15.蠍のジュバとエーリッヒ-1

 酒場はまだ店が開くには早かったので、シャーはリーフィの控え室に入れてもらい、包帯を替えてもらったり、頬を冷やす手ぬぐいをもらったりした。

 酒場は昼前には一応開くので、女の子達はすでに何人か集まっていたが、リーフィがシャーと仲良くしているのは今にはじまったことでないので、あきれながらも気にしていない様子だった。 

「シャー、何か飲み物でも用意しましょうか?」

「あ、そ、そうだねえ」

 リーフィにそうきかれて、そういえばシャーは、今日は朝飯を食べ損ねていたことを思い出していた。

 正直、今日は二日酔いが酷いので、何も食べる気が起きなかったわけで、今も食欲はなかった。リーフィとすんなり和解できた安心感と今までの緊張のせいで、すっかり忘れていたが、落ち着いてきた今になって頭痛が戻ってきていた。

 リーフィがその様子にぴんときたのか、小首をかしげてきいてきた。

「シャー、もしかして、二日酔い?」

「ん、その、ま、まあ、そうかな。い、いやあ、昨日、ちょっと飲みすぎちゃって……」

 慌ててそう明るくごまかしたが、リーフィは心配そうな顔になった。

 シャーは、基本的には酒には強く、足元がふらつくほど飲んでいても、なんだかんだで意識は保っていた。そして、どんなに飲んでいても、大抵けろりとして朝からご機嫌にやってくる。普段は、舎弟の前では全くいいところのないシャーであったが、酒の強さだけは周囲から認められていた。

 そういうシャーの二日酔いはかなり珍しい。言い換えれば、それだけ悪い酒の飲み方をしたということである。

「少し待っていてね」

 リーフィはそういうと、部屋の外にでていったが、ほどなくして温めたスープに卵を落としたものと温かいお茶を入れて戻ってきた。

「賄い用の昨日の残りのスープだけど、よかったら……」

「あ、ありがとう。気を遣わせて、ほんと、ゴメンね」

「ううん、気にしないで。シャーが元気がないと、すごく心配になるもの」

 シャーは、リーフィの気遣いに思わずじーんとしてしまった。つくづく昨夜の行動の馬鹿さ加減が呪わしくなったが、今は彼女の優しさに甘えることにする。リーフィを前に、自己嫌悪で落ち込んでいる場合ではないのだ。

