第九章 フューシャ・スライと世界が廻る⑧
「ジョニーを覚えてる? 君と種族が似てる……ほら、ツギハギの山高帽をかぶってた」
フューシャは、種族が似ている、という所では首をかしげたが、帽子をかぶってた、と言う所では、頷いた。
「メグラチカでの騒ぎの後、僕らがどうなったか知ってる? 磔にされてたジョニーが警察に助けられた時、巻き添えで、スペーノ塔が家宅捜索を受けることになったんだ。警察と学生風紀にとっては、思いがけない大捕物さ。闇オークションの元締め、スペーノ・キュロスには一級の有罪判決。オークション会場も丸々、都市議会に召しあげられた。それを役場のツテを駆使したジョニーが格安で競落。これから毎日、そこで歌の練習をするらしいんだ。リンダとレイラ……ハーピーの双子は、もう参加を決めてる。僕も、誘われた。まだ、返事は出来てないんだけど」
ジャックは、寝返りを打とうとして、ゴミ捨て場だったことを思い出した。
「一体、僕の人生は、どうしちゃったんだろう。僕なんかが、誰かから歌のチームに誘われるなんて。最近、とんでもないことばかり起きるせいで、混乱して、どうしていいか分からなくなってるんだ。メグラチカの日もそうさ。いつもなら、ここで終わりのはずだったんだ」
ジャックは、手足を軽くばたつかせた。
それだけでゴミ袋から、臭気が強く立ち上った。
四角い、狭い世界。
「いつもの僕だったら、ゴミ捨て場で目を覚ました後、すぐ家に帰ってたはずなんだ。体を洗って、寝て、お終い。話すことなんて何もない……けど、あの日は違った。一体何が起こった? ジンハウス姉妹の手下になって、エルフに悪だくみを仕掛けるなんて」
ジャックは記憶を辿る。
ここしばらくの日々の記憶が、写真をばらまいたように断片的に、それでいて鮮明に思いだされた。
「ジョニーに出会って、頭の中で考え続けてきたことを、全部改めなきゃいけなくなった。ジョニーは、僕が考えもしなかった、馬鹿げたような場所に人生の意味があることを、教えてくれるから。リンダとレイラ、あの二人は……正直、本当に最悪なやつらだ。でも、おかしいんだ。最悪にも種類があって……とにかく、ものすごいんだよ」
女の子は、恐い。けれどそれ以上に、とてつもなく愛しい二人なのだ。
リンダとレイラに、鉄槌広場の湧き水で身体を洗われた時のことを思い出す。
輝く飛沫越しに姉妹の姿を見た時、ジャックは人生から、怯えの芽を一つ摘み取ってもらえた気がした。
あの二人に連れ出され、路地裏で待ち伏せしている間、鼻の奥が熱くなるような興奮を覚えた。
「ステラボウルズのショウを初めて見た。君が乱入した、あれさ。僕はそれまでずっと、あんな、外面だけの卑劣なやつらが、人を感動させられるわけないって、信じてた。多少歌がうまかったところで、下劣な本性がどこかに感じ取れるはずだって。でも、実物は全然違った。僕は骨抜きにされた。現実のロズは、思っていたより、さらに遠くにいる存在だった。僕がずっと夢見てた、都合のいい幻想は、なんて不細工だったんだろう」
頭の中に散らばった写真達は、少し目を離してから再び覗きこむたびに、それまでは無かった像を、四辺の内に新たに写りこませていた。
何かが増えている、と分かるだけで、ジャックはそれらを具体的に表現する術は持たない。
写真はジャックの心象であり、それは、言葉で表せない、具体的に掴むことの出来ない感情の動きを、容易く描写してしまう。
「僕は、何も知らない。世界は欠片も、僕が思ってた通りじゃなかった」
ジョニーと出会ってからというもの、自分の中に経験したことの無い何かが、絶え間なく注がれ続けている。
それに比例して、自分自身に対する空虚な感覚が増していく。
