回顧19-02 人間が先か、神様が先か(下)




 ──人間が先か、神様が先か。

 人間が先だと内灘さんは言った。すべては人間だったと、悠然と言った。


 ──閾値を越えた時、『オカルト』は『現実』へと変わる。

 繰絡さんはそう説いてみせた。神格化される方も、溜まったものではない、と。


 けれど、本当にそうなのだろうか。今更ながら私は、二人の言葉に疑問を覚える。

 万物が生きるこの世界で、私たちの認識だけがすべてだなんて、思い上がりも甚だしいのではないか。

 私たちの認識の外側を揺蕩たゆたっている意志こそが──『オカルト』という言葉で一括りに纏められてしまった超常的存在こそが、この世の真理を知っているのではないか。


 


 手にした鉄扇を優雅に翻し、ツクヨミ様はうっすらと目を細めた。私たちのすべてを見透かすようでいながら、遥か彼方を見通すかのような不思議な視線が、周囲一体へと向けられる。

 一陣の風が吹き抜け、ツクヨミ様の碧色の髪が艶々しく舞い上がった。『神童』という言葉も恥じるような神々しい姿を前に、私が抱いたばかりの疑念が説得力を帯びる。


「童──この町はね、君なんかが滅ぼして良い場所じゃないんだよ」


 絶対零度の声音でツクヨミ様が呟くと、どこからともなく氷の柱が立ち昇った。それも一本や二本などといった数ではない。真冬の森に立ち並ぶ樹氷みたく、この庭のあちらこちらから氷の柱が生い茂っていった。

 からりからりと音を立てて、無数に連なった氷の柱がいくつもの氷の華を咲かせる。拡散する冷気の象徴はやがて壁になり、果てには天蓋となって、この庭全体を覆っていった──閉じていった。


 樹氷の森と化した景色の中で、ミコトくんが庭に零し続けた黒い涙も、瞬く間に塞き止められた。数多の虚無と絶望を内側に閉じ込めた涅色くりいろの氷。ツクヨミ様はその薄氷の上を辿り、決して急ぐふうでもなく漆黒の根源へと歩み寄っていく。


「……神様も、僕の敵なの?」

「うふふ、今では君も神様だけれどね」

「意味が分からないよ。僕は僕、『内灘みこと』なんだから」

「ウチナダノミコト、僕は君の敵じゃない」

 

 悪い冗談か、はたまたただの思い付きか──この大地を産んだとされる産土神様は、この大地を呪って神様へと成った少年を、『ウチナダノミコト』と名付けた。紫檀の瞳を炯々と輝かせながら、まるで興味津々とばかりに──ツクヨミノミコトは、ウチナダノミコトに向かい合って言うのだった。


「神様というものはね、誰の願いからも遠い理屈で、ただ生まれた場所を守る存在なんだ」


 その神様の寝起きの悪さに、私は命を落としかけたのだけれど──そんな恨み言をごくりと飲み下す。


「その守り方はね、破壊だったり隔離だったり、神様によって様々なのだけれど──君がどんな方法を選ぶのかまでを強制するつもりはないよ」

「……だったら、そこをどいてよ。僕は、僕は全部──」「──周りを見てごらん」


 ツクヨミ様が、ミコトくんを遮って、言う。


「キレイだろ? これはね、ミシャグジを真似て作った氷の天蓋さ。塞の神の二番煎じというのは、少々癪に障るけれどね。神様に成り立ての君に、是非見て欲しいものがあるんだ」


 ツクヨミ様が言い終わるやいなや、私たちの視界が暗転した。のだと、私は感覚で理解する。プラネタリウムを思わせる半球状のシアター。一筋の光さえも許さない閉ざされた空間を、ツクヨミ様は氷の天蓋を利用して創り上げたのだ。


 幻想も度を過ぎた光景に、私たちの誰もが言葉を失っていた。泥人形の烏丸返しに始まり、ここ数日の間に沢山のオカルトを目にしてきた私たちだけれど、ここまで易々と理解の範疇を越えられてしまっては、もうどんな言葉も出てこない。何の理屈も抜きにして、ただこれが現実であるのだと理解するだけで、途轍とてつもない精神力が消耗されていくようだった。


 しかしこんな状況ながらも、ツクヨミ様がミコトくんに対して敵意を持っていないという安堵を漠然と感じる。「この状況に剣を振るわなくてはいけない」というその言葉は、決してミコトくん自身に剣を振るうといった意味ではないのだと、ツクヨミ様の悠然たる態度からそう確信する事が出来た。


