回顧11-02 九相図に倣う(下)




「さて、俺がやろうとしている事は、ざっくり言えば簡単な算数だ」


 野太く低い声が、やや唐突とも思えるタイミングで本題を引き戻した。算数という言葉にアレルギーでもあるのか、アラタの眉がびびっと引き締まる。アラタを真似るように表情を引き締める私は、果たして誰の目線を気にしているんだか。


「一口に『呪い』と言っても様々だが、今回のケースはその最もたるものだ。積もり積もった『存在を否定する想い』が、今のミコトの状態を作り出しているのは明々白々で、疑う余地も無いだろう。『月詠み葬の儀』はその名の通り、月の満ち欠けと共にじんわりと命を削っていく。それはきっと、ただ死ぬ事より何倍も何十倍も苦しいだろうよ」


 ミコトくんの母親が積み上げた狂気の禍々しさを、改めて思い知る。思い知りながらも、到底理解の及ばない感情に、消化不良の虚しさが足元から湧き上がった。奈落の淵に立たされているような心細さが、全身の精気をさらおうとしている。


「まぁ梨沙ちゃん、そんな顔しなさんな。今の話で俺が言いたいのはただ一点、『存在を否定する想い』がこの呪いの原点だって事さ。難解でも複雑でも何でもなく、分かり易くマイナスに向いた想いの力──呪法云々よりも、そのマイナスが肝なわけさ」


 絵に描いたような物知り顔が、不敵な態度で語り続ける。ミコトくんの味わう苦しみを度外視したかのような物言いが、私の神経を逆撫でた。けれど、その不快感をどうにか飲み下して、私は言う。ここで怒りを曝け出していては、また永遠の堂々巡りだ。


「たとえマイナスに狂っていても、実の母親の想いですよ。そんな想いの重さを、私なんかが帳消しに出来るでしょうか?」

「帳消し、か──ふははは、相変わらず梨沙ちゃんは話が早くて助かるねぇ。隣の新太くんとは大違いだよ」


 からかいの視線に対し、「俺は感覚派だからな」とアラタが呟く。そんなふうだから馬鹿にされるのよと教えてあげる事も出来たけれど、とりあえず放っておいた。


「存在を否定する想い──その想いが生み出すマイナスの力を、『現滅化げんめつか』とでも名付けようか。そして、ミコトを救ってやりたいというプラスの力を、『現存化げんぞんか』と呼ぶ事にしよう。現滅化の力を、現存化の力で打ち消す──あわよくばプラマイゼロを望むけれども、そこまで上手くはいかないだろうな。梨沙ちゃんの想いの大きさはもちろんの事、ツクヨミの気紛れ具合にも影響されるだろう」

「……内灘さん、そんなに実験的で良いんですか? 実験的どころか、冒険的で博打的じゃないですか。少なくとも私には、それがウルトラCの妙案だとは思い難いんですけど──」


 疑問を呈する私に、繰絡さんが言う。


「ミコトさんの病状は、火之来病院の総力を挙げて調べさせて頂きました。しかしながら異常は見受けられず、医学的に申し上げれば、ミコトさんのお身体は全くの健康体と言えます。しかしながら梨沙ちゃん、新太さん──ミコトさんのお身体をご覧になられましたでしょう? あの様子の一体何処を見て、正常などと言えたものか──勿論、火之来病院よりも最新鋭の医療設備を備えた病院は、国内だけでもごまんとあります。しかし誠に残念ながら、ミコトさんがこの烏丸町の外に出る事は叶いません。ミシャグジ様にはミシャグジ様なりの道理と理屈があり、『烏丸返し』に例外を望む事も不可能でしょう。ならばここは、冒険的であっても博打的であっても、先生の案を試す他に手立ては無いのではないでしょうか。非常に酷な言い方をすれば、『ダメで元々』というやつです。元より打つ手が無いのであれば、ダメ元でもツクヨミ様に訴えかけ、一縷の望みに賭けるのも手かと存じます」