「それで、リーフィちゃん、アイツのことなんだけど……」

 シャーは自分から話を振ってみる。

「リーフィちゃんは、何か有効な情報つかんでいるの?」

「有効といえるかどうかはわからないわ。私がつかんでいるのは、彼が賞金首を追いかけているらしいっていうことぐらいなの」

「そうか、似たようなものだねえ」

 シャーは、スープをすすりながらため息をついた。

「シャーも、何が探っていたのでしょう?」

「ん、まあ。でも、肝心のところを知っているのは、ジャッキールのダンナなんだよねえ。あの男何かつかんでるくせに、どういうわけが口を開いてくれないから」

「ジャッキールさんが黙っているというのは、何か裏があるのだわ」

 リーフィはうなずいた。

「ジャッキールさんは、意味もなく隠し立てする人じゃないものね」

「でも、あいつがさっさと口を開いてくれりゃア、あいつらが探している賞金首のムルジムが誰かわかるっていうのにさあ」

 やれやれとシャーは、ため息をついた。

「でも、オレもダンナにゃ今はちょっと強引に聞き出せないし」

 なにせ、借りができてしまった直後なので、いつものように強気に出られない。

「いっそのこと、リーフィちゃんがアイツに話してくれるように迫ってくれたら、ダンナ、女の子には弱いからつるっと口を滑らせるかも」

「まあ、そうかしら。でも、ああ見えて、ジャッキールさんは、余計な事は絶対に喋らないわよ、きっと。そういう人だもの」

 シャーは、面白くなさそうにため息をつく。

「そうかなあ」

「そうよ」

 リーフィは、にっこりと微笑んだ。

「焦っても仕方がないわよ。ジャッキールさんなら、きっと話すべき時に話してくれるわ」

「だといいけど。あのダンナ、ああみえて、変なところで頼りにならなくってさ。どうも、忘れてることがありそうで……。変なところで大ボケかましやがるんだよな」

 シャーが頬杖をついてそれによりかかったとき、ふとリーフィがそういえば、と言った。

「シャーは、ベイルの借金取りには会ってないの?」

「借金取り?」

 シャーは、目を瞬かせた。

「そう、ベイル、借金取りにおわれていたの。実はね、私、ミシェに会う前にベイルの借金取りに会ったのよ。それで、彼がまた追われていて、身を隠していることをしっていたの」

「そっか。オレは確か……」

 シャーは、記憶を辿った。陽光が入るとちらりと青くみえる瞳がぐるりと右上を向いた。

「ええと、最初にあの子、ミシェだったかな、彼女を尾行したときに見かけたよ。なかなか凶悪なツラぁした……。アイツら、あの子にアイツがどこにいったのか聞きまわってたぜ」

「ええ、彼らが少し前、この界隈をうろついていて、彼を知らないかときかれたわ」

 リーフィは、かるくうなずいて、頬に手を当てた。

「きっと彼はかなり催促されていたのだと思うの。その借金を返済する為に、一発で大金が手に入る賞金首を狙っていると思うの。けれど、そんな大金がかかった賞金首は一体何をしたのかしら」

「俺もそれを調べていたんだけど、なんだかよくわかんなくて……。ダンナがその辺を調べてくれてるんだけどさ。ただ、そんな大金が絡んでるなんて、ちょっときな臭い話のような気がするんだ」

 リーフィは、そう、とうなずいて続けた。

「けれど、彼自身が借金取りなんかに追われていて、そんな賞金首を追いかけられるかしらね。考えなしな彼ならありえることだけれど、でも、もしかしたら」

「もしかしたら?」

 リーフィは、シャーに視線を合わせた。

「この前、借金取りに声をかけられたといったでしょう? 私、あの人達を知っているわ。彼の借金を立て替えて払ったことがあるの。けれど彼らを見かけたのはそれっきりなの。彼らはしつこくって、多分、ベイルが見つからないのなら、私のところに何度も聞きに来ると思うわ。もしかしたら、彼はすでに借金取りに捕まっているのかもしれないわね」

「え? でも、昨日リーフィちゃんの家の前にきてたじゃんか」

 シャーが目を丸くしてたずねる。

「それで思ったのよ。借金取りの人たちも、賞金首をねらっているのでないかしら。でも、賞金首の人は本当に強い人で、借金取りたちもベイルの力を必要としていた」

「あの男は、確かにああ見えてソコソコ腕は立つからね」

 シャーが、同意する。

「ええ、助っ人としてはぴったりだわ。弱みも握っているから、彼も断らないでしょう。もともと自分でも探していたのだし」

「それで、借金をチャラにするから協力しろって言われてるってこと? それはありえるけど」

「ベイルが私に会いに来たのは昨日だわ。話がまとまったといっていたのよ。探している男の情報が手に入った。その代わり、本当に危険な仕事だから、成功してもこの街にはいられないってね……」

「そういえば、おとつい、あのたちの悪い酒場でも見かけたよ。追われている割りにゃ、余裕な面で話し込んでいるから、追われてるヤツらとは別の縄張りの酒場だろうなと思ったから、それで安心してるのかと思ったけど。もしかしたら、そのときはもう話がついてたのか……」

 リーフィは、指を組んだ。

「けれど、そんな上手い話なのかしらね? もし相手がそんなに危険な賞金首なら、たとえ勝てたとしても、用済みの彼は無事に逃げられるのかしら」

 彼女は心配そうに目を伏せた。

「昨日、彼があまり神妙だから不気味に思っていたの。もしかしたら、彼は成功しても失敗しても、後がないのかもしれないわ」

 シャーは、ふむ、と唸った。確かにリーフィの懸念ももっともだった。

 けれど、それは探している賞金首がどの程度「危険な」男かによるだろう。どういう事情で賞金首として追いかけられているのかだ。ただのゴロツキの喧嘩に絡んでいたり、なにかの意趣返しで狙われているのならまだいい。裏に、もっと深い事情が絡んでいるとしたら、その事情を知ってしまった者も消されてしまう。

