10.クリスマス

 十二月。

 灰色に曇った空の下、身を切るように吹き荒ぶ風の中を冬の妖婆(カリアッハ・ヴェラ)がさまよい歩き、枯れた大地を霜で凍らせていく季節。

 緯度の高いスコットランドの冬は昼が短く、午後の三時ともなれば日が落ちる。暖流のおかげで冬でも緯度の割には暖かいが、それでも、辛く厳しい季節である事には違いない。

 しかし、そんな季節にあって、人々の心が浮き立つ様子を見せているのは、クリスマスという一大行事を控えているからだろう。

 本番の一ヶ月前から始まる待降節アドベントの期間、人々はクリスマスの準備に駆け回り、子供達はアドベント・カレンダーを眺めてカウントダウンに心を躍らせていた。

「──うん、大丈夫だよ。フィオナ叔母さんがよくしてくれるから。父さんこそ、無理しないで。それじゃあ、クリスマスに」

 話を終えたハル・コネリーはそっと受話器を置いた。

 スコットランド人の父と日本人の母の間に生まれた十三才の少年は、母方から東洋系の特徴を受け継いだせいか同年代の少年達に比べると小柄で童顔だ。しかし、その風貌は黒髪に黒い目のエキゾチックな魅力があるだけでなく、女の子のような整った顔立ちをしており、今はまだ子供っぽいかわいらしさの方が目立ってしまうが、将来の有望さを存分に感じさせる。事実、穏やかで優しい物腰や、都会育ちの雰囲気も相まって、今でも既に周囲の女子からの人気は高い。

「久し振りね、ロイに会うの」

 そう声をかけたのは、仕事で家を空けっ放しの父ロイ・コネリーに代わって、ハルの世話をしてくれている叔母のフィオナ・コネリーだ。

 柔らかな茶色の髪とヘイゼルグリーンの目の年若い叔母は、飾り気のない服装や野暮ったい眼鏡のせいで、今一つ垢抜けない所があるが、そこがかえって純朴さを感じさせる。大学を卒業してから、生まれ故郷の田舎の村で中学校の教師の職に就いており、生徒にとってはやや親しみやすすぎるきらいもあるが、何年もしっかりと教職を勤めあげている。

「こっちでクリスマスを過ごすのも久し振りね。去年までは、私がグラスゴーに行ってたから」

 一人暮らしのフィオナは、クリスマスはグラスゴーの兄夫婦の所で過ごすのが例年のならいだったが、今年は逆に兄が故郷のフィオナの家へやって来る予定になっていた。

 そして、それはハルにとっては、母のいない最初のクリスマスなのだ、と思うと、胸の内にちくりと刺すような寂しさも感じるのだった。

「フィオナ叔母さんが一人じゃ寂しいだろうから、って言ってたけど、早くいい人を見つけて結婚すればいいのに、とも言ってたよね」

「ハルっ!」

 フィオナが腰を浮かせてテーブルを叩いた。

「もうっ! ハルまでそんな事を!」

「ごめん、フィオナ叔母さん。イアンと出かける約束してるから」

 逃げるように飛び出していくハルを見送ると、フィオナは座り直して、すねた子供のように唇を尖らせた。

「私だって、いい人がいればお嫁に行きたいわ」

 と、フィオナは嘆息しながらも、ハルが軽口を言うような明るさを見せてくれるのが嬉しくもあった。


§


 村の外れの川縁では、既にイアン・スチュワートが釣り糸を垂らしていた。

 金髪に青い目の、黙っていればハンサムだが、やんちゃで短慮なのが欠点の少年は、物怖じしない気さくな性格で、ハルにとっては気の置けない友人だ。

「よっ、ハル」

 ハルに気付いたイアンが片手を上げて見せた。

「どう?」

「いまいちだなあ」

 ハルが隣に回り込みながら釣りの調子を聞くと、イアンは渋い表情で応じた。

 釣りはイアンの趣味の一つだ。釣り好きの父親に仕込まれたのだが、生憎と腕の方は今一つのようだった。それでも、下手の横好きといった様子で、懲りずに釣れない糸を垂らし、時々、父親の釣り道具を勝手に持ち出して叱られたりしている。

