第三章 紊乱 Disordinarsi. (6) 処刑
――バルトロメイ・クレメンティの処刑が始まろうとしていた。磔にされている彼の横では、同じように十字に繋がれている彼の愛娘がいた。どちらも同じ、稲穂色の瞳。彼ら二人が、最後のカルナーレだった。
もう慟哭する気力すら彼らには残されていなかった。
殺せ、魔女を殺せ。劈く民衆の叫びが二人に押し寄せる。
偶然その場に居合わせたコルラードは、その光景を目の当たりにし、ふとなにかを思いついた。カルナーレの血液はかなり貴重、そして非常に美味とされている。そんな希少価値の高いものを、たかだか数十年程度の寿命である人間に根こそぎ奪われるのは癪だった。
コルラードはそんな心象から、この二人を民衆の目の前で攫うことにしたのである。言うなれば、ほとんど気まぐれのようなものだったのだ。
だが、彼らがノスフェラトゥに攫われたことで、民衆はさらに怒りを覚えた。結果、彼らは当時からすでに『異界への入り口』だと信じられていた北の森に火を放った。彼らは、カルナーレを森に住まう異形ごと焼き殺そうとしたのである。
森が燃える。
火の粉を纏い、より一層激しさを増す紅蓮の炎は、豊かだった広葉樹林をいとも容易く飲み込んでゆく。この森はもう駄目だ、死に絶える運命からは抗えない。
あまりの出来事に呆然とするコルラードは、隣で美しく燃えゆく森を眺めているカルナーレに尋ねた。
「このまま一緒に死ぬか、って。そのとき彼は何と言ったと思う?」
壮絶すぎる話に、レオは目を見開いたままぴくりとも動けずにいた。コルラードの問いかけすら、ろくに答えられないくらいに動揺している。それすらも想定済みなのだろうか、コルラードは淡々と、自分が唯一覚えていることを的確に話してゆく。
「『ノスフェラトゥの無限の命を以て、街を、森を復活させろ。報酬は末代までのカルナーレの生き血。尽きるまで永遠に貪るがいい』。実に滑稽だった、裏切られても尚人間と共に在ろうとするこの男の神経が俺には全く分からなかった」
しかし、同時に興味が湧き始めた。
共に生きてきた人間も、異形も、全部まとめて愛してきた愚かな一族・カルナーレ。彼らはどうしてそこまでして人間を、異形をも生かそうとするのか。
コルラードは、その時思ったのだ。己の長すぎる一生を賭して、このカルナーレたちを追いかけたい。追いかけて、どうしてそんな心象に至るのかをその目で確かめたくなった。
答えは決まった。
のちに、彼は初めてカルナーレの生き血を口にすることとなる。
「……この一帯は針葉樹林だろう? 一度死んでしまった土地だから、これしか植えられなかった。ああ、それよりも骨が折れたのは、歴史を改竄することかな。あの争いを覚えている者から全ての記憶を消し、新たにノスフェラトゥを悪役に仕立てた歴史を植え付けた。それだけで、バルトロメイの生き血は全て使い切った」
バルトロメイ曰く、カルナーレの血を飲むごとに、ノスフェラトゥは神の所業とも言える力を発揮する。だが、それにはもちろん副作用がある。能力を行使するたびに、代償として血の持ち主に関する記憶を失ってしまうのだ。
「バルトロメイの血を使い切ったとき、俺は彼の名前すら思い出せなかった」
コルラードはレオに一冊の手帳を渡した。手帳、というよりは、随分古びた紙束と言った方が正しいか。燭台の明かりにかざしてみると、整った筆跡でなにかがうっすらと書かれている。
「備忘録、だ。バルトロメイにそれを聞かされたときから、密かに書きつけておいたんだ。あとからちゃんと彼らを思い出せるように」
だが、コルラードが彼を思い出すことはなかった。
備忘録を見ても、バルトロメイがどんな外見で、どんな話し方をし、どんな表情を浮かべて亡くなったのか。全くと言っていいほど思い出せなかった。ただ思い出せるのは、必死になってこの紙に何かを書き記したという事実のみだ。
「その後に、一番左のカルナーレ……バルトロメイと一緒に攫った娘だな。彼女を娶り、成人するのを待ってから、子を成した。その後に彼女を領主の元へ改めて嫁がせた。カルナーレが途絶えることのないよう、必ず俺の元に姿を現すことを願って。ノスフェラトゥに降嫁させる慣習はこのときに作った。そうすれば、バルトロメイの言いつけも守れると思ったから」
そしてコルラードは嗤う。
「中央のカルナーレを降嫁させたときに、ようやく全ての歴史を改竄し終えた。血を与えてくれた褒美に何でもひとつ願い事を叶えてやると申し出たところ、彼女はこう言った。『私が死んだときに、あなたの中にある私の記憶を全て消してほしい。そうすれば、あなたは悲しくないでしょう?』俺は言われた通りにした。四代目にあたる右のカルナーレにも同じことを言った。しかしながら、彼女もまた、同じことを願った――……っ」
バカの一つ覚えみたいに、と彼は悲しげに言った。
レオは再び肖像画を見上げた。彼女らは、カルナーレという忌まわしい血の運命を自分なりに受け止め、きちんとこの男を愛していたのだ。愛しているからこそ、彼に何度も妻を失う苦しみを味わって欲しくなかった。
『忘れてくれ』この一言が、彼にとってどれだけ残酷だったろう。レオは胸が締め付けられる思いがした。
「君たちカルナーレは、無情にも同族に売られた一族。次になにかあったら、また民衆は君たちを裏切るだろう。だからレオ、お前は俺のものになれ。俺のものになれば、もう誰も裏切らない。同族殺しもしなくていい。もうそんな悲しい思いをしなくてもいいんだ。それに、」
それは、朝に聞いた言葉だ。もうそんな悲しい思いをしなくてもいい――あの言葉の裏には、そういう経緯があったのだ。必死になって主張するコルラードは、一度口を閉じ、改めてはっきりと言った。
「俺はもう、君のことを忘れたくなんかないんだ。『忘れてくれ』なんてもう言わないで。ずっと捕まえていて。お願いだから手放さないで」
突然、レオの身体がコルラードによって引き寄せられた。ぐっと互いの胸を押しつけるように右腕で腰のあたりを支えると、左手でそっとレオの顎を持ち上げる。
「もう、ひとりにしないで」
レオが言葉に窮していると、そっと唇を塞がれた。初めは優しく触れるだけだったが、次第についばむような性急さが入り混じってゆく。粘性の音。ある一点に触れられ、思わず嬌声が洩れた。それに気が付いたコルラードが、集中してそこを攻め立てる。まるで快楽という感覚に訴え、自分に依存させようとしているかのように。
ようやく互いの顔が離れると、喘鳴を洩らしながら、レオは言う。
「……それ、でもっ」
コルラードによる熱を帯びた眼差し。嫌いじゃないが、今だけは、その優しさが痛かった。
「それでも、おれが死んだら。お前はまた別のカルナーレに手を出すんだろ……?」
その問いに、コルラードはなにも言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、悲しげに目を細めたまま困ったように微笑んだ。
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