「ずっと、誰かから信頼されたいって思ってた。なのに今は……みんなの力になれる自信がないって、悩んでる。二度と、無茶をやる勇気は無い……分かったんだ。僕はこそこそ、石像の影に隠れるので精一杯だって」
メグラチカで、リンダが路地から、ジョニーのもとへと駆けだして行った直後。
檻から脱走した石膏花に、ジャックは後ろから上半身を丸呑みにされた。
ジャックの身体を堪能した石膏花からようやく解放され、しばしの間気を失っていた後、周囲を見回せば、花は自由を求めとっくに逃亡、目の前にはジャックの、一分の一スケール胸像だけが残されていた。
それからは、フューシャを追うエルフの軍団が、狭い路地を絶えず往復するのを、隠れてやり過ごす事だけに必死になっていた。
胸像を掲げ、その後ろで身を竦めながら、何とかバレずに耐えきってみせた。
フューシャにだけは、石膏像の後ろにオークが潜んでいるとバレていたようだがそれは特殊な例であり、リンダの言う通り、いかにジャックの型とはいえ、ご丁寧に緑に塗りでもしない限り、大衆の殆どには気付かれることもなさそうだった。
新発見だった。
他種族がオークを見る時の注意力の割り振りは、自分が他種族を見る際のそれとは、どうやらかけ離れているらしかった。
そして、通りが静まり返った後、つまり、フューシャとロズが去り、ジョニーが吊られた後に、ジャックは忍び足で通りから去り、警察の詰め所まで走ったのだった。
メグラチカにおける自らの振る舞いが、ジャックを虚しくさせていた。
いつだって自分は、誰の目にも留まらない。
自分だけの大問題に、一人で四苦八苦するだけなのだ。
ゴミ捨て場に捨てられている今日のように。
シュリセがジョニーに、「低劣なものと関わるな」と言っていたのを思い出す。
こんな自分が、ジョニー達と関わり続けていいのだろうか。
「薫陶を授ける。空を仰ぎ聞くがよい」
ジャックの隣に、何かが落ちてきた。
フューシャが、ゴミ捨て場の中に、背中から倒れ込んで来たのだった。
ジャックは、その奇行に驚きつつ、舞い上がった屑が顔に降り注いでくるのを払う。
隣で大の字になったフューシャはジャックに一瞥もくれず、空に向かって話しかけた。
「芥の山に飛んだのではなく、汝の隣に来たと言うことも出来る。故に、芥の山に終わる話と捉えるか、芥の山より始まる物語と捉えるかは、汝の一存である」
よく嗚咽の一つも吐かないね。
ジャックは、そうは尋ねなかった。
ジャックが、人生で初めてゴミ捨て場に投げ込まれた時、体は今より小さく、その分、ゴミ袋は今よりも巨大に見えて、臭気は、身長の何倍もの高さから覆いかぶさってくるかのようだった。
小さなジャックは、胃の中を戻さずにはいられなかった。
フューシャが吐かない理由は、ジャックの中で、勝手に論理付けられた。
こんな気持ちを他者に、それもついさっきまで物狂い扱いしていた男に抱くなど、手のひら返しも甚だしいのは分かっているのだが。
「もしかして、君って凄く頭がいい?」
「全知全能であるが故」
「そう。僕は馬鹿だよ」
散漫なやりとりだった。
ジャックがやるせなくなるのはいつものことだったが、そこにフューシャまで寄り添うのは何かが違うような気がして、ジャックはその表情を盗み見た。
自分を貶すのも、堂々としているのも、同じ意地を張らねばならないのだろうか。
フューシャは変わらず、泰然として見える。
ジャックは、聞かずにはいられなかった。
「辛くないの?」
臭気に顔をしかめる振りをして、わざと小さな声で尋ねる。
「全知全能でも、毎日、一人で道に座り込んで、一日中プラカードを持ち続けるのは…………」
最近、ある奇人の噂が、ニューアリアに広まりつつあった。
街の至る所に現れ、日が暮れるまで、その場所から一歩も動かない。
