愚者たちの闘争
「これはいかん。すぐに衛生兵を――」
言いかけて、ジャクソン少尉が顔をゆがめる。クルベは彼の苦悩にすぐ気が付いた。
「ああ、手が必要ならうちの中隊から出そう。衛生兵も十人ほどいるから」
ヴィクトリクス号の正規乗組員は定員一五名で、衛生担当はまだ若い軍医が一人いるだけなのだ。
「助かります、クルベ中尉――」
言葉とは裏腹に、ジャクソンは顔をしかめたままだ。彼が副長から箝口令を受けていたことは、クルベが知る由もなかった。
「クルベだ。今そちらの当直は君か、ウッド伍長?」
端末で衛生兵の詰め所を呼び出し、招集をかける。
〈そうです、何か?〉
「一号船室まで来てくれ、司令官が人事不省だ。酸素吸入の用意と、
「ああ、そちらの連絡は、私がやります!」
ジャクソンが慌てて口をはさんだ。どうあってもイニシアチブを完全に握られるのは避けたいと見える。
「わかった、よろしく頼む。ブリッジへの連絡もな――OK、ウッド伍長。マンスレック軍医への連絡はジャクソン少尉がやってくれるそうだ。そのまま現場へ急いでくれ」
〈
(さて、いよいよもって混沌としてきたぞ)
この艦が置かれた状況を正確に知る必要がある。ジャクソンがブリッジへ通話を行っている隙に、クルベはメールアプリを立ち上げた。
【ブリッジで何が起きてる? 余裕があったら教えてくれ】
勤務上の会話なら考えられないぞんざいさだが、これはあくまでも私信――この調子でのやり取りを許しあう程度には、クルベとマユミは懇ろになっていた。
* * * * * * *
「司令官が、倒れた?」
マユミとメイナードは、同時に声を上げた。艦内通話機のモニタには、ジャクソン少尉の緊張した顔が映っている。
〈はい。ブロンスキー軍医の見立てでは、気胸のようだとのことです。なので、酸素吸入は今のところ控えています。軌道砲兵のクルベ中尉からは、マンスレック軍医に連絡をとの指示を受けていますが――〉
どうしましょう、と言いたげに語尾がよどんだ。
「ああ、それはもちろん当然の指示だ! すぐにこちらで連絡を取ろう。ブロンスキーにはとにかく司令官のバイタルを維持するように伝えろ。また追って指示する……コアー上等兵、オルフェウス号のエコー艦長へ直通回線を頼む」
メイナードはてきぱきと対応していた。先ほどまでの不穏さからは別人のようだ。だがその堂々とした態度の下からは、嘆きと困惑がときおり顔をのぞかせていた。
「出航前には全員の健康状態について、入念なチェックが行われたはずだ……なぜこんなことに」
「……気胸なら、仕方ないかも。ストレス、気圧変化、治癒したはずの外傷――なんでも発症のきっかけになる。ピット大佐もあの襲撃の際に、負傷していた……
「そうかもしれませんが、よりによってこのタイミングで……」
気胸は肺に穴が開くなどの原因で胸腔内に気体が漏れ出し、その圧力によって肺が空気を吸い込めなくなる疾患だ。患者は多くの場合激痛に襲われ、重篤なものは当然命にかかわる。酸素吸入は症状を悪化させる恐れが大きく、初動での誤診があれば大変なことになる。
「さっきの噴射が、直接のきっかけになったのかもしれない」
ガンフリント中隊を収容するために行った0.2パーセントの増速。マユミにとっては余分な体液が押し下げられて心地よいくらいのものだったが、ピット大佐にはそれが決定打になった可能性もある。個人差とはそういうものだ。
患者は早急に移送する必要がある。マンスレック軍医が乗り込んでいる補給艦オルフェウス号には、ヴィクトリクス号の医務室とは比較にならない高度医療設備があるのだ。
だが、そのオルフェウス号は現在、軌道上のおよそ五万キロメートル後方を航行していて、ランデブーには最短で四十分程度を要する。ヴィクトリクス号側での加速、減速は避けるべきだが、オルフェウス号は航続距離には優れているものの、決して機動性に秀でた船ではない。
オルフェウス号を待つ間にも、艦隊と司令官にとって、そして民間人の少女にとって、貴重な時間と機会が失われていく。
マユミの脇腹のあたりで先ほどから振動しているものがあった。ジャケットのポケットの中で、携帯端末がメールの着信を知らせているのだ。
振動パターンは特徴的ではっきりしている。クルベからに違いない。
(ゆっくり見る余裕はないけど、着信内容の確認ぐらいは)
コンソールの下に隠れた膝の上に端末を横たえ、メール画面を呼び出す。クルベからのメールはそっけない単文だが、ブリッジの状況とマユミを気遣うものだった。
大急ぎで返事を打ち込む。私信ではあるが、私事ではない――内心でそう言い訳しながら。
