3000ボルトの運河

 クルベが目を覚ますと、ベッドの左側は空っぽだった。


 浴室から水音がする。マユミが起きぬけにシャワーを浴びているのだろう。

 ナイトテーブルの上に置かれた飲料水のボトルが、ふわふわと浮き上がったりせずにおとなしく立っている――それだけのことが妙に嬉しくなって、クルベは腹筋に軽く力を入れて起き上がった。

 あの会食のあと、クルベたちは居住区内に割り当てられたマユミの個室でのだ。三か月ぶりに持った、心ゆくまでの逢瀬だった。


「お先したわ」


 バスタオルで体を覆っただけの姿で、マユミが寝室へ戻ってきた。


「じゃあ俺も」


 ハイタッチを交わして入れ替わりに浴室へ飛び込み、熱い湯をかぶった。頭皮をたたいた水流が肩から背中、足元へと流れて排水孔へ吸い込まれていく。


 閉じた瞼の裏に、眠る前まで交わしていたマユミとの会話がよみがえり、クルベはため息をついた。男と女の関係にある二人だが、お互いの思うところは想像以上にずれていた。もしも昨夜、アルミ・ロビンソンと話をしていなかったら先々どうなっていたことか。


(俺たちは確かに仕事上のパートナーに間違いないし、俺もそのつもりでいる。だが人生と私生活の共有については、マユミの方が深く考えていたか……)


 軍に志願して治安維持部隊に所属して以来、クルベはどちらかというと状況に流されがちだった。明確に自分の意志で動いたのは、士官学校の短期養成コースへ進んだ時くらいだ。


 軍人としての自分について、クルベ自身は「もうそろそろ、いいのではないか」と思い始めていた。ペイルフォード准将の私怨を買って軍での出世コースからはほぼドロップアウト、漂流のトラウマはいまだに彼を苛んでいる。

 その一方では火星軌道の外側まで足を踏み入れ、男として誇るに足る冒険を成し遂げた。アフリカで殺した数には釣り合わないが、少ないなりに人の命を救うこともできた。充実した八年間だった。 


 この戦争が終わったら――「戦争」と呼べるかどうかも怪しげな、この一連の作戦が終息する時が来たら。

 地球でも火星でも、どこかしっかりとした本物の重力のある天体の上に小さな落ち着きどころを手に入れ、それこそ軌道作業艇の操縦士でもやりながらゆっくり暮らせれば――そう思っていたのだが。


 マユミは違う。彼女はまだ当分、艦隊勤務を続けるつもりでいる。おまけに、その先の航路にはどうもクルベもいっしょに曳航していくプランらしい。

 深みにはまった、という感はある。だがそれを心地よく感じる自分もいるという、なんとも厄介な事実をクルベは認識していた。


 浴室のドアをぬけて寝室に戻ると、マユミは地表に出るために気密インナーを着込んでいる途中だった。クルベは彼女の肩を後ろから抱いて、首筋に唇を這わせた。

「ちょっと……!」

 顔を赤らめて抗議するマユミに、クルベはおどけて両腕で頭をかばいながら一歩距離をとった。そのままベッドの端に腰をおろして着替えを見守る。


「もう……あなたも早く着替えなさいよ」


 所帯じみた叱言をうわの空で流しながら、クルベは感慨を新たにした。やはり彼女は特別だ――マユミ・タカムラ・ロバチェフスカヤにはクルベの感性のすべてを燃やし日々新たにしていくような、そんな眩しい輝きがある。




 着替えを済ませたマユミは、インナー姿のままクルベの横に並んで腰を下ろした。肩をすくめ斜め上を見上げる姿勢で、ほっとため息。


「……可愛い子だったわね」


「ああ。アルミ・ロビンソンのこと? そうだな……」


 どうしてそんな話に、と首をかしげながら、薄緑色のケープがひるがえる様と、鮮やかなブルーに彩られた妖精のような姿を思い浮かべた。


 アルミが可愛いのはある意味当たり前だ――マンスレック軍医はあの義体の3Dデータに、ツダヌマ・プレミアム社のセクサロイドに使われるものと共通規格のフリー素材を流用している。

 つまり、それは大多数の人間が好ましいと感じるプロポーションと目鼻立ちの、一つの典型を示している。戦闘用として組み換え可能にしてあるせいで、実のところ彼女の歩行時の挙動や駆動音には外見と裏腹にかなり強い威圧感を伴うのだが。


「可愛いが、話してみるとえらく幼く感じた。資料では七歳からほとんど通常の社会から隔絶されてきたって話だから、仕方ないけど……十七歳というには痛々しいものがあるよ」


「そこなのよね……」


 マユミは下唇をかんで眉根を寄せ、少し不機嫌そうな顔になった。こういう時の彼女は何か突拍子もないことを考えているのが常だ。

 そのあとマユミが持ち出してきたプランは、案の定クルベを大いに困惑させるものだった。



         * * * * * * *



 火星はもう、かつて思い描かれた姿をしていない。


 軌道上から見下ろせば、そこに広がるのはやはり赤い大地――酸化鉄を主成分とする砂と岩に覆われた惑星だ。

 だが準備段階も含めて四十年を超えるテラフォーミングは、大気の組成を変え、土壌の化学的性質を変えた。局地的には小さな海もあり、高靭性ケイ素単分子ガラスキャンダイトで覆われた人工のものではあるが森と呼べるものさえ生み出している。


 そうした中、現在の火星でもっとも目を引く人工構造物は、赤道から北緯三十度ほどの地点を通る円周上にあった。着工二十年、現在もまだ建造中の巨大な埋設送電線「マーズ・リング」だ。起伏の多い地形を避けて通るため所々で蛇行し、完成時の総延長は二万キロメートルに達するとされる。


 セラミック製のブロックで覆われ、遠目には巨大な堤防のようにも見えるこの構造物に沿って、クルベたちは赤い砂の上を走っていた。



「すごいな……完成したらこれが火星をぐるっと一周するのか。万里の長城なんか目じゃないぞ」


「戦争で滞ってるみたいだけど、早く工事再開できるといいわね。残り工期、あと三十年はかかるらしいし」


「三十年か。完成するころには、こっちはいい塩梅に爺さんだな……」


 何となく引き合いには出したものの、これが長城のような実効性の低いものでないことはクルベも知っている。マーズ・リングは火星に人工的に磁場をもたらすためのシステムだ。


 天然の磁場がほとんどない火星の大気は、上層部を常に太陽風に削られ、吹き散らされる。火星のテラフォーミングはまずこの磁場を補うため、火星と太陽を結ぶ線上のラグランジュポイントL1に、磁束密度2テスラの双極性磁場発生器を投入するところから始まった。


 その装置は今も作動している。とはいえ外惑星連合との衝突が不可避になってきたころから、こうした重要な施設を無防備に宇宙空間に浮かべることには異論が多くなった。オービットガンナー一個小隊を投入すれば容易に破壊できる代物だし、その割にはメンテナンスにコストがかかる。電源としては太陽電池パネルを使うことになるが、最新の改良型であっても耐用年数には限度がある。


 だが火星地表に直接置くなら、地球と同等の磁束密度を目指すとして24~60マイクロテスラで事足りる。これは地球上で普通に設置される高圧送電線の磁界とさほど大きな隔たりのない数字なのだった。 

 そして長期に及ぶ建設と運用には、足元に地面があるメリットは大きい。テラフォーミングが進めば進むほど、作業環境も改善していくだろう。



〈次のブリッジでいったん休憩だ、そらぁ、気張れ!!〉


 並走する装軌トラックの上からホフマン軍曹が叫ぶ。指揮下のコマンド隊員に向けられたものだが、クルベたちのペースもつられて速くなった。


 ブリッジというのはこの場合、マーズ・リングの南北を二キロメートル間隔でつなぐように設けられた、斜路でつながった通路を指す。堤防の高さはおよそ五メートルあり、北側へ回ればやや肌寒いほどの日陰が得られる。


 クルベたちがブリッジについた時には、選抜コマンドの隊員たちは思い思いに砂上に腰を下ろしていた。彼らが装備している簡易マスクはあらかじめポンプで濃縮した大気を吸気レギュレーターに送るタイプで、あたりにはそのコンプレッサーのたてる、連続的に高速でせき込むような音がこだましていた。


 ブリッジに最も近い隊列奥から、黒と銀で塗装された人型の重機めいた物体が歩いてくる。それは傍らに停車した装甲トラックに近づくと、荷台から貨物パレット丸ごと一つを持ち上げて、くるりと周囲を見回した。


「皆さン、オ飲み物ですよ」


 ところどころ変調して発振したようになる合成音声はアルミのものだった。熊かゴリラに見まがうようなその武骨な拡張フレームは、彼女の陸戦用装備なのだ。


 クルベとマユミも補水液のボトルと糧食のチューブを受け取り、マスクの口元にあるアタッチメントを介してそれを口に運んだ。


「ありがとう、アルミちゃん」


 マユミが空いた左手でアルミの腕部装甲を軽くたたいた。その動きはやや緩慢なものだった。

 コマンド隊員に比べれば軽装だが、二人も装甲プレート入りの野戦服、二十キログラムを身に着けている。正規隊員はさらに分解した重火器や通信機、弾薬までも分担して運び、平均して三十キログラムを超えていた。


「可愛いウエィトレスさんだ。まるでヨハネスバーグの大きなカフェに来たみたいな気分だよ……ずいぶん滑らかに動かせるんだな、そいつは」


「エへへ。重力のアるところで跳ンだり走ったりするの、すごく楽しイですね……久しぶりです」



 そういって微笑んだ次の瞬間。アルミはいぶかしげに顔を虚空へ向けて、上空を見回した。


「ん、どうした…?」


「……なにか、変な感じがする。アたまの中で、何かが私を引っ張ってるみたイな――」


 彼女の言葉はそこで途切れた。クルベたちも言葉を失って空を見上げた。薄水色にかすんだ火星の空に半ば滲んだような、巨大なシルエットがゆっくりと空を横切っていく。それは、腰を伸ばしたエビシュリンプを思わせる姿をしていた。


「なんだ、あれは?」


 口々につぶやきながら呆然と空を見上げる一同の中で、アルミの声が響いた。


巣船ハイヴ・シップ……奴らTHEMがここにも……!」

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