 ベリレルがそうした使い捨て要員に選ばれた可能性があるとしたら、それはよほど黒い話がかかわっていると見てよかった。

 自分はかかわりたくもないのに、暗く陰惨な陰謀に巻き込まれた事のあるシャーは、なんとなくその勘にひっかかるところがあって気がかりになっていた。最初はそんな大事だと思わなかったけれど、本当は何かもっと裏がある話なのではないだろうか。『ムルジム』には。

「それなら、ちょっとオレも方法考えてみるよ」

 それから、シャーは、少し心配そうなリーフィに笑いかけた。

「リーフィちゃん、そんな顔しないでよ。オレ、今日から、本気で本気の、それこそマジでやるからさあ。マジなときのオレのこと、リーフィちゃんよく知ってるでしょ? ね、信頼してよ」

 リーフィは、そんな彼に笑ってうなずいた。

「私は、シャーのことはいつでも信頼しているわ。時々心配になることはあるけれど、シャーならいつでもどうにかしてくれるもの」

「んふふ、そんなのいわれると照れくさいなあ、オレ」

 陽気にわざとおどけて応えながら、シャーは、リーフィの出してくれた飲み物を口に含んだ。

 さわやかな酸味が、まだ少し痛んでいた彼の頭痛を散らして、視界をすっきりさせてくれたような気がした。

(それにしても、ダンナのつかんでる情報ってなんなんだろう。賞金首のムルジムって一体?)

 シャーは、ジャッキールのことに思いを馳せた。

 ジャッキールのヤツは、今回の件について、かなり深い何かを知っているのだ。間違いなく、ムルジムという謎の人物に対して、何かを確信しているし、この事件の裏にどんな事情があるのか、大体予想がついているのだろう。

 けれど、彼は口を割らない。それは、本当に彼が言うように「情報が足りないので、不確実なことはいいたくない」からなのか、それとも別の理由からなのかはわからない。

 しかし、彼は、その対象に向けて自分達とは別のアプローチをするのだろう。なんとなくそんな気がした。それで結果が出てからでなければ、ジャッキールは、その話をしないつもりなのかもしれない。


 *


 

 路地裏に男の死体が転がっていた。そして、その男を数人の男達が取り囲み、男の死体を検分していた。男の周囲には血が飛び散っていて、それはまだ黒くなっていない。ということは、彼が殺されてからそう時間が経っていないことを示していた。

 そこは、貧民街同然の廃墟の多い場所で、昼間から人気が全くなく、入り組んだ路地が縦横に走っている場所だった。

 そこに集まる男達の姿を見ているものも誰もいなさそうだった。

「こいつ、いつの間に……」

 男達は、ざわざわと話し合う。

「姿がみえねえと思ったら」

「でも、悲鳴が聞こえなかったぞ」

 男は、首を切られて死んでいたが、他に目立った傷がなかった。背後から急に喉を切られたのだろうか。だが、結局の所、その男の死体が示すのは、彼を殺した者が大変な手練れであるということだった。

