16.紙一重の伊達酔狂

 カレーを食べてから、ザハークにみっちりと修練をつけてもらった後、また明日来るようにいわれて外に出たときは、もう夕刻に差し掛かるころだった。

 朝は、あれほど天気がよかったのに、空には雲が立ち込めている。この地域は気候的には恵まれており、降水はそれほど多くはないが、不意に強い雨が降ることもあった。今日は、一雨くるのかもしれない。

「何で断らなかったんだよ」

 シャーが、やや恨めしげにゼダに言う。

「お前だって乗り気だったじゃんか。それに、オレはまだ教えてほしいことがあるしな」

 本当は忙しいので、明日は付き合えないと言おうかな、とシャーも思わないでもなかったのだ。が、ザハークが、明日もやるぞー! とかいって、何かと張り切っている様子を見て、シャーもそれではなんとなく断りづらくなってしまった。ザハークという男には、妙な魅力が備わっていて、シャーをしても、なんとなくそっけなく断るのが悪いような気がしてしまう。子供のように人懐っこいところがあるせいかもしれない。シャーなどは、彼の存在に、何か危ないものを本能的に覚えているにも関わらず、彼との付き合いをやめることに、何かもったいないものを覚えてしまうほどだった。

(まあいいか。何か情報入ってくるかもしれないし)

 そう考えることにして、シャーは、一息ため息をついた。

 リーフィやラティーナと合流するつもりだったので、彼らは、酒場のほうを目指して歩いていた。いつもは、人通りの少ない道だが、今日はなんとなく人気が多かった。それも、役人風なものや、兵士が、あわただしく行き来している。

「なんだ? 何かあったか?」

 ゼダが不審そうにつぶやいた。シャーにしても思ったことは同じだ。普段、この道でこれほど人通りが激しいことはない。特に兵士や役人がばたばたしているということは、何か事件でもあったということなのだろう。案の定、角を曲がったところで、人だかりができている。

「何だ、あれ?」

 シャーとゼダは、顔を見合わせた。

「本当に怖いわねえ。こんなところで」

「ええ、本当に」

 ほとんど野次馬らしいが、ざわざわとささやきかわされる言葉から、何か通り魔のようなことでも起こったのだろうか。古い高い建物に囲まれた一角だ。見れば、建物の屋上にも兵士たちが立っているのが見える。検分でもしているのだろうか。

「そういえば、王様も狙われたっていうけれど、それをまねした悪戯かねえ」

「あ、あのちょっと」

 シャーは、たっと駆け出して野次馬の一人を捕まえた。

「なんかあったのかい? やけに騒いでるけど」

「あぁ、アンタ知らないのか? ここで、矢で襲われた人がいるんだ」

「ええ? ど、どんな?」

 一瞬ラティーナのことが頭をよぎって、シャーはややあわてていた。

「どんなって、なんだか身分の高そうな男らしいぜ」

「怪我でもしたのかい?」

「さ、さあ、命に別状はないみたいなこと、さっき役人が言ってたけど」

 どうやら死人が出たわけではなさそうだし、ラティーナでもなさそうだ。ひとまずシャーは、安心した、が、

「身分の高そうな男?」

 そのこと自体には、安堵はしたが、今度は身分の高そうな男というのにひっかかる。それはそれで、知り合いも多いのだ。

「おい、どけどけ! 邪魔だ!」

 ひときわ大きな声が聞こえ、人垣が割れた。大柄の男がどたばたと走ってやってくるのは、どうやらメハル隊長のようだ。こういうことがおきると、何かと活き活きしている彼だが、忙しすぎてシャーの存在には気づかなかったらしく、あわてて隠れなくても見咎められることはなかった。

「よーし、あの建物だ。犯人のヤロウがいたのは、あの建物で間違いねえ」

 メハル隊長は、矢を握って、向かいの建物を指差した。

「あとは、目撃者にきいて裏取れば確定だぜ。おい、護衛してたのはどこ行った?」

「隊長、失礼な言い方はよしてくださいな。仮にも相手は……」

「いいから、連れて来いって!」

 部下が隊長の無礼さに心配そうな顔をしているが、メハルは、それどころでないようだ。しかし、部下の連中がそれほど気にしているということは、本当に相手はそれなりの身分のものなのだろうと思われた。

「なんだ? また、この間の奴かな?」

 ゼダも、やや心配そうな顔をしている。シャーは、それに返事をせずに、ふらりと周囲を歩き出した。なんとなく、落ち着かない気分だ。どうもいやな予感がする。

 と、シャーは何か見つけて足を止めた。

「これ……」

 足元に白い布切れを見つけて、彼はしゃがみこんだ。先ほどからの人の行き来のためか、踏まれたり、砂にまみれて汚れていたが、それはどうやら手ぬぐいらしい。それも、上質な綿織物で、刺繍が施してあるようだ。その刺繍には孔雀の羽を模した紋様が描かれていた。

