第30話 炎鬼アグリオス

一般の住人が立ち入ることはないがカウカソスの街には広大な地下道がある。

市街に降った雨水を排水する雨水道や家庭からの排水・糞尿を流す汚水管、工場や家庭の魔導具に高濃度の神素を送る送神素管など街の機能を支えるトンネルが複雑に張り巡らされており、あたかも地上世界の影のように静かに地下世界を形成していた。

それらが公共の設備である以上、街の管理者たちは定期的に点検や補修を依頼することになるし、請け負う職人たちもお得意様であり支配者でもある領主に逆らってまで仕事を拒む必要はない。

だが『仕事自体は地上でも地下でも同じはずだ』と変わらない金額を強要されると話が違う。

衛生環境の悪い職場は存外過酷なのだ。

事前の準備や必要な消耗品に余分に費用が掛かっても怪我や死につながる以上省く事はできないのだがその費用は一切見て貰えなかった。

その結果、経年劣化で発注量が増えるにつれて職人たちの生活は徐々に追い詰められていった。


個人の不利を痛感した職人たちは相互に協力し助け合う事や領主の威を借る街の管理者たちと渡り合う事を目的に統一された組織を作り上げて行った。


『地下施設修繕組合』と名付けられた組織は当初は職人の為の集まりであった。

だが地下から地上の様子を探る方法が確立されると急速にその有り様を変えていく。


何しろ得ている情報量が莫大であった。

地下道は街中至る所に広がり、雨水孔や換気孔など気付かれずに外部を窺う場所には事欠かない。

やがて彼らはその情報網を背景にして“表沙汰にできない物事を扱う組織”へと変わって行った。


エリグマ・ファミリアもその中の一つとして生まれ、数多くの抗争を経て今の地位の登り詰めた組織だ。

『地下施設修繕組合』の持つ機能をすべて受け継いだ結果、文字通り地下世界の主としてカウカソスの裏社会を支配していた。





ピ・ピー・ボ・ピ・ブ・プー・ブ・・・・


人には聞こえない音が響くと各所に取り付けられた魔導具が共鳴し、誰にも気付かれることなく地下世界に広がって行く。

唯一組織から与えられた耳飾り型の魔導具を持つ者だけが無音の音を拾い、人の聞こえる様に再構成された内容を聞くことが出来る。


耳元でなる三音・長短・強弱の繰り返しが暗転したゴルゾフの意識を再び現世に引き戻した。

それでも余人には意味を為さない音の連《つら》なりに過ぎないが聞き慣れた者にとっては普段の言葉と変わらない。

特に意識しなくても送り手の言葉をゴルゾフは理解できた。


“・・・・ニ・キ・ヲ・ツ・ケ・ロ・エ・リ・グ・マ”

