14.”おはよう”
ふと目が覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。
窓が開いているということは、ジャッキールが目を覚ましているのだろう。実際、日の高さからみて、夜が明けてずいぶん経っているらしい。
ジャッキールは、深夜まで活動していても、朝日が上るとおきてしまうのだろう。すでに身支度を整えて、昨日の後片付けなどをしているようだった。
相変わらず活発に動き回るジャッキールは、朝っぱらから騒々しいのだが、それでも、シャーが今日目を覚まさなかったのは、かなり疲れていたからだろう。
二日酔いと昨日の大立ち回りのせいで痛む頭をなでやりつつ、シャーは起き上がってため息をついた。ついでに腰と喉の辺りも痛かったが、自業自得ではあるのであまり文句は言えない。
昨日何をやったか覚えている。一時の感情と酒が入っていたとはいえ、随分なことをしたものだと反省はしていた。
「いててて……。ちぇっ、あんなに飲むんじゃなかった」
シャーは、額を押さえつつ、水でも飲もうかと居間に向かった。
と、居間では、ちょうどジャッキールが食器をまとめて、台所にもっていこうとしているところだった。昨日の後片付けなのだろうか。汲んできた水で皿洗いでもするつもりなのだろう。
普段のシャーなら、何かとからかってやるところだが、さすがに今日はそんな元気はない。いきなり顔をあわせてしまって気まずいのだ。
「あ、ダンナ、……おはよう」
シャーは、一応挨拶をしたものの、その挨拶はいかにもぎこちない。ジャッキールは、というと、別に怒った様子もなく、普段どおりの様子で彼を見迎えた。
「ふむ、珍しく、早いな。もっと寝ているものかと思っていたぞ」
「その、起きちまったからさ」
そうか、とジャッキールは答える。ジャッキールは、別に昨日のことをとがめだてたりはしなかったが、シャーは気になってこう声をかけた。
「ダ、ダンナ、昨日は、悪かったよ」
ジャッキールは、ん、と軽く返事らしいものをする。シャーは、すっかりしょげ返った様子になっていた。
「怪我なかったかい?」
そういいながら、シャーは、昨日、引きずられて帰るときに、彼の右腕から血が滴っていたことを思い出していた。その後、別に包帯を巻いている様子などもなかったし、酒も飲んでいたぐらいなので、大した傷ではないのだろう。今も傷跡がどこだかわからないぐらいだ。
しかし、シャーはそのことが気をとがめているらしかった。
「なんか昨日、血が滲んでた気がするんだけど……」
ふむ、とジャッキールは唸る。
「あいにくとそう柔でないのでな、あんなかすり傷など、気にもとめていない」
「それはよかった、けど、本当に悪かったよ」
ジャッキールは、ため息をつく。
「反省しているならそれでいい」
ジャッキールは、ぶっきらぼうながら、少し優しくそう答えて作業に戻る。
「あのさ」
シャーは、まだそこに突っ立ったままだ。
「ダンナ……。オレ、リーフィちゃんに会いに行くよ」
シャーは、ため息まじりに言った。ジャッキールは、作業の手を止めて、シャーの方に顔を向ける。
「でも、あの子に顔を向けるの、正直まだ恐いんだ。こんなの、情けないけどさ。それでさ、あの、……ダンナに頼みが……」
と、シャーが顔を上げた瞬間だった。いきなりジャッキールの拳が飛んできて、シャーの頬を捉えた。
そのまま、シャーは吹っ飛ばされて、背後の壁に激突して崩れ落ちる。ついでに壁にかけていたタペストリーがおちてきて、彼の頭にかぶさる。
「……スッキリしたか?」
ジャッキールは、自分も思いのほか痛かったのか、手を広げてを振っていた。
シャーは、がたがたとタペストリーを払って、顔を上げた。
「ちっ! このクソオヤジめ」
シャーは、唇を切ったらしく口元を押さえながら立ち上がる。
