4.ジェントルゴースト
家を出たハルとシーダーが連れ立って歩いていると、道の向こうからやって来る老人と行き合った。
「こんにちは、マッケンジーさん」
シーダーがにこやかに挨拶をした。
チェックのシャツにジーンズをサスペンダーで吊って、白髪の多くなった頭に麦藁帽子を乗せた、いかにも田舎の気のいい農夫といった風貌のロビー・マッケンジーは、牛飼いを生業として数十年の熟練だ。
「おお、シーダーにハルかい。ところで、うちのビディを見かけんかったかね?」
と、マッケンジーは穏和な笑顔を浮かべて手を挙げた。
「また逃がしたの?」
シーダーがあきれたように言った。
マッケンジーの牛が好き勝手に村の中をふらふら歩き回り、時には村の外まで出ていってしまうのはいつもの出来事だった。
「いやいや、逃げちゃおらんよ。ちょいとどこかへ散歩に行っちまっただけさ」
そう言って、マッケンジーはからからと笑った。実におおらかな好々爺である。
つられるようにシーダーもくすくす笑ったが、ハルは件のマッケンジーの牛に顔を舐め回されるという目に遭った事を思い出し、ぎこちなく笑顔をひきつらせた。
「二人はまたデートかい?」
「いえ、そんなんじゃ……」
「ええ、そうなの!」
ハルを遮ってシーダーが言い放った。
「ほうほう。仲がいいのは何よりいいこった。今日はどこまで行くんだい?」
「ちょっと、幽霊屋敷探険に」
「ほうほう。そうかいそうかい。気をつけなされよ」
ほっほっと笑いながら、マッケンジーは手を振ってゆっくりと去っていった。
のたのた歩くその背を見送って、微妙な顔つきをしている物言いたげなハルに、シーダーは悪戯っぽい笑顔を見せた。
「なぁに?」
「いや、別にデートっていうんじゃあ……」
「あら、男女二人で一緒にお出かけしたら、それはデートだわ」
くすくすシーダーが笑い声を上げると、ハルは照れ臭そうに頬を赤くした。
§
ブラウニング家の別荘がなぜこんな片田舎に建てられたのか知る者は村にはいない。昔はいたのかも知れないが、少なくとも今は残っていない。いつ頃からあったのか、と問われても、随分と昔から、というひどく曖昧な答えしか出てこないだろう。
ただ、はっきりしているのは、もう何十年も放ったらかしにされているという事だ。
かなりの財を成したらしい商家の別荘は、立派な門構えをしてはいるのだが、何十年もに渡って風雨に痛めつけられ、今ではすっかり灰色に寂れた姿をさらしている。ひび割れた石と煉瓦と錆びついた鉄の寄せ集めだ。荒れ果てた庭には無秩序に生い茂る草木が不気味な陰影を作り出し、それはもう幽霊屋敷と言うより他に呼びようがない廃墟だった。
その上、屋敷には良からぬ噂もついて回っていた。その最たる物を要約すれば、昔、屋敷の持ち主であるブラウニング家の一族である某かが、使用人もろとも変死を遂げ、以来、その幽霊が出るとか出ないとかという話である。
そんないわくつきの幽霊屋敷は、ボロボロの塀の隙間からいくらでも中に入り込めるので、子供達の探険にはうってつけのスポットになっている。
そして、見るもおどろおどろしい屋敷の崩れた塀の隙間から、シーダーもまたハルを引っ張ってずいずい中に入っていった。
「シーダー、ここ、勝手に入っていいの?」
「いいの。見ての通りの放ったらかしだもの。誰も叱りはしないわ。……叱りそうな人もいるけれど」
あっさりと答えて、シーダーは笑った。
雑草が生い茂り、うず高く積もった枯れ葉が敷き詰められた荒れ放題の庭だが、あちこちに新しい小さな足跡が入り乱れている。忍び込んだ子供達の物だろう。
がさり、と草を揺らす音がして、ハルは反射的にそちらへ視線を走らせたが、何も見当たらなかった。
「ネズミか何かじゃない? いろんな動物がたくさん入り込んでるから。それか、犬とか猫とか、蛇とかかもね」
ハルが微かに身を強張らせたのを見逃さず、シーダーは大きな瞳をすっと細めて悪戯猫の輝きを宿した。
「びっくりした?」
「……別に。ちょっとだけ」
すねたように答えるハルの態度に、シーダーはにやにやしてしまうのを抑えられなかった。
「手、つないでてあげよっか?」
シーダーはハルの手を取って、きゅっと握った。
「僕は……、そんな……」
「うふふ」
ハルがまごまごして言葉を濁すと、シーダーは小さく笑い声を洩らした。
「足下が危なくて怖いな。手、つないでてくれる?」
にっこり笑いながら真っ直ぐに目を覗き込んで言うと、見る見る間にハルの頬が赤く染まった。
「……う、うん」
頷くハルの手を握る手にシーダーが催促するように力を込めると、ハルもその手を握り返した。
