2.地下道での挑戦
ひたひたと水の滴る音。そして、さらさらと流れる音。
水量はさほど多くもないが、人間が歩くために作られた道はあくまで狭く、ところどころ水につかってもいる。その為、どうしても、水に足をつけて歩くことになった。
この水は、どうやら街を流れる川から流れ込んできているようだった。
浅いところではくるぶし程度だが、深いところではひざまであるものの、流れは緩やかでさほど苦労せずに歩くことができる。
王都には地下水脈が豊富である。砂と荒れ地の中でこの街が古来から繁栄してきたのは、ひとえにその水のおかげとも言えた。
流れる水を激しく蹴り飛ばして進むことはできない。まさか、こんなところに見張りもいるまいが、それでも細心の注意が必要だった。
ざぶざぶと流れてくる水をかきわけながら、進んでいるのはラゲイラの私兵たちである。
彼らは、ハダートとともに行動を起こす部隊と、そして、ジャッキールとともにシャルルの寝室へと忍び込む部隊のふたつに分かれていた。
こちらはジャッキールが指揮していることからもわかるように、どちらかというと隠密行動にすぐれたものたちが構成員となっている。人数は三十名ほどで、今歩いているのは先発部隊だった。道が分かれば、十五人ほど残しておいた後続部隊が、続いてくる手はずになっていた。が、その成功如何は、すべて先発隊の仕事が成功するか否かにかかっている。
「しかし、現れないな。あいつ」
「大方逃げたんじゃねえのか?」
あいつというのは、例のシャー=ルギィズのことだ。
今のところ、彼が姿を現したという情報はなかった。朝があけてから、彼の姿はまったく見えなくなってしまったのである。
シャーの言ったとおり、カタスレニアのある空家の枯れ井戸を降りていくと、水路に繋がっていた。なかなか大きな水路で、おまけにあちらこちらにわずかに意匠をこらした飾り物がある気配がする。手持ちの灯りの明るさからでは、その形跡をわずかに認められるだけだった。
「なんだか、気味が悪ぃな」
前を行く男がポツリとつぶやいた。
「お偉方の趣味なんて、大方こんなもんだろうさ」
他のものが言う。
「悪趣味なんだよ、大体」
「こらっ! 静かにしろ!」
後ろにいた男が鋭く、しかし小声で制した。
「後ろに、ジャッキールさんがいるんだ。……無駄口叩いているのがわかってみろ、何をされるやら……」
黙りこくると、ざあざあ水が流れる音が響いた。男達がごくりとのどを鳴らした音も、その水音にかき消されていった。
「うわあっ!」
と、突然、一番前のほうから悲鳴が上がった。壁を反響して悪夢の中のように聞こえる悲鳴の後、水の中に重いものが倒れたような音がする。
「どうした!」
前に向かって叫んだとき、ぱちゃ、と足元で水が鳴った。
「ここを通すわけにはいかねえな」
寒気のするような声が、地下水路に響き渡る。
「誰だ!」
「誰だっていいじゃないか。地獄の使いだぜ」
声はそう続けた。徐々に近寄ってくる足音が聞こえる。心細い灯りに、青い布切れがふわりとゆれた。
「き、貴様はッ!」
誰かが叫んだ。
「もう遅いぜ!」
ちら、と青い鉄の輝きが、一瞬暗い道の中に光った。ビシイッっと何かをひっぱたく音がし、横にいた男が足元をすくわれるように倒れた。わずかな光で、そこにいる男の冷たく光る青い目が、一瞬だけ彼の目を捉える。
「シャー=ルギィズ!」
そう叫んだ男も、足を蹴られて水の中に転んだ。その間に、彼は他の獲物に襲い掛かっている。暗い地下に、彼の刀の光だけが青白く光って見えた。
逃げる男達を追いながら、シャーはざばざばと水をかきわけてすすむ。一人の男を射程に捉え、シャーは彼に向けて刀を振るおうとした。
その時、ふいに自分の胴を狙って飛び込んでくる、銀の光の流れが目の端にちらついた。
「ジャッキール!」
シャーは、その剣の流れ方で相手の正体を見破ったらしい。猫のような機敏さでそれを避けると、水がばっと飛び散った。
「今度は名前を覚えていただけたようだな」
ジャッキールは、楽しそうな口ぶりで言うのが聞こえた。
「またあんたか」
ジャッキールは手にランプを持っていたようだが、それを壁の飾り物の突起に引っかける。それでようやく彼の顔が見えた。
ジャッキールは、薄ら笑いを浮かべたまま、闇の中に立っていた。黒い服が暗い中に溶け込んだまま、その青白い顔だけがはっきりと見えた。
しかし、以前と何か違う。
鋭い刃物を思わせる冷たい顔立ちと、光の加減で赤くみえる鋭く光る瞳が、はっきりと見えていた。そのせいで、ずいぶん雰囲気が違うので、一瞬シャーは面食らった。
「なんだい、アンタ。責任とってって断髪式したわけ?」
