11.湯殿問答ー2
アイード=ファザナーという男は、シャーの知る限り、その傷の荒々しさがてんで似合わない男だった。
自分でも時々口にしているが、基本的に暴力沙汰は好きでなく、七部将間でもめ事が起こりそうになると慌てて仲裁に入るのはいつも彼だ。もっとも、カンビュナタス将軍がシャーと同年代の息子に代を譲るまでは彼が長く最年少だったので、そういう立場になってしまう部分もあったのかもしれないが。
いずれにせよ、彼の左頬に走る傷が彼という存在に対して、昔からちょっとした違和感を与えていた。
「戒めって、なんのさ?」
「そうですねえ」
シャーが尋ねると、アイードは傷跡をなぞりながら言った。
「まあ、色々な戒めですけれど、基本的に俺は暴力的なことは金輪際ごめんだって話です。俺は自分が甘い人間だって知っているのでですね、そーゆー場面本当苦手なんですよねえ。だから、そういう場面で力に任せて解決しようとすると、俺は必ず失敗する。そういうヤツなんです、俺は」
アイードは将軍にあるまじきことを平気で口にする。いっそのこと、あきれることすら忘れるぐらいに自然にだ。
「これは自分がいかに甘いかってことを、忘れないための戒めでもあるんですよ。だからこそ、俺は軽率には力で支配しようとは思いませんし、戦いの場に引き出されてもそういう戦い方はしないんです。それは今まで俺を何度も助けてきた。だから、俺は別に不名誉だとは思っちゃいないんです」
にっと歯を見せてアイードは唐突に軽く言った。
「それに、さっきも言った通り、ちょっとハクがつきますからね。カタギにみられないのは困りもんですが、俺は何かと舐められやすいほうなんで。まあー、ヒゲだってそれで生やしてるってことですし。それに、第一、似合うでしょ? やっぱ、男の顔の傷は勲章なんですよ」
「へえ。そっか」
興味深げに話を聞いていたシャーは不意に目を細めて、で、と続ける。
「今、結構いい話したけど、結局由来についてちっとも語ってないね。カワウソ兄さん? ごまかしてるだろ?」
「は、ははー、
そのままけむに巻こうとしていたのかアイードは笑いを引きつらせつつ、
「いやね、ぶっちゃけるとマジで大した話じゃなくってですね」
「もったいぶらずに言えって」
「いやその、実は……」
アイードはそっと恥ずかしそうにしつつ、小声でぼそりといった。
「剣術の練習試合の時に、相手舐めてたらバッサリやられただけッス」
「は?」
シャーはあっけにとられた。
「ええ? マジで?」
「マジですって」
「どっかの道端で喧嘩してきたとかそういうのでもないの?」
「喧嘩だなんて。俺が暴力反対なの、お坊ちゃん良くご存じでしょ? いやあ、まさか練習だっていうのにあんな本気で来られるとか思わなくって……」
「マジで? またごまかそうとかしてない? もっと危ない話あるんでしょ?」
「ご、ご冗談を。まさか、道端でチンピラと喧嘩したとかいう武勇伝なんて、俺にはないですよ。
「一言余計だ」
睨み付けつつシャーは、ため息をついた。
「ちえっ、期待して損した。ちょっとは面白い話でも聞けるかなと思ったのにさ」
「俺みたいな平凡な男捕まえて面白い話とか。俺は、七部将の中でもいっちばんフツーで平凡でしょ?」
「それはどうだか知らないけど、まあそうかもね。確かに、アンタが一番ただのお坊ちゃんって感じだもん」
シャーは思い立ったようにざばりと湯から上がる。
「あれ? もう上がるので?」
アイードはふとにやりとする。
「別にのぼせたわけじゃないぜ、アンタの無駄な話聞いてるのが面倒になったんだ」
そんなことを言いながら、シャーの顔はやや赤い。強がっているのを確信しながら、アイードはへらへらと続ける。
「それは申し訳ございませんです」
「あと、他の客もちらほら増えてきたみたいだし、そろそろ情報収集しなきゃなって思っただけ」