【救難信号をキャッチ、対応に紛糾中。軽挙を慎み、部下を統制されたし】
返信に対する応答はすぐに届いた。
【了解、そちらも慎重にな。ダルキーストに「こちらは任せろ」と伝えてくれ】
(ホント、馴れ馴れしいったらね……)
あきれる気持ちと裏腹に、目元が潤んでくるのを止められない。ほかの将兵の目を盗んで、マユミは素早くハンカチで目頭を押さえた。
その時、再びコアー上等兵が通信士席からマユミの方へ振り向いた。
「艦長、今よろしいですか? レーザー砲艦『アンティノウス』の艦長、ユウ・モリ大尉から通信です」
「モリ大尉から? 何かしら」
モリ大尉はちょっとした有名人だ。マユミより十期ほど古参の女性士官で、尉官としてであれ女性が艦長職に就いた初めてのケース。いうなればマユミの大先輩にあたる。
彼女ともう一人、ローラ・キュノ艦長がこの艦隊で最大火力を担うレーザー砲艦を指揮しているのは、マユミにとってひそかに心強いことだった。タイバーソン提督の細やかな配慮がうかがい知れる。
「いいわ、繋いで」
「
モニタースクリーンには、中肉中背のふんわりした印象を与える女性が映っていた。直撃すれば戦艦をも両断する物騒な火器を備えた艦には、およそ似つかわしくない。
だが彼女の武名は艦隊に鳴り響いている。いまだに大尉の階級に収まっているのは、隅々まで熟知した『
〈どうも、タカムラ艦長。つい先ほどおかしな電波を受信しましたのよ。そちらでも傍受なさったのではないかと思うのですけれど〉
――ぐぶっ!
二メートルほど横で、メイナードが奇妙な喉声を発したのが聞こえた。マユミ自身も、真正面から
「え、ええ、確かに。目下対応を検討中で……」
なぜこの可能性を考慮しなかったのだろう、自分もメイナードも! 木星からの電波は、よほどの指向性を持たせていない限り、火星近傍までくれば広範囲に拡散する。
同行するほかの艦艇が受信していたとしても、何の不思議もないのだ。
〈エルンスト電力公社からの救難要請メッセージ、お読みになりましたわね? 人道的にも放置できませんし、敵の新たな情報が手に入るというのであれば、戦略的にも無視する手はありえないと思うのですが――司令官はなんと?〉
物柔らかな言葉の影に、厳しい叱責が潜んでいるように感じられた。
受信した時点で、なぜ麾下の艦艇を指揮する艦長たちに連絡をとらなかったのか。モリ大尉は言外にそれをとがめているのだ。
「……受信とほぼ同時に、司令官が人事不省に陥られました。気胸のようです。いま、オルフェウス号にランデブーを要請したところです」
やっとのことでそれだけを告げる。声が震えないようにするので必死だった。話している内容は事実だ。だが、旗艦艦長という任務に舞い上がり、当然行うべき諮問の必要性を頭から追い出していたことは否定できない。
とんだ大バカ者だった、自分も。メイナードの私心を嗤うことなどできはしない。
〈それは困りましたね……でもタカムラ艦長、ここはまだ火星軌道のごく近く。シルチス基地までは四分程度もあれば通信が届きます〉
「そう、ですね……それが一番いいと思います。早速――」
〈いえ、ご心配なく。すでにシルチス基地には件のメッセージをそのまま転送してあります。タイバーソン提督までお具合が悪くなっているのでなければ、オルフェウスとのランデブーの前後くらいには、新しい命令が届くと思いますよ〉
マユミは悲鳴を上げたくなった。旗艦艦長である自分の頭上を飛び越えての送信。実質的に、任務不適格の通告を受けたようなものではないのか。
だが、モニターの向こうのモリ艦長は沈黙したマユミに穏やかな笑顔を向けていた。
〈女の子が冷たい宇宙の真っただ中で、たった一人で戦っているんですもの。一刻も早く助けに行ってあげられるようにしなくてはね?〉
「……申し訳ありません、お手数をおかけしました」
〈私から言うべきことはいろいろありますが、ここでは控えましょう。タカムラ艦長、私もキュノ艦長も、あなたに期待していますよ〉
その言葉を最後に、通信は終了した。
マユミはシートのひじ掛けをつかんだまま、呆けたように大笑いしている自分に気がついた。そして、メイナードも笑っていた。二人はほぼ同時に席を立ち、ブリッジの中央で向かい合うと、お互いの袖をつかみ合い、髪の毛をかきむしり合いながら笑い続けた。
二十分後、シルチス基地からの通信が艦隊に届いた――
それは、マユミ・タカムラ・ロバチェフスカヤに艦隊の全権を与え、アルミ・ロビンソン救出作戦の立案と速やかな実行を求めるものだった。
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