回顧06-02 天蓋を司る(下)




 どうしてアラタは、こうも神経を逆撫でするような事ばかりを言うのだろう。その挑発は、私たちの状況を悪くするばかりだ。何か意図があるのか──いや良くも悪くも、アラタはそんな駆け引きの出来る人間じゃない。アラタは、愚かで小賢しいだけの私とは違う。あえて彼の言葉を借りるならば、アラタは「抜きん出ている」のだ。少なくとも私は、そう信じている。

 そういった推量の先に、私は一つの答えへと辿り着いた。そしてその答えは、アラタの発言と共に確信へと変わる。


「同じじゃないさ。俺には──俺たち人間には、『烏丸返し』なんてとんでもない現象、起こせるわけもないからな。だから神様──ミシャグジ様。俺はせめて、その理由を知りたいんだ。どうしてミシャグジ様が、俺たちをこの烏丸町へと縛り付けているのかを」


 そうだ、答えは単純明快だ。アラタは怒っているのだ。抑えきれない怒りが、アラタの中を渦巻いているのだ。

 誰の意思も受けず、誰の意志にも構わず、ただ私たちを烏丸町に縛り付ける超越的現象。そんな理不尽な現象に、呪いさながらにこの烏丸町へと括り付けられた私たち。その代表者として、アラタは今、神様と対峙している──神様に伺いを立てている。内なる怒りを押し殺しながら、多大なリスクを背負いながら、必死で神様に問いかけている。


「ぐはははは、知らん。よく分からん」


 アラタの覚悟をないがしろにするように、ミシャグジ様は一掃した。長い舌をびよん、と出し入れするその姿は、蛇のようにも、蛙のようにも、もしかすれば蜥蜴のようにも見えた。


「少年、まぁ聞け。神様には、神様の事情がある。だから俺様にも、当然俺様の事情がある。けどなー、少年。俺様はもう、そんな細かい事情は忘れちまった」

「そんな答えじゃ納得がいかない」


 語気を強めて、アラタが痛切に表情を歪める。


「お前が納得がいかなくても、嘘じゃねーよ。たかが百年やそこらしか生きられないお前ら人間には、到底理解が出来ねーだろうが……千年も二千年も生きてみろよ。大抵の事は、忘れるぜ? 自分がいつ生まれたのか、自分がどこから来たのか──自分は何故ここに居るのか。自分はどこへ行くのか。そんなものは忘却の彼方、藻屑となって消える。だから俺様は、一体どういった経緯いきさつでお前たちガキんちょの世界を閉じているのか、さっぱり分からん。忘れたのかもしれんし、そうじゃないかもしれん。もしかしたら最初から、理由なんて無かったのかもしれん」


 ミシャグジ様のその言葉は、どこか物悲しさを孕んでいた。うまくはぐらかされているような気もしたし、思いの丈を素直に吐露しているだけのようにも思えた。アラタも同じ印象を抱いたのか、やり場の無い怒りを噛み締めるように、ただただ悔しそうに拳を震わせている。


「しかしお前、面白いガキだな。お前に免じて、殺すのだけは勘弁してやるよ。けれどな、俺様にもメンツってもんがあるんだ。お前も男なら、分かんだろ? 殺られちまった十三匹の子分の手前、そしてお前を殺りたがってる九十五匹の子分の手前、俺様はお前を痛めつけなきゃならねー。おっぬ一歩寸前、生死の境までよー、お前を追い込まなきゃならねー」


 凄みのある言葉とは裏腹に、ミシャグジ様から放たれる殺意は、いつの間にか和らいでいた。アラタの表情には、戸惑いの色が見て取れる。アラタが直球であるがゆえに、どこまでも真っ直ぐであるがゆえに──飄々とさえ言えるミシャグジ様の態度に、決めかねているのだ。怒り損ねているのだ。


