間5 ネムル
ネムル
器に垂らされる、一滴の水。
それは当然何度も何度も繰り返し垂らされればそのコップは満たされることになる。
今、ネムルと彼女の横に立つ魔獣の狼が見る光景は、まさにそれ。器が火口に、水が溶岩に変わったのだ。
「ギリッ……」
歯軋りをして悔しさを表情に滲ませる。
「分かってたんだ…………。溶岩だって知らなくても、ここの街をどうにかして破壊しようとしてるっていうことは分かってた…………」
横に並ぶ狼の毛並みを数度撫でる。今はそれが一つの精神安定剤と化している。
「瘴気が浸透してないのも、単純にそこだけ土地が薄かった。地面が薄いから、そもそも瘴気を含むものそのものが存在して無かった」
やはりあの違和感にはもっと注意しておくべきだったのだ。いち早く気付いていれば、いや、もっと気にかけているだけでも、討伐隊が機関砲や火砲でディセクタム・ドラゴンの足止めをしている間に対処ができた可能性はあった。
「そして、わざわざドラゴンがこのコーダの街に近いあの場所に巣食っていたのは、今は眠っている火山としての機能を復活させるため……」
地面の薄さは、地下と直結するということを表す。つまり、何か地下から噴出するとすればその正気が浸透していない小さなポイントからである。
そして、そのポイントはドラゴンが巣食う領域の付近に山のように点在している。それ即ち、ドラゴンが瘴気で人を遠ざけたのも、況してや草木を枯れさせたのも全てが直結する一つの溶岩源を監視するため。
「ギリッ」
奥歯を噛む。やはり強さが大きく、ズレて音が鳴る。
「ウガアァアアァ!」
逃げ遅れた人は流れ出し、火口に溜まる溶岩に飲まれていく。それに対して救出するかのようにドラゴンは咥えると、そのまま丸呑みしてしまう。
表面は空気と触れることによって冷やされ、黒さを増していく中、それでも熱量は尋常ではないにも関わらずドラゴンは着地する。鱗には、もといドラゴンにはそれほどの耐性が備わっている。
「キャアアアァアアァアア!」
「助けて……! ねぇ!」
悲痛な叫び。
深い盆状の火口。溜まる溶岩は、噴出口から距離を取れば取るほど面が上昇するために時間を要するようになる。
それを考慮しても、人が全力で一目散に大通りを逃げたとしても、次々に飲み込まれていく光景をネムルはただ傍観しているしか無かった。
「助けに行けば死ぬ…………。助けに行けば死ぬ…………」
助けたくても助けに行けば死ぬ。
目の前まで迫る溶岩から発せられる熱量は耐え難いものがある。
しかし、それでも。手を伸ばして助けてくれと叫ぶ人間が目の前にいる。子供の手を引く母親が叫んでいる。
「子供だけでも……! ねぇ! 助けて!」
「……!」
間に合うのではないか。
少し降りて子供を拾って戻ってくるだけなら間に合うのではないか。
狼に乗れば間に合うのではないのか。
「……っ……ぁ…………」
ふわりと身体が前に倒れる。
「!」
その僅かな動きですら母親は見逃さず絶望の中に僅かな希望の光を得た表情を浮かべる。手を引く力も強くなったよう。
「ダメだ」
しかし、その浮き上がるような感覚の軽い身体は後方からの強い力に引き止められる。
「ダメだ、ネムル!」
耳元で騒ぎ立てるのはテイナ。
顔を見ずともわかる声が近くに来た安心感を覚えるが、その声色は怒りにも悲しみにも憐れみにも変化するものであった事が、目の前の親子の命を諦めなければならない事を明確にさせる。
「でも…………。ううん、ごめん。つい、ね…………」
容易に、ひとひとりをたすけられるかもしれないなどという希望論を、環境にも敵にも見放された絶望が渦巻いている此処で振り翳してしまえば、道連れになることは経験済み。それで失ったものもあった。
「昔の感覚はもう捨てて。捨てないとこの先もどうなるかわからないんだから」
これはまた別の昔話。アイギスの匣が只の伝説の一つであった頃の癖。
「…………」
「ビュゥウウゥウゥ……」
耳元を伝う風の音。標高もあり、もとより風は強い街であるが、その風の向きは普段と異なっている。意識を持っていくのはドラゴン。
「アガァアアァアァ!」
敵もやはりこちらを意識している。奴の巣から見て、コーダの街と共にパーデットの五人にもやはり意識が向いていたのは間違いなかった。
「バチッ」
こちらに気づき次第、再び火球を口元に生み出す。弾けるような音をさせ、近くにある膨大な熱源からそれを奪うように。
「まただ……っ!」