ついつい言い訳のように付け足してしまうシャーだ。
「それもそうですね。でも、せっかくのいい湯なのに、もったいないんで、俺はもうちょっとゆっくりさせていただきますよ。”三白眼のお坊ちゃん”」
何となくどちらが長湯できるか勝負していたような二人だが、シャーは敗北を認めるのが嫌なのでそ知らぬふりをしている。アイードはそれをわかっていて、そんな風に煽ってみるものだから、シャーが思わずきっとにらみつけて向こう側へと歩いていった。
シャーが言った通り、少しずつ他の客がちらほらと現れてはじめているようで、湯煙の向こうに人影が見えていた。
ようやくシャーが視界から消えてから、アイードはやれやれとため息をついて湯から半身をあげた。
「ったく、相も変わらず、強情っぱりで根性の悪い男だなア」
アイードは火照った体を冷やすように、手であおぎながらため息をついた。シャーの手前意地を張ったが、アイードもそろそろのぼせてきていたのだ。
「長湯苦手なくせに。まったく、何に対しても素直じゃねえし、相変わらず自己評価低いんだからさあ」
ぼそっといって、アイードは湯煙の向こうの彼をちらりと見た。どうやら向こうで客に話しかけている気配がする。
「ふん、アンタの周りの連中は、結局アンタにひきよせられてあそこに溜まってるのさ。リーフィちゃんにしたってそうだよ。アンタだって彼女に惹かれてるのかもしれないが、それだけじゃあ今までの女の子と一緒だよ。うまくいってんのは、彼女がアンタに引き寄せられているからこそさ。だから、彼女は逃げていかないんだ。それでその周りが溜まり場になってるなら、アンタが引き寄せた縁なんだよ、あの厄介な連中はさ」
アイードは髪の毛をかきやりながらため息をついた。
「なのに、なんでわかんねえかねえ。全く、変なとこで不器用なんだからな。うちの"
いつの間にか、アイードの入っている湯舟に、男が一人現れていた。他の客は向こうの蒸し風呂の方だ。
アイードは視線を彼にはうつさなかったが、ふと笑いかけていった。
「待たせたね、おやっさん。なかなかあのボーヤが話切ってくれなくてさ」
そこにいるのはあまり人相の良くない年嵩の男だ。彼は周囲を少し伺った後、アイードに心持ち近づき声をかけた。
「旦那、今は声をかけてもよろしいので」
「いいよ。ここまで離れりゃ、あのボーヤがいかに地獄耳でも聞こえないだろうからね」
アイードはそう答えて、浴槽のヘリに腰かけた。
「旦那の探してた男は、確かにこの昼に見かけましたよ。顔見知りに、若い娘が行くような場所を知らないかと尋ねていました」
「若い娘が行くような場所っていうと、ああ、あの通りかな」
「ええ、そんな話をしておりましたよ」
「それじゃ、今日はそこで日暮れまで待ってるんだろう。今日がダメなら明日も朝から待ってるだろうなあ」
アイードは顎を撫でやりながらそう呟く。
「できれば引き留めておいてもよかったんですが、どうもなかなか危険な雰囲気の男だったという報告でして……」
「それもそうだ。いいよ。面識のない奴が声をかけても、逃げられるか下手したら刃傷沙汰になるからさ。俺達が直接会って話せば、何とか解決するって。ありがとう」
アイードは男に笑いかける。
「この周辺はアンタの縄張りだもんな。あらかじめ聞いててよかったよ」
「ファザナーのお坊ちゃんに頼まれれば断れませんよ。あぶねえところを何度も助けていただいてますからねえ」
しかし、と男は眉根を寄せた。
「あんまり深入りしねえほうがいいんじゃないですかい? 今日、ここに来るまでに旦那とあの小僧の後を遠巻きに尾行してるやつがいたんでさ。俺たちが妨害すると、さっと引いてきましたけどね。しかし、動きがただものじゃねえんで」
ふむ、とアイードはため息をつく。
「その話はなんとなく聞いてるよ。直接は絡んでないけど、
「ええ」
それに、と男は眉根を寄せた。