「ほら、抜けよ。竹刀なんかじゃ話にならねー。そこのお嬢ちゃんが抱えている得物を抜きな」


 ミシャグジ様が、ぎろりと私を一瞥する。泥人形からの報告というやつか、私の手荷物の中身も筒抜けのようだ。

 ミシャグジ様は、おもむろにアラタへの距離を詰めていく。アラタは狼狽した眼差しを彷徨わせ、次第に場の空気に呑まれようとしていた。


 ──ああ、もういいや。冷静な分析はもういい。お腹いっぱい。


 誰のものでも無い言葉が私の内側で響き、冷ややかな覚悟が身体中を満たす。今度は、私の番だった──今度こそ、私が覚悟を決める番だった。

 そろそろいい加減に、何もかもをアラタ一人に背負わすのはやめにしよう。苦しそうな表情のアラタを前に、私の遅すぎる決意が、ささやかな勇気が、ようやく言葉として形に成った。


「今夜は……本当に不思議なことばかり。自分の中の常識が、音を立てて崩れていくばかり」

「あん? 嬢ちゃん、あまりの恐怖に気でも触れたか?」


 私は、ゆっくりとかぶりを振る。


「ミシャグジ様。私は正直なところ、『烏丸返し』さえも、半信半疑でした。男子たちの噂も、アラタの言葉でさえも、どこか半信半疑で聞いていました」


 そうだ、私は半信半疑だった。烏丸町の伝統も、堅っ苦しいしきたりも、「重たい重たい」と嘆きながら、それでもどこかで軽んじていた。疑う事で、軽んじる事で、どうにか自分自身を保っていたのかもしれない。

 私は、アラタよりも前に出る。驚く彼を、片手で制しながら。


「まさか、あんなに薄気味の悪い泥人形や、こんなに醜い白蛇の化け物が実在しただなんて、本当に本当に驚くばかりです」

「おい、リサ!」

「お前、ガチで殺すぞ」


 私の挑発に、ミシャグジ様が殺気をみなぎらせる。その刺又が勢い良くこちらへと向けられ、風圧が私の前髪を揺らした。アラタの時よりも、ずっとずっと至近距離──こういうのを、目と鼻の先と言うのだろう。私の額の数センチ先に、鋭利な刺又の先端が光る。そうだ、それでいいんだ。


 私は刀を抜いた。鞘と竹刀だけを残した包みを、草むらの中へと優しく放る。

『贋作』でも『盗作』でもない一振りが、やたらとこの手に馴染んだ。その切っ先を、真っ直ぐにミシャグジ様へと突きつける。白刃に浮かんだ滑らかな刃紋が、月明かりに映えて美しい。

 この刀には、少しの重心の振れも無かった。内灘さんの言葉が無くとも、こうして構えてみれば分かる。確かにこれは『駄作』なんかじゃない。むしろこの刀は、『名刀』と呼ぶに相応しい一振りだ。


「リサ、ほんとにやめろって!」


 アラタはその身を呈して、私とミシャグジ様の間に無理矢理に割って入ろうとする。だから私は、冷たい声色を意識して言った。あえて冷たく、傷付けるように──アラタを突き放すための言葉の刃を、アラタの胸へと突き立てた。


「アラタは引っ込んでて。だってアラタ、稽古で私に一度も勝った試しがないじゃない。弱っちいんだから、そのまま後ろに引っ込んでて」


 ──そして願わくば、すぐに家に帰って。私なんかのために、アラタが傷付くべきじゃない。


 アラタが絶句し、私は彼の顔から意識的に目を背ける。私の決意なんて、どうせ付け焼き刃の決意なのだ。それはとてもとても脆弱な決意。でも今だけは、決して揺らいではならない。


「ぐははは! こいつは驚いた。嬢ちゃんの方が腕が立つのか! 人は見かけによらないもんだ。良いぜ、面白い。来いよ嬢ちゃん。お嫁に行けねーカラダにしてやるよ」


 アラタが私に勝った試しがないというのは、本当だ。アラタの剣の腕が本物だという事も、しかし私がそれ以上に腕が立つという事も、どちらも嘘偽りのない真実だ。けれど、アラタが手を抜いていなかった保証はどこにも無い。猪突猛進なアラタの事だから、稽古だろうと女の子が相手だろうと、手を抜いていた可能性は小さいと踏んでいるけれど。


