11.アフェリオットの宝石


「私にとっては、先代のアウロース=ファザナーは良い兄だった。いつも穏やかで優しいが芯の通った人で、気遣いのできる良い人だった。私の姉、つまり彼の妻のロクサネは、大変我が儘娘だったが、そんな彼女を受け入れられるほどの度量のある男だった」

 ジェアバードは目を細めて言った。

「ファザナー家はそれまでも、ジートリュー家の傍流との婚姻関係があった。そうこうしている内に、ファザナーの家も力が強くなっていた。水上戦力に欠けていたジートリュー本家としては、その娘との政略結婚の話も、当然発生するものだった。義兄アウロースは、ファザナー家の次男で家を飛び出したのだが呼び戻される形で当主になったもの。当初から彼の評価は一族でも真っ二つに分かれていた」

 ジェアバードはため息をつく。

「ファザナー家が、我が一族の姻族となり一門に加わったのは、元が海賊まがいの出だということを隠す為だ。それが現当主がかつて何をしていたのかわかれば、どう言われるか。それでも、まだ彼がいる時は、彼の力で抑えられていた」

「それはそうだろ。穏やかだったかどうかしらないが、本性滅茶苦茶怖い奴じゃねえか」

 ハダートは半ばあきれた様子だったが、ジェアバードはまじめに続ける。

「しかし、嵐の夜、彼が忽然と失踪してしまった。本当の理由はわからない。ただ、突然いなくなったのだ。噂であらゆることをささやかれた。当然、悪い噂だった。当主を誰にするかも危うかったが、その時に表舞台に出たのは私の姉のロクサネだ」

「ねーちゃんの力で、アイードが成人するまで結論を保留にしたんだっけ?」

「そうだ。姉上は主筋に当たるジートリュー一門の、本家の姫だ。その言葉は簡単には逆らえない。しかし、姉上は、てんで子育てに向いていなくてな……」

 とジェアバードは、深々とため息をついた。

「私の姉上、ロクサネはお前も知っての通り、少し奔放なところがあってな。それに、姫として育てられてきて、若くして嫁に行ったのもあり、花嫁修行などしてもいないし、そんなものだから彼女に

子育てという概念すらなかった。あれは私と姉上の侍女が親代わりになって育てたようなものだ」

「ねえさんの侍女って、お前のお嫁様だっけ?」

 ハダートは、家族ぐるみで付き合いのある、親友の妻を思い出す。才色兼備でどうやら武芸の心得もあるという。物静かで感情をあらわにしないが、謎の迫力があり、実のところハダートでも怖い女だ。本人に自覚があるかどうかは知らないが、ハダートに言わせれば、ジェアバードは恐妻家の部類である。

(そういや、二人でアイードの子育てしてて意気投合したのはいいけど、彼女が解放奴隷出身だったのもあって、駆け落ち寸前まで行ったんだっけ?)

 ハダートは昔の記憶を思い出して唸った。

「そうだ。妻は知っての通り、躾は厳しい方だ。少年時代のあれはとても聞き分けの良いいい子だったと記憶している」

「今だって、聞き分け自体はいいからな。適当にかわしてる感じもするが、なるほど、何気に危機回避能力自体は優れてんなとは思ってたんだよ。でも、いいことじゃないか」

 ハダートは背を伸ばす。

「お陰であいつは将軍やれてるんだろ。空気をよく読める奴だよ」

「何事にも加減がある。かつてのあれは良い子すぎた。期待に応えようと思ってか、いくつもの外国語を熱心に習得しようとしたり、剣術の稽古をまじめにつとめたり」

 ジェアバードは目を細めた。

「過剰にそんな風につとめたところでいつか限界が来る。三白眼の”あれ”もそうだったように、私の甥も同じことだ。しかし、我々は彼と年の差が近すぎた。私も妻もまだ未熟で、到底あれの親の代わりにはなれなかった」

 ジェアバードはため息をついた。

「私と妻では足りなかったのだ」



 *


 緩やかに風がふきこみ、赤く染まる風景をかすかに揺らせているようだった。

 赤い光線が水面にさしこみ、きらきらと輝く。

「アフェリオットの母上はお姫様でねぇ」

 つとにアイードがそんな風につぶやいた。

「家事なんてとてもじゃないができない。社交界で遊んでる方が好きな女だった。でも、根は悪い女じゃあないんだよ。社交界だって遊んでばかりでなくて政治的な交渉もしてたらしいから。毅然としてるし、さっぱりしてるし、度胸はあるし、政治家としても結構有能で、顔はイイし、要するにいい女だよ。でも母ではなかった」

