空木コダマの奇妙録~百怪対策室にお任せを~

中邑わくぞ

第一怪 人狼

 満天の星空を眺めながらぼうっとしているとなんだか空に吸い込まれてしまいそうに感じてしまう。冬の空と違って夏の空はなんだか、近い。それに、まだまだ残暑の厳しい九月の熱気は夜の七時だというのにねっとりとまとわりついてくるようだ。

(なんでこんなところを待ち合わせ場所に指定するかね…)

 ついついそんな愚痴っぽいことを考えてしまう。

 こうして夜の公園のベンチに座ってしょうもないことを考えているとどこかネガティブな方向に思考が傾いてしまう。どうにも僕には待つことには向いていないらしい。

 依頼人はこの稲木いなき公園を待ち合わせ場所に指定してきた。何らかの思惑があるのか、それとも何も考えていないのか。考えても仕方ないことか。

 そうしてそろそろ僕の脳みそが熱と湿気で茹で上がり始めたころ、人の気配を感じた。

 たぶん、依頼人だろう。振り向くのも面倒くさいので向こうから声をかけてくるのを待つことにする。

 「………」

 気配は僕の後ろに佇んでいる。

 「………」

 「………」

 「なんか言えよ!」

 沈黙に耐えきれずに身体ごと振り返りながら思わず叫んでしまった。

 「ぇ………あのっ………ね、寝てるのかと思って………ごめ、ごめんなさい!」

 思わず半眼で睨むように見た先に立っていたのは女子だった。というか、制服が僕の学校だ。濃い藍色のワンピースは薄暗いと自然に迷彩色になってしまう。一瞬首が浮かんでいるように見えてしまったのは秘密だ。

 「あの……わたしが依頼人です……お願いしたいことがあって……」

 制服の女子はどこかおどおどした様子で視線を下に向けながら蚊の鳴くような声で言った。

 肩ぐらいまでの髪が動揺を示すようにサラサラと揺れる。

 「ああ、ごめん、大きな声を出しちゃって」

 とりあえず驚かせてしまったことを謝罪する。こういうときにすぐに謝ることができるのは僕の美点の一つだと勝手に思っている。

 半眼を解除して(しっかりと解除できたかどうかは知らない)、僕は立ち上がってから彼女のほうに体を向ける。

 …思ったよりも小さいな。

 向き合ってから分かったことだが、彼女は女性にしても小柄なほうだった。僕の学校の制服を着ているから高校生なのは間違いないだろう。しかし、ややもすれば中学生ぐらいには間違われるんじゃないのかというぐらいには小柄だった。もしかして僕と同じ高校一年生なのかもしれない。そんなことを考えた。

 立ち上がった僕を見て彼女のほうはなんだか安心したようだった。いままで下に向けていた視線を上げて、僕のほうをしっかりと見たのだった。相変わらず両手はそわそわと動きっぱなしだったが。

 「で、僕の下駄箱に手紙を入れたのは君?」

 確認。大事なことだ。これが実はなんとなくベンチの背もたれから見える上半身のさらに半身が魅力的だった、とかならば僕にも桜色の青春の予感が訪れるところだったのだが、そうはいかなかった。

 「うん。私が空木うつぎ君に手紙を出したの。あなたに解決してほしいことがあるから」

 どうやら青春物語は打ち切りになってしまったらしい。初めから期待なんてしてないけど。

 正直、夏休み以来こういったことにはなるべく関わりたくはなかったのだが、現状の僕は関わらざるを得ない状況に陥ってしまっている。ここで「君が困っていても僕にはなんの関係もないね。いじめ相談窓口は携帯から、事件なら交番に駆け込むといいよ」なんてことを言ってしまったら室長からどんな目にあわされるのか分かったものではない。おしおきだけは勘弁だ。

 それに、どうせ僕に依頼してきたってことは悩みではない。もっと奇妙で異体で突飛でけったいなことだ。

 「わかった。依頼人は君ってことでいいね」

 「はい、わたしです。解決してほしいこともわたしのことなんです。わたしの身に起こったことを何とかしてほしいんです」

 右手を握り締めて胸に当てながら上目遣いで僕を見るのは止めてほしい。そういうことをしても無駄である。僕は助手に過ぎないのだから。

 「…とりあえず、なにを解決してほしいのかを教えてくれないかな?そうしないと僕も動きようがない」

 僕の言葉に少女は何度か口をパクパクさせていたが、そのうちに決心したのかはっきりと言った。

 「わたしにかかったオオカミの呪いを解いてほしいの」


  2


 少女の名前は笠酒寄かささきミサキというらしかった。一緒に歩きながら聞いたことだ。

 僕の推測は正しく、彼女は同じ弐朔にのり高校に通う一年生ということだった。しかもクラスまで一緒だった。どれだけクラスメイトに対して関心がなかったのかということがわかってしまう。しかし、彼女の方は僕のことをある程度は知っているようだった。

 「だって、有名じゃない、奇妙な事件を解決してる変な人の変な助手って」

 とんでもない噂が流れていた。

 というかいつの間にそんなうわさが流れているのだろうか? 僕がへんてこな事件に関わり出したのは夏休みに入ってからなのだが、すでに噂になっているとは……。学生の噂の広がり方というモノは恐ろしい。

 解決しているのが変な人というのは否定しない。室長は一般社会から見たら完全に変な人だからだ。しかしなぜ表面上はごくごくありふれた一般人であるこの僕までが変人の汚名を着せられないといけないのか?