「ほい、これ」

 と、イアンは傍らに置いてあった別の竿をハルに渡した。ハルが釣りに付き合う時は、道具はいつもイアンに貸してもらっている。

「その竿一式はやるよ。ちょい早いけど、クリスマスプレゼントって事で。竿とルアーは俺のお古で悪いけどさ、一応、他の仕掛けは全部新品だからさ」

「いいの?」

「おう。ハルも自分の道具が欲しいっつてたからさ、ちょうどいいし」

「ありがとう、イアン」

 イアンの釣りに何度も付き合って、その度に道具を全部借りるのも気が引けるのと、初心者で釣れないなりにも楽しくなってきていた所なので、正直、嬉しいプレゼントだった。

「じゃあ、折角だから、僕のも今渡しちゃっていいかな。来る前に買っといたんだけど、ちょうどいいタイミングだったね」

 と、ハルはここへ来る前に寄り道をして買っておいたイアンへのクリスマスプレゼントの包みをポケットから取り出した。

「何? 開けていいよな」

 イアンは包みを受け取るや否や、躊躇なく包みをはがし始めた。ツリーの下に置いておいて、クリスマス当日まで取っておくつもりなど毛頭ないらしい。

「おっ! いいじゃん!」

「僕の方が一式もらっちゃって、あげるのがそれだけっていうのも、何だか悪いけどね」

「いや、いいって! 俺がやったの使い古しだけど、これ新品じゃん。それに、ちょうどこういうの欲しかったんだよ!」

 包みの中から出てきた新品の赤いルアーを日に透かして見ながら、イアンは興奮気味にまくし立てた。

「ようし! じゃあ、早速、こいつを試してみようぜ! 何だか今日は釣れそうな気がするぞ」

 喜び勇んでルアーを付け替えるイアンの隣で、ハルも自分の物になった釣り竿を構えて見た。メタリックブルーの竿は年期が入ってはいるが、軽く使いやすく手に馴染む品だった。

「僕も何だか釣れそうな気がするよ」

「おう、じゃあ、今日は大量だな!」

 ハルとイアンは顔を見合わせて笑った。


 しかし、気がするだけでは巧くいく事もなく、結局、二人とも坊主に終わったのだった。


§


 獲物もなしの空のバケツを提げた帰り道。

 既に日が落ちて暗くなった道も、村の中へ入れば至る所にクリスマスの飾り付けが光を放ち、待降節アドベントの浮かれ振りを主張している。

「ねえ、イアンだったら、デヒティンに何をプレゼントする?」

「ん?」

 不意に問いかけるハルに、イアンは少し考え込んだ。

「料理の道具とか欲しがるから、その辺かな。何か気になんの?」

「……いや、女の子へのプレゼントって、どういうのがいいのかな、って思って……」

「ああ」

 もごもごと答えるハルの言葉に、イアンは心得たとばかりに手を打った。

「シーダーとかモードとかに何をプレゼントすりゃいいか迷ってるって訳か」

「……うん、まあ、そういう事」

 思っているその通りの事を指摘されて、ハルは気恥ずかしそうに頭を垂れた。

 シーダー・キーン。モード・コリンズ。好意を寄せてくれる二人の少女にどう接すればいいのか、自分の気持ちすら量りかねているハルにとって、目下の所の大きな悩みの種がそれだった。

「んなもん、俺よりもコネリー先生にでも相談した方がよくないか?」

「フィオナ叔母さんにそんな話したら、また、変な思い込みで暴走しちゃうよ」

「ああ」

 イアンは心底納得したように頷いた。

 フィオナは普段はおっとりしているが、時々、思い込みで視野やら思考やらが固まってしまう事がある。つい、この前も、ハルがシーダーとモードに二股をかけているという噂を真に受けて取り乱していたというのに、それを蒸し返すような話をする気にはなれなかった。

「でもまあ、俺にもよくわからんよ、そういうのはさ。つーか、ハルがどうしたいかって気持ち次第で変わってくるとこあるだろ?」

「……うん」

 シーダーかモードかどちらかを選べと迫られても、容易に答えを出す事はできない。二人とも魅力的な少女であり、その好意を嬉しく思うけれど、ハル自身の気持ちはいくら自問してみてもはっきりとわからないままだった。