 アイードはかすかに苦笑いする。

「まあしょうがねえよ。子供だったんだ。幼妻ってやつだったから。アフェリオットの親父の方は、物心がつくかつかないかというぐらいに、失踪していてな。そんなんだから、やつを育てたのは屋敷の使用人達。そして、教育してくれたのは、母上の弟にあたる十ほど離れた叔父さんと母の侍女の”先生”だった。その当時はまだその二人も子供の部類だったんだろうけど、どっちも躾が厳しくってねえ。でもまあ、アフェリオットもそんなに悪い子でもなかったから、まあまあうまいことやってた」

 アイードは、他人事のように語る。

「アフェリオットってのは、親父がつけた名前だ。親父も東風の名前を持っていたが、子供には特に恵みをもたらす東風の神の名前から取ったらしい。でも、親父の家と母の家じゃ格式に差があった。そもそももとから政略結婚で、親父の一存では名前すら決められねえのよ。結局、母上の実家の連中の思惑が勝って別の名前がついている。そりゃ、本名のなげえ名前の一部には入ってるんだが、この名前でそいつを呼ぶのは身内でも数えるほどだ。そんなアフェリオットには、親父の記憶はほとんどない。僅かながら面影だけは覚えているが、優しい印象だったらしい」

「アフェリオットは、父親のことをどう思っていたんだ?」

 ゼダが尋ねると、アイードはくすりと笑う。

「世界一イイ男だと思っていた」

「どうしてだ?」

「爺やをはじめ、使用人達は旦那様は立派な男だ、と言って彼を育てたからさ。だから、アフェリオットは、疑いもしなかった。自分の親父こそが、当代一の海の雄だとね。ご自分も強くなられませ、お父上のように。そんな風に理由作られて、嫌な剣術の練習にも精を出していた。母上にも気にかけてもらいたかったし、叔父や侍女の先生にも喜んでもらいたかった。父親は船乗りで、色んな言葉を話せたときいたから、背伸びして外国語も勉強したりしてな。そこそこ成績は良かったんだぜ。アフェリオットは天才肌じゃないんで、そりゃ、努力はしたけどな」

 アイードは、少し視線を下に向けた。

「しかし、いくつになったころかな。叔父さんはその日は仕事でいなくって、侍女の先生もたまたま留守だったよ。どうやらその日は屋敷で親戚同士の会合があったらしい。母上はそれが嫌で、綺麗に着飾って交渉だと言って社交界に出て行った。アフェリオットにも、部屋から出るなときつくお達したがあったんだけども、なんでかねえ、たまたま外に出てしまって、連中に捕まってしまった。その時、彼らは、アフェリオットのその髪の色ばかりを褒めそやしたよ」

「髪の色?」

 ゼダが小首を傾げる。

「彼が母上から受け継いだのは、その髪の色だけだったから。褒められるのがそこしかなかったんだよ」

 ゼダは、ひらめくアイードの赤い髪を凝視した。

「母上は主筋に当たる本家の姫、その一族の特色の髪をアフェリオットは受け継いでいた。それは一族に高貴な血筋を得たことと同意だった。しかし、アフェリオットはな、本当は親父の方に似ていたのさ。顔だけでなく覇気のないおとなしい性格も、とても活発で強気な母と似ても似つかない。つまり、褒めるところがそこしかなかった」

 アイードが少し皮肉っぽい表情になる。

「でも、そのころ、まだやつは信じていたから。だから、何故英雄の父上に似ている自分なのに、誰も褒めてくれないのだと疑問に思っていた」

 アイードは薄く笑った。

「その時、一人がついに言った。『何故、この子は、あの男に似てしまったのだろう。かわいそうに』ってな。『せっかくの尊い血が、あの男のせいで汚れてしまう』『兄上様さえ生きていれば、あんなならず者を当主にすることもなかった。お姫様は兄上様に娶せるはずだったのに』。餓鬼の彼には、意味がよくわからなかった。慌てて爺やに外に連れ出されたが、アフェリオットは馬鹿なやつだったからさあ。爺やの目を盗んで、話の続きを聞きに言ってしまった。馬鹿だねぇ、ロクな話なんかないのにな。そこで奴が聞いたのは、失踪した親父が、嵐の夜に仲間の船を助けに行ったのではなく、もともとつるんでいた悪い連中と一緒に他の女の元に走ったって話だった」

