第十三章 初恋の森②

 ジャックとロズは、あれからも、シュラウトの森での密会を繰り返していた。


 あの日、ジャックの方から、「また会える?」と切り出した時、胸が張り裂けそうだった。

 人生初のナンパをしてやったぞ! と、家のベッドで跳びはねまくった。

 

 ロズに会える日。

 木々の合間を抜ける際に、考える事は一つだった。

 

 ジャックは、自分にも、エルフの『狩猟の目』があればいいと思った。

 土や隆起した木の根、大木の樹皮に、ロズの足跡や触れた痕跡を詳しく見出してみたかった。

 

 この欲望には、概ね、二つの理由があった。

 

 一つは、ロズが自分より早く大切り株に到着してはいないかと、怯えずに済むから。

 

 もう一つ。

 いわばロズの足跡は、ジャックと会うためだけに、彼女がこの森に来たという証明である。

 

 ジャックとロズは、大切り株までの道のりを、これまで一度も一緒にしたことはない。

 帰りも同様で、彼女は決まって、ジャックより先に森を去ってしまう。

 

 ジャックの方から、「楽しい時間だった。今日はもう終わりにしよう」などと、勿論口にしたことは無かった。

 自分からは、夜通しでも話していたいという態度を取り続けなければ、人生の幸運全てが去ってしまうかのように、ジャックは感じていた。

 

 しかし、一人きりで森を歩いて帰る時、寂寥感が、いかんともしがたいのも事実だった。

 そんな時、この夕日の差し込む森の中に、彼女の辿った道筋が浮かびあがるのが見えたなら、どれだけ救われることだろうと、夢想せずにはいられなかったのだ。

 

 ロズと会えるのは、七日ある一週間の内の、たった一日だけだった。

 故にジャックは一週間ごとに、人生の最高潮と、不幸の谷底を行き来する羽目になった。

 たった一日が、侮れなかった。

 

 彼女につれなくされるたびに、その後、再び会えるまでの一週間は毎朝、頭痛に起こされた。

 彼女が、一度でもジャックの冗談に頬を染めて笑ってくれた後の一週間は、彼女のピアスの揺れが、毎晩、眠りに落ちていくまどろみの中で思いだされた。

 

 勝率は芳しくなかった。

 ロズが何を見て何を感じるのか、何度会っても、よくつかめなかった。

 ジャックはそれを、彼女の感性が独特だからだ、とは思わなかった。

 察することの出来ない自分に責任があるのだと、恥じていた。

 

 ある日ジャックは、こんなことを言った。


「僕の人生なんて、君の親指と人差し指の間に入りきってしまうんだろうね」

 

 確か、ジャックが子どもの頃につまみ食いしていた、一口サイズの燻製ケーキがどれだけ小さかったか、というような会話をしていたのだ。

 ロズからの辛辣な言葉に、ジャックとしては、多少斜に構えて、格好いいところ見せたかっただけの一言だった。

 すぐに、とてつもなく気障な台詞を吐いてしまったことに気がついた。

 ジャックは、行き場の無い子どもみたいな気分になってしまった。


「なら、ウチの人生は、何と何の間に入るの?」


 しめた、と思った。

 失点どころか、彼女の琴線に触れたことが、表情から分かったからだ。

 ロズは褒美として、気の利いたやりとりに挑戦する権利を、ジャックに与えてくれているのだった。


「世界の、端から端まで」

 

 悩まず答えたジャックに、ロズは不機嫌を隠さなかった。

 

 慌てて、別な言葉を探す。

 彼女の舌打ちの音は、ジャックにとって鞭打ちの音と同じであった。


「これ、くらい!」

 

 万策が尽きた。

 ジャックは腕を可能な限り、大きく広げて見せた。

 いっそこのまま胸をつかれて死んでしまいたい気分で、葉に覆われた空を仰いだ。

 今日はもう、彼女はこれで帰ってしまうだろうと思った。

 

 だが、これまた予想に反しロズは、切り株の上で立ち往生する気だったジャックに、救いの手を差し伸べてきた。


「え、それだけー?」

 

 幸せに包まれた。

 

