回顧11-01 九相図に倣う
「ミコト、良く聞け。父ちゃんはあえて、お前の前で話す。お前が父ちゃんの話をちゃんと聞く事──自分の耳で聞いて認識する事にこそ、意味があるんだ。お前の母ちゃんは、何度もこう言った。お前も覚えているはずだし、忘れられるはずもないだろう。『私はお前を産んだ覚えが無い』、『お前なんか死んでしまえば良いのに』──その言葉の一つ一つが呪いだったと言えるし、その呪いの一つ一つが、所詮は言葉でしかないとも言える」
時折小首を傾げながら、そして時折泣き出しそうな表情を浮かべながら、内灘さんの膝の上でミコトくんは耳を傾け続けた。内灘さんの声色には、私たちが初めて耳にする真剣さと、ほんの少しの物悲しさが宿っている。
「だからこそ、父ちゃんは断言する。父ちゃんが父ちゃんで居る事の全てを懸けて──こう断言する。お前は、母ちゃんの子だ。お前は、俺と母ちゃんの子だ。考えてもみろよ。母ちゃんが腹を痛めずに、お前が生まれたわけがないだろう? 父ちゃんが断言する。お前は此処に──この世界に居ていいんだ。お前が呪われるべき理由なんて、ただの一つも無い。そんなものは、この世界に存在しない」
母親の残酷な呪いの言葉を打ち消すように、父親としての確固たる福音の言葉が述べられる。内灘さんが逞しい手でミコトくんの頭をくしゃくしゃと掻き回すと、ミコトくんは戸惑った様子でその手を払い除けて、アラタの元へと駆け寄った。
「僕は大人だから、一人でも大丈夫だよ」
「ミコト、一人じゃねーだろ? 父ちゃんも居るし俺らも居るじゃねーか」
「そうですよミコトさん。それに大人だって、決して一人では生きられません」
アラタと繰絡さんがそう告げる中、内灘さんが悲嘆に暮れている。目の前で空虚な言葉を吐くミコトくんの姿が、その表情を翳らせている。
「ミコトくん、大丈夫よ。お姉ちゃんにはね、神様の知り合いが二人も居るんだから」
ミシャグジ様とツクヨミ様──少しも有り難くない二柱の神様を思い浮かべながら、私は言った。無責任と非難されても仕方がないくらいの
「本当よ。呪いだかなんだか知らないけれど、絶対に何とかなるよ。だって神様だもん」
罪悪感に押し潰されそうになりながらも、私は答える。糾弾の言葉さえも覚悟した私に、意外な助け舟を出してくれたのは、まさかの内灘さんだった。
「そうだぜミコト、絶対に何とかなるさ。まずは俺ら全員が、そして何よりもミコト自身が、『何とかなる』って信じる所がスタートラインなんだ。お前も来年の春には小学生なんだぜ? 想像してみろ、ピカピカのランドセル背負ってよ、友だち百人作る自分の姿を」
「一年生は百人も居ないと思うよ」
ミコトくんから乾いた呟きが漏れる。しかしさも当然のように、アラタが言った。「六年生まで全部友だちにすりゃ良いじゃん」と。すかさず繰絡さんが「とっても楽しそうですねミコトさん」と目を細める。
しばらく考え込むミコトくんの姿を、ひやひやした想いで眺めていると、私たちの後方から、落ち着き払った穏やかな声が聞こえてきた。
「ミコくんの大好きな糸織さんに、そちらのお兄さんとお姉さん。僭越ながらこのおケイもご友人の一人に数えて頂けるならば、残りは九十六人ですね」
見やればそこには、麻の買い物袋を右手にぶら下げたお婆さんの姿があった。丸みがかった背筋や華奢な体付きに似合わず、ぱんぱんに中身の張った麻袋をいとも軽々と持ち運んでいる。その柳のような
「おかえり、ケイはもちろん友だちだよっ」
全速力で駆け寄るミコトくんの姿は、尾を振る子犬を連想させた。立ち上がって挨拶しようとする私たちを左手で制し、螢子さんが言う。
「はじめまして、私は
さらりと自己紹介を済ませる螢子さんに、私は感動すら覚えてしまった。自己紹介の出来ない人日本代表の内灘さんが、螢子さんの後ろ姿を引き留めて言う。