 アイードは感慨もなさそうな口調で言った。

「その日、アフェリオットの英雄だったものは消えた。そして、自分が実際は歓迎されてもいない存在だったってことを知ったのさあ」

 ゼダは黙り込んで、彼を見上げている。傷の引き連れがあるのか、アイードは右目だけ少し細めた。

「それでも、やつは真面目だったから……。剣術をしっかり覚えて強くなれば、たくさん勉強して、いろんな国の言葉を話せるようになって、そうやって才能さえ認められれば、彼らを見返すこともできる。そう思ってた。だけどなぁー、実際そんなにうまくいかねえんだよな。ある時、ぷっつんと気持ちがキレちまってよ……」

 アイードは空を仰ぐようにそう言って、ふとゼダの方に視線を戻す。

「お前なら、ムカついた時はなんで発散した?」

「えっ?」

「色んな発散方法があるよな。酒に女に博打。お前はそのどの方法もうまくいきそうだ。手っ取り早く、胸の内のドロついた気持ちをはらいのけるためには、破滅的な方法が一番だ。自己嫌悪って副作用も酷いけどな」

 アイードは剣呑な空気を漂わせつつ、唇を歪めた。

「だけど、アフェリオットは餓鬼だったからなー。残念ながら、そのどれもが魅力的でなかった。だったら、やつが選んだのは一体何だったと思う?」

 ゼダは思わず気おされて黙っている。アイードは、いっそのこと邪悪に微笑んでいった。

「暴力だよ」

 ゼダの顔をみやりながら彼は続ける。その瞳に、彼の感情の色は映らない。

「叩きのめした相手が、ガクガク震えて畏怖を浮かべて見上げる視線がな、やつにはたまらなく良かったのさ」


 *



「すっかり日が暮れちまったな」

 庭園から戻る石畳の道が茜色に染まる。それをゆっくりと歩きながら、リーフィは少し不思議な気持ちになっていた。

 それはもちろん、隣にいる男の要素の影響が多い。

 芸術家というには程遠そうな、崩れた雰囲気の貴族らしいその男が、先王の義理の弟のギライヴァー=エーヴィル殿下だとは、もちろんリーフィは知らぬことだが、彼が普通の貴族とは異彩を放っているのも確かだった。不逞貴族らしい言動であるのだが、彼の気品はそんじょそこらの血統だけはいい貴族では出せないものだ。明らかに普通の生まれではないことを示している。

 そして、画材などを自分で運びながら、リーフィに微笑みかける彼はその気配とは裏腹にあくまで紳士的で、先程までの態度からも特に下心のようなものは感じられない。

 初対面の人物ではあるものの、かわすのはあくまで穏やかな日常会話。リーフィにしても一緒にいて居心地のいい人物には違いなかった。

「ここで大丈夫だわ」

 今日はアイードの別荘に向かう必要がある。送っていくという彼にリーフィはそう申し出た。

 高級住宅街の出口に近い場所だった。

「そうか。気をつけて帰るんだぜ」

 ギライヴァーは特に引き留める様子はなく、頷いた。

「今日はいきなり随分と時間を引っ張っちまって悪かったな。もっと早く帰ってもらおうと思ってたんだが、つい興がのっちまって」

「いいえ」

 リーフィはかすかに笑い、首を振る。

「私なんかを描いていただけて、とても嬉しいわ。失礼な感想だけれど、あんなに素敵に描いていただけるとは思っていなかったの」

「まあそうだろうさ」

 ギライヴァーは苦笑する。

「いきなり呼び止めて描かせてくれって、ただのヤバイ奴だからな。まあでも良い出来だろう?」

 彼は肩にかけた紐を軽くゆすり上げる。

「本当に。素描だけで、あんなに素敵になるものなのね」

「はは、それは嬉しいな。素材のお前がいいからさ。しかし、色がつくともっと良くなるぜ?