「わけもきかずに殴りやがって……! しかも手加減なしかよ!」
「そういうことなのだろう。踏ん切りがつかないから一発殴れといいたかったんだろうが」
ジャッキールは、心外であるというように首を振る。
「俺は普段は無益な暴力が嫌いなのだが、致し方ないから応じたまでだ」
ちえっ、とシャーは舌打ちする。実際、気合を入れてほしいというつもりで声をかけたのは確かだが、自分で申告するまえに殴り飛ばされたのは気に入らなかった。
「あ、そうかよ。まあいいや。これで踏ん切りがついたぜ」
シャーは、にんまり笑った。
「ダンナ、この借りは後で三倍返しで返すからな」
「そんな返し方はいらん。まあ、しかし、健闘は祈ってやる」
そういうと、シャーは、にやりと笑ったらしい。ジャッキールは、再び洗い物に戻った。
「それじゃ!」
シャーの声と足音が聞こえた。背後でシャーが出て行った気配があったので、ジャッキールは、一応振り返る。シャーの姿はすでに部屋から消えていた。
が、何故かそろそろとシャーがそのまま後退して戻ってきた。
「あの~、ダンナ、ちょっといい?」
シャーは、そろっと彼の機嫌をうかがうようにして上目遣いになっている。ジャッキールは不気味そうに彼を見た。
「何だ、一体?」
「そのぉ、面倒かけついでに、ちょっとオネガイがあるんだけど」
擦り寄る猫のようなシャーである。いかにも普段の彼の行動に戻っていて安心なのは安心だが、なんだか嫌な予感がする。
「だから、なんだ?」
「あのですね、実は、その。今日、リーフィちゃんと会って、ちゃんと謝るのに、何かもっていくか、お茶でもおごろうと思うんだよね」
「うむ、それはいいことではないか」
「そうそれ。それがね」
シャーは、言いよどむ。
「ソノォですね、オレ、金が……」
いいにくそうにしながら、シャーは、じっと上目遣いで彼を見た。
「ちょっと、持ち合わせが、全くないっていうかさ。いわゆるひとつの無一文?」
「まさか、昨夜、飲み代に全財産使ったのか?」
表情を引きつらせるジャッキールに、シャーは慌てて言った。
「いや、その、後悔してるんですってば。ほら、オレ、結構ああなると後先考えない人だから、それでその……」
シャーは、言い訳をつらねながら手を振った。
「いや、どうしようかなーと思ったけど。だって、こんな時に、リーフィちゃんにおごってとかいえないもん。ね? 質草もないしこんなこと、頼めるのダンナしかいないから」
ジャッキールは、いつの間にか握りこぶしを固めていた。
「……もう一度殴っていいか?」
「ちょ、ちょっと、そんな乱暴な。やだよ、そんなに殴られたら顔が変形しちゃうじゃん。昨日ダンナが無茶やったせいで、オレ腰も痛いし、首も痛いし。このままじゃ、リーフィちゃんに何かあったってばれちゃうよ!」
「まったく、貴様という奴は!」
ジャッキールは、ため息をついて財布を取り出すと、いくらか選んで、シャーの方に手のひらを向けた。
「もっていけ」
シャーは、それを受け取りながら、思ったより額が大きいのをみてあからさまに笑みを浮かべている。
「へへ、こんなにいいの? すまないねえ、ダンナ。そのうち返すから」
「期待していない。その代わり、きちんとリーフィさんにおいしいものでもおごって、ちゃんと謝るのだぞ」
ジャッキールがなにやら子供に言い聞かすような口調でそういうのをきいて、シャーは目をまんまるにした。
「ええ? マジ? ホント? もらっていいの?」
「貴様に金を貸すなど、やるのと同義だ。だったら、くれてやる」
ジャッキールは、あきれた様子でそういう。
「だが、金はきちんと考えて使うのだ。お前みたいに自棄になったからといって、そういう風にやるのが、いかに今後のためにならないか……」
「マジで返さなくていいの? お小遣いくれんの?」
