回顧13-02 初めて君を知る(下)





 指切りを求めるミコトくんと小指を絡ませる私を見て、爺じは逃げるようにして客間から出ていった。次は自分の番だと察したのか、白々しいくらいの去り際の早さに、思わず大きな嘆息が漏れる。


「何よあれ。自分から約束云々語り出したくせに──ありえない」

「ふふふ、リサちゃんがお家に来てから、賑やかで楽しいね」

「──学校に行ったら、もっと楽しいんだから」


 青春を謳歌しているとは決して言えない私は、ミコトくんの孤独の長さを思いながら言う。

 彼は一体、いつからこの状態なのか。私が転がり込むまでは、どんな風にしてこんな穏やかな昼下がりを過ごしていたのか──私にそれを知る術は無い。もちろん、それを聞く勇気も。アラタだったら、何でも無い事のように尋ねるのだろうけれど。

 両親を知らない事よりも、愛されない事の方が何倍も不幸だ。もしかすると繰絡さんも、ミコトくんを知った時に同じような感情を抱いたのではないだろうか。会えない事など瑣末な問題で、愛されない事には遠く及ばないと──。

 透明な眼差しをした目の前の少年──ミコトくんが、私の沈黙に対して首を傾げて言う。


「リサちゃん、別に僕はさぁ……」

「うん?」

「友だちが百人欲しいわけじゃないんだよ」


 飛び降りるようにて私の膝の上から離れ、ミコトくんはその体をこちらへと向けた。つぶらな瞳が伏し目がちに床を彷徨い、やがて私を直視する。


「お父さんやケイには内緒なんだけどね、別に僕は小学校とかどうでもいいし、友だちだって、リサちゃんやアラタくんが出来たし」

「ん……そう思ってくれるのは嬉しいけどね、それでもお友だちは、多い方が良いと思うよ?」


 戸惑いながら答える私に、ミコトくんは更に大きく首を傾げる。


「でもリサちゃんってさ、友だち居ないんでしょ? 僕のこと言えなくなーい?」


 鋭い指摘に、私は絶句する。私の心を読んだのか、あるいはただの推測なのか──どちらにしても私の反応が、ミコトくんの問いかけの正しさを雄弁に物語ってしまった。


「ねぇ梨沙ちゃん、みんな居なくなるんだよ? 友だちだってそうじゃなくたって、どうせみんな居なくなるの。僕のお母さんだって、そうだったんだから──だから僕は友だちなんて要らない。せっかく仲良くなったってさ、お別れが悲しくなるだけでしょ」


 ミコトくんの瞳が、何処か遠くを見やりながら、諦めにも似た感情に染まっていく。いたたまれなくなるようなその表情は、小さな男の子が見せるべきものではなかった──とてもじゃないけれど、そう在って良いと思えるものではなかった。許されざる現実への憤りを感じながら、私はミコトくんの視線を捕まえる。ミコトくんの中に広がる虚空を真正面に見据えながら、言う。


 ──先ほどの想いを、私は今度こそ言葉にする。


「ミコトくんさ、そんなに急いで大人に成らなくても良いんじゃない?」

「え?」

「知り合う前から──仲良くなる前からお別れの事を考えてたら、何にも出来ないよ」


 人付き合いの苦手な私の、どの口が偉そうに言ったものか。それでも、今しがた聞いたばかりの螢子さんの言葉の幾つかが──そしてこの数日の間に私に降り掛かった稀有けうで奇怪な事件が、私の意識を変えつつあるのは確かだった。もちろんミコトくんの存在だって、私の考え方に少なからずの影響を及ぼしている。


「でもさぁ、リサちゃん──『時間は有限』なんでしょ? だから僕は、皆よりも早く大人に成らなくちゃ──ううん、僕はもう大人なんだけどね、もっとずっと大人に成らなくちゃ」


 繰絡さんの口癖を、ミコトくんが引用する。月詠み葬の儀に侵されているミコトくんにとって、その口癖は違う意味を伴って響いているのかもしれない。私だって、もしも自分に残された人生の短さを知れば──ミコトくんと同じような状況に陥ったとすれば、今更新しい人間関係を築こうだなんて思えないだろう。


 それでもだ。それでも私は言わせてもらう。図々しく、烏滸おこがましく、無責任に言わせてもらう。大人に成れないミコトくんへと、心を鬼にして、残酷な言葉を並べさせてもらう。


「それならさ──もう全部、やめちゃおっか。今からお昼ごはんを食べる事も、明日アラタと遊ぶ事も、さっき私としたばかりの約束も──全部、やめちゃおう。別に良いんじゃない? ミコトくんが諦めてるんだったら、これ以上大人に成る必要なんて無いよ。私だって自分の家に帰れるし、君のお父さんだって繰絡さんだって、危ない橋を渡る必要も無くなるし」


 私の口撃こうげきに、目を潤ませてミコトくんが訴える。「違うもん……僕、そんな意味で言ったんじゃないもん」──と。

 知ってる。ミコトくんが本当は誰よりも明日を望んでいる事は──愛情だとか友情だとかに飢えているんだって事は、とっくに知っている。


 けれど、私は思うのだ。ミコトくんがその望みを口に出来ない限りは、口にして心から望まない限りは──きっと何も叶わない。内灘さんの思惑は失敗に終わる。結局のところ誰も救われない──そんな風に思うのだ。


「ミコトくんは、確かに被害者だよ。少しも何にも悪くないし、心から可哀想だと思うよ。でもね、『大人に成る』だなんて、口ばかりじゃダメなんじゃないかな? 大人に成るんだったら、大人に成りたいんだったら……時には自分の気持ちを、素直に吐き出さなくちゃ」


 どうして僕なんだ。どうして僕がこんな目に遭うんだ。もっと生きたい。もっと愛して欲しい──吐き出すべき恨み辛みが、吐き出すべき望みが、ミコトくんには幾らでもあるはずなのだ。けれど私はまだ、その片鱗さえも見ていない。私が知っているのは──私に晒されたのは、ミコトくんの肉体的な苦しみだけだ。ミコトくんはまだ、私に心を開いてはいない。彼の心のほんの浅瀬の部分で、私が勝手に打ち解けたつもりに浸っていただけだ。そんな悲しい真実に、今更のように気が付きつつある。


「違うよ! 僕はリサちゃんの事が大好きなんだから──」


 脈絡の無いその言葉に、私は確信を得た。ミコトくんは、私が思うよりもずっと頻繁に、私の心が読めている──私が思うよりもずっと高い精度で、より正確に心を読み取っている。『子供だった頃はもっと分かったんだから』──ミコトくんのかつての言葉は、それはそれで嘘では無いのかもしれない。しかし今だって尚十分に、読心という不思議な力をミコトくんは携えている。


 ──いや違う。使のだ。


 そう思い至った瞬間、ミコトくんはびくっと身を竦ませて、強張った表情を浮かべた。その反応こそが、私の確信が核心を捉えているという、何よりの証左に違いなかった。


「隠さなくても良いんだってば。私はミコトくんのその力を怖がったりしないよ。それくらい、今日までの生活で分かってるでしょ? でもね──」


 その続きを、私はあえて心の中でだけ唱える。『都合の良い部分だけを選び取って、都合の良い答えだけを返すのはやめて』──と。『その取捨選択は、絶対にミコト君のためにならないし、ミコト君の周りの人のためにもならない』──と。

 私はミコトくんが泣き出すのを覚悟した。私の胸の内を読み取ったミコトくんが、大いに傷付き、泣き崩れる事さえも覚悟した──けれど。


「……ねぇリサちゃん、知ってる? 知らないよね、知らないだろうから教えてあげる。知ってるはずは無いから、僕が教えてあげるね」


 初めて耳にする口調で、ミコトくんが語りかけた。冷淡とも淡々とも表現出来るその口調は、子供らしさの一切が抜け落ちた抑揚の無いものだった。


「僕のお母さんもね、はじめはそう言ってたんだ。『大丈夫よ』、『怖くないよ』、『ミコトが思った事を、全部素直に話してくれれば良いのよ』──って。昔はそういうふうに言ってたんだよ。でもね、そんなのは全部、嘘だから。リサちゃんだって、きっと嘘なんだから。口ばっかりなんだから」


 ミコトくんの醸し出す迫力に、私は思わず怖気付いた──怖気付いてしまった。それが彼にとって良くない事であるのは、考えるまでもない。こうした小さな拒絶の積み重ねが、何度もミコトくんの心をえぐり続けてきたのだろう。そんな簡単な事は、私の足りない頭で想像するまでもないのだ。


「お母さんに出来なかった事が、リサちゃんに出来るはずがないよ。この際だから、正直に言うね──僕、そういうの、『バカバカしい』って思っちゃうんだ。薄っぺらい優しさ、薄っぺらい思いやり、薄っぺらい『大好き』──そういうの全部、僕は『バカバカしい』って思ってるよ」


 私の胸の内に込み上げてくる感情を、何と呼んだら良いのだろう。途方もない虚しさ、止めない苦しさ、途轍とてつもない冷たさ──そのどれもが適切であり、そのどれもが不適切だ。


