3.ローゼマリー


 目の前が真っ赤になっていた。


 頭の芯まで焼け付くように熱く、しかしそれが全く不快ではない。むしろ、意味が分からないのに愉快だった。

 どこからか聞こえる獣のような息遣いが、自分のものであると彼は認識できなかった。それほどまでに体が軽く、気分だけが高揚していた。

 目の端に飛び込んでくる黒い影を難なく斬り倒し、彼はまっすぐに進む。そこに何があるわけでもない。ただ、漠然と進み、立ちはだかるものを殺す。それだけのことだ。

 そして、その目の前に怯えた誰かがいた。剣を握っているが、その体格はまだ子供のようですらあった。頼りなげな人影は、当初は彼に敵意を向けていたが、今はただ彼の姿を茫然と見ているだけ。もはや彼を脅かす存在ではなかった。

(しかし、邪魔だ!)

 彼はただ単にそう思った。

「やめて!」

 進む道を邪魔するものは、排除しなければならない。ただ、それだけだった。

 高揚感にせかされるままに、彼は剣を握りしめる。

 いつもと同じように振り上げてただ下ろすだけ。たったそれだけのことだ。

 実に簡単、何のためらいもないこと、今の彼にとっては!

 そうしようとして、ふとその人影と自分の間に、さらにそれより小さな影が割り込んできた。

「ダメ! 隊長!」

 その大きな瞳が視界に入った。意志ばかりが強くて、まだ幼いその瞳。覚えがある。その、瞳の光に。

 彼はそう思いながら、しかし、動作を止められなかった。

 その時、彼女の声が突然耳を打った。

「隊長、ダメだよ! やめて!」

 ――ローゼ!

 彼は思わず目を見開いた。

 振り下ろす剣の切っ先が、その目の端で白くきらめいていた。



「逃げろ、ローゼ!」

 慌てて目を覚まして飛び起きる。空はまだ暗く、古い天井がぼんやりと見えていた。

 違う、ここは戦場ではない。あの時の、戦場ではない。

 彼はそう言い聞かせて、荒い息を落ち着かせようと、ため息をついた。

 夢の中の異常な興奮はすでに醒めていた。あれだけ赤かった世界は、今は暗く静かだ。朝の空気は冷たかったが、それでもぐっしょりと寝汗をかいていた。額の汗をぬぐいながら、彼はもう一度ため息をつく。

「ッ……!」

 不意に頭が痛んで、彼は額を抑えた。しばらくすれば痛みは和らぐが、それと同時にもたらされた心の痛みはすぐには晴れない。

「ローゼ……」

 その名をつぶやいたのは、いつぶりだっただろう。

 その名前は、甘いなつかしさと幾分かの苦みを彼にもたらしていた。その名を、忘れたつもりはなかったが、彼女の為にも思い出してはいけないような気がしていた。

 彼は立ち上がって、窓を開けた。朝の冷たい空気が、幾分か彼の気持ちを落ち着かせた。

 暗い空が徐々に明るくなり始めていた。どうやら、もうすぐ夜明けの時間だった。



 * *



「ローゼマリーというのはどうだろう」

 目の下にクマを作りつつ、寝不足の顔をして彼は言ったものだった。

 彼は名づけの本や名前に関する占いの本やらを買っていたが、昨夜はどうも夜なべしていた様子だった。

「色々名付けの本などを参考にしつつ、お前の希望に沿って名前を考えた。時間がかかってしまってすまない」

 メイシアが名前が欲しいとねだってからもう数日経っていた。彼は素直にそう謝った。

「しかし、とうとうピッタリなのを思いついた。ローゼマリーというのが、お前にふさわしいのでないかと思うのだ」



「あんたとあの人、どんな関係なんだい?」

 彼女を買い取ってから、その男は彼女を街に連れて行ってくれた。

 彼は何度か滞在したことがあるらしい顔なじみの宿屋の女性になにやら頼んで、必要な衣類をそろえてもらったり、風呂に連れて行ってもらって身を清めてもらった。髪を整えてもらいながら、宿屋の女将がいぶかしんで彼女と男の関係と問いかけたのだ。