ジャッキールの説教をきいていないのか、シャーがキラキラ目を輝かせながらそう繰り返す。彼は不機嫌に言い放つ。
「しつこい。男に二言はない。だが、きちんと使えといっている!」
「そりゃあ、任しといてよ。いやあ、悪いねえ、ダンナ!」
シャーは、いつもの彼らしく軽い調子になった。
「それじゃ、お礼に今度、何か面白いことがあったら、ちゃんとダンナにも教えてあげるからね。じゃっ!」
先ほどより数段も軽い足取りになり、シャーはさっさか走っていく。その足音からして、彼がもう落ち込んでいないらしい様子を知って、ジャッキールは、ため息をついて渋い顔をした。
「あの男とかかわると本当にろくなことがないな」
しかし、もう十二分に、関わってしまったのだ。ジャッキールは、これはまずいことになったものだとつくづく思うのだった。
*
「ちっ、無茶しやがって……。いてて……」
シャーは、頬やら腰やらをさすりながらため息をついた。
「ちきしょう。……やっぱ、強いな、あのオッサン。酔った勢いとはいえ、絡むんじゃなかったぜ」
主にダメージが酷いのは昨夜のものだ。まさか、あんな強引な格好で投げられるとは思わなかった。おかげで首も寝違えたような痛みがある。
おまけに、先ほども手加減なしに殴り飛ばされたので、頬も痛い。
いや、シャーも、実はあれは彼が怪我をさせないように気をつけていたことを知っている。あの男はあれはあれでかなり気をつけて殴っていたのには気づいているのだが、人が頼む前に殴ることはないだろう。
昨日の一件も、自分が喧嘩を売ったので文句を言える立場ではないのだが、あれこれ見抜かれていたのが少し癪で、シャーは思わず悪態をついてしまうのだった。
「チェッ、あの、説教親父。まあ、小遣いくれたから文句言うのはやめとくか」
シャーは、足元の石ころを蹴り飛ばした。
そのまま、ぽーんぽーんと石が飛んでいく方向をなんとなく見やる。のどかな朝だ。シャーはあくびをして、そのまま足を進めようとして、そのまま動きを止めた。。
向こうからリーフィが歩いてくるのだ。酒場に向かっているのだから、リーフィが出勤してきたのに出会っても、別におかしくはないのだが、酒場に来るリーフィを待ち伏せしようとしていたシャーは慌てた。まだ心の準備ができていないのである。
リーフィは、彼を見ても表情を変えなかった。もしかしたら、無視されて通り過ぎられるのでないかと思って、シャーは、内心おびえていた。
リーフィなら、表情も変えずに通り過ぎてしまうだろう。彼女は、普段から表情の変化が薄いのだから。けれど、そうなったら、どうしよう。
そう思った時、ちょうどリーフィがシャーの前に差し掛かった。シャーは、思わず棒立ちになってしまう。
と、リーフィが不意に彼のほうを見上げた。
「シャー、おはよう」
リーフィは、わずかに微笑んで自分から声をかけてきた。
「あ、うん。お、おはよう、リーフィちゃん」
シャーは、慌てて挨拶を返す。少しだけぎこちない沈黙が続きそうになる。けれど、リーフィから声をかけてくれたので、シャーは気が軽くなっていた。それを見越したように、リーフィはもう一言続けた。
「今日は早いのね?」
「あ、ああ、うん」
リーフィは、何事もなかったかのような態度だった。シャーは、それに救われて、思い切って切り出してみる。
「あ、あの、あの、リーフィちゃん、オレ、昨日……」
「ううん、いいの。昨日のことは私が悪かったの、ごめんなさい」
リーフィが、先に謝るので、シャーはさらに慌てていった。
「違うんだ。リーフィちゃんは悪くないよ。オレが、悪いんだよ。変なこと聞いちゃったり、逃げちゃったりして……」
シャーは、リーフィの顔をちらちらと伺った。彼女の表情は、とうていうかがい知れるものではなかったが、リーフィは別に普段と変わらない様子なので、怒っているわけではなさそうだった。