「螢子さん、いつも済まない。そしてまた頼み事をしてしまう俺なんだが──少しの間ミコトを頼めるかな」
螢子さんは、ゆっくりと頷いてから答える。その仕草さえも、どことなく上品だった。
「私のような老婆に役割が与えられる事は、何物にも代えがたい幸せですよ。ではミコくん、あちらで遊びましょうか。新しく出来たご友人の事を、このおケイに聞かせて下さいね」
二つ返事の後で「またね」と手を振り、ミコトくんが螢子さんと共に退室する。その切り替えの早さが、いかにも子供らしい無邪気さを感じさせた。二人の後ろ姿を目送しながら、「あの婆ちゃん好きかも」とアラタが独りごちる。
「螢子さんは、俺にとっての神様かな。正直に言うと、嫁さんに逃げられるまでは近所の変人扱いだったんだけどな。俺が螢子さんの忠告を素直に受け入れてりゃ、そもそもミコトを苦しませずに済んだのかもしれん」
自責の念を隠そうともしない内灘さんに、繰絡さんが言う。「もしも後悔が先に立ったとしても、来るべき時はいつか来たのではないでしょうか──」と。
沈黙の
「梨沙ちゃん、いつか繋がる点と線を、楽しみにしていてくれ。遠い暗い昔話は、今この場に相応しくないからな」
「ええ、楽しみにしてます。明日が来る限り、昔話なんていつでも出来ますからね」
「ああ、そうだとも。明日を迎える為に──際限の無い明日にうんざりする為に、今はミコトの呪いについて語らせて貰おうか」
私の生意気さを咎める事もなく、内灘さんは重く低い声に切り替わった。瞬時に宿った険しさに、私も気を引き締める。
「今さっき見てもらった、ミコトの身体を覆い隠しているモノ。親切丁寧にして乱雑、単純明快にして周到な
月詠み葬に九相図という、聞き慣れない二つの単語が耳に留まる。アラタに視線で問いかけるも、ただ黙ってその首を横に振るだけだった。
「西洋の『死の舞踏』や『トランジ』に対を成すように、東洋には『九相図』と呼ばれる死を題材とした芸術作品が存在する。人が死に、黒ずみ、膿み腐り、青褪め、獣に食われ、虫に集られ、骨だけに成り、土に還るまでを、概ね九つの場面に分けて書き記した絵巻さ。誤解の無いように言っておくが、これらは生々しい肉体の死を観想する手助けをする為に書かれたとされる神聖なものだ。つまり、仏教の修行に役立つ教科書とでも言うのかな。俗な言い方にはなっちまうが、不浄な肉体への執着を断つ為の足掛かりとなるアイテムの一つ──それが、『九相図』さ」
ありったけの想像力を駆使して、人体が腐りゆく姿を思い描く。ただそれだけで、不愉快な匂いが鼻先にまで漂ってきそうだった。どうしようもない嫌悪感が、理解よりも先に私の表情を歪める。
「これは俺の私見だが──俺は『九相図』を、愛する人との別れを告げる為のアイテムだと考えている。名残惜しいなどという言葉では余りあるが、最愛の人の亡骸であっても、直ちに火葬するなり埋葬するなりしない限りは、悍ましい姿へ日々刻々と変容を続けていくわけだ。だからよ、九相図に描かれた、ある意味で地獄よりも酷いその惨状が語りかけている気がするんだよ。『黝く蠢く蛆虫の姿が、最愛の人の亡骸を埋め尽くす前に、どうかあちら側の世界へと送り出してあげましょうよ──』ってな」
黝く蠢く蛆虫──その言葉から、私はミコトくんの体表に蠢いていた文字の羅列を思い浮かべた。それはつまり、『月詠み葬の儀』が一体何であり、ミコトくんを最終的にどんな状態へと
「狂ってる」
顔も名前も知らないミコトくんの母親へと、底冷えするような拒絶心を込めて嘲りの言葉を吐き出す。露骨な私の態度に同調するように、内灘さんは「ああ、狂ってるさ」と頷き、そして続けた。
「俺や糸織や螢子さんが、ミコトに『生きてくれ』と願うその想いよりも、狂った母親がミコトを呪い殺そうとする想いの方が強いだなんて、やるせない話だよな。母の愛は偉大だなんて言うけどよ、その愛の大きさに