「えっと、どんな関係って?」

 正直、メイシアには何と答えたものかよくわからなかったものだ。

「あたし、本当は奴隷で、あの人に買われたの。でも、あの人はあたしのご主人様にはならないって」

 と取り合えず答えてみた。それ以外の答えようもなかった。

「でも、あたし、しばらくあの人と一緒にいるの」

「そりゃあ、あの人は金払いもよくてちゃんとしてるし、悪い人じゃなさそうだけど、所詮、傭兵だからねえ。あいつらにろくな男はいやしないよ」

 女将と彼は顔見知り程度だったのだろう。そんなことを言った。

「だから、あんたも気を許しちゃいけないよ。後で変なところに売り飛ばす気かもしれない」

(そんなことを言われても。だったらどうすればいいのかな?)

 と、メイシアは思ったものだ。

 女将が言った通り、彼が争いのある所を転々としている傭兵であることはメイシアも薄々気づいていた。

 数日経てば、彼がその中でどういう立場にあるのかもわかってくる。彼は傭兵部隊の隊長を務めているらしく、部下から隊長と呼ばれていた。同業者から名が知られていて恐れられてもいて、彼らによるととにかく凄腕で頭が切れるのだが、時々戦場で見境がなくなってしまう危ない男だという。部下たちはメイシアにそんなことを吹き込んでは文句を言っていたが、彼を常に怯えていた。

「可哀そうにな。お前もさ。アイツは、本当キレると何しでかすかわからねえよ」

 そんな部下たちに、彼はあくまで真面目に厳格に対応していたが、時には横柄で高飛車な態度をとることもあった。そういう時は、メイシアの知る彼とは全く違って、ちょっと怖くなるほどだった。

 けれど、やはりメイシアの前では、彼は紳士的な男でしかなかった。第一、自分は彼に買われた身で、選択肢はない。

 それに、彼に悪い印象はさほどなかった。

 最初は、陰気で死神と間違えるほどだった彼だが、実際はきっちりとした言葉遣いでしゃべるし、その格式ばった挙動もおとぎ話できかされた事のある戦士みたいで好印象だった。子供のメイシアから見ても、役者張りの男前でもあるし、実際格好は良かったのだ。

「どれでもいいから、好きな服を買うといい。私は女の子の好みはわからないが、お前が好きなものを選んでいいのだぞ」

 精一杯、彼は優しい口調を心掛けていたものだ。その優しさは偽りではなさそうだった。

 メイシアも、今まであちらこちら転々としてきた。売られて買われてさらわれて、この間は殺されそうになった。だから、世の中の大人が無条件に信用できるとは思っていなかった。だから彼の優しさにも裏があってもおかしくないことは知っていた。

(でも、あたしにはどうせ行くところもないものね)

 彼に助けられなければ、あの時どうなっていたかわからない。そういう意味では、その黒服の傭兵が生殺与奪を握っているのは変わりない状況だった。だったら、別に、彼にすべてを託してしまってもいいような気がした。

 そんなわけで、メイシアは結局数日間彼と一緒に過ごした。

 数日後のメイシアは、以前とはすっかり見違えていた。きれいな服を着て、彼の後に続いて街を歩いたりした。きれいな噴水を見たり、市場で買い物をしてみたりもした。とても綺麗な髪飾りをじっと見ていたら、その男はそれを買ってくれたものだ。かわいらしい人形も買い与えてくれた。