 浅はかでしかない私は、ミコトくんの言葉に為す術も無い。ミコトくんに比べれば、ぬるま湯のような人生を歩んできた私には、その絶望的な感情を否定する事は出来ない。

 けれど、ただ一つだけ、私はミコトくんを否定する事が出来る。彼の本音の訴えに対して、反駁はんばくの言葉を紡ぐ事が──真正面から向かい合う事が出来る。


 五歳児を言い負かそうとする十七歳の私──なんとまぁ滑稽な絵面だ。ねぇ、伝わるかな──恥を忍んでも私が、君と向かい合いたいんだっていう気持ちが。私の中に込み上げてくるこの熱は、君を溶かす事が出来るかな──。


「ねぇミコトくん──私は、君のお母さんじゃないよ。私が埋めてあげられる寂しさは、君のお母さんが埋めるべきだった寂しさとは絶対に違う。私がミコトくんを受け入れたとしても、君の予想通りいつか逃げ出してしまったとしても、その事実は決して変わらない。君がお腹の呪いを跳ね除けて、この先の人生でどんな大人に成っても、君の欲しいものはそこでは手に入らない」


 ミコトくんのお母さんは、きっとミコトくんを赦している。おそらくは最初から赦しているし、あるいは一度も、ただの一度さえも憎んだ事など無いのだと思う。

 ミコトくんのお母さんが呪っていたのは、自分自身だ。けれどその呪いは、自分の一番大切な者へと降り注いだ。ミコトくんのお母さんにとって、考え得る限り一番苦しい形で、その呪いは顕現した。


 全ては私の想像に過ぎないし、わらにも縋るような希望的観測に過ぎないのかもしれない。本当はミコトくんのお母さんが、心の底からミコトくんを憎んでいるという可能性だって、否定出来るだけの根拠は無い。


 そして、私の憶測が的を得ていたとしても──私の希望的観測が全て真実だったとしても、だから一体何だと言うのだ。昔話の一つや二つで、誤解の糸が一つ二つほどけたくらいで、ミコトくんの心が潤うわけなんてない。深く穿たれた心の傷が、昨日今日でそんな簡単に癒えるわけなんてないんだ。


 それでも。


「ミコトくん、きちんと読み取れてる? 君と向かい合う私は、酷い事をいっぱい言うよ。残酷な事をいっぱい想うよ。私は君から逃げ出さない。だからミコトくんだって、私の言葉から逃げ出さないで」


 無言のままで私を見詰めるミコトくんの瞳に、うっすらと涙が滲んでいる。このに及んでも、まだ涙を堪らえようとするミコトくんを、心底痛々しく思った。そう言えば昨日の夜だって、大粒の涙こそ見せたものの、ミコトくんは最後まで声を出して泣いたりはしなかった。


「ほんとに全然可愛くない! 泣けばいいじゃん、子供なんだから──ミコトくんは思う存分、泣いていいんだよ。『お母さんに会えなくて寂しい』、『夜が来るのが怖い』、『もっと生きたいよ』、『死にたくなんかないよ』って──泣けよ! 子供なんだから! わんわんと泣き叫んで、周りの大人を試せば良いの!」


 私は知っている。無防備に人に甘える事が、どれだけ勇気の必要な行動なのか。かくいう私だって、人に甘える事が怖くて怖くて仕方がないのだ。けれど私は、繰絡さんの言葉を知っている。その言葉を、思い出す。

 『甘えられる人が、すぐ傍に居るのですから、甘えなくちゃ損ですよ』──そんな簡単な答えをくれる人に、もう少し早く出会えていたら──。もっと早くミコトくんと知り合って、私がそれを伝えられていたら──。ミコトくんが、ミコトくんのお母さんに、素直に涙を見せられていたら──。


「ねぇ、そしたらさ、何かが変わっていたかもしれないよ? 今からだって、何かが変えられるかもしれな──」「薄っぺらい、バカバカしいよ」


 感情的な私の訴えを遮って、ミコトくんが端的に呟いた。


 私の言葉では、私なんかの想いでは──ミコトくんに歩み寄る事は叶わないのだろうか。だけど、これくらいで諦めたりはしない。まだだ、まだ他に何か、ミコトくんに届く言葉があるはずだと私は──「でも、悪くないかもね」


 「え?」っと問いかけるよりも早く、ミコトくんが私の胸に飛び込んできた。全体重を預けた確かなその重さは、拒否される事を恐れないミコトくんの覚悟の証のようにも思えた。

 ミコトくんの喉元から漏れ出た控え目な嗚咽おえつが、激しい慟哭どうこくへと変わっていく。

 せめて泣き顔を見せまいとしているのか、私の胸に顔を埋めてミコトくんは泣きじゃくる。ずきずきと痛む肩口の痛みを堪らえながら、私はミコトくんの背中をゆっくりと擦り続けた。


 やがて激しさが過ぎ去った頃、私はそっと語り掛ける。


「ミコトくん。ゆっくりと大人に成ろうね」


 言葉にならない声と共に、ミコトくんは何度も強く頷いたのだった。



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