 ──まぁそんな事は、どうでもいいんだけどね。どっちにしても、神様に勝てるわけがないんだから。

 諦めにも似た気持ちが、私をさめざめと支配する。


 さぁ、後は大地を蹴るだけだ。この恐怖から目を背けて、この恐怖を軽んじて──大地を蹴れば、はじまって終わり。さぁ、跳ね除けろ恐怖を。


 込み上げる薄ら笑いを退け、右脚にありったけの力を込める。大地を蹴り飛ばしたその瞬間、慟哭にも似たアラタの叫びが響き、そして私は、目を閉じた。


 結局私は、何の責任とも向かい合わず、何の役割一つも果たさず、この人里離れた八景鏡塚で、若くして悲惨な無駄死にを遂げる──あれ? 命だけは助けて貰えるんだったっけ? そんなあれこれを、スローモーションで考えた。これが噂に聞く走馬灯というやつなのかもしれない。そんなあれこれを、スローモーションで考えているその間にも──ミシャグジ様の刺又が、『FELL SO GOD』と書かれたふざけた得物が、私の体躯を貫き、そして私は、私の体は分断された──そう思ったのだけれど。


「ちょっと梨沙ちゃん、何で死に急いでるんですか。女の子なんですから、戦いなんて出来る限り回避しましょうよ」

「おいミシャグジ。お前何で出てきてんだよ。話をややこしくするんじゃねーよ」


 私の体に、痛みは無い。恐る恐る目を開けると、全身を迷彩色に染め上げた少女と、赤いボディスーツに包まれた逞しいおじさんの姿──繰絡さんは私の刃を、内灘さんはミシャグジ様の刺又を、それぞれ涼しい顔で押さえつけている。


「ああん? 誰かと思えば広葉じゃねーか。んだよお前、邪魔すんじゃねーよ。このインチキ八百万やおよろず師が」

「ミシャグジ。寂しかったんなら寂しかったって言えよ。話し相手が出来て嬉しかったって、久しぶりに楽しい時間だったって、梨沙ちゃんと新太くんに感謝しろよ。ハッタリかまして凄んでないで、まずは『ありがとう』だろーがコノヤロー」


 そう言って内灘さんは、鋭いローキックをミシャグジ様に放った。全身赤色の不審な中年男が、あろうことか白蛇の神様に向けて、罰当たりなローキックをお見舞いした。

 ざらついた悲鳴を上げて、のたうち回るミシャグジ様。その悲鳴さえも、濁りに濁りきってひどく聞き苦しい。


「なあリサ、この人たちがさっき言ってた不審者か?」


 言葉を選ばずにアラタが問いかける。いや、確かに今現在も、二人は不審者でしかないのだけれども──アラタは神出鬼没の二人組に向けて、憧憬を含んだきらきらした眼差しを向けていた。私は、もう少し強めにへこませておけば良かったかな、と軽い目眩を覚える。


「ミシャグジ様、古知新太さん、はじめまして。私の名前は繰絡糸織と言います。やっぱり自己紹介は大切ですよね。いの一番いの一番」


 繰絡さんの自己紹介からは、あだ名のくだりが省略されていた。それは彼女なりのTPOなのかもしれない。私たちは、繰絡さんの天真爛漫な微笑みに促されるようにして、お互いに簡単な自己紹介を済ませていく。

 しかし自己紹介と言っても、宝物庫でのやり取り以上に、抽象的な事この上ない内容だ。ぼやかしと誤魔化しに塗れた、名を名乗り合うだけの社交辞令。揚々とアラタが名乗り、淡々と私が名乗り、渋々と内灘さんが名乗る。そして、ミシャグジ様の順番へと差し掛かった。