 メイシアは、いつしか彼のことを”隊長”と呼ぶようになっていた。

 何のことはない、傭兵の彼が隊長と周りから呼ばれていたからだ。本当は、メイシアはあの気味の悪いリリエスが彼のことを呼んでいた妙な名前を呼びたかった。

「あなたをご主人様と呼ばないのなら、なんて呼べばいいのかしら?」

 そう尋ねられて彼は言う。

「ジャッキールで良いといった筈だが」

「もう一つ不思議な名前で呼ばれてたでしょ? なんだか違う名前で呼ばれていたのよね?」

「今はジャッキールで構わない。昔の名前だ。どちらも、本名でもないしな」

 彼はそういったのだが、メイシアは興味津々だった。

「ジャッキールっていうお名前は、このあたりでもたまに聞く名前よ。でも、える、りーひ? っていうの? あんまり聞いたことない」

「異国の名前だからな」

「あなたの国の言葉のお名前?」

「ま、まあ、そう言われれば、否定はせんが……」

 メイシアも、彼が異邦人であることは気づいていた。多くの民族が入り混じるこの地方にしても、彼は顔立ちも違えば言葉の発音にも違和感がある。

「しかし、その名前は古い名前だ。お前は私のことをジャッキールと呼べばいい」

「うーん、そうねえ。でも、何だか味気ないなあ」

「何?」

 メイシアの思わぬ答えに、彼は困惑気味になる。部下たちの前では厳格で怖い隊長の彼だが、小娘の彼女の前ではまるで別人のようにたじたじだった。メイシアはそれが面白くてならない。

「だって、偽名なのでしょ? さっき言ってた」

 彼は困った顔になった。

「それに、ジャッキールさんってあなたの事いうの、なんだか変。本当はご主人様みたいなものでしょう?」

「いや、それは……」

 と彼は立ち止まってため息をつく。いつもは構えていて、ちょっと怖い顔が、そういう時は優しくなる。

「私はお前の主人ではない。お前を奴隷にするつもりはないといったはずだろう? だから、そのように呼ぶのではない」

「じゃあ、……貴方はあたしの何?」

「な、何?」

 と尋ねられて、はっきりと狼狽した様子を見せる。

「先生?」

「そ、それは少し違うと思うがな。俺のお前の師ではないわけだし……、お前も弟子になるつもりもないだろう?」

 ついに彼の一人称が崩れたのを、メイシアは聞き逃さなかった。私と自らを呼ぶ彼も礼儀正しくて良かったけれど、何だか他人行儀で寂しかったのだ。

「うーん、それじゃ、皆が言ってるみたいに隊長って呼んでいい? 何だかそれ、カッコイイ」

「ん、うー、まあ、今のところ、隊長には違いないからな……。それならよいか」

 メイシアに完全に振り回される形になって、彼はため息交じりに言った。

「じゃあ、隊長って呼ぶね。それじゃ、隊長も、あたしの名前を呼んでよ」

「メイシアではだめなのか?」

 そういわれて、メイシアはちょっと頬を膨らませた。

「名前をつけてって隊長に頼んだよ?」

「しかしメイシアという名前もついているしな」

「あたし、どうせならあなたと同じ言葉のお名前が欲しい」

「お、俺と同じ言葉の名前だと?」

 唐突に言われて、彼ははっきりと戸惑った。

「えるりーひっていうのと同じ国の言葉の、お名前が欲しい」

 メイシアは実のところ、彼の困った顔を見るのが好きだった。整っているが冷血に見える彼が、とても人間らしく見えるからだ。

 だから、本当のことを言うとわざと困らせた。

 そんな風に改めて頼んでから数日、どうやら彼は寝る間を惜しんで名前を考えていたらしく、手元に命名に関する本が何冊かおかれていた。そうして、ようやく決めてくれたらしく、朝、おもむろに彼は口を開いたのだ。

「ろーぜまりー?」

「うむ、ローゼマリーという」

 夜なべして考えただけはあり、それなりには自信のある口調だった。

「ローゼマリーというのはだ。そもそもは、海のしずくという意味でだな、青く可憐な花を咲かせる植物の名前だ。とても良い香りのする植物で、香油や料理にも使うのだ。記憶力を高める効果があるともいわれていてな。俺の頭痛の薬の一つでもあって……いや、こんな御託は興味はないだろうな」