 内灘さんの示す策の正しさも、その有用性も、私には正直分からない。けれど、力強い繰絡さんの訴えが、躊躇ためらいを氷解させるように熱を持って響く。


呪言じゅげん祝言しゅうげんも、神言かみごと真言しんごんも同じ──当人にとって当事者にとって、その力が上のベクトルに向いているのか、下のベクトルに向いているのかでしかない。俺がやろうとしている事は、ある意味では神殺しにも似ているが、俺はあくまでも相殺したいだけさ。愛する息子を、普通の身体に戻してやりたい。清浄明潔しょうじょうめいけつの春を、ミコトに迎えさせてやりたい──ただそれだけだ」


 悲壮な願いに応えるように、私は静かに頷いていた。ダメで元々なんて状況が、そもそも在って良いはずはない、だなんて思いながら──。


 「失敗した時のリスクは?」と、アラタが隣で端的に尋ねた。その残酷な質問をしなけらばならないのは、本来ならば私の役目のはずだ。アラタはそうやって、また何気なく私を救ってくれる。


「──死ぬだろうな、ミコトは。そして勿論、ツクヨミの脅威も残るだろう。然るべき理由を与えられなければ、ツクヨミノミコトは彷徨える亡霊と同じだ。百害あって一利無し──この烏丸町は神の怒りに触れて滅びるだろう」


 目を見開いて私は問う。「烏丸町が──ですか? 私たちが、ではないのですか?」と。


「そうだな、梨沙ちゃんや新太くんの命で、ツクヨミが矛を収めるとは思えない。神様にしてみれば、君たち二人の命など道端の石ころのようなものさ。結局の所、烏丸町に生まれ育ったミコトが助かるには、ツクヨミの問題もクリアしなきゃいけないってわけだ」


 青褪める私を差し置いて、アラタがもう一つ質問を重ねる。それは私の思いもよらぬ質問であり、そして想定しておかなければならないはずの質問だった。


「おっさん、成功した時のリスクは? いや、大成功じゃなかった時のリスクだ。『プラマイゼロを望むけれども、そこまで上手くはいかない』んだろ?」


 内灘さんが、観念した鬼のように両手を上げて言う。「やっぱり新太くんは大したものだな」と。そして続ける。冷静とも冷淡とも判断の付かない冷酷な声で。


「正直、想像もつかんな。親心として、想像したくないと言うべきか──例えばマイナス百の状態が、プラマイゼロではなく、マイナス一になってしまった時、果たしてミコトはどうなるんだろうな。そのマイナス一を背負って、生きていけるなら良いが」


 その言葉には、またしても他人事のような軽々しさが満ちていた。もしかしたら、他人事のように言うしかないのかもしれない。実の息子が、実の母親によって呪い殺されようとしている時、その現実と向かい合うには、せめて他人事のようにせせら笑うしかないのかもしれない。

 けれど──やっぱり私は、簡単には消化出来ない。内灘さんのその態度を、私の感性は嫌悪する事しか出来ない。嫌悪感を剥き出しにして、私は告げる。正直以外の何物でもない気持ちを、内灘さんへと。


「私はあなたが恐ろしい。もしかしたら、ミシャグジ様やツクヨミ様よりも、よっぽど──ずっと。教えてください。そして理解させてください。内灘さんにとって、ミコトくんは何なんですか? この私は、この烏丸は、この世界は、内灘さんにとって、一体何なんですか?」


 底の知れない深淵に向けて問いかけるような、冷え冷えとした虚しさが私を包んだ。答えを待つ事さえも恐ろしく、踵を返して逃げ出したい衝動に駆られる。


「梨沙ちゃん、やたらと哲学的な質問だな。しかし答えは簡単さ。俺は愛している。ミコトも、梨沙ちゃんも、この烏丸も、この世界も、全て愛している。どうせ空々しく響くだろうが、俺は俺の人生を愛してやまないのさ」


 滔々と流れる内灘さんの言葉が、理解の範疇を超えて伸し掛かる。

 しかし、自己嫌悪に塗れた私の対極に位置する、自愛に浸かった内灘広葉という人間を理解する事を諦めた瞬間、私は逆説的な理解へと辿り着いた。それは唐突で、けれど天啓でも何でもなく、たった一つの気付きだ。内灘さんに対する私の見方が──換言するならば私の認識が、この瞬間に固まっただけの事だ。


