9.勝負:指輪屋と扇のバラズ

 *


 その男に声をかけられたのは、実はその時が初めてだった。

「君はなぜ泣いているんだ? たかが負けただけじゃないか?」

 私は、彼のことを前々から知っていた。

 私のような学生の遊びで賭博をやっている人間でも、その名と顔を知らないものはいなかった。けれど、話したのはそれが初めてだったのさ。それほど、彼は偉大な人物であって、そして、賭博師達から疎外されてもいた。

 しかし、その時。

 勝負に負けて袋叩きにあって、それで情けなくて悔しくて涙を流す私の前に、その男は現れた。

「今日はついてなかっただけさ。それだけの事じゃないか」

 男は上品な顔立ちの中年だった。貴族か何かの放蕩息子だったのかもしれない、そんな噂も聞いたことがある。上品で優雅な立ち居振る舞いの、けれど、如何様も涼しげな顔でやる詐欺師であり賭博師。そんな風に私は聞いていた。

 私は内心彼にあこがれていたけれど、賭博師仲間はあんな如何様野郎にかまうことはないといっていた。彼は愛想のいい男だったけれど、賭博師仲間とは疎遠だった。私も、だから、彼に話しかけることはなかった。

 彼は優しく笑った。

「どうして泣いているのだい? それとも、あの娘さんに君は惚れていたのかな?」

 私は、彼に事の仔細を告げた。

 猫を餌付けしているうちに、彼女と知り合ってしまったこと。彼女の相談に乗っているうちに、彼女に本気で恋をしてしまったこと。彼女が、大親分であり如何様博打の名手である男の、情婦の一人であったこと。

 そして、彼女を賭けて挑戦した私が、無残に負けて一文無しになってしまったこと。

「なるほど、よくわかったよ」

 すべてを聞いて彼は言った。

「けれど、それならなおさら君は泣いて悔しがることはない。あの娘さんはね、あの男が博打で相手から分捕ったものさ。だったら、君が博打で奪い返せばいいだけの話なんだ。博打で奪われたものは博打で取り戻せばいい。それがこの世界の真理さ!」

「しかし、私はそんなに強くはなれない。あの男みたいになれそうもないのです」

 私がいうと、彼は首を振った。

「おやおや、どうして君はそうやって自分の実力を決めつけてしまうんだい? 私は、ずっと君の勝負を見てきた。君はすごいよ。君には才能もあるし、勝負勘もある。それに、本当はとても気が強くて、一歩も引かない強引さもあるだろう。……君に足りないのは、あくまで技術と、それから、汚いことに手を染める勇気だねえ」

 その男は、上品な顔立ちでそんな恐ろしいことを言う。顔を上げると、その男はにんまりとほほ笑んでいた。

「君ならもっと強くなれるよ。私が教えることについてくるというのなら」

 その言葉は、まるで悪魔のささやきのようだった。強くなりたいのなら、魂を売れと言われているようだった。

「君がどうしても彼に勝ちたいのなら、私の弟子になるといい。君なら、私の技術のすべてを盗むことができるはずだから」

 その微笑みはとても不穏なものだった。私は彼が本当に悪魔なのではないかと思ったほどだ。

 けれど、私には力が必要だった。彼女を助けるためには、手段など選んでいられないのだ。そうして、結局――


 私は、その悪魔の弟子になったのだ。


 *


「ようやく会えたねえ」

 骨牌カードを指先ではじき、バラズはにっこりと笑いかけた。

 その視線の先には、”指輪屋”ファルロフが座っていた。ファルロフは相変わらず上品ないでたちをしており、しかし、どこか得体のしれない笑みを浮かべて、バラズに笑い返した。彼が座ったその傍らに、指輪の入った箱が置かれている。その小箱の中に、確かに銀色の指輪が入っているのを、シャーは見て取っていた。どうやら、ファルロフはその指輪を誰にも渡していないようだ。それを見て、シャーは内心ほっと胸をなでおろしていた。

「昨夜はどうも失礼しましたね、爺さん。どうやら、俺が寝ている間に来てもらっていたみたいで……」

「ははは、大丈夫だよ」

 バラズは骨牌カードを持っていない片手で扇を広げながら、にんまりと笑った。

「しっかりと睡眠をとっていただいていた方が、勝負は楽しいものになるだろうからね。お互い、状態が良くないと楽しくない」

「そうでしょうね、違いない」

(何言ってんだよ、ジジイ。さっきまで弱気なこと言ってたじゃねえか)

