小さな神様、ボロボロの神様

うにまる

ある芥川賞作家のインタビュー

 灰白色の扉を開くと、小さな会議室のような空間に、ひとりの背広姿の男性が立っていた。おそらく僕にインタビューをしたいと申し出た記者だろう。記者はこちらの姿を見つけると、軽くお辞儀をしながら空いている椅子の一つに座るよう身振りで促した。

 僕は椅子に腰かけ、ちょうど記者と対面になる。記者は、机の上に用意していたメモ帳を開き、背広の胸ポケットからペンを取り出した。そして、忘れていたかのようなそぶりでカードケースから名刺を一枚抜き取り、僕に差し出した。

 「先日お電話をさせてもらった塚本と申します。今回のインタビューを引き受けてくださいまして、山本先生には深く感謝申し上げます。それではさっそくですが、山本先生の話を伺っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします」

 僕はこのとき初めて『先生』と呼ばれた。少し仰々しいと感じたが、自分がもはや、ただの無名作家ではなく、人前に出てあれこれ言われる作家になったのだということが思い知らされ、無意識に気が引き締まる。

 「こちらこそよろしくお願いします。何でも遠慮なく訊いてください」

  僕がそう言うと、記者は少しばかりはにかんだ。緊張を緩ませたようにみえた。

「まずは芥川賞受賞おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「35歳での受賞となりますが、率直に今の心境をお聞かせください」

「まさか自分の作品が受賞するとは思っていなかったので、今は驚きの気持ちが強いです」

 僕は、記者とのやり取りがまるで野球のヒーローインタビューのようだなと感じ、思わず口もとがにやけてしまう。記者が姿勢を正したものだから、次の質問はファンの皆様へひと言とかではないだろうかと心の中で勘ぐった。しかし予想は見事にはずれる。

「私が独自に調べた情報によりますと、山本先生は受賞される前まで、ホームレスだったということなのですが、本当でしょうか?」

 なるほど、そうきたか。

 「¨受賞される前まで¨ではないですよ。今も住居はないので寝床は転々と変えています。さすがに今は、段ボールの上ではなくてホテルのベッドで寝ることができていますけどね」

 記者はあからさまに驚きの表情を見せ、今聞き取った情報を逃すまいと、すかさずメモ帳にペンを走らせていた。こちらが冗談を言ったことにも気づいていないのではないだろうか。たしかに、今までの芥川賞受賞者のうちでは類をみない経歴だろう。記者がこの情報を好機ととらえているのも無理ない。

 やがてペンの動きを止めた記者はこちらの方を向き、続けて質問をした。

「では、山本先生はなぜホームレスの状況でありながら執筆活動を続けることができたのですか?」

 果たしてこの質問の意図は金銭面にあるのか、それとも精神面にあるのか。僕は少し考えた。

 「小さな神様がいたからじゃないですかね」

 記者はきょとんとしていた。まぁ、そのような反応をするのも無理ない。

 ただ、僕が執筆活動を続けることができたのは、まぎれもなく、『小さな神様』のおかげなのだ。


 僕がろくな仕事にも就かず、一日の大半を、徘徊か空き缶集めに費やしていたのは、そう遠い昔ではない。毎日のようにぼろきれと化した服を着て、朝から晩まで町をうろつき、ゴミ置き場に珍しいものはないかと目を巡らし、あったときには遠慮なく拝借して私物にしたり、同じホームレス仲間に売っていた。いつも着ていた上着も当然のようにゴミ置き場から取得したもので、ほとんど着られていない新品の様な状態の白いTシャツだった。ただし、シャツのど真ん中に、大きく黒字で『神』と書かれている。

 僕はこのTシャツがお気に入りだった。こんな惨めな生活をしていても、神様は自分のことをきちんと見ているような気がして。

 しかし、町中をうろつきまわって挙動不審な行動をとるTシャツ姿の僕を見た町の人々やホームレス仲間は、口をそろえて『貧乏神』や『疫病神』と揶揄した。神様が見えるわけないのにな、と僕は心の内で思いながら、怯みもせずに収集活動に勤しんでいた。

