第十三章 初恋の森③
ナルガノ川に面した通りを歩いていた。
ジャックは、車輪付き大型トランクを引きずっていた。
川に釣り糸を垂らす者達からの、「こいつとうとう街を出るのか」という視線に含まれる、憐憫と侮蔑の比率を計算しながら、欠伸を噛み殺していた。
街を捨てるもなにも、普段通り、フランケンズ・ディスト・ホールに向かっているだけであった。
ただ、荷物が少し今日は重いというだけで。
トランクを引きずる手を、右手から左手に移し替える。
右手の平に、太く赤い圧迫の後が走っていた。大荷物のお陰で授業中肩身が狭かったな、などと他人事のように思っていた。
ナルガノの川面は穏やかだ。
対岸を見渡す。
泳ぎの下手な人間を溺れさせるには十分かつ、対岸を行き来する者の顔はくっきり見える程度の隔たり。
どこか不安な気分にさせる川幅の内、その表面では、日光が塵のように煌めいている。
マーメイドなど、海棲系種族の通行河に指定されていない、数少ない人工河川であった。
対岸に、周囲の建物から突出した高さをした、白の巨像が立っていた。
百年ほど前に建造されたらしい。
二の腕の力瘤を自慢するポーズで仁王立ちした、遥か昔の王をかたどった像、ということである。
像の顔に張り付いたうすら笑いを、ジャックはいつも気味悪く思っていた。
敵将を打ちとった、というよりは、ひろい食いを楽しむ子どもみたいな表情なのだ。
そんな感想を抱く自分を、ジャックは勿論不敬だとは思わない。
なぜなら、どうやら像が建設された当時の王室も気に入らなかったらしく、作者である彫刻建築家が投獄されたのを知っているからだ。有名な笑い話である。
その像の中こそ、ジャックが先程まで授業を受けていた場所なのだった。
下手に王族など象っているせいで、安易に取り壊すわけにもいかなかったらしい。
当時のニューアリア評議会が、像の内側をくりぬき、外に階段を取りつけ、何階かに区切って、学塔として機能させることにしたのだった。
ジャックは先程まで、あの巨大な右太ももの内側にある教室の中で、魔工造形の授業を受けていたのだった。
トランクを握った指に、力を込める。
さっさとこの場を離れてしまいたい理由は、像の視線から逃れたかったからだけではなく、シュリセとロズ、ステラボウルズの面々が、像塔の四階……割れた腹筋の内側で特別授業を受けていることを、知っていたからだった。
ただでさえ目立つ緑の肌の自分が、大げさなトランク付きとまでなれば、目を付けてくれと言っているようなものであるが、ジャックの受けていた授業は、運よく早終わりになっていた。
エルフ達が出てくるまでに安全に立ち去れるのは、幸運だった。
そう思い、足を速めた矢先だった。
「誰かと思えば」
背中の芯が硬直したのは、正確に言えば声が耳に届く一瞬前だった。
つくづく、自分はこの街を歩いている間は緊張を解けない身体なのだと実感する。
ヤツが近くにいる気配を感じると、空気が薄くなるような感覚がまず先行してくる。
振り返る。
シュリセがいた。
今日は、見慣れたステラボウルズ・フルメンバー揃っての団体行動ではなく、いつもの取り巻きの中から、特に仲の良い三人だけを従えていた。
「オーク。早終わりの良い気分が台無しだな」
誤算だった。
早終わりしたのは、ジャックの教室だけでは無かったのだ。
魔工造形教師の説明不足を、ジャックは恨めしく思った。
彼女は、教室の外で別の教師と何やら話しこんだ後、ドアを開けいきなり、「今日は終了です」と青ざめた顔で言ったきりだったのだ。
「そのトランクはなんだ?」
シュリセが嘲笑を浮かべながら、こちらに近づいてくる。
ニューアリアの女達を色気に痺れさせるその表情が、ジャックに悪寒を走らせた。
トランクを庇って立たなくてはならないと分かっているのに、足が動かない。
この中には、フランケンズ・ディストのみんなが見るのを楽しみに待っている品が入っている。
トランクが蹴り飛ばされるだけで済んだのなら、靴跡を必死に擦って消しながら歩くだけで、友人たちの落胆を見ずに済む。
しかしその期待は、余りにも楽観的だ。
今、自分の隣に流れてるのはなんだ?
こいつらが、今日は味方の人数が少ないから、ほどほどにして帰ろうとしてくれるとでも?
今すぐ抵抗しろ!
トランクの中身が川にぶちまけられるのを防げなかったとしても、フランケンズ・ディストのみんなは、ジャックが精一杯、抵抗したことを称えるだろう。
「トランクを引きずって川辺を歩いていたら、エルフのやつらに絡まれて……」
まずここまで話した時点で、沸点の低い感動屋の二人から、「よく頑張った」と肩をたたかれるだろう。
それを追って、ペッパーが一言かけてきて、フウは部屋の隅から無言で、穏やかさを放ってくる。
そしてジョニーが、誰しもが納得し、ときめきを覚えざるを得ない新しいアイデアを「ひらめいたぞ!」。
…………実際は、いつものように何も抵抗できず、このまま棒立ちでされるがままになったとして。
それを隠し通して、仲間と一緒のステージに立つ資格があるといえるのか。
ジャックは、自分のつま先が動き始めるのを見た。
「なんだありゃ!」
「今年のミクシア祭を思い出すな。昼間から豪勢な……」
突如、少し離れた所にいた釣り人達が声をあげた。
彼らの視線の先を見て、ジャックは愕然とした。
対岸の像塔が、炎上していたのだ。
火炎はどす黒い色で揺らめいており、その隙間隙間から不規則に、亀裂のように走る赤炎を覗かせている。
焦げた皮膚の罅割れから、まだ新鮮な筋肉だけがその内側で躍動しているかのような、死的とも生物的とも言い難い、グロテスクな爆炎だった。
ジャックは、無知な釣り人たちと同じように、愉快な心持ちで炎上を眺めることは出来なかった。
煙が、立ち昇っている。
ということは、あれは炎酒のような加工炎などでは無い。
あれは……
「『炎』だ!」
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