フィリアはパイルパッドを構える。
「……ぅ……」
「チッ」
一度目では、最高威力の矢を放出することで、火球の威力を減少させ、更には分散させて直接的な被害を避けることに成功した。それを再び再現すべく、フィリアは音を漏らしつつ、唇の端を噛んで目一杯に弓を引き、迎え撃つ準備を完了させる。
そして、防御に関して最大を誇る大きな盾を持つアスカは、五人の先頭で盾を構えて有事に備える。長方形と三角形を積み重ねたような五角形の形の盾を硬い地面に突き刺して、いざという時の衝撃を待ち構える。
「ガアアァ」
その熱源も相まってか、射出するまでにかかった時間は一度目よりも相当に短縮された。それは、ドラゴンが火球を放つと同時に発された短い咆哮からも分かる。
「行って、きて!」
矢に想いを込めて放出する。パパパンと空中で空気を数度、小刻みに叩きつけて舞うそれは、数百メートルの距離では速射しても外さない精度まで底上げされている。
先ほどと同様に火球と衝突する。
「バチン」
しかし、ドラゴンの火球の射出速度に対して、威力が比例していなかった。
「強い……!」
「ダメだ、環境があの火球を構成する時にエンチャント効果みたく、プラスに働いてる!」
火球は弱まることを知らず、一瞬でフィリアが放った鋼鉄の鏃を持つ矢を燃えつかせた。それ程までに、溶岩という熱源が反比例的に威力を増幅させてしまっていた。
「ううぅおぉぉおおお……!」
拡散もしない一つの火球が五人の元にたどり着くまでの時間は、ほぼゼロに等しい。抵抗するものもなく、直接アスカの構える盾に衝突した火球は、回転による推進力で盾の中心を凹ませ、今にも貫通して五人を襲おうとしている。
「らぁ!」
しかしそれをさせる訳にはいかない。歯を食いしばり盾に力を乗せて横方向へ振り回す。
「ゴオォオオォ」
その轟音が耳を掠めて、後方へ一気に飛び去っていく。
「ドォオオォン」
「!?」
その行き先を最後尾にいたイオナが確認すれば、火球は森を一線に焼き付くし、接した木々は炎を発している。また、火球が最終的に静止したのは、ドラゴンが巣食っていた山に大穴を穿ち、そこにも溶岩というものから発せられる明るさを生み出した時だった。
「これは…………」
「山火事どころの話じゃないわね……」
誰もがその光景を見れば凄惨以上の表現をするだろう。目を疑うような一方的で絶大な攻撃。
「ガシュッ」
地面に突き刺さる盾。
少し前には空から大剣が降ってきたことでデジャヴを感じたが、その盾はベコベコに凹み、表面が焦げて燻っていることに驚かされる。
「ぐああぁぁ…………」
そうであれば、当然被害としてアスカはタダでは済まされない。
「大丈夫…………なわけないよね」
「何も握れねぇぞこれじゃあ……!」
手の平を中心に、盾を支えた左肩まで盾越しに火傷を負った。既に皮膚から血が流れだし、その姿はあまりに痛ましいものとなる。
「ううぅっ……ぁあぁ!」
手を握ろうと試みても、痛みで歪ませる顔がその苦しみを教えてくれる。
「やめろアスカ。っても、水で冷やせるわけでもないし…………」
「いいから! まだドラゴンはそこで飛んでんだぞ!」
その後は防戦一方。
合流した討伐隊も交わり、マグマが足元に溜まる火口の淵を駆けずり回り、ドラゴンに翻弄されるばかり。先に見たとおり、ドラゴンは人すらも捕食し自身の食糧としてしまう。その光景が今回も数度見られた。更には、風圧で溶岩に落とされるもの、逆側の山を転がり落ちて命を失うもの。
人数が多すぎるが故に起こった事故と言っても過言では無い。
「溶岩なんだ……なにか、使えないかな」
「無茶言わないでよ。普段から扱ってるならまだしも、溶岩なんてもの初めて見るもの……。利用方法なんてそう簡単に思いつかないわ」
「そもそもドラゴンは溶岩なんてもろともしないんだよ! みんなは見てないかもしれないけど、ドラゴンは冷めて固まった部分に触れてた」
「嘘だろ!? 冷めたなんて言っても、人が触ればただじゃ済まない……」
「鱗に強力な熱耐性があるなら、内臓は……?」
「溶岩……じゃないにしても、あれほどの被害を出せる火球をポンと出せるんだ。体内器官にも耐性はあるって思っても間違いないんじゃないかな」
イオナは後方を、手を握って親指を立てた状態で二度ほど腕を振り示す。
「うっはー! よく燃えてるなぁ」
初めて後ろを振り返ってその光景に気づいたイオナ以外の四人。
