4.青の時刻

 ざっとサンダルを鳴らしながら、シャーは斜め前にとんだ。そのまま一番右にいる男に狙いをさだめる。

 男はそのままシャーに突っかかった。両方が攻勢に出ている。とすれば、早く攻撃態勢に入ったほうが有利だ。しかし、突っかかってきた相手よりも、懐に飛び込んだのはシャーのほうが早かった。背の高い身体を少し前のめりに縮めて、刀をひきつける。

「うぐっ!」

 シャーは刀を一閃すると、そのまま相手の刃を避けて横に飛ぶ。どたん、と後ろで男が倒れた。シャーの刀に血のりが着いていないことから考えて、どうやら相手を切らなかったようである。一瞬手のひらを返して峰で打ったのかもしれない。

 ちょうど真中からかかってきていた男が、刀を振りかぶってこちらに向かってくる。シャーは無表情に足をすっと運ぶ。

 刃が触れ合うかと思った瞬間、意外にもシャーは妙に悪戯っぽく含み笑いを浮かべた。男がその笑みに気づく前に、彼はいきなり身を斜め後ろに翻した。予想外の行動に、一瞬相手があっけにとられる。

 その直後、後ろに流した右足で、たんと軽く地面を踏む。その反動で、前に飛ぶが、それは相手の男が予測していた動きと微妙に変わってくる。闇にまぎれながら、シャーは前に警戒を向けていた男の側面を狙った。

 だが、実際男に当たったのは、シャーがすっと忍ばせるように突き出した剣先ではなかった。振るわれる切っ先に向けて必死で防御しようとしていた男は、同時にシャーの足が男の足を掬いにきているのに気づかなかったのである。そのまま右足を蹴られ、男は剣を手放してみっともなく前に転んだ。

 シャーの目はすでに次の相手に向けられていた。あと残りは一人である。しかし、前の二人を相手にしている間に、男との距離は随分狭まっていた。すでに相手は剣を振りかぶって、シャーを射程に捉えていた。

(避けるのは無理か!)

 シャーは素早く切り替えて、足を一歩引くと相手の剣をがっちりと受けた。思ったよりも相手は力が強い。急遽切り替えたため、バランスがうまくとれなかったのもあり、はじき返すには体勢が悪かった。

「チィッ!」

 シャーは舌打ちし、仕方なくやや引き下がる形で剣を滑らせ、相手とつばぜり合いに持ち込んだ。鍔迫り合いは、できるだけ避けたかったがやむを得ない。

 相手も必死なのは薄明かりのなかでもわかる。男の、ごつい顔がひきつっているのがわかった。軽く相手の唸りが聞こえた。

「くっ……」

 力ではどうやら勝てそうにない。シャーのサンダルがやや引きずられて、砂をかんでズザッと音を立てる。鍔を相手の剣に絡ませたまま、シャーはにやりとした。力をいれて歯を食いしばっている状態での笑みは、何となくぎこちないものである。体の右側をぶつけるように寄せていたシャーは、相手から押さえつけた鍔に目を移しながらすーっと目を細めた。

「き、今日のさ、晩飯ってなんだった?」

「な、何?」

 いきなり訊かれて、咄嗟に男は反応を返してしまった。

 シャーはにんまり笑いながら、どこか不気味に目を光らせた。

「オレはねぇ、今日、まだ何も食べてないの。お金ないから」

「な、てめぇ、こ、こんなときに何を!」

 不可解な彼の言葉に、男は当惑する。

「だぁ~から、早く切り上げたいのよねぇ」

 シャーの言葉に反応している間、少しだけ力が緩まった。シャーは、いきなりふうっと力を抜いて、鍔をひき、体を斜め前にもたれかけるように移動させる。突然、力を抜かれて、男はぐらりと体をゆるがせた。突然、シャーの口調が変わった。

「殺されないだけありがたく思え!!」

 ハッと顔を上げたとき、シャーの肘が眼前に迫っていた。

「ひっ!」

 肘鉄を顔面にくらい、男はぶっ倒れた。シャーは、バランスを崩して、とっ、とたたら足を踏む。その様子がどことなく間抜けで普段の彼らしいのが、妙に場違いに感じられた。

「だ、ダメだ!」

 後ろで短刀を構えていた部下が、泣きそうな声を上げた。

「こいつ、普通じゃねえ!」

「あら~ひどい」

 シャーはあくまで口先だけでおどけてみせた。

「それじゃ、おじさんたち、どっかいってちょーだいよ」

「コラッ! 何怖気づいてるんだ!」

 急にバレンが声をあげた。先ほどまでバレンは連中のもっとも後ろでほうけた様な顔をしてシャーの変貌を眺めていたはずだった。急に我にかえったのは、部下の泣き言が耳に入ったことで、自分の立場を思い出したからだろうか。

「そんな奴片付けてしまえ!」

「それじゃ、アンタが相手しろよ! バレンさん!」

 急にシャーが割って入ってきた。いつの間にやらゆらりと進んできていたシャーは、びしりと切っ先をバレンに向けて口をゆがめて笑った。

「それともナニか? あんた、まさかオレを恐がってるのか?」

 いつもよりかなり低いシャーの声には、静かな闘志が含まれている。

「まぁさか、手下にやらせてる間に自分は逃げるなんてェせっこい手はつかわねえだろうなあ。犠牲になってんの、部下ばっかしだけど、オレはホントはあんたに一番恨みがあるんだよ」

 シャーはいささか残虐な笑みを浮かべた。

「一度地獄の門の手前まで送ってやろうか? いい社会勉強になると思うんだがなあ!」

「な、なんだッ!」

 バレンが虚勢を張っているのはすぐにわかる。声が彼らしくもなく震えているからだ。シャーの異様な迫力に飲まれて、バレンは普段の彼のように横暴に振舞えなくなっていた。それでも、まだシャーに対する侮りの方が強かった。バレンは敢えて声を高める。

「てめえこそ、地獄の門をくぐって来い! 何偉そうな事いってやがる!」

「いい返答だ。オレぁそういうの、案外好きだぜ」

 シャーは暗い笑みを浮かべると、月に憑かれたようにそろっと剣を腰あたりにひきつけた。

「あんたに地獄を垣間見せてやるよ」

 シャーの視線を感じたのか、バレンは慌てて剣を引き抜いた。いつもは猫背のシャーだが、今はほとんど背筋を伸ばして立っていた。ただ、右手の指にだらりと刀がひっかかっている。ただそれだけなのに、シャーの全身からは相手を威圧する冷たい空気のようなものが発散されている。

 リーフィが、黙ってそれを見つめている間に、バレンの体がわずかに揺れ始めた。震えているとおもったが、そうではない。バレンは、攻撃するタイミングを失っているのだ。飛び掛りたいのに、棒立ちのシャーの気迫に圧されているのである。

「どうしたんだよ、来ないのかい?」

 彼自身が口を開いたのかどうだかわからない。ただ、シャーの声が夜闇の片隅から響いた。直接対峙していないリーフィ自身ですら、なんだかここから逃げ出したいような衝動に駆られる。空気は引き絞った弓の弦のように、張り詰めたままの危うい均衡を保っている。

 その爆発寸前の危険な空気の中、シャーは突然笑った。そして、無造作にぶら下げていた剣を握りなおして持ち上げたのだ。チャリーンと鍔が鳴った音が、空気を切り裂いた。

「さぁ、来い!」

「うおおおおお!」

 シャーの笑いに触発されたのか、直後、バレンは飛び掛ってきた。その勢いは余りにも激しい。大きな刀の下にシャーのひょろりとした体があるのが、頼りなげに見えた。

「シャー!」

 リーフィが思わず声を立てる。だが、振り下ろされた刀は空を切る。シャーは、わずかなステップを踏んで、それをかわすと横に回りこんだ。そのまま、すかさず横薙ぎに一撃を加える。だが、バレンも伊達に威張っているわけではなかったようだ。巨体に合わない素早さで、刀を戻すとシャーの攻撃をはじき返してきた。

「おおっと、とっと!」

 力だけならバレンのほうが強い。シャーは、思わぬ一撃に煽られて、後退しながらたたらを踏んだ。だが、その口調が示すとおり、彼にはふざけるだけの余裕がある。

「今の、ちょっと感心したぜ。さすがのオレ様も見誤ったって感じかな。そこまで動けるとは思わなかったぜ、バレンさん」

 シャーが口笛を吹きながら楽しそうに言った。大きな三白眼の目が、わずかに細くなる。

「どーせ、ぶちのめすなら雑魚よりも強い奴をやったほうがいいからなあ。せいぜい楽しませてくれよ!」

「ほざきやがってッ!」

 怒りに任せて一閃したが、それはシャーにがっちり押さえ込まれた。受け方にもあるのだろうが、痩せた細いからだのシャーのどこにそんな力があったのかわからない。バレンは唸りをあげながら、彼を押さえつけようとしたが、びくとも動かなかった。