 ギライヴァー=エーヴィルは相好を崩す。

「久しぶりに描いてみたんだが、笑われないみたいでよかったぜ」

「笑うなんて……。私も絵を描く方は知っているけれど、ギル様みたいに凄い方は初めてよ」

「それは、お世辞でも嬉しいな」

 ギライヴァーは、世辞などというけれど、リーフィとしても別にお世辞を言ったつもりはなかった。リーフィは、将棋や文章の師匠としてあのファリド=バラズと親しくしているが、彼を通して文化人の知り合いは多い。その中で絵画を趣味にしているものもいたのだが、隣にいる貴人らしい男は明らかに彼らより上の腕前だった。しかも、それは伝統的な絵画手法でなくて、おそらく異国の写実的な手法を学んでいる。

 今日は素描だけだったけれど、それでも彼の実力はよくわかる。

(一体、この人なにものなんだろう?)

 リーフィには率直にそんな感想が思い浮かんだが、それを尋ねたところで返答はないだろう。

「さっきもいったが、実は筆をとったのは久しぶりなんだ。俺はここんところ、どうしても絵が描けなかったんだが、今日は描けたのはお前っていう素材がいいからなんだ。俺もこれは世辞ではないんだぜ。今日はずいぶんと満足のいく仕事ができた」

 彼はそういうと、リーフィの方に向き直り、人好きのするような笑みを浮かべた。

「わがままついでに聞いて欲しいんだが、お前さえ良ければ、また手伝ってくれないか。完成させたいし、見てもらいたいし、礼もしたい」

「お礼なんて大丈夫だわ。けれど、絵の完成は見てみたいわね」

 リーフィがそう正直にいうと、彼はにっと笑う。得体のしれない男ではあるものの、当面の危険はなさそうではあるし、彼という人物にもリーフィは興味はある。ここで関係を断つのも惜しい気がした。

「それは良かった。俺はあそこにいたりいなかったりだが」

 と、彼は例の建物の方を指し示し、

「誰かはいるから、手紙なりなんなり言伝けてもらえばいいぜ」

「私はカタスレニア地区の酒場につとめているけれど、ギル様には縁のないところかしらね」

「ああ、あそこか。縁がないわけじゃないんだが、直接いったことはないな。噂には聞いているぜ。いい飲み屋が多いってさ。教えてくれれば店はわかると思うぜ」

「それは良かった。それなら……」

 と、リーフィが店の名前と場所を告げると、彼は頷いた。

「わかった。何か俺が連絡したくなったら、そこになんかしらの便りを送るようにするぜ」

 ギライヴァーは、笑顔を浮かべた。

「今日はお前のおかげで楽しかったぜ。それじゃあ、暗くなるから気をつけて帰るんだぜ」

「ありがとう。ギル様。それでは、また」

 リーフィが会釈すると、ギライヴァー=エーヴィルは右手を軽くあげて手を振った。

 茜色に染まった街を歩いていくリーフィの背中を見送りながら、ギライヴァー=エーヴィルは彼らしくもなく感傷的にため息をつく。

「やっぱり、あいつには勿体ないいい女だったなあ」

 ぽつりと小声で呟きながら、彼は角を曲がって見えなくなったリーフィの方をまだぼんやりと見ている。

「今日は、ひさびさにいい絵が描けたぜ。何故かな、中庭でお前を描いていたころのことを思い出したよ、ライラ」

 そんなことを呟きつつ、彼は目を細めた。

「ああいう娘には、幸せになってもらいてえよなあ」

 夕暮れの街は静かだ。他に人気もない。

 道の中に、自分だけがぽつんと一人……、の筈だったが、ふと彼は背後の方を睨むようにして言った。

「で、いつまで着いてくるつもりだ、てめえ」

 低い声でそういうと、建物の影がゆらりとうごめいて、流れるようにだれかが現れる。中性的な気配を漂わせ、その男はくすくすと笑う。

「殿下、いつから私にお気づきでしたか?」

「いつから? テメエんとこのイヌが俺のことずっと尾行してやがったろ? 悪いが、お前みたいな変態下衆のやることは、大体お見通しなのさ」

 ギライヴァー=エーヴィルは、唇を歪めて皮肉っぽく笑う。

「何せ、俺は経験が豊富なんでねぇ」

 リリエス=フォミカは、ふふふと妖しく笑う。

「それはそれはよくよく貴方様を見くびっておりました。いえ、珍しいご婦人とご一緒でしたのでね。つい……」

「女と一緒の時に、お前らの顔がちらつくだけで苛だたしいぜ。で、何の用だ。わざわざお前が出てきたのは、何か俺に用があるんだろう? 俺はわりぃけど、忙しい男なんだよ、荷物も重いしよ。用件は手短にききてえな」