 言葉を失ったままで、私たちは静観する。無力さを思い知りながら──ただ傍観する。その目線の先には、四方八方を囲む暗闇だけが拡がり、無音と無感覚の中に、その映像は浮かび上がった。


 ぼんやりと──いつしかはっきりと、鮮明に浮かび上がった。




 最初に視えたのは、炎だ。そう、妖精の舞いを連想させる、あの夜の炎。

 ぱちぱちとした破裂音が不規則的に上がり、周囲一体に確かな熱を放っている。

 呼吸に意識をやれば、あの山道の木々の匂いと、煤けた煙の匂いを確かに感じた。

 いつの間にか私たちは、五感のすべてを取り戻している。

 ならば、きっと、耳を澄ませば──。


 雄々しい叫び声と、賑やかな祭り囃子の調べ。

 『喜怒哀楽』の神楽面を被った四人の男が、屶鋼の業物を振るっている。


「あれは…俺か?」


 戸惑いを隠せないアラタの呟きを、とても遠い場所で聞いたように思う。

 この場に居る誰もが、私と同じ幻想に包まれているようだ。


 やがて目の前のビジョンが、天へと駆け上る。

 神様に捧げる、その剣舞を俯瞰するように。


 神様の視点で描かれる物語のように。


 短い暗転を挟み、視界のすべてが炎に覆われた。

 焚き木の中へ飛び込んだのかと思ったけれど、どうやらそうではない。

 業火の中から這い出た視点は、深く刻まれた額のシワを捉えていた。

 自らの生命力を燃やしながら、神様へ捧ぐ刀を設える刀匠の表情を映していた。


「爺じ…」


 屶鋼宗一郎が鍛冶場に立つ姿を、私は初めてこの目にする。

 女人禁制の鍛冶場の中央で、不格好な形をした玉鋼と睨み合いながら、深淵の向こうを覗くかのような訝しい表情を浮かべる爺じ。

 しかしその瞳は、目の前に在る何もかもを見ていない。

 爺じの瞳が映しているのは、その先に在る何かだった。

 あるいは、かつての刀匠たちが映し出してきた何かだった。


 空想に耽る少年のように、自らの信念を一頻ひとしきり玉鋼に注いだ後、爺じはおもむろに立ち上がり、浅葱色の道着の紐を締め直した。

 玉鋼の瑠璃色や、その不揃いな煌めきが虚空を眺めている。


 がきーん。がきーん。

 金属の弾ける音。


 暗転。

 鍛冶場には、私の知らない若い男が居る。

 けれど私は、なぜかその男を知っている気がした。

 私はこの男を、一体どこで見かけたのだろう。

 記憶の糸を手繰るには、あまりにも懐かしすぎて。

 

 暗転。

 私の知らない誰かが、また刀を打ち付けていた。

 暗転。

 やはり私の知らない誰かが、鍛冶場で魂を燃やしていた。

 

 耳をつんざく、金属音と共に。

 がきーん、がきーん、と。


 暗転。

 暗転。

 暗転。


 数回に一度、水主祀りの映像が挟まれた。

 アラタではない誰かが、剣舞と共に祈りを捧げる姿。

 煌々と煌めく焔が、人々の信仰を呑み込んでは燃え盛る。


 暗転。

 ひび割れた田園風景が映った。

 しかしそれは、私のよく知る緑色の風景でも、あるいは黄金色の風景でもない。

 畦道の所々が、強烈な乾燥にひび割れている。

 干乾びたミミズやら蛙やらが、見るも無残に散らかっていた。

 烏丸町に、記録的な干魃かんばつでもあったのかもしれない。


 暗転。

 鬱蒼と茂る木々。

 そこは、私の知らない神社だった。

 鳥居の色も形も、私の知らないものだった。

 水主神社ではないその場所が、この町の何処に位置しているのかさえ検討もつかない。


 ひたひたと足音。

 数種類の鳥の羽根で全身を飾り立てた数人の娘が、古ぼけた鳥居をくぐっていく。

 その表情を曇らせながら、のそのそと悲しげな歩みを進めている。


 その中の誰かの頬に、涙が伝う。


 暗転。

 暗転。

 暗転。


 果たして私たちは、どれくらいの時代を遡ったのだろう。

 ツクヨミ様が次々に映し出すが、この烏丸町のかつての姿である事は、疑念を挟む余地すらなかった。

 明確にして明瞭な、神様に蓄積された記憶の洪水。

 私たちは、その殆どを知らぬままに生きる。

 この大地に立ちながら、無知と無関心のままに呼吸を続けている。

 恥じらいにも似た罪悪感が、この心を震わせた。

 底知れぬ深淵に落ちるような、心許なさが体温を奪った。


 そして──。




「恥じる必要はないよ。人間なんてそんなものさ」


 ツクヨミ様の言葉と同時に、氷の天蓋が激しい音を立てて崩れ落ちた。ダムが決壊するように、ビルが爆破されるように──氷壁のすべてが木っ端微塵に崩れ落ちて、世界は動き始めた。