シャーは若干茶化すように言ったが、ジャッキールのほうは思ったほど食いついてこなかった。ふっと笑うと、彼はにやりとする。
「責任をとるというほど、俺は重要な立場にいるわけではない。しかし、俺は俺なりに自分に整理をつけただけだ。だが、貴様には感謝している。俺は貴様のおかげで戦士としての本分を失わずに済んだのだからな!」
余裕すら感じさせる笑みを浮かべ、ジャッキールは目を細めた。
「ふ、ふ、ふ、貴様がここに来るのはわかっていた。直接ザミルが兵士をひきいて王の間にいったとしても、それほど連れて行けるわけではない。それに、あの王子はさほど剣の腕が立つわけでもなかろう。だとすれば、ここを突破されることのほうが、事情を知っている貴様には恐ろしかった。そうだろう」
「へえ、いい線いってるじゃん、あんた。……イカレてる割には、頭が切れるでないの」
シャーは、内心したうちしながら、皮肉ぽくいった。
「ほめ言葉と受け取っておくぞ。だが、安心しろ。俺の目当ては王の暗殺などでないのだ」
ジャッキールは、まだ冷静らしい瞳を翻してにやりとした。
「俺は貴様さえ殺せればどうでもいい。……今日は、文字通り”死ぬまで”付き合ってやるから、安心しろ」
シャーは、うっとうしそうにいった。
「オレは忙しいんだ。あんたの相手してる暇はないの」
「ところが、俺の方はそうはいかん事情があってな」
抜いた剣を構えなおしながら、ジャッキールは陰鬱な微笑を浮かべる。
「俺は貴様に借りがある」
「じゃあ、あとで利子つけて返してよ」
シャーは、剣をひきつけながら後ろに下がった。
(ちッ、なんてこった! よりによってコイツかよ!)
ジャッキールなどをまともに相手していたら、本当に時間が無くなる。雑魚を相手にしてひるんだところで引き上げるつもりだったのに、ジャッキール相手であればその作戦が通用しない。
(くそっ! コイツは、てっきりザミルかラゲイラに付き添っていると思ってたぜ!)
隠密行動が求められる一方、この役目は危険も伴う。ラゲイラはジャッキールを使い捨てるつもりか。
「何を考えている!」
いきなり、ジャッキールの剣が、きらりと閃いた。
ぴっとシャーの足元の水が切れた。いや、シャーがそこにあった足を浮かせて一撃を避けたのである。そのまま二、三歩後退し、シャーは刀を口の近くに持っていった。
「チッ! 性懲りのねえ」
唾を飛ばして目釘を湿すと、シャーはおどけたように笑った。
「しっつけえおっさん。……あんた、絶対に女の子にもてないぜ」
「ぬかせ!」
ジャッキールが、そのまま刃を横にないだ。が、今度はシャーは避けなかった。青い火花がパッと暗い水路にはじけとんだ。
「手短に頼むぜ。……オレは忙しいんだ!」
シャーはそれを返すと、そのままジャッキールの喉めがけて突き上げる。だが、ジャッキールの剣が戻ってくるほうが早かった。それを払い、そのままシャーの首に返って来る。
ふとジャッキールは背後を振り仰いだ。そこには、いきなりのことで、二人に目を奪われて固まっている部下たちがいた。
「さっさと行け!」
ジャッキールが叫んだ。
シャーはハッとする。ジャッキールが襲ってきたのは、彼がこの前の屈辱を雪ぐためだけでない。彼のつれてきた部下を、先に進ませる為だ。
「てめえ!」
シャーが後ろを向こうとしたが、ジャッキールは許さなかった。
すぐに耳の横を掠める一撃が来る。後ろを向けないシャーの耳に、部下達が水音をさせながら、慌てて逃げるように進んでいくのが聞こえてくる。
「くそっ!」
シャーが足を進めかけると、その前を阻むようにジャッキールが立ちはだかった。
「貴様の相手は俺だ。行きたければ、俺の息の根を止めてから行け!」
ジャッキールの暗い笑みが、わずかな光を縫ってシャーの目に届いた。シャーは、笑い返す。普段の彼にはない、ある種凶暴な、それを抑える様な、複雑な笑みだ。
「折角、助けてやったのによお!」
シャーはわざとらしく大声で言った。
「……今度は、間違いなく地獄に送り届けてやるぜ!」
薄く反った長刀を引き付け、そのままそろっと足を出す。独特の構え方だが、これは彼の師が彼に教えたものだ。
ジャッキールは、剣を横に振って水気を払って構えなおした。
ジャッキールはもはや笑みもしない。蒼白の顔に殺意に輝く瞳をきらめかせる。しかし、その瞳は以前と違い、静かだった。
「いいだろう。そのつもりで来い! 俺も手を抜かん。覚悟しろ!」
ジャッキールの軍靴がすばやく水を蹴った。
闇の中できらめく刃に、シャーの体は自然と反応する。
上からたたき上げるようにして、振りかざされた剣を止める。金属の衝撃が、握っている両手にびりびりと伝わった。
(コイツ……!)