「ま、俺だったら、あんなおっかねぇ女はどっちも遠慮したいけどな」

 そう言って、イアンは人が悪そうに笑った。

「イアンにはデヒティンがいるからね」

「そうだな。俺はあいつじゃなきゃダメだわ」

 逆襲してからかうつもりが、素直に返され、ハルは毒気を抜かれた。

「たださぁ、決まらないんなら、とりあえず、決まるまで逃げ回るのも手かもな」

「そう、かな……?」

「だって、決まらねーんじゃ、他にどうしようもねーじゃん」

 と、イアンはからからと笑った。

「──ああ、それと、一つだけアドバイスな」

 そう言って、イアンはハルの耳に口を寄せ、ハルはその言葉に神妙に聞き入っていた。


§


 クリスマスの翌日、ボクシングデー。

 元々はクリスマスプレゼントの箱を開けるボクシング日である事からそう呼ばれる休日であり、クリスマスも仕事をしなければならなかった人達を労う日でもある。

 そして、家族でクリスマスを過ごした翌日の今日、ハルは友人達と集まる約束があった。

 叔母からのプレゼントであるマフラーを首に巻いて家の外へ出たハルの視界に、鮮やかな赤毛が飛び込んで来た。冬の曇り空は寒々しいが、灰色の雲の切れ間から覗く太陽は、それでも、真っ赤な髪を輝かせる。

「ハル! 迎えに来たわよ、行きましょう!」

 シーダー・キーンはキラキラするような満面の笑顔で待ち受けていた。

 人参色の髪に縁取られた広い額は生え際のラインが綺麗に整っており、大きな緑色の目はやや吊り気味で生意気そうだが、活き活きとした才気が輝き出るようで、肌のきめ細かさを示すように少しそばかすが浮いているのも愛らしい。

 年は十二才でハルよりも一つ下だが、ハルが小柄なせいもあって背丈は同じくらい。シックな黒のジャンパースカートとブラウスで包んだ体は、一見すると華奢に見えるが意外に発育は悪くない。堂々とした態度が、良く言えば気丈に、悪く言えば生意気そうに見えるが、そこもシーダーの魅力の一つだ。

「シーダー? うん?」

 シーダーもまたハルと同じく、大量に余るであろう作りすぎたお菓子を片付けるという名目でデヒティンの家に呼ばれてはいたが、別に待ち合わせをしていた訳ではない。完全にシーダーの不意打ちだ。

「さ、行こう。どこかでガリガリ眼鏡が狙ってるかも知れないし」

「誰がガリガリ眼鏡ですって!」

 怒鳴り声が上がった方へ目を向ければ、仁王立ちで肩を怒らせるモード・コリンズの姿があった。

 艶やかなブルネットの猫っ毛に、メタルフレームの奥で知的な輝きをたたえるスミレ色の瞳。髪に比べて随分と目が薄い色をしているせいか、どこか神秘的な印象も感じさせる。ほっそりした体をやや堅苦しい感のあるピシっと糊の効いたブラウスとロングスカートで包み、凛と張り詰めた雰囲気をまとっているせいで、折角の美少女ぶりに怖い堅物風のイメージを上からかぶせてしまっているのが惜しい所だ。

「ほら、いた」

 シーダーがわざとらしく肩をすくめて、大きな溜め息を吐く。

 ずんずん歩み寄って来るモードに、シーダーは挑発的にぐいと胸を反らして真っ向から向かい合う。自分よりも発育の良い胸に目が行って、一瞬、モードがたじろいだ。

「ふふーん。ハルと一緒に行こうと思って、勝手に押しかけて来たのね? まったく、相変わらずこそこそハルの周りを嗅ぎ回るんだから。まるでストーカーね」

「なっ……! あなたに言われたくないわ!」

「あ、ストーカーって所は認めるんだ」

「何ですってえ!」

 シーダーとモードの間に激しく火花が散る。

「あ……、え、ええっと、約束の時間に遅れちゃうから、行こうよ……、みんなで一緒に、ね?」

 恐る恐る口を挟むハルの背筋に冷や汗が伝った。


§


「いらっしゃ~い、さ、上がって~」

 デヒティン・ワトソンの歓迎の声が穏やかに響く。

 両腕をそれぞれシーダーとモードに捕まえられ、犯人として連行されるかのような有様でここまでたどり着いたハルには、まるで天の救いのように思えた。

 デヒティンはほっとする少女だ。

 柔らかな薄茶色の髪と目、ふっくらした体つき、美人と言うほどではないけれど、愛嬌があって、一緒にいると緊張がほぐれるような穏やかで安心する雰囲気を持っている。料理上手でその腕前には誰もが舌を巻くほど。イアンとは家が隣同士の生まれた時からの幼馴染みで、ごく自然な流れでそのまま恋人同士となった仲だ。

 服装はゆったりしたチュニックなどを好むので、体型を気にしているのかと思いきや、袖や裾の丈を短めにして肉付きの良い手足を惜しげもなくさらしていたりもするので、その辺りはどうもよくわからない。始終、イアンに体型の事で「ポチャ子(チヤビー)」とからかわれても、本気で怒るでもなく、決まり事のふざけあいのような印象だった。

