第十三章 初恋の森⑥
「見えざる空間」の中は、来た時よりも熱を増している。
蒸気は、ジャックとロズの全身に容赦なく張り付いてきた。
ロズは、煙を吸っただろうか。
黒煙は、逃れた後すら祟ると言われるほど毒性が強いとされている。
今すぐにでも、ロズを青空の元へ連れだし新鮮な空気を吸わせたかったが、弱ったスムゥ・スラグは、人二人を嚥下し地上へ降ろすのに、手間取っていた。
「ん、ん……!」
ロズが、呻いた。
暗闇の中で目を凝らすと、ロズが苦しげに、身体をくねらせているのが見える。
「ロズ……!」
彼女の目が開かれた。
「僕が、分かるかい……?」
朦朧とした瞳の青が、火事場で気絶したことを思い出すにつれて、明朗さを増していった。
取り戻した理知が、激しいパニックを引き起こそうとしているのが分かった。
ジャックは、何とか彼女を静めようとした。
ここがスムゥ・スラグの中だと知る由もない彼女に、もう安心だと伝える合理的な方法を、自らも頭から蒸気を噴き出さんばかりに、思案する。
だが、それは無意味だった。
安心を得る為の方法を選ぶ権利の全ては、ロズに所有されていた。
ロズが、ジャックを強く、抱きしめた。
彼女の身体は、余すところなく、熱く、震えていた。
肩、胸、腿、つま先、指先。
蒸気にまみれた身体と身体が僅かにでも擦れ合うたびに、接している肉体のあらゆる場所から、それぞれ独特の、官能的な水音が聞こえてきた。
服などもはや、お互いを混じり合わせる為に率先して蕩けることを選んだ表皮だとしか、思えなかった。
自分の衣類の下に、まだ緑色が透けているのが、ジャックには不思議でならなかった。
身体を押し付けてくる彼女がこれ以上望む事など、分かり切っていた。
ジャックの両手はもう、ロズからの無言の求めに応じて、今まさに彼女の背中に触れ、抱きしめようとしていた。
鋼の精神で、ジャックは両腕から力を抜き、垂らす。
重力に肉体を従わせることを、こんなにも辛く感じたのは初めてだった。
ロズが顔を上げた。
涙を湛えた瞳が、不安を訴えていた。
ジャックは彼女の美しい耳に、ささやいた。
「離れるんだ」
裏切りを目の当たりにした彼女が、どのように表情を歪ませるのか、ジャックは知ることとなった。
ロズの考えていることが分かった。
『もしかして、あなたはジャックではないの?』。
それでいて、そんなことは信じられないと、より一層、ジャックを抱きしめる両腕に、ロズは力を込めるのだ。
これまで、彼女の望むあらゆることに従ってきたジャック。
しかし、今だけはどうしても、彼女の言うことを聞くわけにはいかなかった。
「暗幕が、ほどけるよ」
スムゥ・スラグの中を、ジャックとロズは抱き合いながら、ゆっくりと下降している。
ねえ、ロズ、この布を隔てた向こうには、大勢の人間がいるんだ。
彼らに、今の自分達を晒すわけにいかないのは分かるだろう……?
ジャックは、声を奪われたかのような感覚に陥っていた。
ロズは、ジャックの言葉が聞こえないかのように、手を放してくれなかった。
ジャックは、スムゥ・スラグに指令を念じた。
ジャックの身体がその場に留まり、ロズの身体だけが、緩慢に引きずり降ろされ始める。
入り込む隙間など無い程に寄せ合っているはずだった、濡れた身体の間に、闇の色をした布地が滑りこむ。
とても、ロズの顔を見てはいられなかった。
今、彼女が言葉を発すれば、恐らく一生、ジャックの心に刻みつけることが出来ただろう。
しかし、彼女は何も言わなかった。
闇の中に一人取り残されたジャックは、寂寥に潰されぬよう、歯を食いしばった。
密閉された空間で孤独に全身を濡らす感覚に、ジャックは誰しもが、この世に産み落とされた瞬間に忘れるはずの郷愁を抱いた。
もしかすると赤子は、この世の空気に触れる寸前まで、皆、一所に集まって、寝かしつけられているのではないか。
魂の揺り籠。
妊婦は皆、その場所から胎児を通す道を開くため、その腹を暖かく膨らませるのではないか……。
頭上の闇が割れ、束の間の光が届いた。
すぐにその穴を塞ぎながら、布の天井が緩やかに落ちてくる。
スムゥ・スラグが死んだのだ。
固い地面に、ジャックの身体が、そっと横たえられる。
石畳だ。
命を失い、ただの暗幕になったスムゥ・スラグが、ジャックの身体にかぶさろうとしていた。
外で、歓声が聞こえた。
スムゥ・スラグは最後に、ロズだけを光の元へ排出し、ジャックをいまだ、人目につかぬ闇の中に潜ませている。
暗幕の向こうで大勢の人間が騒いでいる。
逃げ遅れた人間が救出されたことに対する歓喜と、救出されたのがロズであったことに対する衝撃が、湧きおこっている。
ジャックは布の下、喧騒から遠ざかるように、身体を這わせる。
身体にのしかかる布の重みが遠ざかり、目の前に光があふれた。
殆ど最後の力を振り絞り、ジャックはスムゥ・スラグの死体から這い出た。