 「だって、男子でポニーテールなんでほかにいないよ」

 髪型なんてどうにでもなるじゃないか。そう反駁したかったのだが、かなりしつこく切るように言われている身としてはなかなか否定し辛かった。

 個人的な嗜好に対してあーだこーだ言うことを僕はしないことにしている。男女平等の時代だ。男が髪を伸ばしていたっていいじゃないか。そう声を大にして主張したい。

 話が逸れた。

 とにかく彼女は現在『オオカミの呪い』とやらで苦しんでいることは間違いない。それ以外はほとんどわかっていない。しかし、それでいいのだ。僕はあくまで助手、解決するのは室長の役目だ。

 てくてくと稲木公園から夜の道を歩いて十五分。僕たちは目的地に到着した。

 ハイツまねくね。二階建ての平凡なアパートである。名前以外は。

 となりで笠酒寄が本当にここでいいのか? という顔をしているのがわかる。みょうちきちんな事件に首を突っ込んでいる奇人のことだからもっとおどろおどろしい洋館にでも住んでいると思っていたのだろう。しかし、ここが室長の居城(というにはあまりにも外観は平凡だが)なのである。

 「ほら、行くぞ」

 まだ頭の上に疑問符を乗せている笠酒寄に声をかけて僕は階段を上っていく。一応は鉄筋コンクリートなのでそこまで軽い音はしないが、安っぽいのは否めない音が響く。

 二階に上がってすぐの二〇一号室。ここが僕のアルバイト先である。

 「あの……ねえ、これって……」

 笠酒寄は部屋のドアの真ん中に貼られているプレートを指さす。

 『百怪対策室びゃくかいたいさくしつ

 そこにはそう書いてあった。

 「ああ、ここで合ってるよ。ここにいる人が君を助けてくれる。間違いなくね」

 言外に含まれている「いくらなんでもこれはないんじゃない? つけた人のセンスを疑うんだけど」という疑問はあえて無視する。僕も最初はそう思ってしまったからだ。しかし、ここで帰ってしまっては彼女の悩みが解決されることはないだろう。ゆえに、僕はなんだか言いたげな顔の笠酒寄を無視してインターホンを押した。

 キン、コーンというよくある音が響く。

 二十秒ほどしてからインターホンからノイズ交じりの声が聞こえた。

 「だれだ?」

 「僕ですよ。コダマです。依頼人を連れてきました」

「本当にコダマか? 最近は私の命を狙う輩も多いからな。コダマだということを証明して見せろ」

 「なんですかそれ? っていうかインターホン越しにどうやって証明すればいいんですか?」

 「そうだな、この前やってくれた瀕死の鶏の威嚇の声をやってくれ」

 「そんなニッチすぎる芸を披露した覚えはありませんよ……」

 「ふむ、どうやら本物のコダマのようだな。入れ、鍵は開いている」

 毎度毎度こんな感じのやり取りをしていると疲れる。しかし、やらないと入れてくれないのだからしょうがない。しかも、このドアの前は室長に許可をもらわないと逃げることさえもできない空間らしいのでやらざるを得ない。まさかアパートの共用部分で遭難したなんてことにはなりたくない。

 鍵は開いているらしいのでドアノブを捻って引くとそのまま開いてくれた。

 「さ、ほら入れよ。ドアが閉まらないうちにな」

 

  3


 「こ、これって……一体どうなってるの?」

 ドアを通って一分ほど絶句していた笠酒寄の第一声がそれだった。

 まあ、当然だろう。外から見たら良くて1DKぐらいのアパートなのに中に入ってみると明らかに広すぎる玄関にいたのだから、誰だってそうだろう。初めての時には僕だってそうだった。いきなり玄関部分がちょっとした部屋ぐらいの広さがあったら驚く。日本でも玄関からこれだけ広い一般家庭っていうのはなかなかないのではないだろうか? 広いのは玄関だけではない。僕らの目の前には人十人ぐらいは横に並んで通れそうな廊下が広がっているし、その途中にはいくつもの扉が存在していた。

 一般的な日本のアパートとはとても思えない内部に驚いて笠酒寄はぽかんと口を開けたままになった。

 「あんまり気にするなよ。あとで気が向いたら室長が説明してくれるかもしれないから、とりあえず今は応接室に行こう」

 「ぇ……あ、うん」

 どことなく納得していない様子だったが、僕にはこの内部の構造を説明することができないので、速やかに助手の、というか受付窓口の役目を果たすことにする。

 室長がいるであろう応接室は一番手前の扉だ。この西洋風の内装には合っているが、日本の平凡なアパートには似つかわしくないやたらと古めかしい扉を押し開けると中にはテーブルと向かい合うようにソファが二つ。そして、ソファの片方には室長がリラックスした様子で座っていた。