「よっ、ハル。モテモテだな」

 先に来ていたイアンが顔を出して、ハル達の様子に軽口を叩いたが、三対の目に睨みつけられて大仰に肩をすくめた。

 デヒティンに案内されて行った先は、前にも茶会で使った部屋で、テーブルの上にはデヒティンお手製の菓子が甘い香りを広げていた。

「いっぱい食べてね~。今、お茶を淹れるから~」

 定番のクリスマスプディングにダンディーケーキやミンスパイに加えて、様々な果物のタルト、ジンジャークッキーやショートブレッドまで、所狭しと並ぶどころか山と積み上げられた光景には唖然とするばかりだった。

「デヒティン……、いくら何でも作りすぎだわ……」

 モードのあきれたような呟きに、ハルもシーダーも同意した。

「ん? まだキッチンにそれと同じくらいの量があるから、相当食わないと減らないぞ」

 洋梨のタルトを豪快に頬張るイアンの言葉に、三人とも思わずたじろいだ。

「美味しそう、だけど……」

「……村中に配って歩いた方がいいわね」

 シーダーがひきつった苦笑いを洩らした。

「まあな。でも、取りあえず食えば? ポチャ子チャビーの菓子だから味は保証付きだしな」

「あ~、また『ポチャ子』って言った~」

 ハル達の分の紅茶を用意して戻って来たデヒティンが、イアンの軽口を聞きつけて頬をふくらませた。

「もう、言わないって約束したのに~」

「ああ。もう、言わない言わない」

「ホント? なら、いいよ~」

 今までに数え切れないくらい繰り返してきて、これからも繰り返し続けるであろうやりとりの後、デヒティンはにこりと笑って皆のカップに紅茶を注いだ。

 立ち上る紅茶の香りと、テーブルに広げられた菓子の甘い香りが混ざり合い、食欲をそそった。

 デヒティンの腕前が確かな事は疑いようもなく、味も香りも食感も、その組み合わせのバランスも、何もかもがちょうどいい。クリスマスプディングの熟成された味わい、アイシングで飾られたフルーツケーキの見た目に反して程良く抑えられた甘さ、ショートブレッドのさっくりしていて口の中でほどけていく歯触りも絶妙。

 また、癖のない爽やかな香りのアッサムが、口の中に残る菓子の甘さをすっきりと洗い流してくれるものだから、自然に次々と手が伸びた。

「ん、今日のルバーブは旨いな」

 酸味の強いルバーブのパイに囓りついたイアンが言った。

「そう? ちょと酸っぱすぎないかな~?」

「いや、他に甘いのがいっぱいあるし、俺はこんくらいがちょうどいい」

「そっか~、良かった~。この前のはちょっと失敗だったし、今度はイアンの好きな感じに作れて良かった~」

 にっこりとデヒティンが嬉しそうに笑った。

「あ、零してるよ~。ちょっと動かないで──」

 イアンの口の端についた汚れを、デヒティンが甲斐甲斐しくハンカチで拭う。仲睦まじい姿に、見ている方が気恥ずかしくなった。

「何だか、イアンとデヒティンは夫婦みたいだね」

「だよなー。そうなるよなー。だからさ、十六(*1)になったらさっさと嫁に貰っちまおうかと思ってんだよな」(*1 スコットランドでは男女とも十六才から結婚が可能)

「──っ!」

「えっ!?」

「ぶっ!」

 ハルに答えて、イアンがさらりと告げた言葉に、女性陣が固まったり噴き出したりした。

「わっ、わっ……」

 真っ赤になったデヒティンが手元を狂わせて自分のティースプーンを取り落とした。

「あっ、いっけない。取り替えてくるね~」

 落としたスプーンを拾い上げて、逃げるようにキッチンへ向かうデヒティンの赤く染まった頬は、ゆるみきって溶け落ちそうになっていた。

「だ、大胆ね……」

 シーダーがようやくそう言うと、モードもこくこく頷いた。

「そっかぁ?」

 大袈裟に反応されて気恥ずかしくなったのか、少し照れた様子も感じさせつつ、イアンは首を傾げた。

「俺達の場合、あんま迷う余地はないって感じだし、早いか遅いかだけって気がすんだよなぁ?」

「なぁ、って言われても……」

 視線を向けられたハルも答えに窮して口籠もった。

 そして、一方ではハルを挟んだシーダーとモードの目がぶつかり合っていた。イアンとデヒティンのイチャイチャぶりにあてられて気持ちを高ぶらせつつも、互いを牽制して睨み合いの火花を散らす。