 と、彼は首を振った。

「そして、単にローゼと言った場合には、薔薇の花のことを指す。確か薔薇というのは、ここの言葉でも、女の子の名前だろう?」

「ええ」

「ともあれ、とても清らかでよい花の名前だ。名前の響きも可愛らしいし、お前はきけば元は内海の生まれだという。海に関している花であって、そして華やかな薔薇の花を想起させる名前、お前にはぴったりだと思うのだ。お前はこの砂漠の国でも、どことなく海辺の気配のする娘だと俺は思うのだ」

 海。海か。

 メイシアは、かすかな記憶の奥底にある光景を思い出していた。

 ざん、ざざんと聞こえるさざ波と、暖かくて穏やかな日光。そしてそれに照らされた、明るい青い色の海。

 家族の顔もあまり思い出せないけれど、生まれ故郷のその光景はまだ思い出せそうだった。

 メイシアは、しばらく黙っていた。

「ど、どうだろうか?」

 眉根を寄せた眉間に不安がよぎり出していた。

「どうって?」

「い、いや、すまない。気に入らなかったか……」

 きょとんとしたメイシアに、彼はいきなり謝罪してきた。

「すまないな。俺は、本当に女性の好む名というのがわからなくて……。良い名だと思ったのだが、気に入らなければ元も子もない。今晩、もう一度考えてくるので、もう少し待ってくれ」

 そんなことを悄然として言う彼に、とうとうメイシアはふきだしてしまった。

「あははっ、これ以上考えたら、隊長が寝不足で死んじゃうわ」

 そうはっきりいわれて、彼は目を瞬かせて困惑する。そういう顔を見るのが、メイシアはとても好きなのだ。

「その名前、とてもかわいくて綺麗。あたし、そのお花がどんなお花なのかしらないけど、薔薇は知ってる。薔薇の花、とても好きだし、海も大好き」

 再び、メイシアは微かな記憶にしか残っていない、生まれ故郷の風景を思い出した。今度は、もう少しはっきりと映像を結んだ。

 そこには確かに海があった。海は青く、波間は陽光に煌めいていた。少し話しただけなのに、彼がそれを覚えていてくれたことが嬉しかった。

「ローゼマリー。いい名前。嬉しい」

 メイシアは、笑って彼を見上げた。

「ありがとう、隊長。すごく嬉しいわ」

「そ、そうか。それならよかった」

 彼は心底安堵したような顔をした。その時、あ、でも、といきなりメイシアが声を上げる。

「でも、普段ローゼマリーって呼ぶの、長くないかしら。短い方が隊長も呼びやすいよね?」

「そう、だな……、愛称もつけてほしいということだな」

 あくまで彼は真面目なので、メイシアの軽い疑問を正面から受け取った。少し考えて彼は言った。

「それでは、俺からは普段はローゼと呼ぶことにしよう」

「ローゼ、ね」

 メイシアの様子を見て、彼は初めて緊張を緩めた。ほっとしたような顔をして、そして優しく微笑んだ。その顔を見て、メイシアは、誰に何を言われても、自分は彼と一緒にいようと思った。

 彼のことが、多分、好きになった。

「それではよろしく、ローゼ」


  

  *  *



 砂漠を越えたところに、その都市は燦然とたたずんでいた。

 内乱から立ち直ったばかりの王都だといわれていたが、それでも、彼女には十分美しく荘厳な街に見えた。緑が溢れ、整然とたたずむ大きな都市、それがザファルバーンの王都カーラマンだ。

 今の国王シャルルナントカとかいう奇妙な名前の王様になってから、平穏な日々が続いているというのはメイシアもどこからか聞いたことがある。確かに表面上はうまく穏やかにおさまっているらしくて、市場には活気があって、色んなものが売っていて、様々な顔立ちの人が行き来していた。

