回顧14-01 願わずにはいられない
夕間暮れの橙色が、縁側の木目を鮮やかに染め上げた。紅葉の絨毯のように広がる色彩の上に、穏やかな寝顔を浮かべたミコトくんが寝転んでいる。
あのまま泣き続けたミコトくんは、ついには泣き疲れて眠ってしまった。寝入ったミコトくんを慎重に床に横たわらせて、華奢な身体の上に掛け布団を被せる。爺じの時よりも何倍も慎重に、そして何倍もあたたかな気持ちで。
山あいに位置する烏丸の夕方は短い。日が暮れてきたと思ったそばから、たちまちに夜はやってくる。
こうして昼と夜が入れ替わる黄昏時、烏丸の景色はあちらこちらに陰影を備えている。まるであの世とこの世の境い目が、この瞬間だけは可視化されているかのようにも思えた。古くには、『逢魔が刻』だなんて言葉もあったはずだ。人ならざる者に出逢うとされる禍々しい時間──この時間の先に出逢うものが、それこそ天狗や物の怪の類であればどれだけ良かったか。実体を伴った恐怖ならば、せめて立ち向かいようもあるだろう。
毎夜毎夜、ただ現実として肉体に刻まれる苦しみ──きっとミコトくんは、夜もロクに眠れていないはずだ。眠れぬ夜の分まで深く眠りこけたまま、もう日が完全に沈もうとしている。こんな事なら、いっそ布団に寝かせてあげた方が良かったのかもしれない。
憂鬱に心を沈める私の耳に、車のエンジン音が飛び込んできた。太く逞しいこの音は、繰絡さんの乗っている軽自動車のものではない。おそらくは内灘さんが帰宅したのだろう。人工物が放つ物音は、時に安息さえ感じさせる事を知った。
「特殊工作班、ただいま帰りました──っと」
ややあって、玄関口から内灘さんの声が聞こえてきた。いつもの調子でどかどかと歩いてくる内灘さんへ向けて、私は唇の前で人指し指を立てる。
「ん? なんだ? ビールにしますか、それとも私にしますかってヤツか?」
悪びれずにベタな冗談を飛ばす内灘さんに苛立ちながらも、私は小声で告げた。
「ミコトくんがお昼寝してるんです」
「ほほう、珍しい事もあるもんだ」
見やれば内灘さんは、両脇に一つずつ特大の巾着袋を抱えていた。居間へと場所を移してから、私は問いかける。
「内灘さん、そのサンドバッグみたいな袋は何です?」
「がはは、愛する
いちいち突っ込むのも面倒なので、私は内灘さんを一睨みするだけに留めておく。内灘さんの冗談にその都度付き合っていては、一向に話が先に進まない事をこの数日で学んだのだ。
内灘さんは、卓袱台の上に二つの巾着袋を乱暴に並べて、勢い良くどかんと腰掛けた。開けてみろ、と目配せする内灘さんに従い、私は巾着の口を解く。
「糸織と新太くんにも声を掛けたぜ。
袋の中から出てきたのは、大量の花火だった。手持ち花火から打ち上げ花火に至るまで──実に大量の花火を、内灘さんは卓袱台の上に並べていく。
「風流ですね。こんなに気の利いた事が出来る人だったなんて」
私の精一杯の嫌味など意にも介さず、「なぁに、思い出作りさ」と内灘さんは返す。
「……『思い出作り』って言葉、重過ぎませんか」
眉をひそめる私を、内灘さんは「がははは」と豪快に笑い飛ばした。
「何言ってんだよ梨沙ちゃん。俺の発言に、いちいち深い意味なんて無いぜ。正真正銘、ただの思い出作りさ。この夏の終わりに、皆で盛大にどかんとやろうや」
「夏の終わりどころか、冬がすぐそこまで来てますよ」
相も変わらず、可愛げの無い受け答えしか出来ない私に、内灘さんは言う。あっけらかんと、何でも無い事のように、気軽な口調で──言う。
「梨沙ちゃん、準備は全て整った。決行は明日──そういった意味じゃ、今夜は前祝いさ」
そうか、いよいよ明日──神妙な面持ちで頷く私に、内灘さんが問いかけた。「怖気付いたか? やめるなら今のうちだぜ?」と。
「いいえ。何なら私は、今すぐにでも構いません。私の問題──私の果たすべき責任はさておき、ミコトくんを一日でも早く救ってあげたいと思っています」
「おいおい、その気持ちは嬉しいが、自分の責任をさておいちゃ駄目だろうよ」
内灘さんは、何処か嬉しそうに私を茶化した。
「もちろん、私の責任も果たしますよ。ツクヨミ様には、きちんと引き下がってもらいます。この烏丸町には、今も変わらぬ安穏が続いているのだと、ツクヨミ様にしっかりと分かってもらいます」
「頼もしいこった」──と、内灘さんは満足気に笑った。上機嫌なその様子に、私も反射的に笑みを返す。
「なぁ梨沙ちゃん、糸織の昔話──聞いたんだろ? どう感じた?」
「今その話ですか? 話がズレてませんか?」
私の反問を、内灘さんは一笑に付した。そんなのいつもの事だろ? と言わんばかりに。
私は悶々としながらも、内灘さんの唐突な問いかけに答える事にする。
「とても良い話だと思いました。家族の絆は、離れ離れになっても揺るがない。お互いが想い合っていれば、離れていても強く生きていくことが出来る。そう感じさせてくれる昔話でした」
「だろうな。普通はそう捉える。そう捉えても間違いじゃない──だがな、梨沙ちゃんの見ているそれは、物事の表面だけだ。上澄みにして上っ面、入口にして表面だけ──複雑な真実の中の、たった一つの側面に過ぎない」
物知り顔を浮かべる内灘さんへと、私は大仰な溜め息を吐き出して言った。
「珍しく直球な質問をして来たと思ったら、結局そうなるんですね。どうぞ、聞きますよ」
「おやまぁ、梨沙ちゃんも随分と反抗的になったもんだね」
「学習したんですよ。内灘さんの性格の悪さに、さすがの私も諦めを知ったんです」
ふん、と悪態をつく私を、内灘さんはにやにやと眺めている。いい加減にして下さいと詰め寄りたい気持ちもあったけれど、そういった憤りの感情よりも、結論を急いで欲しいという催促の気持ちが勝っていた。そんな私の心中を見透かしたかのように、内灘さんが言う。
「がはは、まぁいいや。あんまり焦らし過ぎると、糸織たちが来ちまうからな。先に結論を言おう。複雑な真実の中の、もう一つの側面を教えよう──糸織はなぁ、呪われたんだよ。他ならぬ家族の絆に、自分の想いの重さにな」
繰絡さんが、呪われた? 衝撃の告白に、すぐには理解が追い付かない。繰絡さんの昔話の一体何処に、呪われるような要素があると言うのだ。私の疑問に先回りするように、内灘さんは語り続ける。
「梨沙ちゃんも聞いているだろう? めでたく成人を迎えた糸織は、生まれて初めてこの烏丸町に足を踏み入れたのさ。そしてその結果、繰絡糸織は呪われた。烏丸の天蓋によって、この地では想いが濃縮される。閉じられたこの地では、どんな想いも圧縮される」
「……それが『想いの重さ』という事ですか? 繰絡さんの想いって──お父さんへの愛情? それとも、故郷への憧憬とか」
「どっちもハズレだ。糸織はなぁ、焦っていたんだ。とても恥じていた。何にも成れない自分を。何者にも熟れない自分を」
──まるで、私のように?
その問いかけは、言葉にならなかった。代わりに私は、「どういう意味ですか?」と、端的に問う。
「意味も何も、そのままさ。糸織の父親は、それに母親は、糸織に広い世界を見せるためだけに離れ離れになったんだ。彼女の未来だけを慮り、彼女の可能性だけを慮り──そして離れ離れになった。両親の下したその決断が、当時ガキんちょだった糸織にとって、重くないわけないだろうよ」
遠い目をしながら、内灘さんは続ける。赤裸々とも言える繰絡さんの事情が、プライバシーの一切を無視して私に明かされていく。
「梨沙ちゃん、その時の糸織はこう考えていたんだ。『私は何かに成らなくちゃいけない。私は何者かに熟らなくちゃいけない。だってそのために、私のお父さんとお母さんは離れ離れになったのだから──ただそのためだけに、私たち家族はバラバラになってしまったのだから』。いや、その時だけじゃない。物心付いてからずっと、糸織はそんな想いを抱えていた。そんなふうに、思い詰めていた──呪われていた」
その重圧を、私は知らないわけではない。烏滸がましい言い方をさせてもらえば、私はその重圧を知っている。何かに成る事を望まれる喜びと、それに相反して付き纏う重圧。何者にも熟れない自分を思い知る度に、自分を恥じ、自分を嫌い、自分を閉ざしていくその暗闇。
「……どうして今、そんな話を私にするんですか?」
物思いを振り切り、今更のような質問を投げかける。内灘さんの話に取り留めが無いのは、決して今に始まった事ではないけれど。
「……俺も同じなんだなって、そんな気持ちが過ぎっただけさ。親の期待を勝手に押し付けて、生きて欲しいという願いを押し付けて──俺もミコトを呪っちまうのかなぁってな」
「我が子を救いたいと願うのは、当然の感情です」
決して慰めというわけではなく、毅然として答える。内灘さんは、「それがこんなやり方でもか?」と吐き捨てるように問いかけ、そのまま口を噤んだ。返す言葉を見つけられず、私もそのまま口籠る。
漂う沈黙の中に、車のエンジン音が混ざった。どうやら繰絡さんが到着したようだ。まさか繰絡さんは、こうして赤裸々に自分の昔話をされているだなんて思いも寄らないだろう。
「ふはは、しんみりさせちまった。まぁ、俺だって恐怖くらい感じる。そういう話さ」
そう笑って、いつも通りに悠然と振る舞う内灘さん。その切り替えの早さに戸惑いながらも、私は言う。繰絡さんの訪れを意識して、少しだけ早口に。