「それでは、本題から入ります」

 リリエス=フォミカはくすくすと笑う。

「何故、"あれ"を持ち出したのです?」

「"あれ"? さて、知らないねえ」

 ギライヴァーはすっとぼけつつ、口の端をふるわせるように歪める。

「俺は頭悪いんでな。質問があるなら固有名詞で聞けや」

「ふふ、相変わらずですね」

 リリエスは、口を覆って笑う。

「私の”紅月の雫”のことです。解毒剤を貴方が持ち出したらしいことは、最初からわかっていましたよ」

「あー、それか。はは、そりゃあ、俺は恨み買うことが多いし、女も好きだからよ。うっかりお前等の手下のネーチャンと知らずに遊んでて、毒を盛られたらコワイだろ。と思って、お前ンとこの部下のカワイ子ちゃんをおだてまくってたら、ふらっと差し出してくれるじゃねーか。俺は手癖が悪いからさ。ちょっと頂戴したまで」

 ギライヴァーはにやつきながら、いけしゃあしゃあとそういってのける。

「しかし、エーリッヒに解毒剤をあげたのは貴方でしょう?」

「ああ、見物してたら、”うっかり”しててな、”手を滑らせた”んだよ」

 にっと彼は唇を歪める。

「たまたま、真下にあいつ等がいたから。それだけのことだ。惜しいことをした」

「それだけですか?」

 リリエスは静かに聞く。

「それだけのことよ。大体、あの黒いの、解毒剤なくてもどうせ死ななかったんだろ。丈夫いし、多少影響は残ったかもしれないが、お前だってそれはわかってるはずだぜ」

「エーリッヒのことはいいのですよ。殿下のおっしゃる通り、彼はあれくらいのことで死にはしなかったでしょう。私が懸念しているのは別のことなのです」

「別の?」

 リリエスは頷き、珍しくまじめな顔つきになる。

「殿下の目的は、エーリッヒを助けることではなく、あの解毒剤を調べることによって、私の毒がどのような毒であるのか、シャルル=ダ・フール側に示すことなのでしょう?」

 ギライヴァーはにやにやしながら黙っている。

「あの三白眼の男と、シャルル=ダ・フール陛下には深いつながりがある。彼の手に渡れば、必ず知られる。この毒が使われるときに、彼らは備えることができる」

「はっ」

 ギライヴァーは声を上げて嘲笑った。

「馬鹿馬鹿しい。なんで俺があいつらを助けなければならねーんだ? シャルル=ダ・フールは、確かに俺の義理の甥さ。だけどそれだけ。血のつながりもねえ。義理のあった兄貴は、どっかいっちまって生きているか死んでいるかもわからねえ。もはや、俺はアイツに何の義理もない。生きようが死のうがどうでもいいのにだぜ」

 ふっと彼は笑う。

「百歩譲って、俺が奴を守る理由があるとすれば、奴が狂って俺に害を与えないようにってことだけだな」

 リリエス=フォミカは、しばらく睨むように彼をみていたが、やがてふっと笑った。

「殿下は、噂と違ってつかみどころのない方ですねえ。実にしっかりとなさっている。貴方がカリシャ朝の地獄の中を生き延びてきた理由がわかるような気がします」

「何が? 噂通りの放蕩王族だろ。”運よく”生き延びただけのな」

「運も才能のうちでしょう? しかし、それなのに、貴方は実に不自然な行動をなさる」

 リリエスは細めていた目を開いた。

「調べたのですよね、殿下のことは。殿下の過去、そして、貴方がこの国が乱れている時に水面下でどう動いていたか」

「おお、そりゃあ悪趣味だな。俺の過去なんて弄っても何も出てこねえぞ。叩けば出るホコリなんざあ、女遊びぐらいだろうが」

「そうでしょうか」

 リリエスは首を振る。

「私はきいたことがあるのですよ。内乱の時も、先の暗殺未遂の時も、殿下の息のかかった者が必ずシャルル=ダ・フールの側にいたという話をね。特に暗殺未遂事件の時は、殿下はラゲイラ卿に協力していたはずなのに、何故か、シャルル=ダ・フール側の近衛兵や突撃した兵士の一部に貴方の密命を受けた者がいた」