「へえ、本当に大きな街なのね」

 メイシア=ローゼマリーは、てくてくと王都を歩きながら行き交う人の顔を見やっていた。

 そこに彼女の探している顔は今のところいない。軽く失望を覚えつつも、けれど、これだけ人がいるのだからどこかに彼もいるのかもともしれないとも思えた。

「でも、隊長を探す前に、お仕事をしなきゃダメだったわね」

 メイシアは、そういって例の紙を取り出した。

 あの変態野郎のリリエス=フォミカの頼みをきいてやるのはちょっと癪だが、この街に来るためにも、そして彼の居場所を探すためにも、リリエスの望みを聞いてやる必要があった。

「どうしても強そうには思えないんだけどなあ」

 紙を広げてみると、そこでにやりと笑っているのは、例の三白眼の男だ。

(実際はもっと強面なんじゃないかしらねえ)

 そうでなければ、期待外れもいいところだろう。

 しかし、リリエスは、実は自分以外にも声をかけている。一緒にこの街にやってきたのは、屈強な男や、暗殺の刺客となった経験のある男などの傭兵たちだった。リリエスは、三白眼の男を殺す為に、彼らを雇ったのだという話だ。ということは、それなりに強いと思うのだが。

 メイシアは途中で彼らと別れて街に入っていた。あんな連中と一緒だと、門を抜けるのに時間がかかってしまう。メイシアは見かけは女戦士ではあるが、まだ少女の部類だからさほど疑われずに中に入れるが、彼等は脛に傷もつ身なのでまともに通れるかどうか。特に今は、何だか王様の将軍が少ないとか何とかで、警備が厳しいのだというのだから。

 そんなことで、メイシアは、彼等に抜け駆けする形で先に街の中に入っていた。できたら、彼らと関わらない間に、さっさとケリをつけておきたい。

「ええっと、確か、カタスレニア、だったわね。コイツがいる場所。名前は、確か、シャー=ルギィズだったっけ?」

 彼女にはどこかどこだかサッパリわからない。

(とりあえず、人に聞いてみるのが一番ね)

 大通りは人の通りがあまりにも多い。人ごみに酔いそうになって、そのころには、彼女は横道に入っていた。

 裏通りは意外と人がいない。カタスレニアがどこにあるのか、尋ねる相手もいないので、しばらく無為にまっすぐ歩いてみる。

 空を見上げると、向こうに大きな宮殿が見えていた。あれが王様の棲み処なのだろうな。とメイシアは漠然と考えた。今の王様は青を基調とした紋章で知られているとのことだったが、確かにところどころ青い旗が翻っていて印象的だった。意外と綺麗だと思った。

 と、不意に目の前から男が歩いてくるのが見えた。

 背が高くてきっちりとした服を着ていた。ちょっと強面な感じの男だったが、その服装を見るとそれなりのちゃんとした身分の人間らしい。とはいえ、ともも連れていないから、さほど身分も高くなさそうだ。

 男は少し早足で歩いていた。メイシアと出会う少し前の角を彼はそのまま曲がってしまいそうになる。

「あ、待って!」

 思わずメイシアは声を上げた。

「え? ああ、何か?」

 男は立ち止まって、身を引き戻した。口ひげだけを生やした男は、左頬に刀傷がある。頭に布を巻いているが、飛び出た髪は赤いので目立った。

「実は、道を聞きたいのだけれど、いいかしら」

 男はきょとんとしていたが、そう尋ねられて頷いた。彼女を旅行者かなにかと思ったようだ。存外に愛想よく彼は笑った。

「ああ、いいよ。どこに行きたいんだい?」

 意外と親切らしい。

「カタスレニアっていう場所を探しているの? ここから近いのかしら」

 メイシアがそう尋ねると、ああ、と男は答えた。

「それなら、この通りからちょっと裏に入るんだ。カタスレニア自体は、そんなに危なっかしいところじゃないんだが、間はあんまり治安が良くないから。女の子が独り歩きするのは、あんまりオススメできないんだけどもね」

 具体的には、と男は言った。

「今、俺の曲がろうとした角を曲がって、それから二つ目の角をまっすぐに。そこで突き当りを王宮の見える北に向けて歩いていくとすぐにわかるさ。飲食店が多いからね」

「そうなのね」

「俺もその辺に向かうけど、案内しようか?」

 不案内そうなメイシアを見て、男は親切にそう申し出てきた。そこに他意はなさそうだったが、メイシアはとりあえず辞退する。なにせ、自分は人を探しているのだ。しかも、その人と出会ったらいきなり戦闘になる可能性もある。