ジュースをひっかけられようが、何をされようが、「魔王討伐協力者急募」と書かれたプラカードを引っ込めようとはしない。実はジャックも一度その現場に遭遇し、目を逸らしたことがある。
無視した理由は、フューシャを蔑んだからでは無かった。
オークに似合わぬ服飾の趣味に没頭するジャックも、大抵の学生から、奇異の目で見られている。
同情してやる勇気が、自分には無かった。
同情した瞬間、魔王討伐に血道をあげるフューシャも、デザイナー志望である自分も、他の人間達から見ればそう変わらないのだということを、自覚することになってしまうからだ。
自分の滑稽さを客観的に認識することに、ジャックは耐えられなかったのだ。
『僕には関係ない。もう一生関わり合いになるはずもないさ』
何度も自分に言い聞かせて、その場を逃げたのだった。
こうして、隣り合って寝そべってなお、ジャックは二人の世界が混じり合っていないことに気がついた。
ジャックは、ふと虚しい気分になった。
世界とは、認識する個人の中に、独立して形成されるものだ。
ジャックの世界はかつて、フューシャとの関係を拒絶した。
しかし今日、フューシャは何故か、ジャックの元にやってきた。
フューシャは自らの中にある、何らかの意思に従って、ゴミ捨て場の中のジャックに声をかけることを躊躇わなかった。
道徳律の美しさは、大衆からの乖離が原因で、貶しめられるものなのだろうか。
ジャックには、フューシャが今ゴミの山に横たわっているのが、余りに、もったいなく思えた。
『弱者は弱者の気持ちを理解する』なんて言葉は、美談だと思う。
美談。
大衆化された道徳など、いつだって自分の様な者には、はた迷惑な話だ。
個人の道徳律に従った行動が、全てそこに当てはめられてしまう風潮に、ジャックは物申したかった。
そうだ、今自分が寝ている場所より、大衆化された道徳の方が、よっぽどゴミ山ではないか。
フューシャは、空を見ている。
故郷を映している瞳だった。
ジャックは空に向かって手を伸ばしながら、言った。
「冗談じゃない。僕らはまだ若いのに、どうしてお互いこんなことをしてなくちゃいけないんだ」
心が死んでいる。
フューシャは自身を、そう表現した。
ならば自分が、彼の代わりに癇癪を起こしてやるのも悪くないかと、ジャックは思った。
一度、プラカードを掲げた君を見て見ぬふりした償いに。
「薫陶、ありがとう。……踏ん切りはついたよ。身体を洗って、うがいして、友達の所に行かなきゃ。決めた。僕は皆と歌を歌うよ」
フューシャは、呆けたような、それでいてどこか必死な表情をしていた。
記憶から忘れ物を引き出そうとしている顔だった。
それを探し当てた時、フューシャ。スライという存在は、変貌するだろうか。
それとも、何一つ変わることなく、ゴミ捨て場に飛びこむフューシャのままなのだろうか。
「君も来る?」
ジャックはフューシャに、勇気を出して言ってみた。
「ゴミ捨て場キャンパーのよしみでさ。それとも僕じゃ、魔王相手には力不足かな」
フューシャは、激しく目を瞬かせた。
空を見ていた時と同じ表情で、ジャックのことを見詰めていた。
フューシャが唇を振るわせる。
そして随分長い溜めの後、口にされたのは、最早聞きなれた、メグラチカでも彼が散々口にしていた、物狂いの常套句だった。
「清ら、か、……なる」
「……やっぱり分かる?」
二人してどこか気まずく起きあがると、ブロック塀の淵に手をかける。
フューシャがさっそく、先程のジャックの歌を真似て、口ずさんだ。
『僕を突き放した世界が回る
僕を置き去りにして時間が巡る
君は信じてくれるだろうか こんな場所で僕が歌うことを
君は信じてくれるだろうか……』
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