「くそっ! てめえ!」

 ぎりぎりと音を立てる鋼の音に、いらだった声をあげると、シャーは不意ににやりとした。

「力だけじゃあ勝てないぜ、バレンさん。…たまにゃ、頭使えよ」

 人が変わったようなシャーの表情に、バレンは少しだけ恐怖を覚える。

 その瞬間だ。バレンが、シャーの表情に怯えを見せたとき、不意に彼は身を引いたのである。滑らかな猫のような動きで彼は身を沈め、刀が振り降りてくる前に自分の手にある剣で斜めに空気を裂いたのだ。

 途端、赤い飛沫が空中に飛ぶ。リーフィは血の予感に身を硬くしたが、それはバレンの右腕を浅く切り裂いただけだった。だが、それと同時にバレンは握っていた刀を取り落としてしまっていた。彼を戦意喪失に追い込むにはそれで充分だったのだ。

 今、バレンの命はシャーの機嫌一つにかかっている。月光にうすら笑うシャーの、青みがかった瞳だけが獣のように光って見えた。

 血が一筋張り付く刃をびゅっと振るい、シャーは冷徹な目で男を見た。路上に飛び散る赤いあとには、目もくれないでただ冷たい目でバレンをみているだけだった。リーフィですら、ぞくっとするほど、その時のシャーは知らない別の男のようだった。

「今なら、命だけは助けてやるぜ……。退きなよ」

 シャーの声はあくまで静かだ。だが、高圧的に叫ぶよりも、効果的でもあった。まず、ぎゃあああと声をあげて逃げ始めたのは、バレンの戦いを見ていた彼の部下達である。一人が逃げれば、他の連中もそれに便乗した。叫び声をあげながら、彼らはそのまま一目散に逃げていく。声も出ないバレンだけを残して、とっとと逃げ去っていく。

「お、おい! お前らっ!」

 ようやく声を絞り出したバレンは、突然突きつけられた切っ先に、ひっ、と喉の奥で悲鳴を上げた。

「で、あんたはどうするんだ?」

 シャーはへたりこんでいたバレンを見下ろしながら訊いた。

「さっきも言ったよな。今なら命だけは助けてやる。リーフィから手を引きな。ついでに借用書も破ってやれよ。……そうだ、あんた、今もってるんだろォ?」

 ひょいとシャーは切っ先をバレンの喉に触れさせた。冷たい射抜くような青い瞳をむけ、彼は続ける。

「どうせ、リーフィに取引を持ちかける気だったんだろうが。借金をちゃらにしてやるから、その中のものをよこせってさ」

「う……、それは……」

 バレンは低く唸る。

「さて、それをオレに渡せばあんたを解放してやるよ。十数えてやっから、その間にオレに渡せ。それとも、五秒のほうがいいか?」

「まま、待て! わかった! 渡せばいいんだな!」

 バレンは焦って震える指先を懐に突っ込んだ。そのまま、一枚の紙切れをぐしゃぐしゃにしながら出してくる。バレンの指先が紙を握り締めるたびにがさがさと音が鳴った。

「こ、これだ!」

「ありがとさん」

 シャーは、剣を握っているのと反対側の手でそれを受け取ると空中で広げて月明かりに照らした。ざっと読み、それが本物であることを確認し、彼は突然あとずさった。

「筆跡からみても本物だな。いいだろう。とっとと逃げな」

 シャーはそういうと、バレンから引いた刀に紙をひっかけ真っ二つに裂いた。それから手で復元できないようにばらばらにちぎる。シャーの注意の半分が紙切れにいった瞬間、バレンはようやく我に返った。そのまま、ばたばたと立ち上がり、よろけながら必死で立ち退いていく。シャーはそれを追いかける事もなく、ただ借用書をびりびりにすると、それを宵闇の空気の中に撒き散らした。

 リーフィはようやくそっと身を起こす。シャーは彼女に背を向けたままだ。どんな表情をしているのかもわからない。

「シャー……、あなた……」

 リーフィの声に、シャーは首を振った。

「まだ、そこから動かない方がいいよ。リーフィちゃん。真打っていうのはねえ、最後にでてくるから価値があるもんなんだよ」

 リーフィは足を止める。シャーの言ったことの意味がわかっていたつもりだった。シャーは、建物の一角に視線を集中した。しんと静まり返った日没後の街の一角。そこに影が落ちている。人気はなかったが、シャーはうっすらと微笑むと、刀を上げた。金属がちゃりんと鋭い音を立てた。

「おい。ベリレル。そこにいんだろ?」

 冷たい声で、シャーは街角の闇を切っ先で指し示す。

「出て来いよ。このまますますわけにはいかねえんだ」


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