「ううん、大丈夫。ありがとう」

「ああ、それじゃあ気を付けて」

 そういうと、急いでいたのか、赤毛の男は角を曲がって早足で行ってしまった。

「あ、そうだ。ついでにあの三白眼の話聞けばよかったわねえ」

 彼の背中を見送りながら、メイシアはぽつりとつぶやき、けれど急いだ話でもないかと思い直してそのまま歩き始めた。

 ふと上を向くと、王宮の前に青い旗が風にあおられてはためいていた。孔雀の羽らしい紋様がかすかに見て取れた。

 メイシアは、過去その旗をどこかで見たことがあったような気がしていた。


 *


 視線の先で、青い旗がはためいている。かつて同じ旗を軍旗としてつかっていたことがある彼だが、別にそれを見てもその時は特に感傷は抱かなかった。

 実のところ、最近ちょっと疲れていたのだ。感傷を抱いている余裕がない。

「いい天気だなー」

 空を見上げながら、いつものごとく彼は大あくびをした。その目が空の色を映して、いつもよりさらに青い。

「やっぱ、娑婆の空気はうまいわー。ったく、体がおかしくなっちゃうじゃんよー」

 シャー=ルギィズは、軽く伸びをしながら凝り固まった体をほぐしていた。

 彼がこの街に出てくるのは久々のことだった。なにせ、彼はこのところ、ごくごく珍しいことにちゃんと仕事をしていたのだ。

 リオルダーナ国境で起きた武力衝突から、七部将の要である二人の将軍が王都の防衛から離脱する。それにより王都が危険にさらされるのは明らかなことだ。流石の彼も、今は、シャルル=ダ・フール王としての仕事をしなければならない必要性に駆られたというわけである。

「やれやれ。あいつらが王都でてってから二週間ぐらいか。幸い何の動きもねえみたいだし」

 と、シャーは、思い出したように懐に手を入れた。首からかかった鎖につながっているのは、印章のついた指輪だった。

 その印章には、”総司令官”の文字が彫られ、次に”エルリーク”の文字が刻まれていた。

 この印章での命令書は、今のところ一枚だけしか発行していない。七部将が合意のもとに彼らの上に総司令官を置き、その男がエルリークであるので、全軍は有事には彼に従うようにとの命令書だ。

 だから、総司令官エルリークという男が七部将を束ねることになった、ということは、一応皆が知っている。

「ちったあ、ハッタリになってくれてるのかね。このハンコがさあ」

 シャーはため息をついて、印章を首から服の中に入れる。

 今のところ、サッピア王妃にもギライヴァー公にも目立った動きはないらしい。もちろん、その他の反抗的な貴族たちにもだ。

(ハッタリが効いてるのを考えると、余計このハンコ自体が結構面倒なシロモノになっちまうよな)

 シャーは、そんなことをふと考えていた。

 エルリークなどという人物は本当はいない。命令を下すのはあくまで彼だ。エルリークの隠れ蓑を使っている、彼が持っている。

 エルリークの正体を知っているのは、七部将とそれこそ限られた文官達だけ。エルリークを知るものは誰もいない。ただ皆が知っているのは、エルリークの印章だけだ。

 だからこそ、今ならだれでも”彼”に成り代わることができる。印章さえあれば、総司令官エルリークとして命令が下せるのだ。

「でも、二週間も頑張って働いてたんだし、オレもいい加減もう限界なんだよな」

 シャーは、深々とため息をついた。

 できれば、自分も王宮にいた方が良かったのかもしれない。実際に、カッファあたりには散々言われたものだ。王宮にいた方が、有事の時にも反応が早いし、情報も入るし、だから、二人が戻ってくるまでいた方がいいと。そんなことはシャーにだってわかっている。