塞ぎ込むように頭を抱える内灘さんに、掛けるべき言葉が見つからなかった。想いの大きさが世界を変えるならば──この世の
「……おっさん、顔を上げなよ。俺は馬鹿だから、うまく言えねーけどさ」
歯切れ悪くアラタが切り出し、私たちの視線が一様に注がれる。
「ほら、おっさんさ、俺に教えてくれただろ? 想いは充満するとか蓄積するだとか──だから要するに、そういう事だよ。ミコトの母ちゃんは、ずっとミコトと居たんだ。少なくとも稼ぎに出てるおっちゃんよりかは、ずっと長い時間、ずっと傍に居た。だからさ、ミコトが今すぐに元気にならないからといって、イコールそれは愛情が足りないからとか、そういう事じゃねーと俺は思うんだよ」
「そうですね。先生、アラタさんの言う通りですよ。同時にそれは、ミコトさんの背負う呪いの重さを示すものでもあり、要するに打開策に乏しいという事でもありますけれど……少なくとも絶望するのは、ツクヨミ様にお願いするという先生のアイデアを試してからでも遅くありません」
頭を掻き毟りながら言葉を並べるアラタを庇護するように、繰絡さんが連々と付け加えた。そして私も、迷わずそれに続く。おそらく私よりもずっと不器用な内灘さんへと、啖呵を切るように捲し立てる。
「先ほど内灘さんは言いました。『九相図に倣う遅効性の呪い』と。遅効性──ならばまだ猶予はありますよね? 大丈夫です、私が願います。ツクヨミ様に、心から、『ミコトくんを助けて下さい』と──だから内灘さん、執拗な挑発も回りくどい駆け引きも、今後は一切必要ありません。正直に言ってそういうのは不愉快なだけなんで、やめて頂けると有り難いです」
反駁の言葉を覚悟した私に、内灘さんは満足気な笑みを浮かべる。そして、いつもの様子で言った。つまり──大胆不敵に、意気揚々と、怪しさ爆発のその態度で、小言を笑い飛ばすかのように、小娘を嘲笑うかのように、嘲笑と共に悠然と言ったのだった。
「ったく、ホントに生意気なガキどもだぜ。救われる立場のくせに救世主ぶりやがって──
怒りも呆れも大きく通り越して、痛快なまでに偽悪的なその姿に、私は思わず吹き出してしまった。初対面の時に私を諭そうとした大男が見せる、常軌を逸した幼児性は、もはや笑いを取ろうとしているとしか思えない。狙ってやっているのじゃなければ、それこそ本当に病的だ。繰絡さんの人を見る目を、疑わずにはいられないくらいに。
「よっしゃおっさん。リサに笑顔が戻った所で、そのアイデアとやらを教えてくれよ」
「何で私が塞ぎ込んでるみたいなニュアンスになってるのよ」
「やっぱり梨沙ちゃんは笑顔が素敵ですね」
「ちょっと繰絡さんまで何言ってるんですか。笑顔が戻ったのは内灘さんですよね。かなり不愉快な笑顔ですけど」
その言葉を待っていましたと言わんばかりに、内灘さんが即席の薄ら笑いを浮かべる。狡猾さの滲み出る不気味で卑屈な微笑みは、意図して作られたにしてはクオリティが高い。
「先生、前々から思っていましたけれど、役者さんに向いていますよ」
「まぁ、これでも若い頃は劇団に所属していたからな」
見え透いた嘘を吐きながら「がはは」と哄笑する内灘さんに、私の薄目が向けられる。
「梨沙ちゃん、先生のように一から十まで嘘で出来た大人に成ってはいけませんよ」
「何言ってんだよ。一から十までを嘘で固めてこそ大人ってもんだろーが」
私とアラタが同時に乾いた溜め息を吐き、どっと疲れが押し寄せてきた。心配しなくても、私はこんな大人には成らないし、そもそも内灘さんが大人なのかどうかが疑わしい。呪いとはまた違った観点から、私はミコトくんへの同情を禁じ得ない。
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