「例のアーノンキアスの野郎が港に入ってるのもみやしたよ。あの野郎も油断のならねえ奴です。あいつらが傭兵を連れてきているのをみやしたが、実はそれ以前から人員を運んでいる形跡がある……」
「ああ。今回ダルドロスとアーノンキアスが運んできた傭兵達は、おそらく誰かを殺害するために女狐が呼び寄せた連中。流石に女狐が連続で世間騒がすと首がヤバイってんで、今回は外注に出したってことね。で、そいつらが入り込んできたらしい。でも、アーノンキアスが以前から運びこんだ人間は、女狐じゃなくてむしろラゲイラ卿の命令で手配されてきた奴等っぽい。多分、王都が手薄になるこの機会を見越してね。しかし、謎のエルリークとかいう総司令が設置されたもので、様子を見ている」
アイードは苦笑した。
「いや、あのタヌキ親父、さすがだな。手筈整えるのが早いのなんの。いや、前々から少しずつ用意してたんだろうけど。もう俺が警戒する前に随分と運び込まれてるみたいでさ。笑い事じゃねえよなあ。あー、これ、”
アイードはため息を深々とつき、それからふと男を見やった。
「そんじゃ、おやっさん。また何かあったら教えて。よろしくね」
「わかりやした。しかし、……帰り道大丈夫ですかい? そろそろ暗くなりますよ」
「ああ、尾行してきた奴等の件か? まだいそうかい?」
「ええ、俺達がいなければ寄ってくるでしょうよ。……護衛でもつけやしょうか?」
「ん? いや、いいよ。それやると、流石にあのボーヤが気づく。今の距離が気づかねえギリギリだし」
アイードはにやりとする。
「いやあ、実は、結構厄介な奴でね。素直に守られてくれるような奴じゃないから、守るこっちが大変なんだ。要は真綿で首を絞める……じゃなくて、真綿で包み込む感じにやさしーくさりげなくやらないとね。バレると突飛な行動して、こっちの予定狂っちまう。これは
それにさ、とアイードは付け加えた。
「ちょっと襲われたぐらいでどうにかなるような男でもないからね、あのボーヤ。大体、それぐらいのしぶとさがなきゃあ、
アイードはそういうと、少し普段の彼らしくない剣呑な笑みをそっと口の端に浮かべた。
「まあなんとかなるってさ」
*
「隊長は、字が綺麗だよね」
不意にそんなことを尋ねられたことがあった。彼女に字を教えてあげていた時のことだ。
ザファルバーンの王都ならともかく、僻地に行けば当然識字率も下がる。ましてや、彼女のような身の上なら、文字の読み書きを習う機会はごく少ない。
彼は彼女に読み書き計算を身に着けるように強く勧めた。彼女は剣術を覚えることには積極的だったが、勉強をするのはあまり気がのらない様子だった。
「だって、そんな役に立つようなお仕事につきそうもないし。あたし、元から頭悪いし。前にいたお屋敷の奥様も女は文字なんて読めなくてもいいって……」
「そんなことはないぞ。これからの時代、教養は大切だ。もちろん、お前のような女子にとってもだ。そもそも、俺は婦女子に教育が不要などという考えには反対なのだが、まあこれはお前に言ったところで詮無いことだが」
そんなことをいって、彼は仕事の合間に彼女の勉強を見るようになっていた。時々疲れて眠たいこともあったが、彼は根気よく付き合った。
そんな時に無邪気に彼女は、そんなことをいったものだ。
「そうか?」
「うん。すごく上手だと思うよ、隊長の字。あたし、字の読み書き苦手だけど、綺麗かどうかはわかるよ? でも、珍しいなあ。隊長、どこか違う国の人なのに、どうしてここの文字がそんなに綺麗に書けるの?」
「そういわれれば、かなり練習はしたな」
彼は少し考えてから答えた。
「文法なども結構難しく、言葉を覚えるのが大変だった」
「へえ、隊長は流石に努力家ねえ!」
彼女は素直に彼を褒めたたえて見上げる。その視線はあまりにも無垢で、彼は少し恥ずかしくなってしまうほどだった。