「私の手、荒れてる感じする?」
「えっ?」
不意の問いかけに、ハルは思わず聞き返した。
「どうかな?」
「えっと……、そんな事ないと思うけど……」
ハルが握るシーダーの手は、柔らかく、しっとりしていて、すべすべで、温かかった。
「シーダーの手は、すごく柔らかいよ」
思った事を全部言うのは気恥ずかしくて、何とかそれだけ口にした。
「そう? 良かった」
ハルの答えを聞いて、シーダーは安堵の息を吐いた。
「あのね、魔女の手は荒れやすいの。薬草を育てるのに土いじりをしたり、いろんな薬を調合したり、手を使う作業をたくさんするから。お婆ちゃん特製のハンドクリームのおかげね」
シーダーの祖母エルムは齢七十を越える大ベテラン魔女だ。その熟練の技術で調合された代物であれば、効果のほども折り紙付きであろう。
「でも、ずっと続けてたら、やっぱり荒れてきちゃうよね。他の女の子に比べたら、かわいくない手になっちゃうかも。ハルも私の手がガサガサのゴツゴツになっちゃったら、やっぱり、かわいくなくて嫌だと思う?」
シーダーは不安そうに少しうつむいて、上目でちらりとハルを見た。
「そんな事ないよ」
と、ハルは首を振った。
「そういう手は働き者の立派な手なんだ、って、昔、母さんが言ってた。僕もそう思う。だから、そんなの、全然、嫌なんかじゃないよ」
「ハル……」
シーダーは頬をほんのり赤らめて、うっとりと潤んだ瞳をハルに向けた。
「ハルは優しいのね。それに、崇高な精神の持ち主だわ。やっぱり、私が見込んだ旦那様ね! ふふ。ハルってかわいい!」
そう言って、シーダーはハルの腕にぎゅっと抱きついた。
「ちょ、ちょっと、シーダー、待って……!」
ぴったりしがみついているせいで、シーダーの胸のふくらみがハルの腕にしっかりと押し当てられていた。小さいように見えて、意外とボリュームのある柔らかい感触に動揺して、かあっと体が熱くなった。
「なぁに?」
わざとらしくおどけたように首を傾げて見せるシーダーの様子に、わかっていてやっているのだと無言のままで伝えられたような気がした。
「……えと、その、あ、当たってるから……」
「何が?」
「……だから、腕に、シーダーの、む、胸が……」
ハルが顔から火が出るような思いで声を絞り出すと、シーダーが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ハル」
「……う、うん?」
「やーらしっ」
がっくりとうなだれるハルの腕に、シーダーは更にぎゅっと力を込めてしがみついた。
ひび割れて曇った窓からでは、射し込む光も今一つ貧相で頼りない。昼間でも薄暗い屋敷の中は、かつては豪華だったのだろうと思わせる調度類に囲まれてはいるが、そのいずれも分厚い埃に包まれて、朽ち果てたガラクタと化していた。かつては美しかったであろう絨毯も今ではすっかり色褪せ、厚みの半分くらいは崩れた繊維と積もった埃のようで、そこかしこに子供が踏み荒らした泥だらけの足跡が散らばっている。
足を踏み出す度、埃がもうもうと舞い上がり、腐った床板がギシギシと悲鳴を上げるように軋んだ。
「何だか、今にも床が抜けそうだね」
「ええ。かなり傷んでるから、気をつけてね」
ハルが不安そうに思った事を口にすると、シーダーは微笑みながらもしっかりと注意を促して、ハルの手を指を絡めるようにして握り直した。ハルがどきりとしたように頬を赤らめて、少しだけ手を強張らせる初々しくかわいらしい反応に、シーダーは胸の当たりがきゅっと締め付けられるようで頬がゆるんだ。
「確かに、これは幽霊屋敷って感じだね」
「『感じ』だけじゃないわよ」
シーダーがさらりと言った。
「本当に出るのよ、幽霊」
「出るの!?」
言った瞬間、タイミングを見計らったかのようにどこかでがたんと音が響いた。
「わっ!」
思わずハルが驚いて声を上げると、シーダーがくすっと笑いを洩らした。
がたん!
どたん!
ばたん!
どすん!
立て続けに騒音が響く。
「わ、わっ! 何? どうしたの?」
慌てて取り乱すハルがシーダーの手をぐいっと引っ張って抱きついた。
ただし、怖がってシーダーにすがりつくのではなく、何だかわからない事態に慌てふためきながらもシーダーをかばおうとして抱き締めているのだった。自分を抱え込むようにしているハルの姿勢でそう気付いて、シーダーの胸がどくんと激しく鳴った。
「ハル……」
シーダーは全身の力が抜けて、ふにゃふにゃとハルにもたれかかった。熱くなった頬にはにやにや笑いが浮かぶのを抑えられない。
もう、大好き!