「おやまぁ、そんな噂出回ってたっけか?」

 ギライヴァーは動揺した素振りもない。

「突撃に参加した後に、わざと行方をくらませた兵士がいた。彼らはシャルル=ダ・フール側の斥候達とつながっていたとも……」

「ははー、まさか俺が甥っ子が可愛いもんで、殺されねえように手を回していたとでも?」

 リリエスは黙ってにこにこ微笑んでいる。

「ほんっと、ばかばかしーな。第一、その話、ラゲイラの親父も知らねえはずだぞ?」

 ギライヴァーは、髪の毛をかきやりはがら薄ら笑いを浮かべた。

「計画知って、命だけは助けてやろうとしてた、"どこかの誰か"がやったことだろ。俺がやったって証拠なんかねーはずだわ」

 リリエスは黙って薄ら笑いを浮かべている。ギライヴァー=エーヴィルは、それを静かな見やりながら言った。

「俺がやったわけじゃねーけど、俺はそういうヘマはしねえしさ。まあでも、お前とは、もうちょっとこみいった話をしなければならねぇようだなァ」

 彼はそういうと、顎を軽くしゃくった。

「場所を変えようぜ。こんなトコ見られるのは趣味じゃねえんだ」

「ええ、それもそうですね」

 リリエスはそういって微笑する。ギライヴァー=エーヴィルはその返答を待たず、すでに背を向けて歩き始めていた。



 

*

 

「その夜は、一族の会合があった。ちょっと寒い晩だったな」

 あんなに不穏なことを口走った後なのに、不意にアイードは穏やかな彼に戻って、引き続き語った。

「母上は、案の定、着飾って外に出て行ったよ。連中と顔を合わせるのが嫌だったんだろう。叔父さんと先生はそのころには結婚していたかな。多分だから、あの二人は遠征かなんかに出かけてたんだと思う。とにかく、不在だったのは違いない。アフェリオットは母の言いつけ通りに部屋に引きこもっていたものの、さすがにそれなりの年齢になっていた。挨拶ぐらいしなくては、と思い直して顔を出すことにした」

 彼は少し俯く。

「隣の部屋までやってきて、挨拶の言葉を確認して入ろうと思った時、不意に話し声が聞こえた。話題は一体何だったと思う? それは、前にも増して親父にだけ似てきたアフェリオットの話さ。親父に似て臆病者だの、母上様に何故似なかったのかだの、あんなやつ、成人したところで当主が務まるはずもないとか、まあそういう話だ。やつもそれなりに少年といっていい歳になってきていた。血統的にはやつが当主になることで間違いなかったが、一族全員が納得していたわけではない。そんなことを噂されるのは今更珍しくもなかった。そもそも、アフェリオットがひっそりと日ごろ頑張っていたのは、そんな声を一蹴していつか跡継ぎとして認められたかったからだ。だが、その日は何故か、連中もしつこかった。やつがすぐに挨拶にいかなかったのも、多分いけなかったんだろうな。そこで出ていけば、多分すぐその話は終わったんだろうけれど」

 彼はため息をついた。

「でも、アフェリオットも限界だった。挨拶もしないで、自分の部屋に戻った。何とも言えない感情で胸がいっぱいになってしまって、慌てて平常心を保とうとした。やりかけの外国語の本を開いてみたが、そこに並んでいた文字がどうしても頭に入ってこなかった。無理やり筆を走らせて、文字を書きうつそうともしたけれど、今度は力が入りすぎてペン先を折ってしまった。別のペンを探そう。そう思って席を立ったはずが、何故かいつの間にか屋敷の出入り口に走り出していた。寒い夜だったけど、空には星がたくさん輝いていた。それに導かれるみたいに、そのまま屋敷の外へ出て行った」

 ゼダは彼を見上げた。相変わらず、アイード=ファザナーその人の感情は、読みづらいものだった。彼の海の色ににた瞳の目は、かすかな哀愁をたたえてはいたが、一方で拒絶感を漂わせてもいたのだ。それでも、彼の向こうで川面が揺れて煌めくのが瞳に映るのは、彼の過去の光景を思い出させるようだった。

「屋敷の外へ出て、どこにいったんだ?」

 ゼダはようやくそう尋ねた。

「そんなアテがあるはずもない。ただ、走りたいところに走っただけさ。その時の感情を、やつはどう表現するかな。何とも言えない、腹立たしくって悲しい感情さ。とにかく、そこにはいることができなかった。悔しくて涙を流しながら、そのどうしようもない焦げ付いた感情を、夜の寒さがしずめてくれることを祈ってた」

