から姉の部屋を覗き込んだ。
カーテンの閉まった部屋の中で、電気も点けず、姉が床に座ったまま、こちらに背を向けてブツブツと何かを言っていた。
両手で、耳を覆って。
あれでは私の声が聞こえないのも仕方がない。そう思った。
私は姉がなんと言っているのか、聞こうとした。
姉の声に集中する。
「…の…い……ない…」
聞き取りづらかった。
怖かった。
でも、なんと言ってるのかを確かめずにはいられなかった。
私は部屋に入り、姉に近づいた。
ギィ…とドアが軋み、私はドキリとして一瞬立ち止まった。
「私のせいじゃない…私のせいじゃない…私のせいじゃない…私の…」
姉は、そう言っていた。
「どうしたの、おねえ…」
私は勇気を振り絞って、姉の肩をたたいた。
手が触れた瞬間、姉の身体がビクッ!と震え、私もそれに驚いて手を引っ込めてしまった。
ゆっくりと振り返る、姉。
その目は、今まで見たことが無いもので、私はその視線にはっきりとした恐怖を覚えた。
「私のせいじゃない!!!!!!!!!」
姉は叫び、私を跳ね除けて部屋を飛び出した。
私は勢いよく床に倒されてしまい、後頭部を打って気を失ってしまった。
それからどれくらい経ったのか、私には分からなかった。
目が覚めると、カーテンの隙間から差し込んでいたわずかな日の光もなくなっていた。
廊下の電気も点けていなかったせいで、部屋は真っ暗だった。
私は状況を思い出す前に、この暗さにドキリとし、とにかく明かりをつけようと部屋を見渡した。
誰も居ない。
壁にあるスイッチを触ろうと立ち上がった時、後頭部に鈍い痛みが走った。
「痛ッ…」
小さくうめいて後頭部を抑え、それでも痛みが引くより前に立ち上がって電気をつけた。
真っ暗は、嫌だった。
ぼんやりと状況を思い出しつつある私の視線の先に、手紙が落ちていた。
いつも姉を困らせていた手紙。
でもその手紙は、なんだか少し、違っていた。
文字が…赤かった。
『君に受け入れられないのであれば
生きている意味なんてない。
だから僕は死ぬ。
幽霊になって、ずっと君のそばにいてあげる』
気持ち悪かった。そして、怖かった。
「ただいまー」
玄関のドアが開く音が聞こえて、それに続いて母の声が聞こえた。
私はその声に安堵を覚えたが、それは束の間だった。
「イヤァァァァァァァァ!!!!!!!!!!」
母親の悲鳴が、家じゅうに響いた。
後頭部の鈍い痛みに、マヒするようなジンとした感覚が混ざる。
叫び続ける母の声が怖くて、私は、両手で耳を、覆った。
どれくらい経ったのかなんて、分からなかった。
私の肩に手が置かれ、恐る恐る顔をあげると、そこに父が居た。
「美代…お前は無事か…良かった…」
父は私を痛いくらいに抱きしめ、泣いていた。
姉は、台所で包丁を胸に刺して、死んでいたらしい。
きっと母が見たものは、血だまりの中に倒れる姉だったのだ。
そんなものを見れば、普通じゃいられないだろう。
私は実際の状況を見てはいないので、なんとなく伝え聞いただけだ。
けれど、その後の母親の憔悴した姿を見ているから、それがどれくらいショックなことだったかは想像がついた。
同じ日に、姉の通っていた中学校で、男子生徒が飛び降り自殺をしたことを私は聞いた。
姉の言葉は、たぶんその件と関係しているのだろうと思っていた。
父はそれまで以上に仕事で返ってくる時間が遅くなった。
私は、仕事を辞めた母と家に居る事が多くなった。
そうやって、8年が過ぎた。
8年間。
私は大学生になり、見た目も大人になった。
小学5年の冬頃から、姉とそっくりだと言われるようになった。
実際、見た目はとても似ていた。
自分でもそう感じていた。
たぶんそれは、だれが見てもそうだったのだろう。
けれど、中身は違っている。
私は私だし、姉じゃない。
それに私はこの8年で、随分と強くなった。
精神的に。
というよりも…。
強くなるしか、なかった。
首の角度が90度に曲がった、学生服の男の子。
私のそばにずっと居続けるこの幽霊が、視えるようになってしまったから。
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