「あの、本当に、ごめんよ。変な誤解されてたら、困るけど、オレは別に……」
「ふふ、もういいの」
リーフィは、少し口元を押さえて笑う。
「そんなにまじめに謝るシャーは、らしくないわ。そんなこと、忘れましょう?」
「う、うん……」
「そんなことより、どうしたの? どこかで喧嘩でもしたの?」
リーフィは、シャーの顔が少し腫れているのと、唇が切れている事に気づいたらしい。少し心配そうな彼女に、慌ててシャーは首を振った。
「こ、これは、その」
まさか、リーフィに会うのが恐くて、ジャッキールに気合を入れてもらったなどといえるわけがない。おまけに昨日荒れて喧嘩を売って暴れまわったなど、余計に言えることではなかった。
「いや、オレがちょっと馬鹿をしただけさ。気にしないで」
「昨日、怪我もしていたのに、大丈夫?」
「うん、大したことないよ。ありがとう」
「このまま、酒場に寄ってちょうだい。包帯を替えてあげるから」
「い、いいよ。そんな」
「でも、化膿したら大変だもの。ね? お願いだから」
「あ、ありがとう。それじゃあ、寄っていっていい?」
リーフィは、うなずく。シャーは、少し嬉しくなって歩き出したリーフィの後を追いかけた。
シャーはため息をついた。
リーフィは、やっぱりリーフィだ。いついかなる時も、彼女は優しいし、こんな自分を受け入れてくれる。けれど、それが万人に対してそうだから、自分は見苦しく嫉妬してしまうのだ。それでも、そういう自分もリーフィは許してくれた。
本当のことは言えるはずもない。彼女に自分が何者であるのか告げてはいけない。それを告げてしまえば、すべてが終わってしまう。
けれど、もし、そのことを告げても、リーフィなら――。
彼女なら、もしかしたら、「そう」と答えるだけで済んでしまうのかもしれない。彼女は、一体、自分をどうみているのだろう。
シャーは、彼女の後姿を見ながら漠然とそう思った。
「あの、オレ、ね。昨日、考えたんだけどね……」
シャーは、意を決してそう声をかけてみた。
「なあに?」
「オレ、昨日の件、リーフィちゃんに協力したいんだ」
リーフィが、はっとして振り返る。シャーは、目一杯余裕そうな笑顔を作る。
「そ、そりゃあっ、リーフィちゃんが、あんな奴に係わり合いになるのは心配なんだけどさ。よく考えると、オレが一緒にいれば、あいつだってリーフィちゃんに無駄に手を出さないもんね。そりゃそうさ。オレの方がアイツより大分いい男だからね」
内心ドキドキしながら、シャーは、できるだけ軽い調子を繕う。
「そ、それに、リーフィちゃんも危ないかもしれないし、オレがいた方が役に立つとおもうんだよね? ど、どうかな? 迷惑?」
リーフィは、一度瞬きをしてから、にこりとした。
「ありがとう、シャー」
「べ、別に礼を言われるほどじゃあ」
シャーは思わず苦笑する。
「オレは、リーフィちゃんの役に立ちたいし、それにこのままじゃ引き下がれないよね。今日から一緒に情報集めてみよう」
「ええ」
リーフィは笑って答えた。彼女の微笑みは、それはそれはかすかなものなのだが、シャーはいいようなく安堵していたのだ。
本当に、彼女の側にいるのは、とても居心地がいい。いつまでもこんな日々が続けばいいと彼は思っていた。
「よ、よし! よくやった!」
酒場から少し離れた住居の壁に、一人の男が張り付いていた。
その視線の先では、リーフィとシャーがなにやら笑いながら雑談している。ちゃんと話をしているらしい。シャーの表情を見ると、どうやら大丈夫そうである。繊細さでは、おそらくリーフィよりシャーの方がかなり繊細であるし、シャーは案外不安が顔に出るタイプなのである。
シャーをああ焚き付けてはみたものの、朝から出かけた彼が、ちゃんとリーフィと話をするかどうかが気がかりで、ジャッキールは先回りして酒場の近くで待っていたのだった。