最後の部分だけだったがエリグマの名に気づくとバネ仕掛けのからくりでも付いているかの様にガバッと起き上がる。

肝心の内容を聞き逃していたが焦る必要はない。

重要な指示は三度繰り替えされる事になっているし耳に付けた魔導具は音を記録しているはずだ。

待つこともなく再度繰り返された音を今度は初めから置き換えてゆく。


『フェンネルとシュプリントの子供を守れ、暴徒が狙っている、炎に気をつけろ、エリグマ』


内容を理解するとふらつくのも構わずに慌てて立ち上がった。


周囲には4人まで減った仲間が剣を構えて対峙していたが既に切り結ぶ段階ではなくなっている。

だから立ち上がったゴルゾフに剣を向けて警戒はされたが、いきなり斬られる事はなかった。


「待て。もうお前たちと争う理由はない。」

「そっちから襲ってきておいて今更何のつもりだ。」

「事情が変わった。お前らもファミリア全部を相手にするつもりがないならちょっと黙っていてくれ。」


言いたい事は理解できるがそれどころではない。

トップの名前で守れと命令された者が仲間に殺されかけているのだ。

視線の先で血だらけのアグリオスが子供を睨んでいる。

周囲を取り囲まれているがそんなことで止まるなら“狂犬”などとは呼ばれていない。


「やめろアグリオス!もう終わりだ。」

ゴルゾフの声でわずかに殺気を押えるだけの理性は残っていたようだ。


「邪魔をするな!」

「ファミリアからの指示だ。そこにいる子供を守る。」

「お前が誰に何を指示されたか知らないが俺には関係ない。」


これは組織の中では当たり前のことだ。

ゴルゾフとアグリオスは役割の違いから命令系統が異なっている。


上役の思惑で異なる指示が出ている事などよくあるので、この場合は直属の指示者の命令以外聞く必要がないし聞いてはいけない。

ましてアグリオスは魔導具を与えられていない以上ゴルゾフの聞いた命令を確認する必要もない。


「エリグマの親父の言葉でもか。」


これにはアグリオスも言葉を詰まらせた。

エリグマの命令は何よりも優先される。

たとえ異なる指示系統の者や命令する権限のない者であってもエリグマの名を出された以上従う義務がある。

万一それが嘘だった場合には命であがなう事になるのであえて危険を冒す愚か者は組織にはいないはずだ。


アグリオスも他の事であれば自分の命よりも優先して命令に従っただろう。

だがエリグマを絶対的に思う余り、そのエリグマに手を出したユウキの事は絶対に許す事ができなかった。


「俺は・・・俺は・・・」


顔を真っ赤にしたアグリオスから湯気が昇る。

アグリオスの中で相反する考えがガリガリとせめぎ合い、その熱が表に伝わっているかのように体温が上昇していた。


立ち昇る白い湯気が徐々に量を増し、色を濃くして行くにつれて何かがおかしいと周囲が気づき始めた。

アグリオスは俯いて何かを呟いていたが、やがて“ボッ”と炎が着いたかと思うと赤黒い炎は見る間に全身を覆い尽くした。


「ウォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


炎の中でアグリオスが胸を掻き毟って苦しんでいたが聖者の盾の面々もエリグマ・ファミリアの仲間も突然の展開に驚いて火を消そうとすることさえ思いつかなかった。


アグリオスは大勢の人々が見守る中でひとり踊るようにもがき続けた。


「ひ、火を消せ!」


誰かがその事に思い至り、ようやく周囲が動き始めた時、炎は突然消え失せると何事もなかったかのように立つアグリオスがいた。

あれ程の火勢にも係わらずただれた皮膚どころか火傷の跡もない。

唯一、灰色掛かった黒い瞳の色がくすぶる炎の様な赤に変わっていた。


「ミ・ツ・ケ・タ・・・ミ・ツ・ケ・タ・ゾ・・・オ・マ・エ・ヲ・ユ・ル・サ・ナ・イ・・・オレハ・・・俺は・・・小僧ぉーーー俺は貴様を許さないぞーーーー!」


再び“ボッ”と胸に炎が灯ったが今度は苦しむこともそれ以上燃え上がる事もない。

火を消そうと集まった男達を、まさしく跳ね飛ばしながらユウキに向かって進んで行く。


ダンダールはユウキ達を庇うように立ち塞がると臆することなく正面から斬り掛かった。

その速度・威力は十分に力の乗ったものであったがアグリオスが片手で掲げた剣に軽々と受けられてしまう。

だがこれは囮に過ぎない。

同時に動いたエフィオテスの剣が無防備な背中に振り降ろされている。

剣は見事に右肩を捉えていたが、あり得ない事に“ガキッ”鳴って動かなくなった。


「邪魔をするな。」


驚くエフィオテスに向かってブンと右手・・が振られると桶の水を撒く様に炎が広がり、成り行きを見守っていた人々を次々に飲み込んでいった。

エフィオテスは咄嗟に盾で防ぐ、いや防いだつもりだったが盾も構えた腕もすり抜けて炎は飛び去って行く。


盾が溶かされた訳ではない。

ましてや腕も体も焼かれた気配はない。


「何のマネ・・だ・・・」


問いかけようとした時に胸の奥が耐え難いほど熱くなった。

堪らず膝を付つき、息を荒げたエフィオテスの胸に赤黒い炎が灯る。

周囲を見ればアグリオスに跳ね飛ばされた者も炎に触れた者も皆が胸に赤黒い揺らめきをたたえている。

黒々とした感情が何処からか湧き上がるとエフィオテスの意識は他愛もなく飲み込まれていった。



いつの間にかそこかしこの物陰から幽鬼の様な人々が集まってきていた。

皆、胸に炎を灯して生気のない虚ろな目をしていたが一様に「ミツケタ、ミツケタ」とつぶやいている。


エフィオテスを始めとした聖者の盾のメンバーもエリグマ・ファミリアの者達も例外ではない。

アグリオスの炎に触れた者は皆が胸に炎を宿して同じように呟いていた。

まるですべてが同じ一つの存在であるかのように・・・。


剣と剣を交差させたダンダールは炎を向けられてはいなかったがそれを幸運だとは思えなかった。


「俺たちは何を相手にしているんだ。」


こんな化け物の話はコルドランでも聞いたことがない。

死者の国に迷い込んだ船乗りの話の様にひたひたと押し寄せる恐怖にいっその事狂ってしまいたかった。

辛うじて・・・本当に狂ってしまう瀬戸際にいながら辛うじて踏み止まることが出来たのは長年の経験によるものか、それともわずかな使命感によるものか・・・。

いずれにせよダンダールが自分から意識を手放す事はなかった。


「ぼ、坊主!逃げろ。逃げるんだーーーー」


僅かな時間ではあったがたった一言だけ年長者としての責任を果たした。


その直後、無骨な手に頭を掴まれると他の者と同じ様に強制的に意識を塗りつぶされた。







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