シャーは無理やり剣を返して、横に逃れる。
(やっぱり、コイツ、間違いなく強い!)
痺れる手に、シャーはそう確信した。
しかも、以前と、動きが違っている。前よりさらに切れのある動きをしているし、前に遊びだといった剣の甘い片鱗はまるでない。殺剣というのがぴったりな、異常に冴えた鋭いものだ。
(この野郎、……けじめつけたってそういうことかよ?)
つまり、心の整理がついたということだろう。良くも悪くも、自分が彼に火をつけたらしいのだ。
(マズイことしちまったぜ。……あのまましょぼくれてくれればいいものを!)
とにかく、今日は時間がない。できれば、うまくジャッキールを巻いて、そして、彼らを止めなければ。
彼の考えを読んだのか、ジャッキールがにやっと笑った。
「予定が狂ったようだな。残念だったな、アズラーッド」
「ふん、多少の狂いなんざあ、アンタを手っ取り早く倒せば済むだけのことだぜ」
わざと強気で言い捨てるシャーに、ジャッキールは肩をすくめた。
「だといいが……。ずいぶんあせっているようだが、何を気にしているのだ?」
「俺はアンタとちがって、気にすることが多いのさ。あのコのこととかね」
そうか、と、ジャッキールは薄ら笑いを浮かべながら続けてきいた。
「気にしているのは、あの娘だけか? 病弱で、ろくな役にも立たないという噂の非力な王のことも、気にしているのではないのか? アズラーッド!」
「それは、オレを挑発しているつもりかよ?」
シャーは不機嫌そうに言った。
「貴様がそう感じるのなら、そうかもしれん」
「ふーん、それじゃ失敗だな」
シャーは、足を引きつけ、静かに水の中を歩く。
「オレはシャルルって奴が嫌いなんだ。……あいつを気にかける暇はないね」
「なるほど、そうだろうな」
ジャッキールは、軽く鼻で笑う。
「だが、貴様はシャルル=ダ・フールを助けている。必死になって助けているではないか? なぜだ?」
「なぜ? そりゃ、シャルル=ダ・フールの周りの連中が大切だからだろうよ」
「それだけかな?」
「ああ、そうさ。……それにもう一つ理由があるとしてもさ、そうだな」
シャーは、かみしめるようにして笑った。
「言ってみりゃ、ただの気まぐれさ。あんただってなるんじゃねえの。一度や二度」
彼のほのかに青い目が、暗い地下水道でなぜか燃えるように輝いて見えた
「馬鹿なことをと思いながら、それに命を賭けちまいたくなるようなそういう酔狂な瞬間がさ」
「なるほど……いい答えだ! 気に入ったぞ!」
満足げに唇をゆがめながら、だん、とジャッキールが一歩踏み込んできた。
「ならば、酔狂なままに死ぬがいい!」
ジャッキールの唇にのっているのは、暗い歓喜の笑みだ。
(ああ、コイツ、やっぱりイカレてやがるな)
シャーはそう思いながらも、何となく懐かしく思っていた。その男の発する狂気は、彼の心の奥底にもこびりついているものに似ていた。
あの時の戦場の空気を、その男はまとっている。
真っ黒なマントを広げているジャッキールの姿は、死神のように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます