回顧18-01 腐愛を穿つ




 内灘さんの狂気の産物であり、そして神様の産物である目の前の化け物と対峙しながら、どうしようもない嫌悪感に唇を噛み締める。

 ツクヨミ様に赦されてしまった私は、ミコトくんを救う必要が無くなってしまった私は、憎むべき相手が分からなくなってしまった私は、一体どうすれば良いのだろう。


 酷く場違いな気分で──そして今すぐに逃げ出したい気持ちで、ただ呆然と中空を彷徨う視線。その視線を掴まえたのは──見据えるようにして覗き込んだのは、他の誰でもなくアラタだった。


「リサ、気を確かに持て。まだ何にも終わってねーよ。まだ誰も救われてねー。泣き言なら後でまとめて聞くから、今だけは気を確かに持て」


 そう言いながらアラタは、屈折した笑みを見せる。見るからに草臥くたびれたその仕草からは、アラタらしからぬ大人びた雰囲気が漂っていた。


「まったく、本当に胸糞の悪い話だぜ。結局のところこれは、崩壊しちまった自分の家庭に未練たらたらのおっさんが引き起こした、昼ドラも真っ青の愛憎劇って事だろ? 勘弁しろよ。俺もリサもミコトも──そんでもって奥さんもミシャグジ様もツクヨミ様も烏丸町も、何もかも無差別に巻き込んでんじゃねーよ」

「新太さん、どうか口を慎んでください」


 咎めるように繰絡さんが言い、内灘さんは苦悶に表情を歪める。

 ツクヨミ様は妖艶な笑みですべてを見守り、虚ろな瞳からぽろぽろと涙を溢すミコトくん。

 そして私は──アラタの無神経さだけを頼りにして、今一度この現実を直視する。




「み、こ、とおおおお────!!」


 化け物の喉元から、空気の弾ける音と共に叫び声が上がった。洞窟を吹き抜ける風を思わせるその濁声だくせいに、私は哀しみの色を見る。それさえもが私の主観でしかない事が分かっていながらも、濁りきった声に紛れ込んだ、母親の愛情を見つけてしまう。


「おっさん、一度だけ聞くぜ。このふざけた愛憎劇の幕引きをするのが、赤の他人で本当に良いのか?」


 そう言いながらアラタは、庭に転がっていた拳大の石を拾い上げて目を細める。そしてこれ見よがしに投球フォームを見せつけてから、「俺はいつでも良いんだぜ」と怒気を孕んだ声で宣言した。


「こ、とおおお──」


 腐り爛れた化け物は──ミコトくんのお母さんは、濡れた大地に融け出しながら苦しげに蠢く。まな板の上の鯉というわけではない。炎天下のアスファルトに焼かれた蚯蚓みみずのように──それこそ本当に、虫の息なのだ。不完全な蘇りを遂げた彼女は──かりそめの命を与えられたに過ぎない彼女は、おそらくは誰かが手を下さずとも、このまま息絶えていく存在なのだ。


「うふふ、千両役者も顔負けの迫力だね。鬼ごっこよりも隠れんぼよりも、これは面白いや」

「ツクヨミ様、悪いけどちょっと黙っててくれ。俺たちは何にも面白くねー」


 アラタの訴えに鼻白んだとばかりに、ツクヨミ様が扇子を広げて扇ぎ始めた。「臭くて敵わない」という皮肉が、優雅な動作の一つ一つに存分に込められている。


「……新太くん。俺がやるよ──やはりこの幕を引くのは俺で在りたい。身勝手は承知の上だ、俺にやらせてくれ」


 聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、内灘さんが言った。アラタは無言のままに身を翻し、手にしていた石をどこかへと放り投げてから答える。


「……おっさんにしかやれないだろ。おっさんが……きちんと殺してやれよ」


 殊勝な顔付きで内灘さんが頷いた。そこに言葉は無い。私たちは誰も、言葉など誰も必要としなかった。

 ──ただ一人を除いては。


「殺すってどういう事? せっかくお母さんに会えたのに、どうして殺しちゃうの?!」


 殺すという明確な言葉に、ようやくとして状況を理解したのだろう。発狂寸前の取り乱し方を見せて、ミコトくんは内灘さんへと詰め寄った。


「ねぇ、なんで? どうして? もしかしたら治るかもしれないよ? 僕みたいにさ、ほら」


 ミコトくんの華奢な手が、内灘さんの腰元に縋り付く。必死で爪を立てながら、父親の動きを遮るようにして訴えかける。ゆっくりとしゃがみ込んだ内灘さんは、ミコトくんと同じ目線の高さで言った。


「ミコト、お前が助かったのは──お前がまだ生きているからだ。母ちゃんは助からない。母ちゃんはもう──死んでるからだ」

「死──ぬ?」

「そう──死だ。どうやら人間は、在るべき場所にしか居られないらしい。神様の力を以ってしても、それは変えられないみたいだ」


 鼻を啜りながら歯を食いしばるミコトくんの髪の毛を、くしゃくしゃとかき混ぜる内灘さん。やりきれない表情で、自身もこうべを垂れながら、ただ後悔の言葉を紡いで聞かせる。


「ミコト……本当に済まない。母ちゃんは死んじまったんだ。こんな当たり前の事実を、絶対的で単純な真実を──父ちゃんがもっと早くに認められていれば、お前にこんな想いをさせる事はなかった。誰も苦しまなかった。本当に、ただの一人も──」


 道化のように振る舞い続けた男が、哀れな父親の涙声を溢した。くしゃくしゃに歪んだ顔で、ぐちゃぐちゃに綯い交ぜになった感情を、道化を演じるでもなく曝け出した。

 曝け出されたのは──どす黒い絶望だ。

 この世のことわりを塗り替える事の出来なかった、内灘さんの絶望だ。




 雨でぼやける広い庭、涙で滲んだ私の視界。その視界の真ん中で、一人の父親が我が子を抱き締めて咽び泣いている。そして輪の中に入り損ねた母親が、混ざる事の許されない母親が、どろどろに崩折れながら何度も息子の名前を呼んでいる。


 思えばあの水主祀かこまつりの夜に、私は神楽囃子を聞きながら──そこに名も知らぬ家族を連想したのだ。逞しく律動する太鼓と、軽佻けいちょうに鳴り響く手平鉦と、それらに絡み付く龍笛の調べに、家族の戯れ合う姿を思い描いたのだ。

 ただ当たり前である事が──ただ幸せで在る事が、こんなにも難しいだなんて。


 ──どうして誰も、教えてくれないのだろう。

 子供じみた考えを浮かべた私の肩に、アラタが左手を置いて言う。


「帰ろう、リサ。俺たちは赤の他人だ」


 やるせないその声は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。今から目の前で起きるであろう本当の悲劇が、自分たちには関係無いものなのだと忌避するための言葉だった。そしてもしかせずともアラタは──いつものようにアラタは、私のためにそう言っているのだ。誰よりも私を慮るために、今この場に背を向けようとしているのだ。

 だから、だからこそ私は。

 弱々しくかぶりを振る。


「そうだね、赤の他人だった……でも、ご縁に結ばれちゃったからね」


 アラタはそれ以上、何も言わなかった。言おうとさえしなかった。

 アラタは私の隣で、このまま終わりを見届けてくれる。

 その優しさが、今は痛い。


 悲壮な決意に満ちた表情で、内灘さんがゆっくりと立ち上がり、今さっきのアラタがそうしたように、庭の石を拾い上げて言った。


「幕を引こう。恥知らずな俺の、恥知らずな罪に」



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