 だが、王宮にいすぎるのも疲れるし、そんなに安全でもないのだった。相変わらず、正体をあまり悟られるわけにはいかないのだし、そうなると生活は非常に窮屈だった。自由が一切ないし、王宮にだって非協力的な奴も多い。シャルル=ダ・フールの居室周辺を一歩出れば、そこは蛇の巣みたいなものなのだ。もし、彼と義兄レビ=ダミアスの秘密が公になると、それはそれで凄まじく面倒なことになる。七部将が二人もいないこの状況では絶対に避けなければならない。

 結局、街に出て遊んでいても、カッファの屋敷にはすぐに戻ることができるということを理由にして、どうにか外出の許可を得てようやく解放されたところだった。カッファの屋敷には、ルシュールという警備隊長がいるが、彼は有能な情報伝達係でもあるのであらかじめ彼に話を通してさえいれば、何かあればすぐに対応もできる。いつもは厄介な苦手な彼だが、こういう時はありがたい。

 で、実際のところ、もっとも困ったのがこの印章の扱いだった。

 王宮に置いておくという選択肢もあったが、盗まれる可能性も十分にあるし、いざという時に自分が行使できない可能性もある。となると、結局持ってこざるを得なかった。実家に置いておくということも考えたのだが、一番安全なのはとにかく肌身離さずつけておくことだ。

(そりゃ、オレが作ったんだけど、ホント面倒くせえなあ。ちっ、あの二人、早く王都に戻ってくればいいんだけど)

 まだ二週間。ハダートが問題解決に最短で一カ月かかるといっていたが、最短で解決できたとしても後二週間ほどは待たなければならないわけだ。

 シャーはそれを考えると、妙に憂鬱な気分になって深々とため息をついて、足元の小石を蹴り飛ばした。

「しかも、物凄く久々に遊びに来て、どうしても会いたかったっていうのにさあ」

 シャーが憂鬱なのはもう一つ理由があった。

「リーフィちゃん、今日酒場休みだってのに、どこ行っちまったんだろ」

 せっかく意気揚々と酒場を訪れたのに、リーフィは休みだった。となると、家だとおもって訪れたが留守。ジャッキールとザハークのいる長屋や、ゼダの別荘でシャーが根城にしている隠れ家にも誰もいない。

(どうしよう。オレが留守にしている二週間で、変な虫とかついてたら……)

 リーフィに限ってそれはない! とは思いたいが、ただですら憂鬱な彼にとってその問題は由々しき事態だ。

「んー、リーフィちゃんがダンナに勧めてた、なんかよくわかんない茶店さてんとかどうかな。なんだっけ、錨亭とかなんとかいう、怪しげな茶店」

 シャーは声に出して、記憶の片隅から店の名前を探し当ててみた。

 確か、二週間前、ジャッキールが店に来ていた時に、リーフィとジャッキールがその店の菓子がうまいだのなんだと盛り上がっていた。

「今度はシャーも行きましょう? とてもお料理もおいしいのよ。ゼダや蛇王さんも誘って是非行きたいわね。私のお休みの時になんかどうかしら……」

 そんなことを言っていたのだ。あれからリーフィに何度か休みがあったのだろうけれど、他の奴等も誘うといっていたし、それが今日なのかも。それなら、誰もいなくても当然だ。

 確証はなかったが、とにかく、他の連中はともかく、せっかく出てきてリーフィに会わずに帰るとか、そんな寂しいことはできない。余計に落ち込んでしまう。

 この土地を知り尽くしているシャーでも、そんな名前の喫茶店はあまり聞いたことがない。ただ、リーフィがカタスレニア近くのはずれだといっていたので、それらしい店を見かけた覚えがある気がした。客がほとんど入っていなかった覚えしかなかったが。

 ともあれ、一度そこを見てこよう。シャーはそう思って、道を歩いていた。

 しかし、あちらこちら歩き回るうちに、シャーはあることに気づいていた。

 いつごろからか、誰かに、つけられている。妙な殺気が、自分の後ろからひたひたとついてくる。シャーはしばらく道を歩きながら、相手を観察していた。相手は間違いなく一人。しかも、相当小柄な人物だ。そして、尾行の腕も悪くない。まずもって素人ではない。