 シャーは、バラズとファルロフの会話を聞きながらあきれていた。シャーも人のことは言えないけれど、さすがにバラズみたいにここまで手のひらを返したことは言わない。

 しかし、いざここにきてしまうと、シャーが口を挟む余地は与えられなかった。何よりもバラズが絶対にその機会を与えてくれない。すでにバラズは人が変わってしまっていて、シャーですら口を挟めない雰囲気になってしまっていた。彼が放っているものは、ほとんど殺気と言ってしまってもいい物騒なものだった。

 シャーも今まで大概いろいろな人間に出会ってきたが、刃物も持ち出さなければ、その策謀で他人を傷つける気もないのに、こんな風に殺気をまとう人間は初めてだ。それだけにどうも対応しきれない。

(ハビアスのジジイが、この爺さん苦手だったの、なんか気持ちわかるわー)

 そうして、結局五人で囲んで勝負を始めてだいぶん経っている。

 この大勝負に対して、ファルロフ以外にも腕の立つ賭博師が参加しているようだったが、バラズはファルロフ以外の人物を認識してもいない様子になっていた。それはファルロフも同じようで、バラズ以外の人物にはそれほど注意を払ってもいなかった。

 この勝負は、他の客たちにも注目されているらしく、常に野次馬が周囲に集まっている。それも当然といえば当然だ。ここで別の賭博がすでに始まっているのでもある。いったい誰が勝つのかを周囲の客たちは賭けているのだ。

 得体のしれないジジイのバラズに賭けているのは、昨夜も賭場にいてその手並みを知っているものだけで、ほとんどの客はファルロフに賭けているようだった。しかし、バラズがいざ勝負を始めると、周囲の客たちの反応が変わっているのもわかる。バラズの明らかに素人ではない手つきと、その勝負の仕方に客たちが浮足立っている。

 しかし、ファルロフもさるもの。勝負は一進一退。負けているのか勝っているのか、だんだんシャーにはわからなくなりつつあった。

 バラズもファルロフも、無駄口をたたきながら遊戯を進めるのが好きらしく、なにやら中身のない世間話などをしているが、お互い目が笑っていない。バラズはまだ好々爺のふりをしているが、目つきがすっかりすわっているし、それを受けてかファルロフも謎の緊張感に包まれていた。他の三人は、彼ら二人の気配に飲まれていて、思うように勝負を進められていないようにすらみえていた。

 そんな勝負をバラズの背後で見つめていたシャーだったが、その空気の重さにたえかねてその場を脱出してしまい、休憩所で酒とつまみをやってため息をついていた。

 気になるのでちらちら見ていると、いつの間にか、一人減っているようだ。バラズとファルロフが利益を山分けしているようにしか見えないところを見ると、他の三人から相当巻き上げているのだろう。

「あー、あんなとこいたら、息詰まっちまう」

 真剣勝負には慣れているシャーだったが、それでもあんな風に笑顔で心理戦を延々やられていると神経の消耗が激しい。しかも、自分が対象であるならまだしも、今回はバラズがやっているのだ。シャーも、バラズが何をしでかすのかわからないものだから、常に余計な心配をして神経をすり減らしてしまう。

 やってられない。

「ったく、爺さんもよくやるよ。まったく、ついてけねえよなあ」

 シャーはため息をつきながら、酒をちびちびと啜っていた。

「おいおい、ツレが熱い勝負してるときにシケたツラしてんなあ」

 ふいになれなれしくそう声をかけてきた者がいた。

 そういって声をかけてきたのは、あの片目のビザンだ。

「なんだい、アンタかい」

「ツレの爺さんがすげえことしてんのに、なんでこんなところで疲れた顔してるんだよ」

「そりゃあ、疲れちまうよ。あんな紙一重の勝負毎度されてたんじゃ、落ち着いてみてられないって」

 シャーがそう言ってため息をつくと、ビザンは傍に腰かけた。

「それもそうに違いねえな」

 存外に愛想がいいらしく、そうしてみると気のいい男だった。よく考えると、あのジャッキールと付き合いがあるのだから、彼に声をかけられるぐらい愛想良くないといけないのだろう。ジャッキールはああ見えて人見知りなものだから、自分からなかなか声をかけてはいかない。

「しかし、結局今日も来たんだな、お前さんたち」

「そりゃそうだよ。昨日は、結局指輪屋とは会えなかったもんだからね。今日来るって約束しちまったし」

「ああー、それ、きいたぜ。たたき起こして連れてきてやろうとしてたのに、爺さんが拒否したんだっけ」

 ビザンは面白そうに笑った。

「なかなか風流な爺さんだねぇ。金も三分の二も置いていったんだろ。いやあ、ホント、素人にしておくにはもったいないわ」

「シロートねぇ。オレには、あの爺が玄人に見えるけどな」

 シャーの視線の先では、バラズが骨牌カードを華麗に翻しているところだった。バラズは例の通り、扇子を広げてそれをあおりながら勝負をしていた。いつの間にか、また一人減っている。今は三人での勝負だ。

「玄人か。違いねえなあ」

 ふとビザンが意味ありげに笑った。

「あんな手つき、確かに素人にゃできねえし、……それにあの勝負の仕方はなあ」

 シャーはふいにビザンを見上げた。勝負を見つめるビザンの目が、ふと懐かしそうに細められた。

「まるで往年の扇のファリドみたいで痺れるぜ。思わず、俺もあの爺さんに全額賭けちまったよ」

「扇のファリド?」

 耳慣れない名前に、きょとんとしてシャーが反芻すると、ビザンは、ああといって笑った。

「俺がほんの餓鬼のころにいた賭博師だよ。俺の親も博打狂いでねえ、よく賭場に連れてかれたもんさ。その時に、ひょろっこいにーちゃんがいてさあ、その兄ちゃん、猫が好きでね、博打で勝ったらその金で猫に餌買ってきて、餌付けしてたもんだった」

 ビザンは、そう話し始めた。

「猫兄貴ともいわれていたな。で、猫に餌やった後は俺らみたいな子供にも小遣いをくれる気前のいい兄ちゃんでな。でも、あんなにひょろっこいもんだから、こんな場所でよくいかつい男たちと肩並べてられるなって疑問だった」

 しかし、とビザンは続けた。

「俺は親父に連れられて、その男の勝負を見たことがあるのさ。あんなに頼りない男なのに、いったん勝負が始まるとちっともひかねえのよ。相手が脅しにかかってきても、別人みたいに静かな目で相手を睨み付けながら平然としてやがるのさ。その男は勝負の時に、扇を使うクセがあってね。それで扇のファリドって言われてた。しかし、俺はもう一度その男の勝負を見たことがあるんだ」

 ビザンは、にっと笑った。

「それはそれは物凄い勝負でな。扇のファリドは、とある博打打ちの男の女に惚れちまってたらしい。で、その女と自分の全財産と命を賭けて勝負をしたのさ。扇のファリドはその前に散々各地で賭場を荒らしまくって来ていて、その男も勝負を断るわけにはいかなかった。相手も如何様師として有名な男だったが、扇のファリドは全く引くこともなかった。そして、最後の勝負、相手は王の出陣で勝負を挑んできた。それに勝つためには、獅子の五葉でも出すしかなかった。誰もがファリドの敗北を予感していた。俺もそうだった。見ていられなくなって、目をそらしたもんだ。それなのに、ファリドは扇を掲げてにやっと笑ったものだった」

 なぜだと思う、と言いたげにビザンはシャーに視線を向ける。

「まさかのまさかだ。扇のファリドの手元で獅子の五葉が完成していたのさ。目当ての女を手に入れて、それっきり、扇のファリドは鉄火場から姿を消した。けれど、奴をしるものは皆やつのことを言った。扇のファリドにかなうものはない。これからは奴のことを無双のバラズと呼ぶべきだ」

「無双の、バラズ?」

 シャーがどきりとしてそう呟くと、ビザンは頷いた。

「ああ、扇のファリド、または扇のバラズって言われててさ。本当の名前がバラズだったんだとか。でも、皆が奴をほめそやしても、二度と奴は賭場には戻ってこなかった。だが……」

 と、ビザンは、ファルロフと対峙するバラズを見、汗をぬぐって口元をゆがめた。

「……ああ、本当にあの時のことを思い出すぜ。あの手つき、あの目、あの扇、……あの爺さん、本当に無双のバラズみてえだ」

 その時、野次馬達が軽くどよめいた。

 シャーがそちらに視線を向けると、バラズの手元で将軍の札三枚と盃と貨幣の九が二枚の月華の五葉という非常に強い役が出来上がっていた。ファルロフの隣に座っていた男が、手札を投げてため息をつく。その札は、順番に数字のならんだ烈の五葉だった。ファルロフ自身も負けてはいるが、賭け金を減らしていた様子で涼しい顔をしていた。

「ジイさん、顔に似合わずえげつないことするんだなあ」

 と、ファルロフが苦笑まじりに言った。

 どうやら、バラズの狙いは最初からその男を下ろす事だったらしい。男がツイているのを見越したバラズは敢えて気弱に振舞うことで、男を罠にはめたものらしかった。

「ははは、それは随分だねえ」

 バラズは扇をぱちんと閉めて、口の傍に持っていく。

「さて、どうかな。お前さんほどではないと思っているがねえ。指輪屋。私がそうしない時は、お前さんが散々罠にはめていただろう? 今のは、私に良い札が回っているのを知っていたから、敢えて勝負をしなかった」

 バラズは、にやりとした。

「私に彼を始末させたというところだろう? ま、どのみち、お前さん、私とのサシの勝負になると踏んでいたのだろうからね」

「そりゃあもちろん。今からが本当の勝負というわけさ」

 ファルロフは、にっこりとほほ笑んだ。

「しかし、昨日聞いたときは偶然だと思っていたよ。俺もこの業界に入って随分経つけれど、爺さんみたいな人は初めてだよ。さんざん、強い賭博師どうぎょうしゃとも戦ったものだけれど、アンタみたいに読みづらい相手もそうそういない」