(こういう雰囲気で話せているのなら、うまくいったようだな。後は、昼飯でも奴がおごれば……。いい店でも紹介してやればよかっただろうか……)
ジャッキールは胸をなでおろしつつ、ため息をついていた。
「朝っぱらから、デバガメとはいい趣味だな」
そう声をかけられて、ジャッキールは、慌てて後ろを振り向いた。
いつの間にか、後ろの家の軒先の段差に男が座っている。その肩にカラスが一羽乗っていた。男は、眠そうに大あくびをしながらものめずらしそうに彼を見ていた。
「む、誰かと思えば……!」
「朝からいやにごっつい男がうろついてるなあと思ったら、あんたかよ。しかも、トシゴロの娘が意中の男前追いかけるみたいに、壁際にそっと手をかけて、何覗いてるんだ」
ハダートは、あきれたように言った。ジャッキールは、少し顔を上気させているらしいが、元から顔色が悪いのでそうそう目立たない。だが、その居住いがおかしいので大分動揺しているらしかった。
「べ、別に、俺は、奴の人間関係などが心配になって、思わず見守っていたわけではないのだ。た、ただ、ちょっと……とおりすがったらだな、奴らがちょうど……」
(心配してるんだ……)
ハダートは、内心意外に思いつつ、顎を撫でた。
「なんだか保護者みたいになってるな。ちょいと毒されすぎじゃねえ?」
「だから、別にそういうつもりはないというに!」
ジャッキールは、わざとらしく咳払いをして、なにやら挙動不審なままハダートに尋ねた。
「それより、貴様こそ朝からこんなところで何をしている」
「俺かい? 俺は、あそこのにーちゃんに用事があってきたんだが、昨日はすっぽかされちまってねえ。てっきり、この酒場に来ていると思ったのに。で、面倒になったから、酒場で御執心の美人に渡してもらおうと思って待ち伏せしてたのさあ」
ハダートは、そうだ、といわんばかりに、懐から手紙を取り出すとジャッキールに渡した。
「面倒だから、あのにーちゃんに渡しといてくれよ。どうせ、あんたならあいつに会うんだろ?」
「まあ、そうだが、俺に渡してもよいものなのか。何か重要な情報などが」
ジャッキールは、やや困惑気味だ。
「暗号になってるし、あんたなら意味がわかっても、他言しなさそうだからいいだろ。というか、ここで内容言っちまってもいいんだけどな?」
「そんな機密を話していいのか?」
「いいだろ。その様子みてると、アンタ、あのにーちゃんに大分入れ込んでいるみたいだし、いまさら裏切らないだろ」
む、とジャッキールは詰まる。その様子が面白いらしく、ハダートはにやにやした。彼は、周囲に人気がないのを確認して、少し声を潜め、ジャッキールを手招いた。ちょうど人気のない路地裏だ。生活感がないわけではなかったが、外に出る人間もいない。小さな声で不穏な話をするのには、案外向いていた。近づいたジャッキールに、彼はにやついたまま話を続けた。
「いや、実はな、近頃ちょこちょこ事件があるんだよ。そいで俺は忙しいんだ。あんたも女狐のことは知ってるかい?」
「女狐?」
ジャッキールは、そう反芻して眉をひそめた。ハダートは、その反応に満足してうなずいた。
「その女狐さ」
このザファルバーンで女狐といえば、現国王シャルル=ダ・フールの数人いる継母の一人のサッピアを指す言葉だった。先代国王セジェシスは、かなり大雑把な人間でちょっと変わったところがあったらしい。彼は夫人や王子に序列をつけるのを嫌がったらしい。そこで周囲のものがなんとなく序列をつけたのが、そのまま王位継承順位になったということだった。
第一夫人には、セジェシスも気に入っており、二人の王子を産んだ王妃が事実上選ばれていた。彼女は大人しく、王子も優れた人物だった。それに、セジェシスの実子のうち一番の長子はシャルル=ダ・フールであったが、その次に生まれたのが彼女の王子二人である。シャルルは、庶子だったため、彼女の王子が当然次の王位につくと見込まれていた。
