アイギスの匣
すくあ
プロローグ
プロローグ
石壁は、いつの日かの揺れにより割れたのか、それとも元々なのか、僅かながらにもヒビが作られ、水脈と当たったそれからぽたぽたと透き通った青の雫が滴り落ちている。
光の差し込まないこの洞窟の奥底では、簡素な装飾のみが、しかし風景との対比のお陰か豪華に感じる『匣』が、その蓋を閉ざそうとかろうじて開けている。何よりも人の感覚に触れるほどの大層な動きはしないにしても、完全に口を開いたそれを見た人間からすれば、それは不自然なほどに音をなさず角度を変えていた。
***
「あ、あっ……」
視界を覆う巨躯を持つ角の生えた魔獣を顔前にして尻餅を付いた幼き少女に、その姿をむしろ嬉々として『エサ』という認識の元襲いかかる薄汚い茶色の毛皮を持つそれ。
「っ……!!」
言葉にならない音は、森の中では生憎響かず、助けになるわけではなかった。
魔獣が右手を振りかぶり、大きなモーションから繰り出される高速度での叩きつけながら掴み取る行動は、相手を気絶させ確実に仕留める一種の本能である術だ。
「ガアアアアアアアアア!!!」
雄叫びと共にそれは降り掛かる。
しかしタイミングよく訪れた斧を持った、まだまだ若き老人は、魔獣の右手と相反するベクトルから斧を振りかぶって打ち合わせる。
「大丈夫かぁ!」
少女は腰が引けながら、涙を流しながらも立ち上がり老人の背後に付く。
残念なことに、魔獣の右手と打ち合わせた斧は見事に奥深くまで突き刺さったせいで、途轍もない力に引かれ抜けずに痛がるそれと同体となっている。
「逃げるぞ、嬢ちゃんよ!」
短い呼吸の中、有無を言わせず抱え上げ一目散に森から抜けるべく走る。
脇に抱えられ、揺れながら走り去ったエリアを見れば、ピッタリと同じ間隔で、いや寧ろその距離の差を詰めながらこちらへと迫ってくる。
「おじいちゃん……! あの変なのがくる……!!!」
その言葉につられ振り向くと、一段とその距離は縮まっていた。
「手を突き抜けるくらいに斧が刺さってるんだぞ! どこにそんなに気力も体力も残ってるんだ……!」
痛みを感じないのか、紛らわす為なのか三メートルを越す重量感から生まれる遠心力を生かし、両の手で木々を薙ぎ倒しながらこちらへと足をばたつかせている。
そして、ついにその時は来る。
「ぐあっ」
あとの続かない、低い悲鳴と共に二人は地面を転がる。咄嗟に振り返ると、数十秒前に見た大振りな無駄だらけの動きとは違う、食事を狩る目をした化け物が確実性をまさせた攻撃を一秒に満たない刻の内に繰り出さんとしていた。
「逃げろ……!」
脇で転がっていた少女を、力の限り遠くへと投げる。
そのままこちらに顔を向けた体勢で叫び散らす。
「さっさと村へ逃げかえ……」
しかし、「れ」と言い切ることは叶わなかった。
背中には大きな4本の傷。魔獣の、比較対象の考えが及ばない巨大な爪と同数のそれが服を切り裂き、皮膚を切り裂き、内臓までは到達せずに済んでいた。
目の前でその光景を見た少女は、地面を円形に濡らし、それでも必死に逃げようと震える脚を両手を握り作った拳で叩いて治まらせ、立ち上がる。
「ごめんなさい、おじいちゃん……」
見ず知らずの老人が命を懸けて守ってくれた命を無駄にはしたくなかった。
頭は至って冷静だ。
本当は怖くて逃げ出しただけ。助けられる術はないし、茶色の毛に付いた赤い返り血が、目の前にいるひとりの人間の悲しき現実を具現化させていたのだ。
そんなもの人目で気づいてしまった。
「ごめんなさいごめんなさい……」
自責の念に駆られ、走りながらもその言葉を口にする。
ドン。
「キャッ」
という本日二回目の尻餅とともに訪れたのは、モンスターではなく、彼女の父親であった。