「今はっきりと分かりました。言葉が呪いだという意味も、言葉こそが呪いなのだと云う事実も」


 内灘さんが眉間を歪ませて私の言葉の続きを促し、私は一思いに吐露する。


「呪われているのは、ミコトくんだけじゃない。内灘さんだって、呪われている。ミコトくんのお母さんに、あなたの愛する奥さんに──呪われている。ありとあらゆる意味で」


 くくく、と笑いを噛み殺す内灘さんの姿を、さめざめとした想いで眺める。そうだ、狂っているのは、ミコトくんの母親だけじゃなかった。ミコトくんの父親も──父親である内灘さんも、存分に狂っている。それに気付いた私は──気付いてしまった私は、ミコトくんを救わなくてはならない。母親の呪いから、そしてこの父親から、救わなくてはならない。それが叶わぬ限り、内灘さんは向き合ったままだ。『向かい合うべき現実』に、『見たくも聞きたくもない現実の話』に、永遠に呪われて狂ったままなのだ。


「さぁ教えて下さい。私はどうすれば良いのですか? 今すぐにでも、ツクヨミ様を探しに出掛けますか? 必要ならば、囮になる事だってやぶさかではありません。何なら私の血の匂いで、ツクヨミ様をおびき寄せましょうか?」

「おいリサ、落ち着けって。おとりとかバカじゃねーのか、冷静になれよ」


 内灘さんへと食って掛かる私を、アラタが窘める。それでも私は、はやる気持ちを抑えきれなかった。こんなものは、ただのヒステリーでしかないのかもしれない。けれど、立て続けに訪れる不条理と理不尽が積み重なり、私を押し潰そうとしているのが怖かった。一刻も早く目の前の問題を片付けなければ、このままどうにかなってしまいそうだった。


「豊かな感受性は若者の証か──ったく、本当に羨ましいぜ」


 小馬鹿にしたような内灘さんの口調に、思わず我を忘れそうになる。いっそ叫び出してしまえたら、どんなにか楽だったろう。あんたはこの世界を、本当は愛してなんかいない。失敗した自分の人生を、決して愛したりしてはいけない。あんたがそう認めない限り、ミコトくんは救われない。せめてあんたがこの世界を憎まなければ、奥さんの事を憎まなければ──ミコトくんは救われないじゃないか。少しも救われないじゃないか。


 いつの間にか瞳に溜まった涙を、繰絡さんが拭ってくれた。「お口にチャック」のあの仕草と、柔らかな笑みがこの激情を堰き止める。


「ねぇ先生? 梨沙ちゃんの決意も、その強い眼差しも、全て喜びとして受け入れませんか? 知り合って間も無い私たちに、そしてほんの今しがた知り合ったばかりのミコトさんのために、これほど心を震わせてくれる梨沙ちゃんに、私は心からの深愛を覚えますよ」

「なんだよ糸織、まるで俺が悪者みた──」「悪者ですよ」


 ぴしゃりと撥ね退けるその声は、強く固く、何よりも冷たい。


「これ以上は、偽悪的どころか悪魔的です。先生は大人として──いえ、一人の人間として、考え得る限りの全ての可能性を考慮し、自分の持てる全ての知識と技術を総動員して、最善の結果を出す事に徹するべきです。それが人の道というものではないでしょうか」

「そうだぜおっさん。あんまり人を試すような真似は気に食わねえ。俺もリサも、『最悪の場合』くらい想像出来るさ。少なくともあの八景鏡塚で、俺は二回ばかり死を覚悟したんだぜ」


 生々しい死の感覚を、既に過去のものとして語れる事のありがたみと、生々しい死の恐怖に、今一度向かい合うかもしれない可能性。安息と恐怖が波のように寄せては返し、私に「生きている」と──「生きていたい」と願わせる。


 そのまま沈黙があった。長過ぎるほどの、長過ぎるくらいの沈黙があった。内灘さんは肩を落としたまま、これでもかというくらい長い時間黙り続けた。あるいはそれは感覚的なもので、実際にはほんの数秒程度の沈黙だったのかもしれない。