「ま、まあ、俺のことはいいとして。さて、お前の名前のメイシア=ローゼマリーから書いてみよう。この手本を見て、しっかりまねてかくといいぞ」
軽く咳ばらいをして話を進めると、彼女は少しいたずらっぽくにっとわらった。
「それじゃ、あたしも頑張るから、うまくできたら隊長からご褒美が欲しいな」
「褒美? なんだ菓子か、それとも新しい髪飾りでも欲しいのか?」
「ううん、そうじゃなくってね」
メイシアは小首をかしげて笑った。
「隊長、あたしにたくさん手紙書いて? そうすれば勉強にもなるし」
「手紙、というと……。まあ、手紙を読むことで勉強したいというのなら、俺は協力するがな……」
急にそんなことをいわれて、彼が片眉をひそめると彼女は屈託なく微笑む。
「そ、お手紙。それにね、宛名には隊長の国の言葉であたしの名前を書いておいてほしいな。ご褒美は、お手紙というか、本当はそっちかなって」
「何?」
意味がわからずにきょとんとすると、メイシアはくすりと彼の無骨さを笑う。
「隊長わかってないなあ。もし、隊長からお手紙が来るとするでしょ? その時、私と隊長のお名前が隊長の国の言葉で書かれていたら、それが絶対隊長のものだってわかるじゃないの」
「そ、そうか。まあ、そうかもしれないが」
筆跡を見ればわかるのではないだろうか。彼はそんな合理的なことを考えてしまう。しかし、どうもそういうことではないのだろう。彼には理解の出来ない部分だが、メイシアはとても嬉しそうにしていた。
「そうだよ。あたしと隊長の秘密の暗号みたいなものになるじゃない」
「暗号か。そ、そうだろうか……」
だからね、とメイシアはつづけた。
「うまく書けたら、隊長は明日お仕事に行くまでにあたしに秘密のお手紙を書いて。で、ね、あと、出来たら差出人はね……」
そういうと、メイシアは悪戯っぽく微笑んで、そっと彼に何かを告げた。
*
「かけました? お手紙」
女に声をかけられ、ジャッキールははっと顔をあげた。
顔をあげると、先ほど彼をここに案内した少女がにっこりと微笑んでいる。
「あら、これ、異国の字?」
白紙の上には、彼が先ほどしたためた文字が書かれてあった。
「ああ、……まあそういうものだ」
”親愛なるメイシア=ローゼマリー”。
そのような書き出しだが、目の前の少女には読めないのだろう。
そのほかの文字は、彼女にもわかる言葉でつづられていたが、最初の宛名と最後の名前は異国の文字。
確かにあの時メイシアが言ったように、彼と彼女だけがわかる暗号のようなものだ。
ジャッキールは顔をあげて彼女を見やる。アーコニアと名乗った少女は、メイシアとさほど年が変わらなかった。
アーコニアと名乗ったその娘に、ジャッキールが連れられてきたのは小さな喫茶店だった。客は彼らのほかに数名がいたが、談笑していてこちらに気を留める風もなかった。
「俺のことは彼女から聞いていたのかな?」
ジャッキールがそう尋ねると、アーコニアは頷いた。
「ええ。とても優しい人だったと聞いています。ふふ、それにとっても美男子だって。ふふ、メイシアに聞いた通りですわ。とても綺麗なお顔をしていらっしゃる……」
ジャッキールはそれには直接答えずに、差し出された飲み物を口にする。冷めてしまった珈琲は、先ほど手紙の文面を書く間にほとんど飲んでしまっていた。底に溜まった液体はとても甘ったるい。この珈琲には敢えて最初から甘いシロップが淹れられていた。
「隊長さんは甘いものが好きだってメイシアが言ってたので、入れさせていただきましたの」
アーコニアがそういう風に説明していたので、ジャッキールは納得した。確かにメイシアと茶会をするとき、自分は甘いシロップを人の倍はいれていた。恥ずかしいので他人にあまり話したことはないし、男たちの前では無理して苦い珈琲や茶を飲むこともよくあったぐらいだ。だから、それを知るこの少女は、確かにメイシアと面識があるのだろうと判別がついたのだ。
