第61話 マリーンの行方 4

投げられた胡椒の小瓶を男は首を傾けただけでやり過ごした。


「ふむ、お前を助けに来たと言ったはずだが何のマネだ。」

「嘘をつかな・・・つくな!。あな…お前は、わた・・・ぼくを助けるつもりなんてないじゃないか!」

「ふむ、すでに気付いているのか。まあいい。依頼の対象がお前だと分かれば関係ない。」

途端に男の態度が一転し、殺伐とした気配が漏れ出して来た。


「来ないで・・・いや・・・ち、近寄るな!」

マリーンは袋に手を入れて掴んだ物を片っ端かたっぱしから投げつけ始める。

陶器のコップ、赤瓜あかうり、フォーク、苦胡桃にがクルミ・・・本当はすぐにでも逃げ出したかったのだが、背中を向けるのが怖くてできなかった。

その上狙いも碌に着けていないので投げた物は右に左に外れてしまい、半分以上は避ける必要さえない。

だが、狭い路地にばら撒かれた事で男にはかえって対処が難しかった。

更に男はヴァイパーサイトだけで周囲を確認しているので、投げられた物が何かをはっきりと確認出来ない。

まかり間違って危険な物だった場合を考えれば迂闊な対応を取る訳にはいかず、仕方なく最小限の動きで躱しては少しづつ前に進むしかなかった。


だがそれもしばらくの事、こんな他愛ない仕事に時間を掛けるのが段々面倒臭くなってくる。

『依頼者の話では多少の怪我は構わないと言っていたな。ならば・・・』


形から判断してハサミと思われる物を手甲で弾き返すと、一気に前に出た。

相手に当たっても良いのだから細かく考える必要はなく、むしろ手足に刺されば大人しくなる位に考えているのだから手加減の必要もない。

強く弾かれたハサミはうしろを飛んできた袋を切り裂いた事で軌道が変わり、マリーンに当たることなく横に逸れた。

袋の中には糖蜜粉。

簡単に採取できるごく低位のエリアルで、甘みのある調味料として普及している。

そのまま煮ても良いが微粉に精製したものはすっきりした甘さがあり、マリーンが持って来たのはこちらだった。

なぜこれを持ち出したのか分からないが(咄嗟とっさに使い方が浮かんだのがそれだけだったのかもしれないが)、糖蜜粉の微粉は非常によく燃える事で知られている。

料理をする時にも充分にかき混ぜないと引火するので初心者泣かせの調味料なのだ。

空中に撒き散らされた糖蜜粉に石壁で跳ねた火花が引火して一気に燃え上がった。

ボワっとまたたいた炎と甘い匂いが二人の間を壁の様に遮るさえぎる

しかしそれも一瞬の事。

燃えたと言っても髪の毛を焦がす程度のもので人に火傷を負わせる熱量などない。

普段のこの男であれば躊躇うためらう事なく飛び込んでマリーンを捕まえていた事だろう。

しかし今はまだ視界が戻っておらずヴァイパーサイトで周囲を認識しているだけ。

燃え上がった炎が感覚野を真っ赤に塗り潰してしまったので、やむを得ず足を止めて身構えた。

しばらくすると炎の残滓は消えた。

だが、その時には目の前に誰も居なくなっていた。


「無駄な事を。」


ヴァイパーサイトの感度を調節すれば踵を返して走り去る姿がはっきりと分かる。

「決断は見事だが、大して意味のあることではないな。」

男は慌てる事なく走り去る子供の後を追った。


角を曲がると、逃げる子供が振り向いて何かを投げていた。

下を見れば地面に撒かれた一掴み程の釘。

男は靴底に鉄板を仕込んでいるので釘を踏んだぐらいは問題ないのだが、あまりに見え透いた罠に対しては本能的に警戒心が働いてしまう。

子供が罠を仕掛けるとは考えられないが、念のために壁際に足を着いて罠を飛び越えた。

もちろん何も問題はない。

ただ、ぐにゅりとした感触と微かに臭う異臭があっただけだ。

どうやら壁際にあった犬の糞を踏み潰したらしい。


ここまでの事で男はいつになく憤りを覚えていた。

不注意で視界を潰された事、偶然とは言えまんまと逃げられた事、不運にも見舞われて見苦し事この上ない。

自分の技量に自信があるだけに余計に許しがたい汚点の様に思えた。

だからと言って感情のままに行動する程愚かではないが、森に死体を埋める様に深く気持ちを沈める必要があった。




マリーンは大通りの手前で足を止めた。

かなり中央部へ進んでいるので人混みは大分解消されていたが,ひしめき合っていないだけで人を掻き分けるくらいには混雑している。

こんな中に分け入ればいつ炎に触れてしまっても不思議ではない。


だけど

マリーンは大きく息を吸い込むと、海に潜る様に人混みに足を踏みだした。


『大丈夫!子供の私なら少し屈めば胸の炎には触れないはず。』


頭の直ぐ上を翻るひるがえる炎は怖かったが、大人の腰の辺りまでは届いていない。

更にこの辺りの人たちは急いでいないのか、マリーンが掻き分ければ道を開けてくれた。

しばらく進んだところで振り向くと、追って来た男は大通りの入り口で立ち止まっていた。

『よかった。このまま諦めてくれれば・・・』



しかし、男は周囲を見渡してマリーンを見つけると躊躇う事なく足を踏みだした。

驚いた事に卓越した足捌きで人混みを縫う様に進んで行く。

そして程なくマリーンに追い付くと横に並んでマリーンの腕を捻り上げた。


「きゃーーー!」


倒れたマリーンの頭から大きな帽子が落ち、名前の由来となった綺麗なマリンブルーの髪がパサリとひろがった。


「貴様、フェンネルのガキではないのか!」


こうなれば流石に真相に気づかない筈は無い。

まんまと騙された男の怒りは爆発寸前まで高まり、マリーンを掴んだ腕はワナワナと震えはじめていた。


そして、子供にあしらわれた屈辱で男は我を忘れた。




男は通常の視力の時に炎を灯した暴徒を見ていたが、ヴァイパーサイトに切り替えてからはほとんど注意を向けていなかった。

だから気づかなかったのだ。

それは熱を伴わない神威の炎で『ヴァイパーサイトでは見えない』と言うことを・・・。

今、周囲の人間に炎が見えないのは『この辺りにいるのが普通の人間だから』だと思っていた。

人混みを進んで無事だったのは、人との接触を避ける習性と高い技術によるものだ。

しかし怒りに囚われている状態で、態々無害と思っている存在に注意を向ける如何なる理由も無く、前から来た人間が当たるに任せた。


とん

と人が当たった事に気がついたかどうか。

しかしそれだけで炎は肩に移り、直後にはひときわ大きく燃え上がった。


「ヨクモ・・・ヨクモダマシテクレタナ。コムスメガ!」


即座に意識は塗り潰されたが、想いの核となったのはマリーンへの怒り。

その想いはユウキを追いかける人々の中で唯一マリーンに向けられた憎しみだった。

黒いスープに垂らした赤い香辛料の様に、それは大勢の意識を観察していた存在の注意を引くには充分だった。


その結果、

男の胸の炎が渦巻き棚引き、やがて人の形となって妖艶な女として現れた。


「やっと見つけたわよ。可愛いお嬢さん。」

微笑むトードリリーがマリーンの前に現れた。


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