「ふぅ。ごめんね~」

 まだほんのりと頬に赤みを残したデヒティンが、再び戻って来た。

「そう、折角だから、ハルにもらったクリスマスプレゼントを使おうかと思って~」

 そう言って、デヒティンは手にしたティースプーンをカップの脇に置いた。

 磁器のスプーンは皿の部分が赤く塗られ、柄に描かれた枝から続く先の部分には葉と花の形と色をあしらい、林檎の実と枝を模したものになっていた。

 フランツ・コレクションという凝ったデザインが人気の磁器だが、スプーン一本くらいならハルの小遣いでも十分に間に合う手頃な値段なので、プレゼント用にと選んだ品だ。

「すっごくかわいいよね~。ありがと~」

「気に入ってくれたんなら良かった。フィオナ叔母さんも喜んでくれたけど、みんなの気に入るか心配だったんだ」

「??? みんな?」

 デヒティンがきょとんとして目を瞬かせた。

 同時に、ハルの両脇でひやりと空気が冷えた。

 シーダーとモードが各々の襟元に手を伸ばして、首にかけていた細い鎖を引っ張り出した。どちらの鎖の先も、磁器のスプーンの柄の小さな穴につながっていた。

 シーダーはピンク色のツツジ、モードは青地に白いハイビスカスをあしらった物だが、どちらもデヒティンの林檎と同じくフランツ・コレクションのティースプーンである事は一目で明らかだ。

「ふぅん」

 シーダーの声が冷たく響いた。

「私にもモードにもデヒティンにもコネリー先生にも、みんなに同じ物をくれたんだ」

「え? デザインはみんな違うのだよ──」

 言い終える前にハルの左頬がぱあんと鳴った。

 頬を平手で張ったモードは、眼鏡の奥の潤んだ瞳でハルをきっと睨みつけると、何も言わせない迫力でくるりと踵を返して早足で部屋を出て行った。

「え? モード……」

「ハル」

 途惑うハルに、にっこりと笑ったシーダーが声をかけて振り向かせる。そして、笑顔のままでモードが張ったのとは反対側の頬に拳を叩き込んだ。

 吹き飛んで床に転がったハルの視界に、その場から立ち去って行くシーダーの足が映った。

「あい、た、た……」

 頬を押さえて立ち上がると、腹を抱えて笑いをこらえるイアンの隣で、デヒティンが呆れるのと苦笑いとの中間のような表情でハルを見ていた。

「ハル、これはちょっとひどいと思うな。私も、まさか、同じ物をみんなにあげてたなんて思わなかったよ……。私やコネリー先生にはいいけど、モードとシーダーには駄目だよ」

「え? えっ?」

 きょとんとして、訳がわからないといった様子のハルに、デヒティンは深々と溜め息を吐いた。

「早く追いかけて、謝った方がいいと思うな」

「そ、そうなの?」

「は・や・く!」

 じれったそうに珍しく語調を強めるデヒティンに急かされ、ハルは二人が出て行ったドアを開いて飛び出して行った。

 その後ろ姿を見送ってから、デヒティンはもう一度溜め息を吐いて、隣に視線を移した。

「イアン、ハルに何か言ったんでしょ~?」

 身をよじって笑うイアンが何か腹に抱えている事は、見れば明らかだ。

「いや、何ね、ハルの奴がクリスマスプレゼントをどうするか迷ってるみたいだったからさ、ちょっとアドバイスをしてやっただけさ」

「何て言ったの?」

「んー、女ってのは自分だけ特別扱いされるのが好きなんだ、ってね。だから、差をつけると喜ばれもするけど、恨まれもするだろうな、って。何も間違った事は言ってないだろ?」

「もうっ! やっぱりイアンのせいだ~! そんな風に言うから、みんなに同じ物なんかプレゼントしちゃったんじゃない。それが一番駄目なのに~! 駄目どころか駄目すぎだよ~。イアンのバカ~!」

