2-3. 悪魔は天使に救われる
赤い安楽椅子の中に埋もれるように、虚ろな表情をした黒髪の少女は座っていた。
歳は15くらいだろうか、市松人形を思わせる髪型と顔立ちは、大陸の血が一切混じっていないだろうと思わせる。だが輝きを失った瞳は、顔立ちにそぐわず青い。
異様な存在感を放つその安楽椅子の前にぺたりと座り、待ち切れない様子で蛍火はカレーをかき混ぜていた。
部屋に入ってきた棕櫚と平外の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせ「いただきまーす」と朗らかに宣言した蛍火は、掬ったカレーを少女の口元に運ぶ。
「マリーちゃん、マリーちゃん、あーん」
無理じゃないのか。
そんな言葉を飲み込んで事の成り行きを見守っていれば、マリーと呼ばれた少女はわずかに口を開き、蛍火は匙の中身を彼女の口の中に押し込んだ。
ゆっくり咀嚼したマリーの表情が微かに歪み、ようやく嚥下した時には、意思などないと思っていた瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「マリーちゃんどうしたの、大丈夫!?」
匙を持ったままおろおろしている蛍火をよそに、棕櫚は手の中の椀を隣に突っ立っていた平外に押し付けると、飛ぶようにマリーに近づき、抱きしめ、そっと髪を撫でた。
「泣けるところまで回復してくれたんだな。よく頑張ってくれたな。ありがとう、マリー」
「マリーちゃん頑張り屋さんだねー、すごいねー!」
ぼろぼろと涙を零していた眼は、徐々に閉ざされていった。
『そんな目であたしたちを見るんじゃないよ、この悪魔っ!
あぁ、おぞましい……っ! 本当にあたしたちの子だったら、目が青いわきゃないんだよっ!』
あぁ、神様。
どうして平凡な色にしてくれなかったんですか。
誰もが黙り込んでしまった部屋の中に、カチャカチャと食器の音だけが響く。
安楽椅子に深く腰掛けたマリーの前、円陣を組んで床に座り込んだ三人組は、どこからどうみても怪しい。
「良い目だ」
「ん?」
「彼女は良い目をしていた。大丈夫、彼女の心は完全に壊れている訳じゃあない。今は少し休んでいるだけだろうね」
何を思って平外がそう評するのか分からなかったが、棕櫚は「そうか」と短く返した。
マリーのことは気になるが、それよりも実は棕櫚が作ったカレーに対する平外の評価の方が気になっていた。
なにせ、聞きかじりの情報と幼い頃に数度食べさせてもらった味の記憶だけで作ったからだ。そして平外は本物の味を知っている。
「マリーちゃん、起きる?」
「心配しなくていいと思うよ。でもその代わり、いっぱい話しかけてあげるんだ」
うん、と素直に頷いて立ち上がりかけた蛍火を、平外は「食べ終わってからね」と座らせる。
それで、と彼は棕櫚を促した。棕櫚が話題を変える隙もくれない。
「多分麓の集落からだと思う。彼女、裸足で走ってきたんだ。どこもかしこも血塗れで、今にも泣きそうな顔をしてたなぁ。庭に入ってきて、蛍火を見て、何かが切れたように倒れたから、そのままこっちで保護したんだ」
「その前にね、お名前教えてくれたの。マリーって」
「それに関しては蛍火の聞き間違いだと思うんだよなぁ。マリー、なんて大陸の方の名前だろう。ありえないとは言わないけど」
「それがいつのことだったんだって?」
平外の問いに瞬時に答えられなかった棕櫚は、天井を睨みつけた。
蛍火もぽかんと口を開けたまま無言で棕櫚を見ているものだから、全くもって役に立たない。
「…………二ヶ月くらい、前?」
ふんふんと頷いた平外は、にこりと笑って断言した。
「やっぱり彼女が『悪魔』だ」
『ねぇ、真理亜。あたしの真理亜。あなたは私の全てだわ。ねぇ、もっと近くに来てよ。
……今日もこんなに傷だらけになって。真理亜はやっぱり悪い子だわ。あなたを傷つけていいのは、あたしだけなのよ』
視線が、腕に添えられた手が、ねっとりと絡みつくように感じられ、ぞわっと毛が逆立った。
どんなに振り払おうとしてもまとわりついてくる手。剥がしても剥がしても剥がれない。
怖くなった。
引き離すために、無我夢中で
何かがぐしゃりと潰れる感触が 走った。
人気のなさそうな道を
気づいたら庭園に、天使様が舞い降りて――
「目が青いだけで悪魔とか言われてもなぁ。そしたら蛍火はどうなるんだ」
「まぁ、ケイちゃんの話はまた今度じっくり聞かせてもらうとして、マリーちゃんはここに置いておくんだろう?」
カナカナカナと鳴き続けるヒグラシの声を背後に、穏やかな男性二人の声が耳に心地よく響く。
「まぁ、帰る場所もないだろうし、蛍火の遊び相手が増えるのは助かるかなぁ」
窓が開け放たれているのか、差し込む光が眩しい。
「マリーちゃん、あーん」
女の子の高い声は、すぐ近くから聞こえた。
彼女の声に応じて自分が口を開き、中に入れられた何かを咀嚼していることには、他人事のように後から遅れて気づいた。
飲み込む頃になって、ようやく食べ物の温かさを感じた。まだまともだった頃に、双子の妹が作ってくれたスープの、あの温度だ。
味は、よく分からない。
「いーっぱい食べて早く良くなってねー、マリーちゃん!」
ぱちりと瞬きを一つ。
霞がかっていた視界が開け、白い色が視界に飛び込んでくる。
染みも汚れも寄せ付けない、純白の翼。
「天使、さま?」
初めて会った日と同じく、ようやく絞り出せたのは酷く掠れた声だった。
赤い瞳をまん丸にした天使様は数秒間固まった後、がばりと後ろを振り返った。柔らかな羽が私の顔を優しくくすぐる。
「マリーちゃんが喋ったよ、棕櫚! カレーってすごいんだねぇ!?」
彼女の呼びかけに、他にも人がいたことを思い出して慌ててぎゅっと目を瞑った。
どうか、色までは見えていませんようにとひたすらに念じる。
だが、そんな心配は杞憂だと言わんばかりの、のんびりとした声が返された。
「カレーの威力じゃあないと思うんだよなぁ」
薄っすらと目を開けると、天使様の向こう、明るい部屋の方で頬杖をついてこちらを見ている和服の男性と目が合った。
もう一人、派手な赤いシャツを着た人は、こちらを見ながら優雅に茶を啜っている。服装とその所作が一見合わないが、何故か絵になる。
「今更なんだけどさぁ、空きっ腹に突然カレーじゃあ、胃にもたれるよねぇ。代わりに西瓜食べるか? ヒョーガさんが持ってきたの、今なら冷えてるし」
「西瓜! 食べる」
よね? と天使様が私に笑いかけ。
「わ、私、目の、色が……」
もごもごと言い訳すれば、「いろぉ?」と彼女は私の目を覗き込む。
恥ずかしい。隠れてしまいたい。
それ以上に、彼女に罵られるのが怖い。
目を伏せようとしたその時、天使様の笑顔が輝いた。
「きらきらしてて、すっごく綺麗な色してるよね! 私、マリーちゃんの目の色大好きだよ」
紅玉のように煌めくその色を、私は決して忘れないだろう。
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