第九章 フューシャ・スライと世界が廻る⑦
夢の中で、歌を口ずさんでいた。
ジョニーに教えて貰った歌だ。
『僕を突き放した世界が回る
僕を置き去りにして時間が巡る
君は信じてくれるだろうか こんな場所で僕が歌うことを
君は信じてくれるだろうか……』
真っ暗闇の中でスポットを浴びながら、繰り返し呟くように奏で続ける。
ジャックがスポットを嫌い、歌声をひそめればひそめるほど、明かりは大きくなっていき、しまいには、太陽ほどに膨らんだその白が、ジャックの姿を掻き消した。
そこで、目を覚ました。
激臭の衝撃。
ゴミ捨て場の中だ。
空は四角く切りとられていた。
ブロック塀に囲まれた、手狭な区画の中である。
敷き詰められたゴミ袋をベッドにして、ジャックは横たわっていた。
背中を濡らしているのは汗ではなく、藁布ゴミ袋から染み出す、腐汁だろう。
揮発の遅そうな粘り気が、毛穴にしみ込んで来ていた。
あの日と全く同じ青空。
数日前と寸分変わらぬ幕開けだった。
唯一、ジャックの認めた変化は、自身の胸の内のみだった。
ゴミ捨て場に放り込まれていた理由を、あの日のように気にしたりはしなかった。
まず先に、ジャックは眼球だけを動かして、自身とゴミを囲うブロック塀の上をなぞっていく。
もしや今日も、リンダとレイラがいるのではないかと、つい期待してしまう。
塀の上に、フューシャ・スライが立っていた。
「うわあぁっ!」
お目当ての影とは全く違った人物の登場に、ジャックは驚きの声を上げた。
「僕に、何か用?」
フューシャは、ジャックが目を覚ますのを待ち構えていたように見える。
だが、それは何ともおかしな話だった。
ジャックとフューシャは、メグラチカでの事件において最後まで接点を持たなかった、いまだ見ず知らずの他人、ということになっているはずなのだから。
「切実な破蕾ほど、小さきもの。歌の調べは、確かに騎士の名を呼んでいたとみたが」
ジャックには、言葉の意味を理解しかねた。
ただフューシャにとっての何かが徒労に終わった、といった主旨だけが伝わってきた。
しかしフューシャは、時間を無駄にしたと嘆く様子も見せることは無く、
「誤断であったか」
つま先を小さく使い、狭い塀の上できびきびと振り返り、立ち去ろうとする。
「待って!」
ジャックは、思わず叫んでいた。
ここで会えたのは、運だ。
ジャックには、フューシャに聞きたい事が山ほど有った。
咄嗟に整理出来てはいなかったものの、順序立てているうちにフューシャを逃してしまうのは、余りにも惜しく思えたのだった。
「ロズを、きちんと送り帰したみたいだね」
悩んだ挙句ジャックは、あの日、ロズを攫ったフューシャがその後に取った行動について、まず、はっきりさせておくことにした。
ロズが何者かに誘拐されたことを知ったシャンディーノは、即座に緘口令を敷いた。
つまり、街中に宣伝したということである。
串焼き屋丸焼き事件を闇に葬った都市議会ほどの手腕は、芸術院の専門外だったようだ。
メグラチカで誘拐されてから数時間後の日没に、ロズは自宅の屋敷で発見された、と聞いている。
外傷はもとより、態度にも変わった様子は無かった、とも。
とはいえ、フューシャがロズに対し、紳士にあるまじき振る舞いをしなかった、と納得するにも、それだけでは少し足りなかった。
「我が腕の中にありてなお、あの者は出色であったぞ。気を失っておるのかと思いきや、なんと安眠しておったわ。屋敷の寝所に横たえ、我はただちに去った」
噂では、馬小屋で発見されたと聞いていたが、ジャックは追及しなかった。
代わって、フューシャに対する別の疑問を投げかける。
「もしかして、僕の事覚えてる?」
そうであってほしくなかったが、フューシャの態度にははっきり、ジャックと既知であるかのような親しみが含まれているように思えたのだった。
「石像である」
ジャックの考えは的中した。
フューシャはばっちりと、メグラチカでのジャックの事を覚えているようだった。
質問を重ねる。
「君は……何者?」
「愚問である」
フューシャは、両手を広げる。
これが全てだ、と言わんばかりに。
それだけで、自分と言う存在を余すことなく説明できると、信じているかのように。
「我の何を質そうというのか」
その言葉は、ジャックを再び、「何から問い質すべきか」という思考に立ちかえらせた。
質問しなければならない事は、ジャックの頭の中に雑多に散らばっていたように思えたが、それでも気がつくと、日常的な優先順位に従って口から飛び出していく。
「ロズのこと……好きなの?」
つまるところ、ジャックが本当に聞きたかったことはこれだけなのだ。
『どうしてロズを攫ったりしたの?』
私情を排し公平になるなら、そう質問するべきだったことに気がつく。
ジャックは、ニューアリアの男なら誰だって同じ聞き方をするはずだと、自分を誤魔化した。
「僕も、前に一度、同じようなことを……同じことを、したことがあって」
ロズをナンパした一件のことである。
フューシャの破天荒を前に、過去の自分の勇気がどうしても霞むのがいたたまれず、背伸びして「同じことを」と張り合ったのだった。
「けど、君みたいに二度もやる度胸なんて、持てるわけないし。ほら、ステージと、メグラチカで、二回。その、つまり、君に聞きたいのは……辛くなかったの? あのロズに、話しかけにいくなんて……恥ずかしかったり、怖かったり」
誰にだって、成し遂げたい想い、感情があると思う。
でも、それを成し遂げないのは、成し遂げることが諦めるより苦しいと、わきまえているからだ。
フューシャは、「俗」ではないと思う。
大抵の男と同じ目線で、ロズを見ているわけではないだろう。
だが、なら他にどんな動機があれば、あそこまでの真似が出来ると言うのか。
フューシャに恐怖を克服させたのは、なんだったのか。
ジャックはフューシャに、羨望を抱いていたのだ。
期待するジャックに、しかしフューシャは、肩すかしの言葉を返した。
「我は心が死んでおるが故」
なんだそれは。
まんま、『心に傷を負った英雄』に憧れる子どもではないか。
ジャックは、急に馬鹿らしくなった。
フューシャがロズをさらった理由。
『一緒に魔王と闘う仲間になってほしかった』。
本当に、それだけだったのだ。
ジャックは、嘆息した。
物狂いに対し、質問を重ねた自分が、ひどく滑稽に思えた。
フューシャは静かに言った。
「汝は、生きておるが故」
フューシャは、人が変わったようだった。
物狂いは影を潜め、その代わり、表情に濃い闇が浮かんでいた。
ジャックは、その闇に引き寄せられるように、
「どうしたらいいか……わからないんだ」
心中の悩みを、吐露した。
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