 デヒティンは責め立てるように力のない拳でぽかぽかイアンの胸板を打ったが、イアンは悪びれもせず、笑いながらデヒティンの頭をぐりぐり撫で回した。


§


 デヒティンの家を飛び出したモードは、人気のない道端にぽつんと腰を下ろしていた。

 田舎の小さな村の風景だ。中心部の通りを外れてしまえば、民家もまばらで人の行き交う姿も稀になる。

 だから、一人でぐずぐず鼻を鳴らしている姿を見咎められる心配もあまりない。

「……何よ」

 静けさの中、近付いて来る足音にも気付いていたが、それが隣に腰を下ろしてから、ようやく無愛想な鼻声で言い捨てた。

「別に」

 シーダーも隣に並んだだけで、眼鏡を外して目元をこするモードの方は見もせずにそっぽを向いた。

 みっともない姿を見せたくない意地で、スンスン鼻を啜る音をどうにか抑えたモードは、赤く腫れた目に眼鏡をかけ直した。

 互いに何か話す訳でもなく、ふてくされた空気と微妙な緊張感が漂う中、シーダーの方が先に口を開いた。

「まったく、ハルってばホントにバカだわ」

「……そうね」

 と、モードも同意して頷いた。

「おかげでモードとお揃いになっちゃたじゃない。同じ発想をしたのがまた何だか腹が立つわね」

「それはこっちもよ」

 シーダーとモードが揃って荒く鼻息を吐き出した。

 スプーンの柄にちょうど小さな穴があいているデザインだったものだから、鎖と環を通してアクセサリとして身に着けられるようにしたのだが、二人してまったく同じ事をしてしまったのが癪だった。

「気が利かないんだか、変に気を回しすぎるんだか。鈍いし、はっきりしないし、イライラさせられるのよね」

「ええ」

「でも……、そういうとこがかわいいのよね」

「ええ……」

 そう言って、二人して照れ臭そうに頬をほんのりと染めた。

「うふふ。ハルったら、すっかり面食らっちゃって。頭に来たけど、かわいかったわ」

 シーダーがにんまりと笑いを零すと、モードもつられて頬をゆるめた。

「……そうね。きっと、おろおろしてたんでしょうね」

「あ~、モードはすぐに飛び出してっちゃったから、見逃したのね。ふふ、ホントにかわいかったんだから」

「くっ……、何だか、そうやって自慢げに言われると腹が立つわね」

「写真を撮っとけばよかったな。怯えた子犬みたいなかわいい顔してたもの。思い出してもゾクゾクしちゃう」

「悪趣味ね。前々から思っていたけれど、やっぱり、シーダーは性格が悪いわ」

「そんな事言って、自分だって見てみたいくせに。ハルのそういうとこ」

「ぐ……」

 震える我が身を両腕で抱き締めるシーダーの姿に、モードは眉間に皺を寄せて歯噛みした。

 が、やがて、どちらからともなく、ぷっと噴き出して大きな笑い声を上げた。

「おかしいっ! 私達、ハルに腹を立てて飛び出して来たのに、バカみたい」

 笑いの止まらないシーダーは、ぐっと背中を反らせて、投げ出した脚をばたつかせ、対してモードは体を抱え込むようにしながら、くすくす笑いを零し続けた。

「仕方ないわ。だって──、」

 モードは目元に溜まった涙を指で拭いながら言った。

「好きなんだもの」

「──そうね」

 と、頷いて、シーダーとモードは目を見合わせた。

「でも、ハルは私のものだもん。あげないわ」

「勝手な決めつけね。そうは行かないわよ」

 互いの目を見据えながら、一歩も引かないと言うように視線に力を込めた。

「──うん。やっと、おバカさんが追いついて来たみたいね」

 視線を逸らさないままで告げるシーダーの言葉を聞く間でもなく、近付いて来る駆け足の音は聞こえていた。

 息を切らして駆け込んで来たハルは、二人の元で足を止めた。膝に手を突いて、大きく上下する背中からは湯気が立ち上る。

「──はあ、はあ、その──」

 白く曇った息を途切れ途切れに吐き出しながら言葉を紡ごうとするハルのおどおどした表情が、かわいらしくて愛おしく、シーダーもモードも浮かび上がろうとする笑みを噛み殺すのに必死だった。

「──シーダー、モード、僕は……、その……、ごめん……わっ!」

 謝罪を口にするハルの右腕を、シーダーはいきなり引っつかんだ。

「もう、ハルってば! ホントにかわいいわ!」

「……あっ!」

 シーダーに負けじと、モードも反対側の腕に飛びついた。

 一瞬、不適に笑うシーダーの視線とモードの視線がぶつかる。

「えっ!?」

 不意を突かれて途惑うハルに、シーダーとモードはぐいっと詰め寄って、両方の頬に同時にキスをした。

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