 視線を下ろさずとも、彼女が美しい顔をにやつかせて、ジャックの全身に注目している事が分かったからだ。

 

 ジャックは、限界にまで伸ばした腕を、さらに広げ続ける。


「これくらい!」


「本当に?」


「こ、こ、これくらい!」


「もっとよ!」


「こーれーくーらー」


「もっと! もっと!」


「こ、れの、百倍!」


「ズルすんな!」

 

 もういいよ。

 ロズは最後にそう言って、ジャックを解放した。

 ロズは切り株の上で、お腹を抱えて笑い転げていた。

 

 向こう一週間は最高の気分で過ごせるだろうと、ジャックは信じて疑わなかった。

 しかし、笑うのを止めた後、ロズはなぜか憂いを帯びた思案顔に憑かれ、ジャックが何を話しかけても、適当な返事しかくれなくなってしまったのである。

 

 また、ある時はこんな具合だった。

 

 いつも通り、大切り株前に集合するはずが、その日は偶然、森の中ではち合わせてしまったのである。ジャックは酷くなじられた。


「あんたと一緒にいるとこなんて見られたら、終わりなんだよ!?」


 その後に続いた言葉は、本当に衝撃的だった。


「ニューアリアの半分は、私がトイレにすら行かないって信じてるんだから」


「えっ」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「酷いな、僕はトイレと同じ?」


「あんたもう、一生格好つかないわ…………」

 

 切り株に腰を下ろす前から、派手に転んでしまったものの、この日は終始、ロズは上機嫌のままだった。

 

 そんなこんなで、とてもジャックには、ロズを喜ばせる為の方程式を見つけられそうには無かった。

 そのくせ、彼女と話している間は哲学とすら無縁になってしまうので、救われようがない。

 一週間前に、あるいはちょっと風が吹く前に言ったことすらも、ロズに受け入れられるためなら、ひっくり返さんばかりだった。

 いつもの自分なら、とても考えそうもないことばかり彼女に話して終わる日も多かった。

 それは自分が命がけだからだぞ、と、泣きそうになりながら自分を励ましてばかりだった。


 彼女の涙に、頬に触れさせてもらったとは言え、彼女が自分のものになったわけでは、当然なかった。

 切り株の上に腰掛けている間は、彼女を気持ちよくさせるため口先を奔走させるものの、言葉が決して、特別な好意の表れとして彼女に受け取られるようなことは無かった。

 

 それでよかった。

 だからこそ、少しでも大胆になれるのだ。

 

 ロズには自分の献身を、ニューアリアの男が彼女に夢見る、ありきたりの奉公だと思われていなければならなかった。

 

 彼女は、女王なのだ。

 なれば必然、立法と処刑を司る。

 女王の許し無くして、女王に恋を表明することなど、出来るわけもなかった。

 

 ジャックに出来るのは、彼女がジャックに時折見せる、ほんの僅かな儚い一瞬の為に、全てを捧げるだけ。

 その瞬間は、どんなに焼きつけようと努めたところで、瞬きを繰り返すうちに溶けて跡形もなく消えていく。

 しかし、注意深く観察すれば、自分の心の中に、「一瞬の湖」とでも呼ぶべき個所が出来あがっているのが確認できた。

 それは、水滴を繋ぎ合わせて作られた小湖。

 あるいは、ジャックが間近で記録した彼女の美を、偉大さを、寸分違わないスケールで溢れさせる巨湖でもあった。

 

 ジョニーに抱きつくリンダが、最近は目の毒だった。

 否が応でも、指先で感じたロズの頬の滑らかさ、それを基幹にして、頭が勝手にロズの全身の触感を作り上げようとしてしまう。

 