 つまりは、明転。

 

 ゆらりとした動きで、ミコトくんが崩折れる。

 私とアラタは反射的に地面を蹴って、ミコトくんの元へと駆け寄った。きらきらと散った氷の破片を踏みしめるたびに、硝子が割れるようなばりばりとした音が鳴った。


「おい、ミコト! ミコト!」

「ミコトくん? 聞こえる? 返事出来る?」


 小さな身体を揺り動かすも何の反応も無い。いつかの爺じと同じように、ミコトくんは憔悴しきった表情を浮かべていた。しかしミコトくんの胸に耳を押し当てたアラタが、「大丈夫だ、生きてる!」と安堵の声を上げる。途端に弛まる緊迫に、思わず全身の力が抜けた。


 見やればその身体から、神格化の面影は消えている。

 あおぐろい絶望の翼は、ミコトくんの背からすっかり無くなっていたのだ。


「まさかのまさか……神頼みが叶っちまったな」


 傷だらけの繰絡さんを介抱しながら、内灘さんが呟いた。その瞳には、私の距離からでもはっきりと分かる大粒の涙が浮かんでいる。

 内灘さんは繰絡さんをそっと地面に寝かすと、ツクヨミ様の元へと歩み寄って言った。


「神様、本当に恩に着るぜ──結局のところあんたは、俺の息子も烏丸町も、ものの見事に救っちまった」

「うふふ、僕は何もしてないよ。寝起きの神様は機嫌が悪いからね。長い永い昔話をして、こうして寝かしつけただけさ」

「なんだよそれ。どんなウルトラCだっつーの」

「──時間さえあれば、大抵の問題は解決するものだからね」


 内灘さんの潤んだ瞳と、ツクヨミ様の紫檀の瞳が、しなる弓のように微笑んだ。

 暫くの間そうして見つめ合った後で、ツクヨミ様はたおやかな動きで鉄扇を折り畳む。内灘さんが草臥れたように肩を竦めると、ツクヨミ様も同じように肩を竦めてみせた。

 神様が初めて見せる人間くさい動作に、私たちの口元がそっと緩んだ。


 そんな私たちへ向けて、ツクヨミ様は最後の言葉を紡ぐ。

 それは文字通り、神様からのお告げであり、忠告だった。

 

「さて、僕もおやすみの時間だ。またいつか遊ぼうね。神様って案外、退屈なんだよ。それにこれだけは言っておくけれど、決して元の鞘ってわけでは無いからね。君たちは僕の一部を食した罰当たりな子供を、この先ずっと育てていくんだ。だから決して、油断してはいけないよ。僕はこれから、ゆっくりと眠りに就くのだから」


 口元の紅が意味深長に微笑み──ツクヨミ様は、青白い燐火へと姿を変えた。マッチが燃え上がるように、たった一瞬だけの輝きを放って、何も無い中空へと消え去ったのだ。

 寝転んだ三日月の形が、影送りのように青空に貼り付いていた。ほんのりと朱みのかかった残像を、気の遠くなるような秋晴れの空が覆い隠そうとする。


 まるで最初から、そこには何者も居なかったかのように。


 私の口元から、乾いた笑みが漏れる。隣のアラタに視線をやると、私と同じような引き攣った笑みを並べていた。しかしその瞳は、すぐに凛々しい眼差しへと変わる。その切り替えの早さは、きっとこの先も私を救ってくれるのだろう。


「なぁ、リサ──」


 その言葉の先を片手で制して、私は携帯電話を取り出した。今の私に出来る事は、まずはこれだけだ。だから私は、せめて自発的にそうしたいのだ。七面倒なこの性格を、アラタならきっと笑って許してくれる。


 私は救急車を手配した。誰に何と言われようとも、今度こそ。

 自分の意思と、自分の判断を以って──。


 目の前の救うべき者のために。



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