そして、第二夫人と序列されたのが、そもそも強力な力をもっていた貴族の娘であったサッピアである。彼女は、やたらと権力欲が強い女で権謀術数に長けていた。さらに後ろ盾も多く、何かと王族の揉め事にかかわっていると言われている。先だっての内乱でも、相当暗躍したらしく、シャルル=ダ・フールに厳しく蟄居を命じられたといわれていた。
ジャッキールも、前の暗殺未遂に関わった時、多少はサッピアのうわさを聞いている。もし、シャルルの暗殺に成功しても、サッピアから妨害を受ければ、彼らの担いでいた王子の王位簒奪は成功しないのだ。しかし、その時にきいた情報では、今は表にはでてきていないとのことだった。
「その女狐がどうした。大人しくしていると聞いていたが」
「それが大人しくしてるような女じゃない。あんたもかかわった暗殺未遂事件以降、復活してやがるのよ」
ハダートは、肩をすくめた。
「アンタは直接あの事件に関わってたから、わかるだろう。もともと、シャルルが王位に就く予定がなかったことは、あんたもよく知ってるだろうけど、本来、一応王位継承順位の割り当てがあったんだよ。内乱前にな」
ふむ、とジャッキールは唸った。
「まあ、少しは……」
「シャルルを第一王子と数えた時に、あんたの大将が担いでたのが第三王子。王位継承一位だった第二王子ラハッドは内乱時に毒殺されちまって、二位はその第三王子ザミル、三位は女狐の一人息子の第四王子リル・カーン」
「第三王子のザミルは、兄が死んだ後の継承順位は自分が先だと主張したのだったな。しかし、実際、兄に手を下していたのがザミル本人だった」
「そう。だが実は真犯人がヤツだということは、王朝の重臣にはバレてたのよ。そんなヤツを王位に就かすわけにはいかねえが、かといって序列からいくと次はリル・カーン王子。つまり女狐の幼い一人息子が来てしまう。そうなればそうなればで当人と外戚がうるせえのは目に見えてる。王子もまだ少年だし、こんなところであの女に垂簾聴政されちゃあ地獄だってえんで、苦肉の策で出してきたのがシャルルだったのさあ」
「長子だという点を重要視させて、強引に推したのだったな?」
ジャッキールが、確認するようにたずねると、彼はうなずいた。
「そうよ。実はその他色々有象無象がいて収集がつかなくなっていたし、それに序列外だが一番性格がオヤジに似てるのがアイツだったからね。セジェシスっていうのは、困った人間だったが、なかなか面白い人で、それだけ信奉者が多かったんだよ。シャルルがオヤジによく似ているというだけで、それだけで賛成に回る人間はいた。まあ、貧乏くじだけどな」
ハダートは、肩をすくめた。
「ごたごたはそれで一応収まったんだが、まあ、不満な人間はいた。その筆頭がザミル王子だったわけさ。ヤツは、そもそもの王位継承位で正当性を主張できる大義名分があった。女狐も息子を推したかっただろうが、ザミルがいたんじゃ難しいからな。ところが、ザミルは待ちきれずに暗殺未遂事件を起こしてしまった。さっきも言ったとおり、兄貴を殺したのが実はザミルだということは、重臣の間では周知の事実だったんだが、シャルルが情けをかけて情報をそこで握りつぶしたので、取り立てて処罰されてもいなかった。もちろん、他の王族もこのことは知らなかった。ところが、暗殺未遂事件により、そのことが周知の事実となり、さらにヤツは国王暗殺未遂の咎で王位継承権を剥奪されているんだよ。そうなりゃ、邪魔者がいなくなった女狐は、元気にもなろうというものさ。あの女は、前の内乱の時に、アイツにかなりきつーくやり込められて、今後、表に出てきたら容赦なく殺すとまで言い渡されたので、しばらくは大人しくしてたんだが、こんな好機に黙ってるような女じゃねえわな」