「これじゃあ確かに、体内を燃やそうとしてもダメかもしれないな…………」
「ならどうするんだ。わざとドラゴンに食われに行って、噛まれないように飲み込まれるか?」
「中から剣でズタボロにするの?」
「いくら巨体のドラゴンって言ったって、胃は広くないだろうし、そんな器用な真似が出来るなんて到底…………」
森一つを飲み込むような、巨躯という言葉では事足りない程の体躯を持つ魔獣であれば、その手段が有効な一つの手として選択肢に含まれるかもしれない。しかし、片目元をしかめながら話す五人では、ドラゴンの体内から攻撃する前に、喉元を通らず神ちぎられてしまう可能性が大いにある。
「なら最終手段だよ。あの鱗、一枚でもいいから引っぺがして、そこから中までザクザクやってやる…………!」
ボソボソと呟くように言ったのは、俯き気味で、だらりと垂らした拳をギュッと強く握りしめているネムルだった。
「ドラゴンに触れないといけないんだ。そんな無茶…………」
「ここにはもうあのドラゴンを追っ払う術もないんだよ! だったら早く決着をつけてあげないと、下に逃げていった人たちまで……みんな、みんな死んじゃうんだ」
「何を焦って……」
「人が目の前で助けてって言ってるのに、何も出来ないでただ立ち尽くしてたんだよ!? 逆になんで何も思わないでいられるんだよ!」
興奮しているのは、その場面に大きく感化されたためか。
ただ、同様の感情をネムル以外の四人が抱いていない訳では無い。過去一人の小隊員を目の前で亡くした。魔獣と対峙して討伐しなければならないのであるから、多かれ少なかれ犠牲者という者をこの目で見てきた。全くなれないものを。それを見る度に、そこで即座にスッパリと諦めがつくかと言われればそうと言い切ることは出来ない。しかし。
「助ければこっちも死ぬんだ。それだけで理由は十分だろ」
目頭にいっぱいの涙をためる。天を仰ぐのは、その涙を零さないように。
ネムルも頭の中で分かってはいる。それでも、感情の逃がす場所が見当たらないのだ。
再び下を眺めると、重力に従って塩気の強い液体が落下する。その跡を、強張る袖でごしごしと拭いさる。一息つけて、気持ちを落ち着かせている。
「ごめん」
声はすっかり興奮の色は無くなる。
「分かってるけど、やっぱりさ…………」
ニコッと笑う。首を僅かに傾けて、最大の笑顔で。
「ブォォォ…………」
「!?」
ネムルに気を取られ、徐々に近づいてくるドラゴンに気付くことが遅れる。風を切って滑空するように。降下率一桁を保ちこちらに一直線で飛んでくる。
「カチャッ、キンッ」
ネムルは腰元の短剣に手を掛けて、水平に勢いよく引き抜く。
「無理なものは無理だよ」
笑顔は消えて、真剣な表情に変わっていた。
言葉と同時に、後方から接近するドラゴンの捕捉行動を一つひらりと避け、代わりにドラゴンの鱗と鱗の隙間に短剣を差し込む。
浮き上がるネムル。
「ネムル!」
「チッ、あの馬鹿!」
「私がやる」
フィリアはパイルパッドをファーストの状態に展開する。
ドラゴンがこちらに気を向け、一瞬でも手の届く程に高度を落とせば、ネムルを無理矢理にでも連れ戻す瞬間が存在するかもしれない。
「……ッ」
そのまま、即座に狙いを定めると、ドラゴンの行動を先読みし、一見すればあらぬ方向と言われるだろう空中へ矢を放つ。
「ガキンッ」
鈍い音。
目の前には剣を掲げるように持ったアスカ。その剣は、下から上へ一瞬で過ぎ去って振り切った後の停止状態。
矢は、矢羽根がパイルパッドから完全に離れた瞬間に振り上げられたアスカがもつ鉄の塊に遮られることで、慣性により数メートル上空を舞はしたものの、付近に「ズサッ」と音を立てて突き刺さる。
「ダメだ……! フィリアの狙撃の上手さを信じてないわけじゃないが、あれだけ高速で動くドラゴンなんだ。万に一つでもネムルにあったったらどうする!」
「でも…………!」
誰かが何とかしてくれるという状況ではないから、誰もが駆け足で、作戦を確実なものとする前に行動をしてしまっている。
「ただ、どうしようもない」
「見てるだけならなにか……」
空を飛行するドラゴンは、既に高度を相当なものにしている。フィリアのパイルパッドであっても、外力によって到達する頃には威力は皆無なものになるほどに。
今の四人に言えることは、何も出来ないということだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます