episode-4:火星運河のプリンセス(A Princess of Martian Canal)
壜の中の不死鳥
絵本だった。ごく幼い子供向けに作られた、厚紙でできた冊子。
高度処置室に運び込まれた型落ちの救命カプセルをこじ開けて、デーヴィッド・マンスレック軍医が最初に見たものは、表紙に焦げ茶色の汚れがこびりついた、古びた一冊の絵本だった。
「なんで、こんなものが……」
助手を買って出た軌道砲兵中隊付きの軍医、ブロンスキーは首をひねった。
カプセルの主そのものは、耐Gスーツに身を包んだ『何か』としか言いようがなかった。バイザーの内側に密着するほど膨れ上がったその内容物は、汚れたシュークリームの皮のようにささくれだち、乾いて見えた。
だから、それが不意に身じろぎをしたとき、二人の医師は驚愕に凍り付いた。
「まさか! 本当に生きているなんて……」
マンスレック軍医は若いブロンスキーを静かにたしなめた。
「……それはこの少女に対してあまりにも無情というものだろう、ブロンスキー君。この子は我々に救助されること、救助が間に合うことを信じて、こんな姿になってまで
「……自分だったらとても踏み切れません。恐ろしく分の悪い賭けだ」
「うむ。だが彼らは――この子は、賭けに勝ったんだ。だから、彼らの信頼に応えようじゃないか」
その時、目の前の物体――アルミ・ロビンソンがゆっくりと腕を持ち上げ、彼らに向かって手を振った。
それは医師たちをさらに仰天させたが、彼女の動きはその混乱を鎮めうる程度に人間的だった。ブロンスキーはアルミと絵本を見比べると、絞り出すように声を上げた。
「そうか……この絵本は彼女のメッセージなんだ。表紙を見てください。この
「
マンスレック軍医はアルミに向かって話しかけた
「君はこう言いたいわけだ――どんな姿になろうと、自分は人間だ、と。そしてその醜い『皮』を脱いで元の姿に戻るんだ、と」
アルミは膨れ上がった耐Gスーツに邪魔されながらも、どうにかうなずいた。それを確認して、マンスレック軍医の声がひどく優しい調子を帯びた。
「任せてくれ。君を必ず元の体に戻してやる――少し時間がかかるのはやむを得ないが。まずはそのスーツを取り除いて、各種の医学的処置を施す。礼を失することもあるかもしれんが、どうか許してほしい」
特殊合金製のハサミが、超音波メスが、再び横たわった彼女をスーツから解放すべく振るわれた。アルミの声帯はもはや機能していなかったが、彼女は胸の内で軍医に呼び掛けていた。
――あなたが、あたしとケイヤクしてくれる悪魔なのね?
彼女のことを笑うには当たらない。軍医たちが着ている防護服は、明るい緑色をしていたのだから。
耐Gスーツがすっかり取り除かれると、アルミを乗せた手術台は透明なケースで覆われ、皮膚浸透性の高い麻酔剤と酸素の混合気体が満たされた。
事前のスキャンの結果は、彼女の体から循環系らしきものがほとんど消え失せていることを示していたからだ。それは一定の効果を現し、アルミは痛みを知らないまま解体されていった。
シュー皮のような外皮を切り裂いてメスやハサミが彼女の体をかき回し、まだ温存されている臓器を探しもとめて、プラスチック手袋をはめた二対の手がジャムのような組織の中をまさぐった。
不気味な青い色をした幼体は注意深く剥離、切除され、廓清されたアルミの脳神経は培養液に満たされた容器の中にいったん収められた。
だが、外部からの刺激を遮断された脳は急速にその機能を減退させ、人間性すら失っていくものだ。アルミ・ロビンソンを外界と接触させ続け、人間として生き永らえさせるために、マンスレック軍医もまた果敢な技術的冒険を試みる必要があった。
* * * * * * *
再び目覚めたとき、アルミには体の感覚が無かった。彼女の脳に与えられる知覚は、機械的なものに置き換えられたあまり鮮明でない視覚と、奇妙に変調した聴覚。それだけだ。
「どうやら意識が戻ったようだな。気分はどうかね?」
その声には聞き覚えがあった。最後に眠りにつく前に見た、緑の服を着た男――アルミの『悪魔』だ。
「ココハ――?」
合成音声が室内に響き渡る。変な声だ、とアルミは意識だけで苦笑いした。
「火星だ。内惑星統合軍の第十七機甲師団が駐留する、シルチス基地だよ」
「チキュウデハナイノネ?」
「ああ。だが同じことさ。ここは人類の領域だ。もう安心していい、君は勝ったんだ。」
アルミの脳を収めた金属容器から、外部スピーカーを通じて奇怪なうめきが響いた。それが嗚咽だと相手が気づくまで、二十秒ほどを要した。
もう泣かなくていい、と男はアルミをなだめたが、彼女が泣き止むまでさらに五分が必要だった。
「アタシ……ミンナ……ムダニナラナカッタ。アリガトウ……エエト、アナタハ?」
「私はデーヴィッド・マンスレック。ここの最先任軍医で、階級は大尉だ。礼を言われるとこっちが恐縮するよ。実のところ君の体組織のほとんどは不可逆に変質してしまっていてね。脳と神経系、それに生殖腺の一部を救い出すのが精一杯だったんだ」
「セイショクセン……『タマ』ノコトヨネ?」
読み書きの勉強が遅れ語彙に乏しいアルミだが、医学用語はそれなりに耳になじんでいる。ラティマー女史と一緒に暮らしていたからだ。
「ん……? ああ、まあそんなところだ。女性のものについては、普通『タマ』とは言わないがね」
軍医は少し戸惑いながらアルミの問いに答えた。アルミはしばらく沈黙した後、落ち着いた口調で彼をねぎらった。
「……ジュウブン。タマトアタマガブジナラ、『ソンゲン』ハタモテル。グレッグガソウイッテタ」
「それはまた、ずいぶんと振り切った人間観だな。グレッグというのは誰だね?」
「アタシノ、ダイスキナヒト。サイコウノ、エイユウナノ」
「そうか……君を送り出した大人の一人だね?」
「ウン」
アルミはそれから、グレッグ・マイヤー軍曹がいかに勇敢で沈着で頼りになるひとか、マディソン・ラティマー女史とロイ・クレメンス爺さんがいかに忍耐力と探求心にあふれ、公平で英知を備えた賢人であったか、ということを乏しい語彙で熱心に語り続けた。
そろそろ新しい言葉が見つからなくなったところで、マンスレック軍医が彼女を丁寧に押しとどめた。
「よくわかった。君は本当に幸運だった。素晴らしい大人たちに囲まれ、逆境と危機を乗り切ることができたんだ。本当におめでとう。 ……さて、私からも君に伝えたいことがいくつかある。質問もね。聞いてもらって大丈夫かな?」
「ハイ、ナンデモ」
「ありがとう。まずは君のこれからについてだ。我々は君の元の体から、無傷で残ったわずかな生殖細胞と体細胞をなんとか回収することができた。それらは今、この基地の施設で培養されている」
「……ツマリ、アタシハニンゲンニモドレルンデスネ?」
「その通り。といっても私の基準に照らせば、今の君も間違いなく『人間』だがね。ただ、全身の再生となると時間もかかるし、どうしてもある程度の重力が必要になる。そこでだ」
マンスレック軍医は言葉を切り、傍らのディスプレイに何か画像を映し出した。アルミの脳に接続されたセンサーの精度ではどうしても細かいところまでは見えなかったが、それはどうも人の体を模した何からしかった。
「君の新しい肉体は火星の地表に施設を作って、そこで数年かけて育成されることになるんだ。その間は、代用の体に脳を収めて生活してもらうことになる」
「サイボーグ……グレッグトオナジ……」
アルミは不思議なほどわくわくした。変調した機械音声にもかかわらず、その感情は声の響きにも表れていた。
「そうか。君の軍曹もサイボーグだったな。一度会ってみたかったものだ……というわけで――」
マンスレック軍医の口調が不意に、カーニバルの露店でくじを売る売人のような芝居がかったものになった。
「君が入る義体をどんなものにするか、決めてくれたまえ。こまごましたパーツはある程度自由に選んで組み立てられるが、まず基本的なプランは立てておく必要がある」
「ウーン……」
アルミはしばらく黙り込んで考えた。
グレッグは、彼女に「恋を見つけろ」と言い遺した――人間の体に戻るのに時間がかかるなら、先に恋だけでも見つけられないだろうか?
恋をするのに必要なのは、いったいどんな体だろう? ラティマー女史のような、豊かなまるまるとした体だろうか。何せ彼女は最後に爺さんと結婚したのだから――
(アタシ、シラナイコトガオオスギルネ……)
ああ、だが一つ忘れてはならないことがある――決して忘れてはならないことが。
アルミは歯を食いしばる気持ちで、軍医に答えた。
「セントウヨウニ、シテクダサイ」
マンスレック軍医はそれを聞いて明らかに狼狽したようだった。彼はアルミの光学センサーの前にぐいと顔を近づけ、真剣みを増した声で訊き返した。
「本気かね? 悲惨な体験をしたのは分かる。君の中に、
「ソレデモ、マモラレルダケナノハ、モウイヤ……」
「困ったな。私としてはせっかくあの姿から解放された君を、また怪物のような姿にするのはしのびないんだ……」
軍医はかぶりを振ってアルミから離れ、ディスプレイへと向き直った。
「普通に日常生活も送れる戦闘用の義体――そんなものがおいそれと」
――いや、まてよ?
軍医がそうつぶやくのがアルミの耳に入った。
「……いい方法を思いついたぞ。これなら、ふつうの人間と同様に暮らして、必要な時は戦車並みに武装することができる」
それから軍医がアルミに説明したことは、彼女には半分ほどしかわからなかった。だが、それは軍医にとってとても魅力的なアイデアであるらしかった。
(コンナニウレシソウニハナシテクレルンダカラ、キット、トテモイイギタイナンダ……)
であれば、彼女が聞くべきことは一つだけ。
「ソノカラダデ、コイハミツケラレマスカ?」
マンスレック軍医は、その問いを否定しなかった。
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