「しかし、随分と遅い時間なのだな。今夜の夜半とは……」
「いぶかしがるのも当然ですけれど、今、彼女も我々も目立つ時間に出歩くわけにはいかないんですの。私達、先日王都に来たばかりなんですけれど、今、王都は警備がとても厳しくって、それで彼女もあまり出歩けないんですよ。だから、あなたを探すこともできないんだって……」
アーコニアはそう告げた。ジャッキールは、アーコニアに静かに視線を向けた。
「それは、あまり質の良くない仕事をしているからではないのか?」
「ふふ、あなたに嘘はつけないですね。ええ。ちょっとしたわけのある仕事を引き受けているんですの」
目を細めて尋ねたジャッキールに、アーコニアはあっさりとそう認めてそう答えて微笑む。ジャッキールはため息を深くついた。
「やはりそうか……」
「でも、彼女がここに来たのは貴方を探すためですよ」
アーコニアはそう告げるが、ジャッキールは眉根をひそめた。
「しかし、そのために危険な仕事をうけたのだろう?」
「それなら、あなたがお話して止めることもできますわ」
アーコニアは静かに目を細める。ジャッキールは再び息をついて首を振った。
ここのところの行動で疲れているのか、呼吸が少し浅い気がする。額に手をやりつつ彼は言った。
「しかし、俺からの手紙で彼女が本当に来てくれるだろうか」
「あら、ご不安ですの。大丈夫ですわ」
アーコニアはくすりと笑って、自分の珈琲を啜る。
「彼女は今でもあなたが大好きなのですもの。それとも、恨まれているとでも思っていらっしゃるの」
「それに値するようなことはしているのでな……。俺は彼女を見捨てた。そう取られても仕方がない」
ジャッキールは寂しげに苦笑しながら、手紙に封をする。
「ふふふ、そんなことないのでは? あなたの直筆の手紙を見れば、彼女は間違いなく来ますわ。彼女が今関わっていることを止めさせたいのなら、あなたが直に話した方がいいですもの」
「そうであればよいのだが……」
ジャッキールは息をついて、手紙と買った髪飾りを一緒にしてアーコニアに手渡した。
「それでは、面倒をかけるようだが、こちらもそろえて彼女にお渡し願う」
「ええ、間違いなく渡しますわ。ふふ、可愛い髪飾りね。先ほど買われたの?」
「ああ、……以前はそういうものが好きだった」
ジャッキールは目を伏せてつぶやく。
「変わりないのなら……今もそうではないかと思ってな」
「ふふ」
アーコニアは、笑って手のひらで髪飾りを弄んでいる。
ひとしきりそれを眺める。年頃が近いせいか、メイシアが髪飾りを手にして喜ぶ姿が目に浮かぶような気がした。
「それでは、俺はこれで……」
と、ジャッキールは立ち上がろうとして、ふと違和感を覚えた。
目の前がやけに明るくちらちらする。先ほどから呼吸が浅くなっている気がしたが、明らかに呼吸が荒くなっていた。
(なんだ……)
疲れたのだろうか。動きを止めて、軽く胸に手を当てる。動悸が激しくなっていた。
「あら、どうなさいましたの」
「いや、少し動悸が……」
思わず壁に寄りかかりつつ、彼は胸に手を当てたまま深く息をついた。心臓が妙に早鐘を打つ。まるで走ってきたあとのように。
どうしたというのだろう。ここ三日、あわただしく動いていたせいで疲れたのだろうか。
「御加減が悪いのかしら」
アーコニアが妙に冷静に微笑んで尋ねた。
「い、いや……」
そう言いかけた時、アーコニアがくすりと唇をゆがめた。
「ほんっと、隊長さんってすっごく鈍感」
別人のような冷たい声で、彼女は嘲笑った。
「図体がでかいせいかしらね。効きが遅くて、こっちが焦ったわ」
一瞬で、室内が冷たくなった気がした。
ざっとジャッキールは壁側に身を寄せる。アーコニアの背後に数人の男たちがたたずんでいた。照明の火がちらつくだけで、気に障るほどにまぶしい。
明らかに体の自由が利かなくなっていた。全身が重く、目の前がまぶしい。