誘惑に耐えきれずジャックは、大きさを増した、背後から聞こえる歓声の輪を振り返ってしまった。
「まさに英雄的だ!」
横たわる黒布を挟んで随分遠くに、カップルを取り巻く人だかりが見えた。
ジャックの立つこちら側には、野次馬の一人もいやしなかった。
ロズが、シュリセに肩を抱かれていた。
記者達が、シュリセに向かって熱く、賛辞と質問を、興奮のままにぶつけ続けている。
「こちらの布は……もしやステラボウルズのショウに使うものだったのでは? それを投げ打ってでも、恋人を……?」
「消防隊を待っている暇はありませんでした」
シュリセが淀みなく答える。
「教室の中は荒れ狂う業火でしたが……飛び込む覚悟はすぐに決まりましたね」
「恋人の為に……ですか?」
「いえ……それが実は、窓を蹴破るまで、取り残されているのが彼女だとは、思いもしていなかったんです」
人垣から、拍手が爆発した。
博愛の美男が、他意なく見知らぬ誰かの為に命をかける。
その結果、最愛の恋人を火災から救い出すことに成功する。
一片の隙もない美しいスト―リーは、誰しもに疑いを持たせない。
虚しさを感じないかと言えば嘘になる。
だが、いっそ清々しく、ジャックはかえって、君たちはそうやって世の中を回してるつもりになってなよと、醒めてしまうことができた。
今度ロズと話が出来る日は何日後だったろうかと、いつも頭に入れているはずの事を改めて計算しながら橋を渡り、ナルガノのほとりを歩き、ジャックは去っていく。
そして、空っぽのトランクが目に入った瞬間、スムゥ・スラグの死を嘆くためだけの涙が零れた。
フランケンズ・ディスト・ホールに到着し、ドアを開けた途端、
「よくやったわ」
「私らの誇りだ!」
リンダとレイラから、労いの言葉とともにジュースを勧められ、ジャックは困惑した。
てっきり、彼女達から投げかけられる一言目は「汗臭い焦げ臭い」だと思っていた。
それから、実はスムゥ・スラグが駄目になってしまったんだと説明し、沈んだ空気になるものだとばかり思っていたのに。
号外が刷られる前どころか、噂話が広まるより早く帰ってきたはずなのに、どうして彼女達が、既に像塔での顛末を把握しているのか。
「フウから全部聞いたぞぉ、ジャック」
ペッパーが、言った。
「自分の作品をどれだけ君が大事にしているか、僕は知っている。なのに、それを犠牲にしてまで…………君は、本当に強くなったなぁ」
長い付き合いである友人からの言葉だけに、ジャックにとっては価値あるものだった。
そして立てつづけに、
「すまぬ、友よ!」
フウから声をかけられる。
彼にしては非常に珍しい、沈痛な面持ちである。
「清らかなる森の乙女は、我が救命して然るべきであったにも拘わらず、汝に命を賭けさせるなどとは……! 深謝する! 我は巨像の内に入りながらも、崩落により圧死寸前であったのだ……業火こそ、我が身を焼けるはずも無かったが故、こうして生きながらえたが……不甲斐ない。だが、魔王との前哨戦において汝の雄姿を見られたのは、僥倖である。やはり、我と汝は真の絆の―――」
「つまり、たまたま見てたんだってよ」
ジョニーが、赤い表紙の本をステージの上にほっぽりだして、こちらに近づいてきた。
彼が読書など珍しいと思っていたら、案の定、いつぞやに皆で編纂した、『フウ語辞典』だった。
「よく頑張った。さすがナンバー2だな」
ジョニーの言う「ナンバー」とは、上手舞台袖の壁に張られたメンバー・プレートに書かれている番号の事だ。
ナンバー1が、当然ジョニー。
ナンバー2がジャック。
ナンバー3、4にリンダ、レイラと続き、ここまでがジョニーと出会った順。
ここからフランケンズ・ディストに加入した順に、5、フウ。6、ペッパーと並んでいる。
序列と言うわけではない。
しかしジャックにとって、ジョニーの隣に並んでいることはささやかな誉れなのであった。
ここを突かれると思わず嬉しがってしまうことを、当のジョニーに知られているのだから世話ないのだが。
ジャックは、照れ臭さを隠しながら、弁明しなければと思っていたことについて、口にする。
「自分達の武器と引き換えに、敵のボーカルを助けちゃったわけだけど」
「私らなら」
「やらなかったかもね」
姉妹が意地悪く嘯いてみせた。
「けど、ジャックには火事場を見捨てないようなやつでいて欲しいんだよな……ロズが生きてようが丸こげになろうがどうでもいい。私らにはそんなことより、ジャックがそういうやつだってことが改めて分かって、それが嬉しくて堪らないんだ。変わったよな、ジャックは」
君らもね。
ジャックはそんな意味を込めて、軽く微笑んだ。
そして、ジョニーが言うのだ。
「汗かいたろジャック。シャワー浴びてこいよ。暗幕の事は残念だったな。だが元気を出せ。お前が来る間に、良いアイデアを―――」
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