 ファルロフは、すでに次の勝負に入っている。新しく札を回してもらったのを、片手でさらさらと弄びながらバラズに言った。

「正直、こんなに追い込まれたのは初めてさ」

「それは私の台詞だね」

 と、バラズは穏やかに微笑んだ。

「本当だったら、もう勝負がついていてもいいころさ。こんな風に勝ったり負けたりしているのも、久しぶりだよ。お前さんは口でいうよりも、ずっと余裕があるだろう」

「はは、いい読みだね、爺さん。やはりアンタ、素人じゃないね」

「さて、もう私は引退して随分経っているよ。そういう意味では、もう素人同然さ。……お前さんと戦うには、ちょいと心細いほどだ」

 しかし、と、バラズは扇を広げた。左手にはすでに新しい五枚の骨牌カードが握られている。バラズは不穏にもにいっと歯を見せて笑い、それから賭け金を用意した。

「いくら空白期間があったとしても、多分、今回の勝負は私の勝ちだよ。……お前さんはとても強いのだけれど」

 バラズは少し目を伏せた。

「私は、お前さんとはどうやら相性が良いらしい。お前さんの札は比較的読みやすい」

「はは、それはどうかな。思い通りにはいかないよ」

 ファルロフは、不意に持っていた賭け用の貨幣を全部のせた。

「爺さんには悪いけれど、俺はここで勝負を決めようと思っているからね。さて、ここで交換して俺の思い通りの札が出さえすれば、すべて終わりさ」

「もちろん、私も同じことだよ」

 バラズはにっと笑った。先にバラズは貨幣を賭けていたが、すでに彼は交換を済ませている。その札を見て、彼は貨幣をすべて差し出した。

「いいのかい、爺さん。そんなことをすると後に引けないよ?」

 ファルロフは、苦笑する。

「後に引くつもりはないさ。お前さんから勝負を求められているのに、ここで引けるわけもないしねえ」

 バラズはのんきにそんなことを言う。

「お前さんは相当自信があるのだろう? だけれど、本当にそんなに大胆なことをしても良いのかな?」

「ふふふ、それは爺さんに言いたい台詞さ」

 ファルロフは、先に三枚だけ札を表に返した。周囲にいた野次馬がどよめいた。

「獅子の札が三枚」

 ということは、少なくとも獅子の華三葉はなさんよう以上の役だということだ。

「実はね、今日の俺はどうやらとてもツイている。後は女神の微笑みが欲しいところだけれど、たとえ女神に微笑まれなくても勝てる自信はあるさ」

「なるほどね、お前さんの獅子の札は四枚だね」

「ああ、そうだよ」

 そういって、ファルロフは、もう一枚を表にして差し出した。宣言通り、それは獅子の札。四種類の紋印スートの獅子がそこにそろっていた。

「降りるなら今のうちさ。俺に女神が微笑んだら、爺さんに勝ち目はない。いや、獅子の華四葉はなよんように勝てるのは、それこその五葉以上を出すしかないんだからね」

「ははは、そうだね。しかし、お前さんの交換がまだだよ。せっかくだから、女神が微笑むかどうか、試してみてはどうかな?」

(ジジイ、何余裕かましてんだよ!!)

 シャーは、思わず気が気でなくて心の中でそう叫ぶ。

 これはどう考えても分が悪い。獅子の札四枚の華四葉は非常に強い役だ。先ほど、バラズが出した月華の五葉よりも強く、これに勝つには紋印スートがすべて同じであり、さらに数字がつながっているの五葉以上の役を出すしかない。それ以上のものとなると、それこそ出る確率が非常に低くなる。

 さらに不利なことに、もし、ファルロフが引いた札が万能を示す乙女の札だった場合、この遊戯最強の役である”獅子の五葉”が完成してしまう。もちろん、そうなればバラズの敗北だ。

「あー、もう見てられねえ!」

「待ちな」

 思わず身を乗り出して止めに入ろうとしたシャーを、ビザンの手が押えた。ふと見上げると、ビザンは二人を凝視しながら唸っている。

「……あの爺さん、あまりにも冷静すぎるぜ。ハッタリじゃあんな態度はとれない」

「ええ? で、でもよ」

「無双のバラズはな」

 ビザンは、シャーの方に視線も向けず、バラズとファルロフを眺めながら続けた。

「俺が昔見た無双のバラズは、必ずここぞという時に目当ての札を引き当てる男だった。あの余裕は、もしかしたら……」

 ファルロフは、苦笑した。

「爺さんがそういうなら、お言葉に甘えてみるよ」

 ファルロフはそういって、一枚札を交換した。が、すぐに苦笑して差し出した。

「どうも、今日は女神が微笑んでくれなかったみたいだ」

「そうかい。女神様というのはなかなか微笑んではくれないものさ。彼女は、とてもとても気まぐれな存在なのだから」

 軽くため息をついて諭すようにバラズはいうと、目と扇を同時に開いた。

「それでは、私の札も明らかにしよう」

 バラズは、そういって右手で滑らかに骨牌カードを床に並べた。紅い敷物の上で、それは実に鮮やかだった。そして、指先で閃かせるように骨牌カードをめくる。

 一枚、二枚、三枚。

 そのたびに、周囲の男たちがざわめく。

 剣の八、剣の九、剣の十。

「まさか……」

 ファルロフの顔色が青ざめた。バラズは冷徹にも思える目で彼を射抜くように見る。

 指先が四枚目をひるがえす。

 剣の将軍。

「お前さんは、だからまだ若いのだよ。獅子の五葉は最後の一枚が肝心なのに、最後にスキを見せてしまった。お前さんは、乙女の札を絶対に引かなければいけない。だからもっと用心すべきだったし、もっと真剣に最後の一枚を引くべきだった」

 最後の札をバラズが翻す。

「けれど、華四葉はなよんようを出したことで、お前さんは私に勝てると思い込んでしまった」

 剣の女王。

の五葉だ!」

 誰かが声を上げた。

「すげえ、指輪屋に勝っちまったぞ、あの爺さん!」

「まさか、ここでそんなものが!!」

 わあっと野次馬達が声を上げ、賭けを取りまとめていたものに群がっていく。

 ファルロフは、さすがに呆然とした様子でバラズの翻した手札を見やっていた。

「ま、まさか、本当に出しちまうとは……」

 シャーがぽつりとつぶやくと、ビザンはにやりとした。

「やっぱりな。……あの爺、伝説の賭博師、無双のバラズだ!」

 シャーは改めてバラズを見た。バラズは何を考えているのか、まだ鋭い視線をしたまま、自分が翻した手札を見つめていた。

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