「き、貴様あッ、……俺に!!」
はあはあと息を荒げながら、ジャッキールは腰の剣に手をかけた。アーコニアは冷然とそこにたたずみ、嘲笑う。
「美味しかったでしょ? 特別に甘くしてあげてたの。そうじゃないと、味で気づかれると面倒だものね」
「い、一体、誰の、差しっ、がね……」
呂律がうまく回らず、さらに膝が崩れそうになり、ジャッキールは壁に肩をもたせかけて倒れるのを防ぐ。そんな彼をアーコニアは笑った。
「そんな体でどうするの? その薬、段々体が痺れてくるのも調合してるの。動けなくなるんだから。でも、鏡があったら見せてあげたいわねえ。まぶしいでしょう? 今の、お前の目、今死んだ魚みたい。瞳孔だらしなくひらいてて……」
「黙れ!」
ジャッキールがふらつきながら剣を抜く。慌ててアーコニアの背後にいた覆面の男が彼女を庇って後退させた。その場にあった机が真っ二つになって飛んだ。ジャッキールはそのまま倒れこんだが、まだ剣を手放していなかった。
「ふふ、もう諦めなさい。どうせすぐに動けなくなるんだもの」
アーコニアは彼の目の前に立ち、そして彼を見下ろした。先ほど避けた時に、アーコニアは床に髪飾りを落としていた。ジャッキールは自然とそちらに手を伸ばすが、がっとアーコニアの足がそれを踏みつぶす。ばき、とそれが砕け散る音がした。アーコニアはそれをそのまま踏みにじって笑う。
「大丈夫よ。ちゃんとメイシアには会わせてあげる。……お前が生きてるか死んでいるか、正気か狂気かわからないけれど、ちゃーんと会わせてあげるから、安心しなさい」
「っ、きさ……」
ジャッキールはすでに呂律が回らなくなっていた。ただ息がひたすら荒くなり、危うい感じの呼吸になる。
「ふふ、そのままリリエス様のところまで連れて行ってあげる」
「リリ、エス?」
彼がぼそりと呟く。指先ががくがくと震え始めていた。しかし。ふと、彼は顔をあげる。そして、そのままぎりっと彼らを睨み上げた。
嘲笑っていたアーコニアは、その視線に射られて思わずはっとした。その視線は、まるで獣の目だ。本能的な危機を感じてか、背筋にざっと悪寒が走った。
「ッ、お前っ、……!」
アーコニアが思わずひるんだ瞬間、ジャッキールは、がああっと雄たけびを上げながら強引に立ち上がった。
そのまま室内だというのにも関わらず、強引に剣をふるう。天井に引っかかると無理矢理に引き抜き、そのまま襲い掛かってくる。その瞳にはすでに理性が感じられない。ただ殺気を秘めた瞳が、壁の照明の火で赤くギラギラ輝くのみだ。
「何ですって……」
アーコニアが飛びのいた先の布切れを引きちぎりながら、彼は剣を振り回す。
殺す。
彼はすでに意味のある言葉を吐かなかったが、その瞳が物語っていた。
アーコニアは、思わずぞっとして立ち止まってしまう。
「ニア様、外へ!」
男たちがそういって彼女を誘導し、アーコニアは慌てて外に出た。
扉の外は寂しい路地裏だった。あたりには人気が全くなく、彼女たちの姿をみとめるものもいない。
路地に出たところで、彼女たちを追って、ふらつきながらジャッキールが現れる。相変わらず危うい呼吸をし、薬も効いているのだろう。足取りがおぼつかないが、闘争本能は失われていないようだった。
彼は彼女たちの人影を補足すると、低く唸り声をあげた。
男たちの一人が不用意にとびかかる。
しかし、それは即座にジャッキールに切り伏せられた。普段の彼ではありえない大振りの動きに、彼自身が振られていて大きくバランスを崩す。それを狙って襲ってきたもう一人の刺客の追撃に、しかしジャッキールは返す刀で応戦した。
「なんてこと! あんなに動けるわけないのに!」
アーコニアは信じられないと言いたげに首を振り、両腕を抱える。どう考えても自分たちが劣勢だった。あのまま暴れられてはなすすべがない。
(私まで殺される!)