 そして、弱々しい内灘さんの言葉が、長い長い沈黙を打ち払う。


「……そうだな。君たちは、強い。俺の息子も──ミコトも、いつか君たちのように成れるだろうか」


 ゆっくりと上げれられた顔は、苦悶に満ちていた。内灘さんの言葉には、どこか追い縋るような脆さがある。しかしそれは、まだ見ぬ未来へと懇願し、変わらない明日を懇望こんもうしようとする、願いの言葉だった。


「大丈夫です。ふてぶてしくて胡散臭い、内灘さんみたいな逞しい男に、ミコトくんは育ちます」


 私は無責任に断言する。あの可愛らしい姿が、目の前の大男のように成ってしまうのは想像し難いし、多少の残念さも感じるけれども──。


「中身はともかくとしても、外見は先生に似ないで欲しいですね。特に毛深い所とか、絶対に似て欲しくないと願うばかりです」

「そうだおっさん。全てが片付いたら、お師匠さんの道場に通わせると良いぜ。ミコトは線が細いからな、びしばしと鍛えてもらおう。お師匠さんは不死身だから、何だかんだであと十年は生きるだろうし」

「それって結局、不死身じゃないじゃん。てか縁起でも無い事言わないでよ、爺じの余命はたったの十年なの?」


 将棋の駒の如く、ぱたんと倒れた爺じの姿を思い出す。アラタの無神経な冗談が、直前までのシリアスな雰囲気を何処かへと吹き飛ばしていった。


「ったく、好き勝手言ってくれやがって──しかしまぁ、武道をかじらせるのも悪くないかもしれん。宗一郎さんは気難しいが、礼儀なんかも厳しく躾けてくれそうだ」


 一同で大きく頷く。礼儀作法に欠ける内灘さんには、確かにその辺りは躾けようがないだろう。現に今だって、社交辞令であってもお礼の一つでも言う場面ではないのか。

 ん? 内灘さんの物言いのどこかが引っ掛かった。もしかして内灘さんは、爺じと以前から知り合いだったりす──「そいじゃ梨沙ちゃん、とりあえず身支度を整えて来てくれ」


「はい? 身支度、ですか?」


 内灘さんの突拍子も無い言葉が、私の思考を遮った。さて、身支度とは一体、何の事だろう。


「糸織、悪いんだがもう一度車を出してくれるか? そうだな、一週間分もあれば充分だろう。梨沙ちゃんの気が変わらない内に急いでくれ。善は急げ、時間は有限なんだろ?」

「そうですね、時間は有限ですよ」


 言うやいなや、繰絡さんは立ち上がり私の手を引く。


「ちょっと待って下さい。身支度って何ですか一週間って何ですか」


 矢継ぎ早に説明を求める私に、内灘さんは言い放つ。何を当たり前の事を聞いているんだ、と言わんばかりの怪訝な表情で。


「何って、梨沙ちゃんは今日からこの家で暮らすのさ。ツクヨミに、『ミコトを救ってくれ』と願うんだろ? 付け焼き刃だって磨けば光る。梨沙ちゃんの願いが少しでも色濃くなるために──そのためにミコトと一緒に生活してもらうぜ」


 その部分に、説明責任とかは無かったのだろうか──力無く項垂うなだれる私に、繰絡さんが「さぁ梨沙ちゃん、行きましょう」と微笑みかける。アラタからの不服申立てを期待して一瞥したけれど、あろうことかアラタは、心外な台詞と共に私を快く送り出すのだった。


「まぁ夜は、ミコトと一緒に寝れば安心じゃん」


 剣呑な眼差しを存分にアラタに浴びせながら、私は何度目かの覚悟を決める。果たすべき責任がまた一つ増えてしまったけれど、今度のそれは自発的に申し出た事だ。呪われたミコトくんの姿を目の前にして、たとえ選択肢など最初から無かったにしても、私は自分の行動を誇りに思う。そして憎らしいアラタの事も、やはり同じように誇りに思うのだった。




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