「ムルジムのヤツ、ここまで追い詰めたのに、一筋縄じゃあいきそうにないぜ」

 男達は、路地の向こう側を見通した。その向こうに、かの男は潜んでいた。

 彼らは、その路地が行き止まりになっていることを知っている。が、ここで男が殺されているのは、彼の踏み入れたものは殺すという意思表示なのだった。

「何いまさらびびってやがるんだ」

 男の中の一人がそういった。

「この路地にいるのは間違いねえんだ。俺が行って来てやるぜ」

「ベリレル」

 彼らは青年に目を向けた。

「こういうときのために俺が雇われたんだろう?」

 ベリレルは、血の気が多いらしく、眉をきっとあげて彼らに言った。

「そうはいっても、結構な数の男があいつにやられてるんだぜ。無理に突っ込むのは命取りだ。どうせこの先は袋小路で逃げられやしねえんだから、応援を募ろうぜ」

「何いってやがる。だったら、あんたらはココで待ってろよ。俺があいつを引きずり出してきてやるぜ!」

 ベリレルの強硬な態度に、他の面々は肩をすくめた。

「じゃあ、お前がいってきな。その間に、応援をよんできてやるよ」

「ああ、そうしてくれよ! その代わり、成功した時の報酬は俺に多めによこせよな?」

 ベリレルはそういい捨てて、男達が見守る中狭い路地へと入っていった。

 路地は意外に長かった。振り返ると男達はどうしたものかと相談し始めていて、彼のことを見ていなかった。

(腰抜けめ!)

 ベリレルは、そう思いながら、腰の剣の柄に手をふれたまま進んだ。

 途中で角があって、そこを曲がってしまうと男達の姿はみえなくなってしまう。彼は気をつけながら進んでいった。その向こうに確か開けた場所があって、そこに目当ての男が待っているに違いない。いや、それか、もっと手前に潜んでいるのか。

 彼がそう考えた時だった。

 不意にキラリと光が走った。前にあまりにも気を取られすぎて、きっと背後への警戒が薄れていたのだろう。誰かが後ろからそっと近づいてきていたことに、彼は気づかなかった。

 振り返ろうとした時にはもう遅く、彼の喉元には小剣が突きつけられていた。 

「動くな」

 男の声は、いやに落ち着いていて、そして重かった。

「てめ……」

「振り向くと殺す!」

 男は、静かな威圧感を持ってそう告げる。男は、おそらく黒い服を着ているようだった。それ以上視線を向けるのは危険だから、探りようもなかったが、ずいぶんと背が高いようだった。

 ベリレルの喉に白刃を突きつけたまま、男は続けた。

「少し貴様に聞きたいことがある。素直に話せば、命は助けてやる」

「何いってやがる。さっきの男を殺したのは、てめえだろう?」

「それは人違いだ」

 男は、笑いを含んだ声で答えた。

「その男を殺したのは、お前達が追いかけている男の仕業だろう。俺は、ただお前達を追いかけてきただけだ」

「だったら、一体何が目的で?」

 ベリレルは隙をうかがうが、男は、彼の喉元に刃を突きつけたままで油断をする気配はなかった。

「それよりも、お前達は何が目的であの男を追っている? 金か?」

「それ以外の何の理由があるんだよ?」

「ああ、そうか。借金でもあるらしいな。相当の報酬をもらえるのだろう。お前達が追いかけているのは、ムルジムという男か?」

「なんで、そんなことてめえに答えなければならない?」

 ふう、やれやれ、と男がため息をつく気配がした。

「自分の立場をわからんらしい。全く、最近の若造はみんなそうだな。人の話が聞けないらしい。俺は答えろといっているのだ!」

 ぐっと剣が彼の皮膚に軽く刺さる。血がわずかににじんだ気配がして、ベリレルは唾を飲み込んだ。

「そ、そうだよ、ムルジムってヤツを追ってる。ムルジムの首さえ獲れば、借金返して王都からずらかって余りあるほどの賞金がもらえるんだ」

「ほう、素直でよろしい。このまま、俺の質問に、素直に答えるようにな」

 男はそういって笑ったようだった。陰気な笑い方だとベリレルは思った。

「さて、貴様は、どこでムルジムのことを聞いた。ムルジムは一体何をして追われている? それほど高い賞金ということは、裏に大物が絡んでいるのだな?」

「し、しらねえ……。た、ただ、金になるってきいたから……」

「それだけではないだろう? お前はもっと深い話を聞いているはずだ。さあ、知っていることを話せ」

 ベリレルの首筋に突きつけられた刃先が、わずかに喉の皮にめり込む。

「……そ、それは、ムルジムがやったことは」

 ベリレルは、観念して小声で言った。

「ムルジムが、やったのは、国家転覆とそれに対する裏切りだよ」

「裏切り?」

 意外そうな口ぶりで男は尋ねた。

「国家転覆ということは、今の国王の体制に不満なものが人集めでもしていたのか?」

 ああ、とベリレルは答えた。

「一時期、やくざ者が流れ者を集めていた時期があったんだ。オレも声をかけられたけど、仕事の内容は言えないといわれてヤバそうだから断ったんだが、後できいたら、どうやら今の国王を引き摺り下ろそうとする連中が仲間を集めていたっていう話だった」