と、その時、不意にジャッキールに向かって松明が投げつけられた。唐突に強い光を当てられたせいか、あからさまに彼は光を嫌って目を庇う。その隙に、長い布のようなものが彼の首にかかった。
「ははは」
ふとまだ少年めいたあどけない笑い声が響き、そのままジャッキールの背後にいたものが彼の首を絞めながら押さえつける。
「いけませんね、ニア」
ふと、宵闇の中から白い服を着た人物が現れた。相変わらず男とも女ともつかぬ中性的な雰囲気の彼女の主は、悠然とその殺伐とした場を歩いてくる。
「リ、リリエス様」
「ニア、油断したなあ。っと、おっと!」
ジャッキールの首を背後から絞めているのは、彼女と少し面影の似通った、褐色の肌をした白い服の青年だ。
「ネリューム」
「っと、うわ、滅茶苦茶力強いじゃん! ニア、本当に薬盛ったのかよ?」
ネリュームと呼ばれた青年は軽い口調でしゃべりながら、暴れるジャッキールの剣を避ける。そして、その首を絞める布を使って腕を拘束し、とうとう膝で地面に押さえつけた。そこに他の男たちがやってきて慌てて彼を制圧する。
「はは、薬食らってほとんど見えてないのに、これかよ!! へえ、見かけは単に陰気な二枚目って感じだけど、リリエス様が目をつけるだけあって弾けてるよなあ!」
ジャッキールはおさえこまれたことで、さらに暴れていたが、ネリュームと他の男たちが押さえつけているせいで身動きが封じられていた。
リリエスはそんな彼にしゃがみ込んで微笑みかける。
「これはお久しぶりでしたね、エーリッヒ。相変わらずの美貌の様子で安心しましたが、すぐキレるのも相変わらずのようですねえ。うふふ、本当に困りましたこと」
ちらりとリリエスはアーコニアの方に目を向ける。
「ニア、あなたもまだ未熟ですね。こんな薬、中途半端な量でこんな狂犬じみた男に投与してはいけませんよ。どうなるやらわかりませんからねえ」
「は、はい、すみません、リリエス様」
アーコニアがややしゅんとなりなるのを見やって、リリエスはくすりと笑い、正気を失ったまま唸り声をあげているジャッキールに目を戻した。
「さーて、エーリッヒ。貴方をどうするかですが……。押さえつけているとはいえ、狂暴な貴方をそのまま拉致できるとも考えてはいませんし……。すこーし、眠っていていただく必要がありそうですね。では……」
そういって、リリエスは懐から装飾された二枚貝を取り出した。
「新しいお薬を、試してみましょうか?」
ネリュームが心得たとばかり、強引にジャッキールの顎を引き上げる。リリエス=フォミカはゆったりと二枚貝を開いて、中の白い膏薬を左手の人差し指にねっとりと塗り付けると、右手で百合の花びらのようなものをぴっとりとジャッキールの口元に当てた。
「……うふふ、怖がることはありませんよ。エーリッヒ。……舌下に塗り付けると、飲むよりもすぐ効きます。たっぷりと塗り込んであげますよ。ローゼマリーと会う前に、いい夢が見られるのではないですか? あはは、楽しみにしていてください」
「ッ……」
その名前に、ジャッキールがかすかに反応する。
「ロー、……ゼ」
かすれた声でその名が唇から漏れた。リリエスは楽しそうに微笑むと、ネリュームに告げた。
「ネロ、始める前に猿轡でもかませておきなさい。正気に戻ったら舌を噛んで自決しかねませんからね、彼」
「はい、リリエス様」
ネリュームが余った布をもがくジャッキールの口に嵌めているのをみやりながら、リリエスはふうとため息をついた。
ふと、空を見上げると月が東の空に燦然と輝いていた。その月は真円を描き、ギラギラと冷たく不穏な光を宵闇の中に散らしている。
「ああ、今日の夜は楽しくなりそうですねえ、エーリッヒ」
その月は、狂気を呼び込むものだ。それを知っていながら、リリエスはうっとりとつぶやいた。
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