そう口から飛び出しかけた言葉を、ぐっとこらえて飲み込んだ。
最初の『好き』はハルの方から言わせてみせると決めていた。だから、それまでは、決して自分からその言葉は口にしない。
「ハルってかわいいわ」
だから、代わりの言葉を小さな声でそっと呟いた。
言えない『好き』の代わりに、別の言葉に気持ちを込めて吐き出すのだ。そうしないと、気持ちが抑えられずにあふれてしまうから。シーダーがハルに『かわいい』と言う時は、そこに『好き』という気持ちを込めている。
言いたいけれど言えない『好き』の代わりに『かわいい』と言い換えて想いを吐き出す。それはシーダーだけの秘密。
シーダーは、思ったよりもずっと力強く感じるハルの腕に抱き締められながら、ハルには見えないようにこっそりと騒音の主に親指を立てて見せた。
シーダーの目には最初から見えていた。
古めかしい身なりの青年と若いメイドの幽霊が調度を揺らしてガタガタ音を立てて、その後ろには困り顔の老執事が控えていた。何十年も前からこの屋敷に住み着いている幽霊達だ。
実家から追い払われた穀潰しの呑気な三男坊と、その身の回りの世話をする使用人が暮らしていた屋敷では、別段血腥い事件があった訳ではなく、食中毒で住人全員が死んでしまったのだ。
以来、幽霊となった住人達は寂れていく屋敷に居座り続けているが、そこで何か悪さをしでかすでもなく、生前のような呑気な暮らしを変わらず送っている。
屋敷に忍び込む子供達を少しばかり脅かしたりしながらも、傷んだ床や階段で怪我をしないように秘かに見守ってくれている
そんな幽霊達の悪戯がもたらした嬉しいハプニングに、シーダーは胸の内で快哉を叫んだ。頼りないようでいて、いざとなれば身を挺して女の子を庇ってくれる、そんなハルの根底にある騎士道精神を垣間見て、意外にたくましい抱擁に胸が高鳴って仕方なかった。
ハルが必死に神経を張り詰めさせる一方、シーダーは甘い想いに心がとろけんばかりだったが、そんな時間も長くは続かなかった。
バン、と勢いよく玄関の扉を開く音が響き、巻き上がった埃が射し込む光にキラキラと舞った。
「……っ! あ、あなた達、何してるのっ!」
玄関を大きく開け放ったその場では、抱き合うハルとシーダーの姿を目にしたモード・コリンズが一瞬の硬直の後、頬を赤くして叫び声を上げた。
糊の効いた清潔なブラウスとシックなロングスカートで固めた服装の、凛として清楚だが、いささか堅苦しくもあるスタイルは休日でも変わらない。眼鏡の奥の薄紫の瞳は、ハルとシーダーを射るようにきつく睨みつけながらも、動揺は隠せないようだった。
「……邪魔が入ったわね」
ちっ、とシーダーが舌打ちを洩らした。
「えっ!? モード?」
ハルはモードの眼光にたじろいで、慌ててシーダーから身を離した。
「モード、何しに来たの?」
シーダーが胸を反らして冷たく言うと、シーダーはむっとしたように眉を吊り上げた。
「あなた達がここに行った、ってマッケンジーさんに聞いて止めに来たの! 不法侵入だし、ボロボロなんだから危ないわよ。まったく! 小さな子供じゃないんだから、少しは分別というものを持ちなさい」
モードのお説教にハルが縮こまる一方、シーダーは涼しい顔をしていた。
「モードだって勝手に入って来てるじゃない」
「わ、私はあなた達を連れ出しに仕方なく入ったのよ! さあ、早く出なさい!」
モードはシーダーの指摘に少したじろぎながらも、そこで引かずに詰め寄って、ハルはその剣幕に押されるようにすごすごと外へ足を向けた。
シーダーはハルの後ろに続いて歩きながら、こちらを睨みつけるモードとすれ違い際に、にっと笑って見せた。
「ねえ」
シーダーはモードにだけ聞こえるように小さな声で、すべて見透かしたように言った
「私よりも週に五日も多く会えるくせに、抜け駆けの一つもできないようなら、ちっとも負ける気がしないわ」
「……なっ!」
真っ赤になったモードが言葉を詰まらせた。
「私のハルは鈍いから、はっきり言ってあげないとわからないわよ」
「な、何が『私の』よ! 別に、こ、恋人同士って訳でもないくせに」
「あら? ハルは私の事が好きなのよ。ただ、好きなくせに『好き』って言い出せない意気地なしなだけ。うふふ。そういう所がかわいいのよね。いつになったら頑張って『好き』って言ってくれるかが楽しみだわ」
「な、な、何を勝手な事を……!」
シーダーは悠然と構えながら、モードは紅潮した頬を引きつらせながら、ぶつかり合う視線に激しく火花を散らしていた。
一方、ハルは二人が小声で話す内容までは聞こえていなかったが、ただならない不穏な雰囲気を背後に感じ取って、振り返る事もできずに背中を丸めていた。
「うう……。何か、胃がしくしくする……」
背中に感じるプレッシャーは消えそうな気配もなく、まだしばらくは胃がしくしくするような思いを味わい続ける羽目になりそうだった。
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