「がははは、俺様はミシャグジ様だ。邪神だとかさえの神だとか呼ぶヤツらも居るが、誇り高き道祖神様だ。俺様はよー、もうかれこれ長い間ここに住んでんのよ。五百何年かまでは数えてたんだけどな、さすがにどうでもよくなっちまった。おい、お前ら」


 モミジ状の水掻きが、私とアラタを指し示す。


「一口に烏丸っつても、意外と広いだろーが。俺様なんかこの八景鏡塚の中だけだぜ? 五百年以上も、この真ん丸い広場の中から出られねーんだ。こんな狭い場所に括られた俺様からすればよ、お前らなんか自由そのものだぜ。だから贅沢言うんじゃねーよ本当に殺しちまうぞ」


 その孤独の永さに言葉を失う私と、「まるで地縛霊みたいだな」と独りごちるアラタ。もしかしてアラタってば、本当に殺されたいのだろうか。


 私はミシャグジ様の告白に驚きながらも、迂闊にはその全てを信じられずにいた。「括られる」って何だよ、と突っ込みたい自分と、実際に「括られている」事を体感したばかりの自分とが、混乱しながらせめぎ合っている。


「んだよ嬢ちゃん、そんな浮かない顔すんなよ。聞きたい事があれば何でも聞きな。なんてったって俺様は神様だからな。無礼さえ無ければ太っ腹だぜ?」


 爬虫類の瞳が炯々と輝く。神様であるはずのミシャグジ様までもが、自己紹介の流れに乗っているのが妙に滑稽だった。暴力的な言葉を時折交えながらも、どこか喜々としたその話しぶり──察するに、内灘さんの言う「話し相手が出来て嬉しかった」という指摘は、あながち的外れでもないようだ。滑稽と言えば、今さっきまで私たちを痛めつけようとしていた相手と、こうして打ち解けはじめているこの状況も、また滑稽と言えるのだけれど。


 ──五百年。


 私は、五百年という時間の永さを想像する事すら出来ずにいた。宝物庫に並べられた刀剣の数々を思い起こす。屶鋼の伝統が、正確にどれくらい続いているものなのかは知らないけれど、五百年という時間の永さが、屶鋼の伝統の長さを超越している事は間違いなかった。


「ミシャグジ様、俺も質問していいか?」

「んだよ前科者。特別に聞いてやるから言ってみろ」


 考え込む私を他所に、アラタが切り出した。


「宇宙に行きたいって人は、ほとんど居ないだろ? でもさ、海外に行きたいって人はごまんと居る。だから、この町から出たいってやつはじゅうまんと居る」


 またしても日本語の使い方を間違えているアラタが、痛々しくも愛おしい。「ごまんと居る」は、漢字にすると「巨万と居る」だ。最上級的な意味で十万と言った気持ちは、分からなくもないけれど。


「あーん? 周りくどいな。何が言いたいんだ?」

「俺たち人間は、頑張れば手の届きそうなものばかりが欲しいんだ。それは無いものねだりで、贅沢な行為なのかもしれない。叶う可能性の高いものばかりを欲しがる、狡賢い願いなのかもしれない。宇宙に行きたいとは願わずに、海外旅行に行きたいだなんて願う。海外旅行に行きたいだなんて願わずに、せめてこの町から出てみたいと願う」


 神妙な面持ちを浮かべ、アラタがミシャグジ様に訴える。悲壮感さえも漂わせながら、人間が神様に思いの丈を述べる。


「でもそれって、自然な欲求だろ? なるべく自分が傷付かないように、それでも新しい何かを得ようとする行為は、少しも悪いことなんかじゃない。なぁ、ミシャグジ様には、そういう感情って無いのか? ずっと長い間こんな場所に居て、閉ざされた世界に居て、寂しいとか、ここを出たいとか──そういった気持ちは、湧いてこないのか?」