 この布切れが、塵芥にまみれてここに転がっているということは、その紋章の持つ意味に誰も気づいてはいまい。それは、現国王シャルル=ダ・フールが、東方遠征のころから旗印に使っていた紋章であり、彼にしか使用を許されない。つまり、その紋章が描かれたこの布切れは、彼から下賜されたものに他ならないのだ。そして、それを与えたのは――。

 まるで音を立てて全身の血が引いていく感じがした。

「おい、どうし……」

 後ろからやってきたゼダが、怪訝そうに彼に尋ねようとて思わず口ごもった。シャーは、真っ青になっており、鬼のような形相で布切れを握り締めていた。その鬼気迫る表情に、思わずゼダも動きを止めてしまう。

「隊長ー。目撃者の方に来ていただきましたよー!」

「おー、ここに通せ」

 そういって、部下が目撃者を連れてきたのだろう。メハルの大きな声が、無遠慮に聞こえた。ちらりとシャーはそちらに目を移す。部下に連れられて歩いてくる男に、彼は見覚えがあった。

 その瞬間、シャーははじかれたように立ち上がり、駆け出した。一瞬、その男とすれ違うが、彼は声をかけることはなかった。

「おい! どこに行くんだよ!」

 ゼダの声が聞こえたが、シャーはその声も聞こえないのか、そのまま、酒場と違う方向の路地裏に走り去っていく。あわてて、ゼダはシャーの後を追いかけていった。

 その姿を見咎めたのか、メハルが、あっと声を上げた。

「なんだ、あいつら! こんなところにまで!! ったく、油断もスキもありゃしねえ!」

 そうはき捨てるメハルの視線を追っていた男が、ふと、「若様」と呟いたことに、周囲は気づいていなかった。





 夕暮れに近づき、徐々に夜の帳が下りてきていた。雲は厚くたちこみ、今にも降り出しそうだ。

 その重苦しい雰囲気の空に負けず、シャーもまた重い気持ちを抱えたまま、王都の外れにたどり着いていた。人気のないその場所は、ヤシの木が並ぶ林になっており、近くに川があるのか水の音がした。

 そこまで走り抜けてきたシャーは、ぜえぜえと息をつきながら、ヤシの木にもたれかかって額をつけた。

「畜生! あのババア!」

 がっと、幹を殴りつけて、シャーはそう吐き捨てる。

 今度狙われたのは、間違いなくカッファだ。シャーの手にある紋章の縫い取りのある手ぬぐいは、シャーがかつて何かの折に記念品として彼に贈ったものであり、間違いなかった。カッファが大切にしているこれを落としたまま回収できなかったというのは、その場の混乱を示してもいる。

 カッファの怪我の具合がどうなのか、シャーは確かめては来なかった。

 救いだったのは、どうやら命に別状はないらしいと野次馬たちがいっていたことと、見かけたルシュールの表情が落ち着いていたことだった。さすがのあの男も、目の前で主人が殺されたなら、平常ではいられない。ましてや、彼はすれ違いざまに自分の顔を見た。その表情に後ろめたさはなかった。

 だから、カッファが負傷していても、さほど大したことがなかったのだろうと、シャーは信じていた。

 ただ、屋敷に戻ってカッファに会わなかったことには、さまざまな理由がある。第一、今のシャーは平静さを欠いていた。頭に血が上っていて、それこそ、後先も、勝ち目も考えずに、一人でサッピア王妃の屋敷に乗り込みたいぐらいの気持ちだった。そんな気分のまま、彼を見舞えるわけもないし、何をしでかすかわからない自分の姿を見たら、周囲のものは彼を帰そうとしないだろう。

 それに、第一、シャーとカッファの関係は、非常に複雑な感情が絡んでいるのである。カッファが、普段来るはずのないあんな場所をおしのびで歩いていたのは、ひっそりと自分の様子を見に来たに違いない。シャーが素直に王宮か屋敷で生活していれば、こんなことにはならなかった。こんな生活をしているからこそ、彼は狙われたのだ。それがわかっているから、シャーもカッファと顔をあわせられない。

 ただ、いてもたってもいられないのも、血が滾っているのも紛れもない事実で、頭を冷やす代わりに、ひたすら走ってこんなはずれまできてしまった。そうでもしないと、本当に行動を起こしてしまいそうだった。