「ムルジムは、それに一口乗っていた。が、何かの事情で下りたのか?」

「多分、そうだと思う。ムルジムの首に賞金がかけられたのは、そのすぐ後だったからな。事情は知らねえ。ワリにあわねえから辞めたんじゃねえかって……」

「ほう、確かにそんな大きな山を途中で辞めたではすまされんだろうな。裏切り者には死あるのみだ」

 背後の声は、他人事のようにのんきにそういった。

「ああ、しかし、そいつはうまいこと逃げている。当初は、多分秘密裏に始末しようとしたらしいんだが、なかなか腕の立つ男で、それに潜伏が上手いから、賞金を首にかけたのさ。けれど、追い詰めたのに、後一歩というところでうまくいかなくて」

「ふむ、相変わらずしぶといヤツだ」

「それで、俺と他にも腕が立ちそうなヤツに声がかかって、昨日の夜から追いかけて今日この路地まで追い詰めたんだ。けど、さっきも一人殺られちまって……」

「なるほど。ヤツはこの路地の向こう側にいるのか」

「ああ、そうだよ。他のヤツらが怖気づいちまったから、それで俺が行こうと思って……!」

「はは、無謀だな。あの男は、お前程度では敵わんよ。悪いことは言わん。手を触れずに去れ」

 男は楽しげにそういった。

「何だと?」

「可愛い恋人もいるのだろう? 地道に借金でも返すか、高飛びするかして暮らした方がまだマシだ」

 すっと男は、剣を喉から離した。

「非常に参考になった。すまなかったな」

 男は笑った。ベリレルは、冷や汗が額を流れ落ちるのを感じながら、男に聞いた。

「あんた一体誰だ」 

「誰でもいいだろう。貴様には関係のない男だ」

 ああ、しかし、と男は気が変わったのか、そっと含んでこういった。

「だが、一ついいことを教えてやろう」

 男が笑った気配がする。彼は小剣を完全に手元に引いて、それからそっと囁くような小声で言った。

「俺が本物のムルジムだよ」

「何だって……」

「振り向くな!」

 思わず視線を背後に向けそうになる彼に、男は鋭い口調で制止をかけた。 

「振り向けば殺す!」

 男は声だけでそう牽制する。なんとなく逆らいがたいものを感じて、彼は金縛りにあったように動けなくなった。

「そのまま壁際を向け!」

 そう命令され、路地の側の廃墟の壁の方をむくと、男が自分の背後に回ったのがわかった。

「よし、その場で三十数えろ。三十数えたら、振り向いてもかまわない。だがそれより一秒でも早く振り向けば殺す」

「ッ、てめえ……、一体……」

「ムルジムとやらは、俺が会おう。貴様は後を追いかけずに、元の場所に帰れ。わかっているだろう? ムルジムとやらも危険な男だろうが、俺の方がもっと危険だということが?」

 男がにやりとした気配がした。ぎくりとしてベリレルは寒気が走るのを感じた。確かに、最初からわかっていた。男には何か不吉な血の気配がしていた。彼に妙に逆らいがたいのも、きっと彼の纏う殺気が尋常でないからだ。

 彼に逆らえば、きっと彼の言うとおりに殺されてしまう。

「命が惜しいだろう? 大人しくしているのだ。さあ、数えろ」

 男はそう囁くように言った。

 ベリレルは、仕方なく三十秒数え始めていた。その間に男が遠ざかっていく気配はしたが、彼の殺気がいまだにベリレルを縛り付けていた。

 ようやく三十を数えて、彼がおそるおそる振り返った時には、そこには誰もいなかった。ただその路地の向こうで、目当ての男と先ほどの男の纏っているであろう殺伐とした空気が感じられていた。

 

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