 そんな僕が、初めて神様を見たと感じたのは、深夜過ぎのアーケード通りを歩いているときだった。昼間は、活気あふれる店がアーケードの両サイドに軒を連ね、人々の往来も盛んであるが、深夜ともなると、シャッターを下ろしている店がほとんどで、通りを歩く人も、残業帰りであろうサラリーマンや夜遊びにふける若者くらいしかおらず、ちらほらとまばらである。僕はアーケード通りをきょろきょろと見渡しながら進んでいた。もちろん金目のものが落ちていないかを探すためである。

 アーケード通りの中腹まで差し掛かったころ、僕はまったく¨物¨にありつけないことを残念に思っていると、遠くの方から微かにメロディーと歌声が流れているのが聞こえた。少し先で、路上演奏をやっている人がいるのかもしれないと考えた。

 歩くたびにメロディーは大きくなる。これはアコースティックギターの音色か。

 もう少し歩くと歌声もはっきりしてくる。声の主は女性のようだ。

 気づけば、歌っている人の顔を認識できるほどまで近くを歩いていた。背が低く、髪が短い。目元がはっきりしているせいかかなり幼くも見えた。やはりアコースティックギターを肩から掛けている。

 僕は素通りしようとした。あの歌詞を聞くまでは。

”神が死んだのか お前の心が死んだのか 

どっちなんだ ニーチェ”

 僕の足はぴったりと止まった。次の一歩に力が入らない。すべての神経が耳に集中していた。彼女の声は透き通るようでいて力強く、自分の身に纏っていた闇を、ひと吹きで飛ばしてしまうような爽快さがあった。アーケードはがらんどうであるはずなのに、彼女の周りには数えきれないほどの聴衆がひしめいているような、圧倒的熱気が肌で感じられた。

 それにこの歌詞……。

 僕は、ちょうど彼女が歌っている真ん前で微動だにすることができず、かろうじて顔だけを音色のする方へ向けることができた。

 本当にこの子が……。

 彼女は一心不乱に歌っているように見えたが、目だけは落ち着いていた。どこか、遠くからほのかに光る、一筋の光明を掴み損ねないように、じっと見つめるような鋭さがあった。

 やがて、その両目が僕の目と合った。彼女は少しだけ目を大きくしたが、すぐに視線をそらし、力強く歌い続けた。目を瞠ったのは、およそ僕のような疫病神に悪がらみされないか怪しんだからであろう。

 僕はやっと動かせるようになった身体を、彼女から離れた場所へと移動した。なるべく彼女の目障りにならない程度に、しかし彼女の歌声が自分の耳にきちんと届く位置に行くと、その場にしゃがみこみ、じっくりと彼女をながめた。足元にはギターケースが広がって置かれている。ケースの横には段ボールが看板のように立て掛けてあり、大きく『自由に一票を!』と書かれていた。おそらく、気に入ったらチップをくださいね、ということだろう。

 しばらく様子をみていたが、歩を止めて彼女の歌声に聞き入り、称賛の声をあげる者は、誰一人としていなかった。

 僕は悩んだ。どうして彼女に注目しないのだろう。

 しばらくして、僕は重たい腰をゆっくりと上げ、ぐいっと背伸びをした。そして、寝床がある公園へと歩き出した。

 そのときには、彼女が注目されない原因を、自分なりに結論付けていたと思う。

 きっと歌詞が悪い。


 「え、小さな神様ってなんでしょうか? あ、神様のような人からお金をもらって、執筆活動を続けることができたということでしょうか?」

 記者が、金銭面からこの質問を投げかけていたのだなということがわかった。

 どちらにせよ結論は同じであるのだが。

 「まぁ、そうですね。僕はホームレスといえど、それなりのプライドはありましたから、少しずつお金をためては、ネットカフェで執筆をしていたんですよ」


 僕はとにかく何かを表現することが好きだった。自分が今までに出会った言葉で、ある物事を表現し、その表現に誰かが共感したり、感動したりすることが、この上ない幸せに思えた。