「どこに行ってたんだ? 探したんだぞフルール」
フルールと呼ばれたその少女は、父の手を取って村の方へと駆け出す。
「お、おい……!」
「あっちに行ったら……、あっちに行ったらみんな死んじゃう……!」
「死ぬ……?」
「死んじゃうの……!!!」
普段聞かない子供の大きな声に驚く。
そして、よく見れば、服には泥の汚れや染みの跡に加え、血の跡までがあり、どこかで引っ掛けたのかほつれも存在していた。
父は引っ張る手をぐいと引き直し、娘を静止させる。
「何があったんだ」
真っ直ぐ見つめあい、柔らかな口調で語りかける。
「あ、う……つ、ちゃっ」
取り乱し焦点の定まらない目。
そんな少女の頬をむにっとつまむ。
「落ち着け。父さんがいるんだ。大丈夫だぞ」
つまんだ頬をむにーんむにーんと二回ほど痛みの内容に遊ばせる。
「うっ……、うっ……」
安心感からかこみ上げる嗚咽。
「つの、……と茶色のが……、斧が……刺さって……!」
繋がりの無い単語から想像でき得るものは酷かったが、うんうんと頷きながら耳を傾ける。
「木が倒れて……、っ……おじいちゃんが……。おじいちゃんが……!」
二度繰り返したその言葉。
「おじいちゃんを助けて……!」
少女の祖父は父方も母方も共に既に亡くなっている。そして服についた血があれど、傷はかすり傷程度のものしかない。
父親は悟って、無言で抱きしめる。
「うわぁぁぁぁあああ……」
大声で泣き叫ぶ娘の背中を擦る。
しかし、その音を頼りにしたのか、匂いを辿ってきたのか、父の耳には異音が届いていた。
「バキバキバキ…………」
それは明らかに木々が薙ぎ倒される音。しかも一本二本ではなく、もっと大量に、一度に薙ぎ倒されている程の轟音だ。それ程の怪奇現象、嵐が襲った日ですらも起こったことは無かった。
「帰ろう」
その言葉に呼応し、無言ながらも胸の中で頷いたのことに確かな感覚を覚える。
脱兎のごとく駆け出す。
背後から放たれる異音がフルールの耳に入らないよう、抱き抱える腕で彼女の視界も耳も塞ぐ。
「なっ……」
ふと後背の様子を窺うとその光景に唖然とし、一瞬駆ける速度が緩やかな減少を遂げた。
「ここはどこだよ」
決して世界線を移動したのではない。
木々が生えていた森の中を走り抜けてきたはずだ。しかし、その木々の間から覗く世界は、太陽光の降り注ぐ拓けた空間なのだ。そこに生えていた筈の木々は跡形もなく木っ端微塵。バキバキという音では物足りない表現をせねばこうはならない。
背中に回される幼き手がぎゅっと握りしめる様子は不安を示しているのか。
「街は大丈夫だよな……」
既に一番の心配は、自身の背後にいる魔獣が町に辿り着く事よりも、強大な力を持った化け物が複数いて疾っくに街が壊滅しているのではないかという点に移り変わっていた。
脚は巻かれた。
***
街へはそう時間はかからない。とどの詰まり、後背に大きな壁を作り上げる魔獣も、そう時間はかからずにこの街に辿り着くのだ。
森を抜ければ、刹那で気づくのその異変。
どうしてこの世界で煙が複数立ち上るのだろうか。
「やっぱり……。他にも居たのか……!」
奥歯をギリッと軋ませ、顔を歪ませて、堪えることなく怒りを顕にする。
ドオオオオオン。
それは街の中から響く轟音。とともに、立ち上る土煙。
「フルール。遠くに逃げるぞ」
ここまで抱えてきたフルールを地面に立たせる。目の前に広がる悪夢のような光景を捉えてしまうが、しかし、それは必然となってしまっているということだ。
「母さんは……? あそこに母さんが居るよ……?」
「あそこに近づけば死ぬかもしれないんだ」
「何で……? 母さんは見捨てて二人で逃げるの……?」
父親の手を両手で握り、顔を見つめ言う。