 アイードは一息つく。

「いつのまにか、運河近くの裏路地へとやってきていた。我に返ったのは、そこが治安の悪いところだったからだ。そりゃあ、屋敷から河岸の一帯は近いさ。たまに散歩もするし、お忍びで様子を見に行くこともよくあった。だけど、さすがにその裏路地に近づくことはなかったんだ、それまでは。昼間っから酔っ払った船乗りが多くてな、お坊ちゃんだったアフェリオットはおっかなくおもっていたもんだ」

「アフェリオットは、そこに入り込んだことを後悔していた?」

「もちろん。だけど、後悔先に立たずだ。昼間でも酔っ払いがいるくらいなんだから、夜はそりゃあわんさかいるさ。やつは慌ててそこから出ようとしたんだが、焦ったのがいけなかった。図体のでかい、いかにも質の悪い船乗りにぶつかっちまってな」

 アイードは顎をなでやった。

「アフェリオットはおとなしい奴だよ。もめ事も嫌いだし、普段なら金をばらまいてでも争いごとは避ける。でも、そのときは、さすがに気が立っていた。相手も凄んできたから、思わず腹が立ってな、謝らなかったのさ」

「喧嘩になったのか」

「そう」

 アイードは軽い口調でうなずいた。

「でも、アフェリオットは別にやるつもりはなかったのさ。その時点では。ただ、相手が先に手を出してきたもんだからなあ。応戦するつもりなくて、かわして逃げるつもりだった。だが、アフェリオットはまじめだったから」

 とアイードは口の端を歪めた。

「それまで、まじめに剣術のけいことかしてたもんだからさあ。日ごろの訓練がちょいと悪い方向に働いた。反射的に反撃したのがいけなかった。それが随分とイイところに入っちまってな」

 再び、彼は不穏な空気を漂わせ始めていた。欄干に背をもたせかけつつ、ほんの少し崩れた気配を見せながら彼は言う。

「わざとじゃない。反射的にやっただけだ。だが、足腰立たなくなるまでボコボコにした。応援がきたが、そいつらも含めてな」

 ふっと彼は笑う。

「そのときに、アフェリオットは生まれて初めて、不思議な感情を感じた。重くのしかかっていたあの感情を消し去るほどの強いものさ。やつの目の前には、縮こまってふるえている自分より年上の、図体もでかいような男たち。そいつらが自分に畏怖のまなざしを向けて、ふるえ上がっている。なんて”気持ちいいんだろうな”ってな」

 そう言い切って、彼はゼダを突き放すような冷たい目になった。

「実際、そりゃあたまんねえんだよ。だって、そいつらが恐怖しているのは、家柄とかそんなのじゃなくて、単にそいつ自身が怖いわけだろ? 強いって、たまらなくいいことだ。それから、アフェリオットはそれが病みつきになっちまってな。しばらく、お忍びで街に出ては、目についた生意気な奴らをひたすら叩きのめすのが快感になっていた。しばらくそうやって生きていた」

 ゼダが言葉を失っていると、彼は畳みかけるように言った。

「お前がやつにどんな風な希望を持っているのか、俺はしらねえよ。でも、やつはそういう男さ。自分より弱い奴ボコって優越感に浸りたいだけ。海に出て、派手にやらかしたのも全部そう。やつは暴力に溺れてただけの、しょうもねえ男だよ」

「ち、違う!」

「違わねえって」

 アイードは静かに、しかし重い口調でそれを否定する。

「全部それの延長さあ。ぶちのめした相手の視線が、あまりにも気持ちよかった。自分の出自も、自分の望まれていない存在も、家族のことも、全部吹き飛ばしてくれる。そんな視線が欲しかっただけだ」

 彼はゼダを抑え込むように低い声で言った。

「それをできるだけ綺麗に見せかけていただけだ。だから、元から宝石も英雄も存在しねえんだよ! あるのは、ただの泥だけのどこにでもあるような石ころだけだ!!」

 アイードは冷たく言い放つ。

「お前の英雄なんて、最初からいなかったんだ!」

 言い終えた瞬間、ゆらりとゼダが動いた。しかし、アイードは微動だにしなかった。

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