 影響は、趣味の服飾にも及んだ。

 自室で布地に触れる度、彼女の身体を採寸したいという、強い欲求に襲われた。

 そして、彼女を飾るには余りに粗い生地と、自身の力量の無さに打ちひしがれた。


 しかしそれでも、彼女の為にジャックは仕立てた。

 帽子、髪を止める布飾り、いつかもっと滑らかな布で作りなおすと決心させられたイブニングドレス、スカート、ブラウス、ニット・トップス……。

 未熟児達だった。

 ロズに、採寸もしていない品を渡せるわけもなかった。


 いつの間にか頭の中には、実際のシュラウトとは別に、ジャックの空想専用の森が出来あがっていた。

 そこではいつでも、ジャックだけのロズが待っていた。

 ジャックは跪き、作品を一つ一つ、説明しながら、彼女に手渡していく。

 受け取った彼女は、一瞬のうちに光に包まれ、着替えを完了させ、ジャックに満面の笑みを見せる。

「ありがとう! なんて素敵なの! ……お返しに、あなたの一番欲しい宣告をあげる。『あなたが愛してくれてるの、私はとっくに気付いているわ―――』」

 

 部屋の中。

 ドレスを抱きしめ、ジャックはよく泣くようになった。

 空想に対して、そんな大それたことなど起きなくて良いと、やつ当たる。

 一品だけで良いのだ。

 例えばこの布飾り。

 これを現実の森で彼女に手渡し、「君はきれいだ」という権利が欲しいだけなのに。

 なぜ自分には、その程度の事すら許されていないのか。

 

 かつてレイラは言った。

「ただ苛められているより、シュリセを恋敵だと思えていた方が、楽に過ごせる」。

 あれは真実では無かった。

 エルフに囲まれること自体は、ロズに見守られていると分かった今、以前ほど辛くは無かった。

 しかし、その穴を埋めるように嫉妬は燃えあがった。

 ロズの与えうる愛情の七分の六を独占する男がこの世にいると言う事実に、時々気が狂いそうになる。


 待ち合わせに早く着いてしまったある日、ジャックは大切り株の、いつもロズが腰掛けている辺り、彼女のふくらはぎが弾む位置の樹皮が、はがれていることに気がついた。

 

 樹皮のはがれたその下は、驚くほど白かった。

 剥がれおちた樹皮を再び、ぴったり押し付けると、寸分違わず、以前と元通りになった。

 狙って爪でも立てない限り、この下の白地を再び探しだすことは、不可能に思われた。

 

 ジャックは、誘惑に逆らえなかった。

 

 ロズがまだ来ていないことを確認し、ジャックは再び、樹皮を剥がした。

 鞄に、お気に入りの金属製かぎ針が入っていたはずだった。

 

 ジャックは跪き、文字を彫り始めた。

 粗く、深く、早く。

 かぎ針が脈を反射して、ジャックに、自身の犯している罪を噛みしめさせる。

 

 全てが終わって、目の前に書かれた文字を見詰めた時、自分が書いたとは思えぬほどの狂おしさがそこに満ちていることに気付いた。


『ジャックはロズを愛している』

 

 世界に対する、自身の告発であった。

 

 自分の頭の中と世界が断絶されたものであるという事実を、ジャックは受け入れた。

 きっともうレイラだって、ジャックがロズに恋心を抱き続けているとは思っていないはずだった。

 だから、今この瞬間まで、ロズへの恋慕はジャックの頭の中にしか存在していなかった。

 だがこれで、誰からも見捨てられた切り株の内とは言え、これからはジャックの恋が、この世界に独立して存在することになるのだ。

 

 震える手で、樹皮をかぶせる。

 ロズは、まだだろうか。

 あと少しもしないうちに彼女はやってきて、いつものように腰掛けるのだろう。

 裏切りが刻まれた、まさにその上に。

 

 ジャックは切り株の上に蹲り、背を丸めて、耐えていた。


 苦しみ全てが、なおも甘いということが、恐ろしかった。

 

 救われるには、ロズがジャックに、待ち呆けを喰らわせるほかなかった。

 しかし、ロズは週に一度、ジャックに会うため必ず森へとやってくるのだ。

 弾むような足取りで帰っていった翌週も、不機嫌に去った翌週も。

 

 ジャックは森へ、もう一足早く訪れるようになった。

 樹皮の下に、主語と目的語を入れ替えた添え書きがされてないか、探すためだった。

 

 身に余る光栄と、慢性の熱病に、ジャックは日々を捧げ続けた。



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