「さっき知らないおじいちゃんを助けられなくて……、それだけで心がぎゅってなったのに、また……。またそれをやらなくちゃなの?」
「……そうだ。今街に入れば……、あそこに行ったら確実に死ぬ」
森をひとつまるごと吹き飛ばすことが容易な種族に戦いを挑む程無謀な挑戦をする勇気はない。いや、嫌われてでも自身の娘、フルールを死なせる訳にはいかないからだ。
「だから、逃げる」
「かあさ……」
「また帰ってくる……! 帰ってくるから……」
思わず流れた涙は、泣きたくなくて泣いた涙ではなかった。
「ここまで来れば後ろにいる化け物の標的は、俺たちから街へと変わる……。その隙に逃げ切れるところまで逃げなくては……」
フルールの手を引いて再び駆け出す。
「どこに行くの……?」
いまだに泣きじゃくりながらも、身体を包む淡い桃色の服の袖で涙を逐一拭いながら走る。
思い当たるところは、唯一の兄弟が住んでいる、二つ隣の街だ。兄は兄で結婚してその街に住んでいる。もとい、その街が実家のある街であった。次男であった身分を生かして、名前を継がずに婿になったため、二つ隣の街に引っ越してきたというのが正しいのだ。
「伯父さんのところだよ。あそこならきっと守ってくれる」
特に根拠もなければ、その自信もなかったが、ここに居続ければ死ぬのは確実なのだ、口実が欲しかった。
***
「ここも、……かよ……」
変わり果てた街の姿は数時間前に見たものと同様だ。
谷底にある街であることから、坑道を抜けてこの街に来る外ない為、遠くからその様子をうかがい知ることはできなかった。
「でも、さっきみたいな変なのはいないよ? 街は……、ボロボロだけど……」
幸いなことに、逃げた時間が長かったからか、この街にはすでに魔獣の姿はなかった。
一先ず、不意打ちをされた気分ではあるが、襲われる心配がないことに安堵し、街の中へと足を踏み出す。
「酷いなこれは……」
よかったのか悪かったのか、倒れた家々の瓦礫のおかげで、魔獣に惨殺されたであろう人々の血液が目に見えない。フルールにとっても、もちろん俺にとっても精神衛生上プラスに働いているだろう。
「ねえ父さん……。あの人生きてるよ……!」
こちらにつるんと潤ませた瞳で必死に投げかけてくるフルールが指をさす方を見ると。そこには確かに、横たわってはいるが蠢いている人の姿があった。
その姿に、気持ちが高揚し、駆け出す。思わず握ったままだったフルールの手を強く引いてしまったから、「あうぅ」という声を発していたが、それには気づかないくらいの感情だ。
「大丈夫ですか……! 大丈夫ですか!!」
意識を失っているわけではないが、悶えているようなその人は、白いひげを蓄えた還暦はとっくに過ぎているであろうおじいさんだった。
「んん……」
息を荒くしている様子に、その人の身体を眺めれば血が流れだしていた。
簡単に止血措置をして、おじいさんのそばで暫く佇んでいると、ようやっと意識がはっきりとしてきたのか、会話できるまでになった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……ではないが、こんな老体よりも街がひどいもんじゃな……」
横たわったままの体勢から辺りを見渡していう。
「生きている人が良かったです。早速で申し訳ないんですが、この街に住んでいたロールという三十半ばの男を知りませんか……? 魔獣に襲われた直後、直前にどこにいたのか。今どこにいるのか知りたいんです」
「お前さんロールの知り合いか……!」
一瞬の静寂。状況が呑み込めない。
「ロールとはどういう関係なんじゃ?」
「ロールは私の兄です」
「そうか……。残念じゃがロールの姿を最近は見ておらんなあ……。ワシはロールと同じ仕事場で働いておった」