 そして、表現は強力な武器にもなる。

 表現次第では『おどけて誰からも避けられるピエロも、大衆を従える王になることができる』と思っている。

 いつか、世界中の誰もが感動する表現を生むことができたなら。

 誰にも勝てる武器を手に入れることができたなら。

 僕は小説家になることを決意した。ただ、僕の夢を実現させるためにはたくさんの表現に触れ、誰よりも考えなければいけない。

 僕にはお金よりも友人関係よりも、時間が必要だった。

 昔の僕は、そのなんとも不器用な考えを、もののみごとに鵜呑みしたのである。

 今から思えば相当愚かであった。

 仕事もせず、友人とつるむこともなく、僕は小説家になるという夢を追い続けた。しかし、そんな生活を続けていくうちに、僕はどんどんと貧しくなっていった。それもそのはずで、お金がなければ食べていくことも、雨風を防ぐこともできないし、友人がいなければ助けを求めることもできない。

 結局、僕はいつの間にか、ホームレスになっていた。人を喜ばせるどころか、人に忌み嫌われる存在になっていたのである。

 とんだ皮肉だ。

 それでも、僕は諦めなかった。働く時間があるなら知識を得る時間に充てる。人と付き合う時間があるなら物語を考える時間に充てる。

 僕のストイックさは、自分でもわからないほどに頑丈だった。

 手書きよりもパソコンのほうが、時間を効率的に活用できると考えたため、なけなしのお金を費やしてでも、ネットカフェへ行くべきだと考えていた。だから、頻度こそ少なかったが、執筆は必ずネットカフェでやっていた。

 さらに、小説を執筆している最中、内容と全く別だがおもしろい表現を思いつくこともある。すぐに小説へ組み込むことは困難だけれど、どこかしらで使えそうだという表現は残しておきたくて、新しくブログを開設した。

 開いたばかりの頃は、まったく使い勝手がわからず、プロフィール画像を決めてくださいと要求されたが、画像フォルダに画像など入っているわけもなく、さっそく出鼻をくじかれた。

 しかし、要求画面の選択肢にウェブカメラで撮影するというボタンがあり、そのボタンをクリックし、ディスプレイに内蔵されているカメラで僕の上半身をとらえ、左クリックをすると、すぐ写真を撮ることができたから、その機能で適当にあてがった。

 ブログを何回か使ってみると要領がだんだんわかってきて、残しておきたい表現を、ブログへかたっぱしから突っ込んだ。そのため、ブログはブログとしての役割を果たしておらず、表現の貯蔵庫のようなものになっていた。

 おそらく、外部から覗いても何を書いているブログなのか、さっぱりわからなかっただろう。


「しかし、ネットカフェと言えど、毎日のように通っていたらお金はいくらあっても足りませんよね? 仕事をしていなかったら、思うようにはいかなかったのではないですか?」

「その通りです。実際、ネットカフェに行くことができたのは1か月に2,3回で、こんな頻度だといつまで経っても長編が完成することはなかったんです」

「でも、完成させましたよね。まさか……、闇金とかに手を出しちゃったんですか?」

 記者は、まさか自分の口から『闇金』なんて言葉が出るとは思っておらず、言った後からあたふたしていた。

「いえいえ、お金を借りる手立てもありませんでしたから、最初からお金貸しを頼りにはしてなかったですよ。ほら、ここで小さな神様の登場なんです」

 僕は常に、書きたいという衝動に駆られていた。そして、深夜のアーケード通りで彼女を見てからは、書くことが一種の使命のように感じられた。彼女もまた、なんらかの夢を追いかけている。僕も負けずにはいられない。僕は書かなければいけなかった。

 僕はずっと文章を書き続けていたいと心の底から願った。

 そんな僕の願いは、おそらく神様の贈り物によって叶ったと思っている。


 ある日の深夜、僕はいつものようにアーケード通りを歩いて寝床まで行こうとしていた。すると、ホームレス仲間の一人に声をかけられた。彼は、まだ蓋の開いていない缶ビール片手に「一缶45円で買わないか」と商売を始めた。彼とはよく物品の交換をする仲であったし、なによりも、ある期待が思い浮かんだため、僕は快く取引を承諾した。

 お酒を飲みながらギターの音色を聞くことができるかもしれない。

 缶ビールを片手に持ちながら、僕はアーケード通りを進んだ。たがて、遠くの方にひとつの人影が、その場から動かずにじっとしているのが確認できた。

 今日も彼女は路上活動を行っているのだろう。

 僕は心なしかワクワクしながら歩を速めた。

 彼女の音色が近づく。彼女の歌声が響く。僕の周りを包んでいく。

 そして、僕はいつもの場所に、いつものように腰をおろし、缶ビールの蓋を開けた。耳を澄ますと、ゆったりとしたギターの音色が聞こえる。僕はビールを口に運んだ。

 久しぶりのアルコールは、味わう前にすっと喉の中に流れ落ち、それは耳から入った音たちが、自分の全身に染みわたっていくようで心地よかった。

 僕はこの空間にずっと居続けたいとさえ思った。今までの自分を縛り付けていた、頑固な夢から解放されて、ただ彼女の音楽に身を任せるひととき。

 しかし、異変は急に訪れた。目を閉じながら耳を澄ませていると、曲が終わっていないのにギターの音色がぴたりと止んだのだ。僕は目を開けて、彼女のほうをみる。気づけば彼女は、体躯の大きい男三人に取り囲まれていた。彼女は明らかに、怯えた表情をしていた。

「俺たちについて来いよ。どうせ客なんか来ないんだろ。寂しいだけだろ。」

 男たちの淀んだ喧しい声が、アーケード内を鋭く刺す。僕は思わず怯んだ。

 男三人に対して、ボロボロのホームレスがひとりで立ち向かえるはずがない。

 力の差は歴然だろう。

 僕はこの状況をどうすることもできないかもしれない。自分の無力さにやりきれない情けなさを喰らいながら、僕は彼女をみた。すると、彼女もまた、こちらを見ていた。目が大きいのではっきりとわかった。

 そして、口もとが微かに、「たすけて」と叫んでいるように動いたのだ。

 僕が何かを表現しなければ。彼女を救わなければ。

 僕は歯を食いしばりながら、おもむろに立ち上がり、男たちのほうへ歩いた。

 最初は一歩ずつ確実に、近づくほどに力を緩ませて。

 男たちがこちらに気付くのが自分での合図だった。男たちが振り向いたとき、僕は大声で「貧乏神に逆らう気か!?」と叫んだ。できるだけ酔っているように。おぞましい雰囲気を出すように。

 「疫病神がたたりを呼ぶぞ?!」

 これでもかというほどに両目を見開き、唾を吐き散らす勢いで暴れた。

 男たちは、厄介な奴に目をつけられたと感じたらしい。その場でアルコール中毒のホームレスをぼこぼこにするのは容易いはずなのに、こんな奴に手を汚すくらいなら、その場から離れる選択をした方がましだと判断したのだろう。ばつが悪い表情をしながらその場を離れていった。

 男たちが見えなくなるほど遠くに消えるまで、僕はわけのわからない言葉を大声で表現した。

 しばらくして、僕は身体の電池が切れたように黙り、そして立ち尽くした。とうに男たちは消えていて、アーケードの中は静寂に包まれていた。

 僕はそっと彼女のほうを見る。

 彼女の両目はうっすらと涙を湛えていた。

 僕は、彼女に聞こえるか聞こえないかの声で、「僕は王になれましたか」と言い、寝床のある方向へと歩いた。

 右手は先ほど暴れまわったせいでビールがこべりつき、べたべたとして気持ち悪かったが、どこか誇らしくも思えた。


「ああ、ここで神様ですね? 神様が山本先生をどうしたんですか?」

「いやいや、そんな大そうなことではないよ。ただ、ある日をきっかけに、その翌日から毎朝、目が覚めるとそばに封筒が置いてあったんだよ。そして、その封筒の中身はお金だったんだ。手紙も添えられてて、『自由に使ってください』って書いてあったんだよね。金額は高いときもあれば低いときもあったけれど、毎日ネットカフェに通えるほどの金額はあったよ。だから、僕は毎日ネットカフェに行って、朝から晩まで書き続けた。ブログもたくさん更新した。そして、気づけば今、僕は賞を受賞していたというわけさ。神様の贈り物万歳だ」

「なんだか日本昔話みたいですね。なにかいいことでもしたのですか?」

「どうだろうね」

 僕は何の行動がいいことにつながったのかは、さっぱり見当つかなかったが、僕を助けてくれた神様の姿は想像できる。封筒に入っていた手紙を思い出した。『自由』という字の形は、とても見覚えがあったのだ。

「それでは山本先生。次は、作品についていろいろ伺っていきたいと思います」

「はい、喜んで」

 僕は記者の質問に対する応えを考えながら、頭の中で美しい音色を思い出していた。

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