「くそッ! 絶対許さねえ、あのババア!!」

 シャーは、ため息をつき、額の汗をぬぐう。

 最初は、ラティーナ、次にカッファ。その二人が狙われたのは、やはり自分に原因がある。

 ジャッキールは、次に事件が起これば、犯人の目的もはっきりするだろうといったが、これは、もしかしてシャルル=ダ・フールへの挑発ではないだろうか。表舞台に出てこない彼を引きずり出すために、彼の親しい人物を狙ったのではないだろうか。

「あぁッ! くそ、何もかも気に入らねえ!!」

 シャーは荒っぽく、木の幹を蹴るとそこを離れた。遠雷が聞こえていた。もうすぐ雨が降るだろう。

 シャーは、そのまま、水の音のするほうに向かった。案の定、そこには小さな川があり、おそらく下流は王都の地下水に流れ込んでいるのだろう。シャーはぬれるのもためらわずに、足を川の水につけた。

 川の水は思ったよりも冷たい。シャーはそのまま、膝の下の深さまでじゃぶじゃぶと水をかきわけて歩いていった。ちょうど視線の先に、流木が半分砂に埋まっているのが見えていて、枯れ枝を水の上に伸ばしている。

 シャーは、ふと、呼吸を整えた。すっと腰を落とし、そのまま、息を整えながら、枝を凝視する。左手は、腰の剣の鞘にあてられ、彼は親指でそっと鯉口を切った。

「はッ!」

 だらりと伸ばされていた右手が柄を握り、ばっと白い光が斜めに走った。

 流木の枝が切られて水滴とともに舞い上がる。シャーは、気合の声とともに、それを今度は切り下ろし、真横に薙いだ。空中に浮く水滴とともに、流木の枝は分割されて、水面にぱしゃ、と音を立てて落下した。

 シャーは、ふーっと息をつきながら、川面に落ちた枝を見ていた。きれいに三分割されたそれは、緩やかな川の流れに乗って川下に流れていく。

「だめだ……。遅い!」

 シャーは、ため息をついてうなだれた。

 シャーの脳裏には、昼間のザハークの動きが蘇っていた。

 ジャッキールは、ラティーナの件はサギッタリウスの仕業ではないといっていた。この件について、彼の見解を知りたくも思うが、それ以前に――。

 シャーは、あのザハークこそがサギッタリウスではないのかと、心のどこかで疑い始めていた。あれほど好印象を与え、親しみすら感じさせるザハークという男。しかし、時折彼の見せる鋭い眼光、常人ではない動き。そして、静かに抑えている殺気。あの戦場で自分に向けられていた鋭い殺気の片鱗を、普段の彼がどこかに静かに隠し持っているような気さえする。

 幼いころから危険な場所に送られ、命の危険も何度も潜り抜けてきた彼だったが、相手に射落とされて瀕死の重傷を負ったのは、あれ一度だけだ。目に見えない陰謀や策にはめられて敗北を認めざるを得なかったことはあるが、直接、武力でもって渡り合ったとき、彼は師以外には負けたことがなかった。唯一負けたのが、あのときの射手なのだ。だからこそ、あの時与えられた死への恐怖は、それ以外の要因と重なって、それ以降、シャーの心を蝕んだ。今でこそ、その恐怖心こそ克服できてはいたが、目の前にその元凶となったものを突きつけられると、さすがのシャーにも思うところはあった。だからこそ、シャーにとっても、サギッタリウスは特別な相手なのだ。

 もちろん、ザハークがサギッタリウスだという確証はない。ただ、昼間のあの動き。

(アイツがサギッタリウスでなかったとしても) 

 ザハークは、あの大剣をあのスピードで抜いて、正確にメハルの短剣を打ち落とした。しかも、彼はとっさに行動しただけであって、本気ではない。ということは、本気を出せば、もっと早く剣を抜き、攻撃することができるということだ。ザハークの技量については、まだ底が知れない。シャーは、それに焦りを感じていた。

「あれに勝てなきゃ、サギッタリウスになんか勝てるわけねえだろう!!」

 腹立ち紛れに、剣で水面を跳ね上げる。舞い散る水しぶきに向けて、シャーは刃を振るった。舞い上がった水滴を切り裂くように剣を振るうその姿は、見えない敵と格闘しているようなものだ。