「そうだったんですか」
「人の声どころか、動物の鳴き声すらもせん世界になったか」
風の音や、木製の住居に燃え移った炎がそれを焼く時に発っせられる音のみが響いている。
「わしの住む洞穴に来るといい。一先ずの避難場所とでもな」
いわれるがまま、そのおじいさんについていくと、街の最西端にある、人は近づかないような辺境地にぽっかりと空いた横穴にたどり着いた。
洞窟の奥には、人が生活できるだけの家具や火鉢などがそろえられている。そのうちの一つにどっかと座ると、語りだす。
「あの魔獣……。おそらく伝説にあった『アイギスの匣』のことが起こっているのじゃろう……」
「アイギスの……匣?」
「ああ。『パンドラの匣』は知らないか?」
「開けてはならないという、あの……」
その匣を開ければ、世界は多々の厄災に見舞われるというものだ。
「その対になるものが『アイギスの匣』じゃよ」
「アイギスというと、神ゼウスがアテナに与えた盾……?」
ゼウスが娘のアテナに与えた、ありとあらゆる厄災を払う能力を持つ盾だ。
「そうじゃ。パンドラも、盾もどちらも神ヘパイストスが生み出した。神は相反するものを生み出しこの世界の均衡を保とうとした」
「アイギスの匣はどんな役目を持っているんですか?」
「アイギスの匣は、今まで魔獣をその匣の中に吸い込み続けていた」
「ならいっぱいになったと……?」
「いや、違う。その匣が閉じてしまったのじゃよ」
「……そのせいで、今まで見たことない魔獣であふれかえった……」
そう考えれば一通りの合点がいく。続けて老人は話す。
「伝説にはこう書かれておった。
『開かれたパンドラの匣 迫りくる魔獣に欲望 優越感 そして恐怖 滅すべく七つの匣を開放させん さもなくば厄災が降りかからん』
とな」
単純に見て取れる。すでにパンドラの匣は開かれている。しかし今までは七つの匣が魔獣を吸い込み平和を作り上げていたが、それも時の経過と共に匣は閉ざされた。そのため、この世界にある七つのアイギスの匣すべてを開放し、パンドラの匣を閉ざせということが。
「伝説の通りなら今すぐにでもアイギスの匣を開放しにいかないと……!」
「ああ。この化け物が溢れ、確実な位置も分かっていない匣をな」
「……」
返す言葉がなかった。
「しかし、世界各地で同じような現象が起こっているとしたら、誰が立ち上がる……? この世界の理に逆らおうとする人間が何人集まるかなど皆目見当もつかない」
この狭き地域だけの厄災なら、おそらく助けは来るだろう。しかしそうでなかったら……。その不安だけが無限の高度へと積み重なっていく。
***
そして今。
微かな音を、耳も空気も気付くかわからない音を立て、蓋は閉ざされた。
同時に、その『匣』の周囲に洞窟を照らす光が現れた。幾筋もの光は、文字が描かれ、ゆらゆらと揺れながら幾重にもなり、それ全体を包み上げたかと思うとその形に収縮し、最光度の瞬きを発する。
パッとその光景が結末を迎えれば、洞窟の中は蓋が閉ざされた『匣』以外に何ら変わりのない、元の光景に戻っていた。
改めて言えば「洞窟の中は」である。
言い伝えというくだらない幻想が、唐突に現実に昇華してきた。
悪魔が、魔獣が、魔法が、そんな得体のしれない何かがはびこる世界が完成してしまったのだ。
世界にたった七つしかない『匣』。それら全てを開放すればこの世界は再び安寧が訪れる。
『どうやら人という軟弱な生物が立ち上がるには、もう少し時間がかかるらしい。アイギスの匣を求めろ』
そう書かれた手記は、何故か炎の靡く中で文字だけ浮かびあがっていた。
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