「こんなやり方でも、私は協力しますよ。だってそういう約束──いえ、契約ですから。内灘さんのやり方に、私は添うだけです」
「そうやって、全部が俺のせいってか?」
「いえ、そういうわけでは──」「済まない。今のは失言だ。謝るよ」
そう言って内灘さんは、迷いを感じさせない仕草で深々と頭を下げた。やがて顔を上げて、神妙な顔付きで言う。
「梨沙ちゃん、君に
「私も、内灘さんに感謝しています」
感慨深くさえあるそんなやり取りの間にも、軽やかな足音が二つ、居間へと近付いていた。二つという事は、どちらか一つはアラタのものだろう。ここに来る前に、繰絡さんが拾ってきたのかもしれない。
「こんばんは梨沙ちゃん、花火と聞いて飛んできましたよ」
「おお、たっぷりあるな。おっさんもたまにはやるじゃん」
私の予想通り、繰絡さんの横にはアラタの姿があった。卓袱台の上に所狭しと並べられた花火を見て、二人が目を輝かせている。思えばこの四人が揃うのは数日ぶりで、不思議と懐かしい気持ちを覚える。懐かしいだなんて、よくよく考えればおかしな話だ。内灘さんや繰絡さんと、知り合ってまだ日も浅いというのに。
「あれ、ミコトは?」
「あっちでお昼寝中。でも、そろそろ起こさなきゃ」
きょろきょろと辺りを見渡すアラタへそう答えると、内灘さんが腰を上げた。
「んじゃまぁ、早速始めるか? あんまり夜が更けると、ミコトの呪詛がまた騒ぎ出すしな」
呪詛が騒ぐ──その聞き慣れない表現に、私は妙に納得してしまった。夜になると心が騒ぎ出すように、情緒不安定になるほどに呪いの力が騒ぎ出す。苦しみの波に理屈を付けるとすれば、案外的を得た表現かもしれないと思う──いや今更、理屈など求めたりはしないけれど。
縁側のミコトくんを、優しく揺り起こす。ミコトくんは、すっかり日の暮れた風景に目を丸くさせながら、一堂に揃った私たちに問いかけた。
「あれ? みんな居るの? もしかして夜ご飯はお鍋かな」
「ううん、皆で花火をしようと思って。ほら、ミコトくんのお父さんが用意してくれたんだよ」
花火を詰め直した巾着袋を抱えたアラタの方を促し、私は言う。まるで自分の手柄のように誇らしげな顔をしたアラタが、袋の中から幾つかの花火を取り出してみせた。
「花火なんて、喜ぶのは子供だけだよ」
冷めた言葉に、内灘さんの表情を横目で窺う。けれど私の心配よりも早く、ミコトくんは次の言葉を繋いだ。
「でも……僕は子供だから、別に良いんだけどね。やろうよ、花火」
思いがけないミコトくんの言葉に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。驚きを隠そうともせず、内灘さんと繰絡さんが顔を見合わせて言う。
「おいおい、一体どうした事だ」
「梨沙ちゃんの魔法ですか? それこそ、カウンセラーさんじゃないですか!」
子供である事を受け入れた──少しだけ大人に成ったミコトくんの頭を撫でながら、私は安らかな想いと共に答えた。
「いいえ、私は何もしてません。戦っているのは──ミコトくんですから」
そしておそらくは、内灘さんだ。ミコトくんと同じように、お母さんの想いに呪われた内灘さんも、人知れず戦っている。苦しみ、迷い、抗っている。
私の過ちは、二人に訪れた一筋の光明。偶然にして突然に、二人に訪れた唯一の手段。それが奇異なる光明であっても、たとえ苦し紛れの手段であっても、二人はその藁を掴まずには居られなかった。
──そして私も、この奇跡に賭ける以外に術を持たない一人。
「よっしゃミコト、お前をバケツ係に任命する。お前の役目は、この花火大会の生命線だ。分かるか? お前がしっかり火を消してこそ、この花火大会は成立するんだぞ」
一体何のスイッチが入ったのか、アラタが急に場を仕切りだした。
「俺とおっさんは点火係。繰絡さんは──そうだな、写真係だ」
「了解です、隊長!」と、張り切って敬礼するミコトくん。「やれやれだぜ」と、満更でもなく微笑む内灘さん。「携帯ですけど構いませんか?」と、戸惑いながらはにかむ繰絡さん。さて私は何を命じられるのだろう──と待ち構えるも、アラタはミコトくんと
「ちょっとアラタ、何であんたが仕切ってんの? っていうか──私は何係なのよ」
「んー、リサは……ミコト、どーしよっか。俺は正直、思い浮かばない」
困った人を見るみたいな目をして、ミコトくんが答えた。
「うーん、そうだねぇ……見る係とかで、良いんじゃない?」
「…………」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。