 アラタの言葉は、私の中の何かを傷付けた。何も得ようとした事の無い怠惰な自分を──軽薄で臆病なこの身を責められているような感覚を覚えた。


「そんな気持ちが、かすかにでもあるのなら、ミシャグジ様だって、この八景鏡塚を出たいと願うなら、俺が手伝うよ。その方法を、探してやる。だから──」「自惚れるなよ小僧」


 恫喝的な怒号が、空気を震わせた。傲然と胸を張るミシャグジ様の爬虫類の瞳が細まり、明確な怒りの意志が灯る。


「お前たち人間は、存在理由を探す生き物だろーが。存在の理由を探しながら、在りもしない幻を探しながら、いずれ年老いて死んでいく生命体だろーが。だが俺様は、俺様たちは違う。存在理由に、与えられた存在理由に、自分を捧げ、尽くし、従うんだよ」


 私は、固唾を呑みながら様子を覗う。この右手に握られたままの刀を意識し、いつでもアラタを庇えるように身構えながら。


「分かるか? 神様は神様の使命を『全うする』んだよ。俺様は、お前たちガキんちょをこの烏丸に括るために存在する。ただそれだけのために存在する。たとえ長い永い年月の果てに、始めた理由すら忘れてしまってもだ。そりゃーよー、寂しいだとか退屈だとか、思わないわけじゃねーよ。現に今だってよ、ちょっとはテンション上がっちまってるよ。だがな」


 『FEEL SO GOD』の刺又が、低く垂れ下がった黄金色の月に向けて真っ直ぐに向けられた。それは誓いの儀式のようで、まるで選手宣誓のようだ。濁った声で、濁りきった濁声で──濁りない決意が、紺碧の空に放たれる。


「俺様の存在理由は揺るがねー。ただの少しも揺るがねー。今までもこれからも、俺様はお前たちをこの地に括り続ける。道祖神ミシャグジ様は、この地に生きるすべてのガキんちょたちを、全身全霊全力を持って、この烏丸町に閉じ込め続けるんだよ」


 その迫力と覚悟に、アラタは何も言えなかった。そして私も、何も言ってあげられなかった。私たちの悩みも、苦しみも、迷いも、葛藤も──あるいは未来への希望や何もかもを全部ひっくるめても、神様の決意には遠く及ばない。私たちはこの瞬間、確かにそう思い知らされたのだ。


 少しの沈黙を経て、ぱち、ぱち、ぱちと疎らな拍手が響く。振り返れば内灘さんが、緊張感を欠いた気怠い拍手を胸の前で打っていた。


「お見事だよミシャグジ。子供を言い包めるには文句ナシの演説だった」

「広葉。お前の猿芝居には負けるぜ。で、何だ? お前こそ何でこんな辺鄙な場所に居るんだよ」

「なんでって、夜の散歩だよ。そこに居る糸織と、ロマンチックなお月見デートさ」

「私はもぎ頃ですからねっ」


 繰絡さんのもぎ頃アピールは、無かったものとしてこの場の全員に受け流された。アラタでさえも、その目を点にして呆けている。


「そうですよ内灘さん。どうしてですか?」


 ここぞとばかりに、私も問いかけた。至極単純で、当然の疑問だ。どうして内灘さんと繰絡さんは、こんな場所に居るのだろうか。それに、仮に本当にたまたま居合わせたのだとしても、私たちを助けてくれる義理など無いはずだ。


「んー? それはあれさ。惜しげも無く種明かししちまうと、GPSのお導きってやつさ」


 そう言いながら内灘さんは、私が草むらに放ったままの包みを拾い上げた。

 その中から竹刀と鞘を抜き出した後で、何を思ったのか空っぽになったはずの包みを逆さまにして、上下にぶんぶんと振り始める。すると間もなくして、数センチ四方の見慣れない黒い物体が、遠心力に従ってぽろりと転げ出た。