 と、不意に、何か彼に向けて飛んでくるものが見えた。シャーはそれを叩き落す。水面に真っ二つに割れた小枝が浮かんでいた。

「随分荒れてるじゃねーか?」

 と、笑いながら声をかけてきたものがいる。声を聞いただけでもわかったが、シャーは、相手をにらみつけた。

「ゼダ、てめえ……」

 シャーは、苛立ちを隠さない。いつからいたのか、ゼダは、川岸に立ってシャーを悠然と見下ろしていた。

「何しにきやがった! オレは機嫌が悪いんだ。からかうのはやめとけよ」

「別に。いきなりテメエがどっか行っちまうから、追いかけてきただけだろ?」

 ゼダは、ゆったりとそう答える。シャーが黙っていると、ゼダは続けた。

「水相手に剣の稽古とは、風流だけどいまいち物足りねえだろう?」

「何が言いたい?」

「何って、コレだよ」

 ゼダは、にっと笑い、左手を持ち上げた。いつの間にか、ゼダは鎌剣を握っていた。刀身が極端に湾曲した形状ゆえに、鞘に収めることのできないそれをゼダは、常は布を巻いて持ち歩いていたが、今日はそれを取り払ってきている。ということは、臨戦態勢だということだ。

「何いってやがる?」

 一瞬きょとんとしたシャーに、ゼダは、にんまりとした。

「相手がいねえとつまんねぇだろ? 俺が手合わせしてやるよ」

「はっ、わけのわからねえことを」

 シャーは、鼻で笑った。

「おいおい、やめとけよ。オレは本気で気ィ立っててるからよ、手加減もできねえぞ。うっかり死なれでもしたら、後味悪いしな」

「手加減なんてする必要ねえよ。お前には、前の借りもあることさ、今日は最初から利き手でいくし」

 ゼダは、シャーの言葉を流しながら、にやりとした。

「うっかり死んでも文句はいわねえからよ。ただ、テメエもうっかり斬られねえように注意しろよ、っと!」

 ゼダがいつも肩に引っ掛けている派手な上着を脱ぎ捨てるのと、その足が砂を蹴ったのは同時だった。

 ゼダの持つ鎌剣は湾曲した刀身を持っているので、その太刀筋は独特の曲線を描く。それだけでも見切るまでは、相手しづらいものだったが、しかも、ゼダは左利きだ。左利きの彼がそれを使うと、受ける側は感覚を狂わされ、その術中にはまるのが常だった。そして、ゼダはそうしたトリッキーな戦い方に向いている。

 それにくわえ、シャーは、実を言うと、ゼダの太刀筋が非常に苦手なのだった。シャーはジャッキールとは相性が良く、技量で本来上回るはずの彼と互角以上の戦いに持っていけているが、ゼダに関しては相性が悪く、かなり不利になる。

 それなものだから、シャーの対応は比較的慎重だ。シャーは、すばやく身を引いてその刀を受けた。

 浅いとはいえ川の中だ。砂地であるので、足がとられやすく、バランスを崩しやすい。ゼダも同じ条件だったが、ゼダは、臆することなく、そのまま水をかきわけて前進してきた。ゼダのほうが力が強い。シャーはやや押され気味になっていた。

「テメエ、正気か?」

 シャーは、ゼダをにらみつけながら尋ねる。

「ふん、正気以外でこんな行動取るわけねーだろ。思えば、オレもお人よしだよなあ」

 ゼダはにやりとする。

「せっかくの機会だから、テメエの頭冷えるまで相手してやるよ! 本気で来い!」

 ゼダは、そのまま力で押してシャーのバランスが崩れたのを狙って、続けて斜めになぎ払ってきた。シャーはそれをかわしつつ、袈裟懸けに斬りかかる。すばやくゼダがそれを刃で斜めに跳ね除けた。

「ば、馬鹿じゃねえか!」

 シャーは、後退しながら吐き捨てた。

「お前、すげえ馬鹿だよ! 意味がわからねえ!」

「馬鹿じゃなく酔狂といってもらいてえな」

「何カッコつけてやがる……、ネズミ野郎!」

 シャーは、そういいながら、思わず苦笑した。

「ふん、おせっかいのつもりかなんか知らねえが、オレは、お前になんて絶対感謝しねえからな」

「別に期待してねえ。感謝されたくてやってるわけじゃねーよ」

 いつの間にか、川面には波紋が現れ始めていた。ぽつぽつと雨が降り始め、二人にも容赦なく雨粒が降り注ぐ。遠くの空に稲光が閃き、ゴロゴロと雷鳴が聞こえ始めていた。

 そういえば、ゼダと初めて戦ったときもこんな空模様だったな、とシャーは思い出していた。コイツ、雨男なんじゃないだろうか。

「お前の馬鹿さ加減はよくわかったよ。そういうことなら、遠慮なく行くぜ!」

 シャーは、気合の声とともに水を蹴った。

 雲の向こうでもう夕日は沈んでいるのだろうか。空は暗くなり、雨は強くなっていく。

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