「きつく? 珍しいな、あの男が女相手にそこまで」
ジャッキールが小首をかしげてそうきくと、ハダートは、あきれたように言った。
「あんたは経緯を知らないからそういうのんきなことが言えるんだよ。あの女とアイツは、昔っから犬猿の仲だぜ? アイツは両手と両足の指で数えられないほど、あの女に毒を盛られーの、刺客を派遣されーのしてるんだから、そりゃあそういう気にもなるさ。実際何度か死にかけてるからな。前回の内乱の時だって散々いろんなことしでかしたもんで、怒り心頭だったんだぜ。俺なんかは、てっきりとうとうぶっ殺すのかと思ってたぐらいよ。あの男も、一応は、母親の一人だってんで、我慢してるが、本当は世界で一番殺したい女だと思っている筈だぜ」
ハダートは、くわばらくわばらと首を振る。
「それで、その女がらみでちょっと動きがあってだな。前にタレコミがあって、女狐が要人暗殺をたくらんでいるってきいてたんだよな。それっきり何もなかったんだが、続報があってね。どうも、手の込んだ裏工作をしているらしいから、気をつけなっていいにきたのさ。ま、詳細はこの紙に書いてあるよ。あんたからも、気をつけるようにいっといてくれよな」
「俺が言ってもしょうがなかろう。それより、少しは、まともな帝王学でも学ばせておいたらどうだ。ヤツは、感覚が小市民的かつ繊細すぎるぞ」
「いまさら手遅れだよ。もともとそういうことを期待されてなかった男だからねえ。そう思うなら、アンタが教えてやってくれよ」
そんなことをいわれて、ジャッキールは困惑気味になる。
「俺は、一介の剣士なので、そのようなものは学んでいない」
「いいじゃねえか。一般常識的に教えてやればさあ。意外と、アイツはあんたには一目置いてるらしいから、多少は素直にきくだろうさ」
ハダートは素気無くそういうと、ふいににやついて小首をかしげた。
「しかし、ダンナも、今日はいやに完全武装じゃないか。朝っぱらから夜逃げの準備かい?」
王都に住み着いているのは、すでにハダートの知る所になっているらしい。だから、普段の彼が、最近、黒い半そでの普段着でうろついているのも知られているのだろう。
雰囲気が物騒なジャッキールであるが、さすがに普段着でうろついている分にはそれほど物々しくない。けれど、今日のように、鎖帷子を着込んだ上着に黒いマント、例の魔剣を背負っていると、やはり目に付く。
「別に。少し仕事があるからな」
「仕事? なにやら穏やかじゃないな」
ハダートは、にやりと笑って立ち上がった。
「それじゃあ、俺はこのあたりで。屋敷に帰ってゆっくり寝たい気分なんでね」
大あくびしながら彼はふらふら歩いていく。それを見送りながら、ジャッキールはため息をついて、手の中の紙を掲げた。
「……ろくでもない話を聞いてしまった」
よく考えれば、何故、一国の将軍とこんな路地裏で、暗殺未遂だのなんだのと、国家転覆の陰謀めいた話をしなければならないのか。第一、自分は今は一般市民だ。前回の暗殺未遂には多少関わってはいたが、よく考えると自分は敵方の人間だったわけで、何故こんな深い事情を聞かされているのだろう。
(これは、確実に何かあったときに、巻き込まれるな)
ふと、壁の向こうをみるとシャーとリーフィは酒場の中に消えていた。
あの調子で談笑しているところに、こんなひどく無粋な話を持ち込むこともなかろう。せっかくリーフィと和解して、ほのぼのした空気のところに、そんな重い話をもっていくのは、彼が可愛そうな気がした。
「仕方がない。所用が済んだ後で、立ち寄るとするか」
最初から言付かるのを断ればよかった。ジャッキールは、重いため息をついてとぼとぼと路地裏を後にするのだった。
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