陰翳礼讃いんえいらいさんの精神には大いに賛同するが、文明の利器ってのは時に便利すぎて、思わず足元の暗闇まで照らしたくなっちまうね」


 小難しい言葉を頭の中で翻訳しながら、内灘さんの言いたい事をようやく理解すると、怒りの感情がふつふつと湧き上がってきた。その言葉を要訳すればつまり──私の居場所は監視されていたのだ。GPSという文明の利器によって。


「なんだあれ、食いもんか?」

「ミシャグジ様、ダメですよお腹壊しますよ」


 そんな二人(一人と一匹? 神様だから、一柱?)のやり取りを他所に、私は内灘さんへと詰め寄った。


「これこそプライバシー侵害じゃないですか? よくもまぁ、こんな事が平気で出来ますね」

「おっさん、こんな事しなくても、リサは約束を破ったりしないよ。基本的にコイツ、有言実行だから。その分、なかなか約束とかしないけどな」


 アラタの微妙なフォローを噛み締めつつ、私はその黒色の物体を靴の底で思いっきり踏み潰した。念の為にもう一度踏んづけてから、草原の暗闇へと全力で放り投げる。


「あーあー、梨沙ちゃん、そいつは酷いぜ。それなりの代物しろものだぞ。せっかく助けてやったのによ」

「そこも私が聞きたいところです。どうして内灘さんは、私とアラタを助けてくれたんですか?」


 苛立たしい内灘さんの態度に、命の恩人への感謝を思わず忘れそうになる。内灘さんも同じで、こんな生意気な娘など助けなければ良かったと、若干の後悔を覚えているかもしれない。

 内灘さんは私の胸の内を読んだのか、「別に見捨てても良かったんだけどよー」と気怠そうに前置きしてから言う。


天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさずとは言っても、烏丸町から出たいだけの少年少女を悪人だと決めつけるのは、ちと早計ってものだろ?」


 この人は、いちいち格言めいた事を言わなければ気が済まないたちなのか?


「先生、梨沙ちゃんを前にするとやたらと小難しい言葉を使いたがりますね。そういうのって案外、女子から嫌われますよ。先生の好感度は今、うなぎ下がり間違いナシです」

「マジかよ。知的な叔父様キャラで梨沙ちゃんを攻略しようと思ったんだが……」


 アラタの頭の中に、「うなぎ下がり」という誤った日本語がインプットされてしまわない事を願いながら、私はこれ見よがしの長嘆を吐き出した。内灘さんにはこれ以上付き合い切れないと判断し、質問の矛先をそそくさとミシャグジ様に移す。


「ミシャグジ様、端的に答えて下さい。私とアラタは、無事に家に帰れますか?」


 その質問は、許しを請う事と同義だ。私とアラタは、許してもらえるのか。今宵の非礼を──今宵の無謀を、果たして神様に見逃して貰えるのか。


「がははは、好きにしろよ。不完全燃焼だけどよ、まー楽しかったぜ。また遊ぼうや」


 しがらみの一つも感じさせず、さもあっさりとミシャグジ様は言った。五百年以上の永い時を刻む神様にとっては、この程度のいざこざなど、数える価値も無い些末な出来事なのかもしれない。




 こうして私たちは、神無月の夜を疾走し、そのまま失踪する事だけは免れた──はずだったのだけれど。


「ちょっと待てよミシャグジ。勝手に締め括るなって。もう一人のお客様をお忘れだぜ? 正しくは、もう一柱のお客様だ」

「えへへ、今宵のパーティーの主賓しゅひんは、差し詰めあのお方ですかね」


 例に漏れず迷彩柄をした双眼鏡で、闇の彼方を覗きながら、繰絡さんが無邪気な笑顔と共に言った。深淵の闇の向こうに、その華奢な人指し指が向けられる。

 その台詞も、その動作も──端的に言って不吉以外の何物でもない。


 そして──。


 繰絡さんが指し示しているものが、私が果たすべき責任とやらの本丸だなんて、もちろん私は知る由もなく──ただ無言のままに不吉な予感を噛みしめるだけだった。




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