 シャーはわざと裏道へと足を進める。相手も遅れずについてくる。

 人気のない路地。ふと、シャーは足を止めた。 

「誰だか知らないけどさ」

 シャーは静かな声で、背後をうかがいながら言った。相手が身じろぎする気配もない。

「オレなんかつけてても、人違いだと思うんだけど。人違いだから、帰ってくれない?」

 いつもの調子の軽さを装いながら、シャーは振り返った。そして、彼は大きな目を思わず見開いた。

 そこにいるのは女だ。しかも、まだ少女といって差し支えない。マントを着ていて、一目で旅行者とわかるが、剣を帯びている姿は女戦士といった風情だった。目が大きくてなかなか可愛らしいが、何故か不穏な気配がする。

「ありゃあ? 意外だな!」

 シャーは思わず声を上げた。

「てっきり、どっかの小僧がつけてきてるのかと! お嬢ちゃんみたいな可愛いコが後をつけてきてるとはね。ますますもって人違いなんじゃないの?」

「あなた、シャー=ルギィズでしょう?」

 少女はシャーに取り合わずに尋ねてきた。少女は、腰の剣にすでに手をかけている。

「意外ね。見かけは似顔絵通りだったのに、あなた、相当クセのある人ね。あたしが尾行してることに、早いうちから気づいてたんでしょ?」

「さて、何のことやらわかりませーんね」

 シャーはふざけた様子で答えたが、少女は見かけによらずなかなか腕が立つらしい。彼女が放っている殺気は、そんじょそこらの男のものより鋭いものだ。どうもこの娘は油断がならない。

 いつもの調子でやられちまおうか、と一瞬思ったが、それをやるとトドメを刺されそうだ。見かけに騙されてはいけない。どうもこの娘、危険な感じがする。

「大体、お嬢ちゃん、どこでオレの名前知ったんだい?」

 シャーは棒立ちながら油断なく、彼女をうかがいつつ尋ねた。

「そんなこと言えると思っているの?」

「んじゃ、どーせなら、カワイコちゃんのアンタの名前の方を教えてほしいね」

「いいわ。隊長も言ってたもの。名乗るのは礼儀だって」

 にこ、と彼女は不穏に笑った。その瞬間、彼女の体が沈んだ。

 来る! はっと、シャーは足を開く。

 その瞬間、少女は剣を抜きながら石畳を蹴った。

「メイシア=ローゼマリー!」

 少女はそのまま剣を横なぎに跳ね上げる。思ったよりぐぐっと伸びて、シャーを掠めそうになったところでその手元で白銀の光が散った。火花が散って、メイシアの剣が弾かれる。

 そのまま力任せにメイシアを振りほどきつつ、シャーは後ろに飛びずさった。

(この、太刀筋、なんだ?)

 メイシアは、追撃をやめて間合いを取っている。シャーは油断なく相手と相対しながら、ふと彼女の太刀筋に既視感を感じていた。

 彼女には、妙なクセがある。そして、そのクセを見るのが自分は初めてではない。それは確実だった。

「やるわね」

 メイシアは静かに殺気を放っている。三つ編みにしてからまとめた髪が、さらりと流れていく。

「おいおいやめようぜ」

 シャーは、ふっと笑った。

「オレはアンタみてえなカワイイ子とこんなことするのは、好きじゃねえんだよ。これぐらいでやめとこうぜ」

 メイシアは答えない。次の攻撃を仕掛けるべく、シャーのスキを狙っている。シャーはそれを見て、首を振った。

 せっかく二週間ぶりに娑婆に出てきて、リーフィちゃんとメシでも食いたかっただけなのに。どうも今日はうまくいかない日だ。

「ちッ、面倒なことになってきやがったなあ」

 シャーは、深々とため息をついた。


 

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