 「ん、来たな。まあ、座れ」

 いたずら好きの猫を思わせる笑みを浮かべて室長は対面のソファを目で示す。その言葉と動作だけを見れば好々爺を思わせるが、座っているのは臙脂色のジャージの上に白衣という風変わりな格好をした見た目女子中学生ぐらいの金髪少女である。威厳は全くない。むしろ無理をして背伸びしているようにしか見えないうえに格好のせいで思春期をこじらせた演技にしか見えない。だが、彼女こそがこの百怪対策室の室長にしてあるじ、ヴィクトリア・L・ラングナーである。

 とりあえず言われたとおりにソファに座る。もちろん笠酒寄が座れるように端の方にである。

 そんな風に僕が気を遣っているのに笠酒寄は部屋の入り口でぽかんと口を開けて棒立ちになっていた。

 「どうしたんだよ? 室長に依頼があるんだろ。話をするんだから座ってもらわないと困るじゃないか」

 僕の呼びかけに反応して笠酒寄は室長から目を離さないままにぎくしゃくとした動作で座る。そのせいでちょっと僕との位置関係が近くなりすぎてしまったようだが、この際気にしないことにする。

 さて、と室長が呟いて足を組む。妙齢の美女がやったのならば色気のある動作なのだろうが生憎と室長がやっても背伸びしているお子様にしか見えない。

 「初めまして。私の名前はヴィクトリア・L・ラングナー。キミの体験した出来事を話してくれるかな」

 まるでおもちゃを与えられた子供のような顔で室長は言った。

 「は、はい……」

 対して笠酒寄は引きつった笑みを浮かべている。まあ、わからないでもない。いきなり自分よりも年下に見える少女に事情を話せと言われても、ハイそうですかとできるものではないだろう。僕もそうだった。が、あまり時間をかけたくもないのでここは僕が動くことにする。

 「笠酒寄、この人は間違いなく君が求めている人物だ。見た目はこじらせた中学生女子だけど、年上だ。それに君が聞いた事件を解決したのはこの人だよ、僕じゃない」

 「おいコダマ、いまの前半部分も私のことを言ったのか?」

 「それ以外のなんだと思ったんですか?」

 「上等だ。縄を用意してやるから輪っかを作って首をひっかけろ。あとは私がやってやる」

 「そんな回りくどいことしなくても僕の首ぐらいなら引きちぎれますよね? 自分でやりますよ。やるときには」

 「それが明日にならないことを祈るんだな」

 にやにやとしながら室長は用意してあった紅茶を飲む。いつものことだ。

 「で、だ。笠酒寄、事情を話してくれないか? そうしてくれないと室長も君を助けることはできない。この人はたしかに妙なことに関しては力を貸せるけど、それ以外にはあまり向いていないんだ」

 笠酒寄の目を見てそう告げると、彼女は決心したようにあの言葉を発した。

 「……私にかかったオオカミの呪いを解いてほしいんです」

 ぴくり、と室長の眉が動く。

 『オオカミの呪い』とやらに心当たりでもあったのだろうか?

 「呪い……ね。えーと、キミ名前はなんだい?」

 室長の問いに笠酒寄はあたふたと答える。そういえば笠酒寄の名前をまだ言っていなかった。

 「笠酒寄ミサキです。頭に被る笠にお酒に寄ると書いて笠酒寄。ミサキはカタカナです」

 それを聞いて室長はしばらく思案顔をしていたが、なにか閃いたのか突然立ち上がった。

 「ちょっと倉庫から取ってくるものがあるから二人ともここで待っていろ。逃げたらお仕置きな」

 そう言い残して足早に応接室を出ていってしまった。

 部屋の中には僕と笠酒寄が取り残される。

 こういうシチュエーションには慣れていない(慣れている奴がいるとしたらどんな奴なんだ?)のでどうしていいかわからずに僕は黙りこくっていた。とりあえず、室長が帰ってきたら何らかの進展はあるはずなので、それまではひたすらに沈黙に耐える作戦だった。

 「空木君はどうやってあの人と知り合ったの? っていうかなんでこんなところで助手なんてしているの?」

 こいつ! 人がせっかく余計な手間をかけないように黙っているつもりだったのにそれを台無しにするなんて、人でなしだな!

 とはいうものの、エスパーでもない笠酒寄に僕の考えを正確無比に汲んでくれというのは土台無理な話だろう。しょうがない。ここはちょっと話に付き合うことにしよう。

 「室長に知り合ったのは貼り紙を見たからだよ。ちょっと僕が困っていることがあったんだけど、その時にこの百怪対策室の張り紙を見たんだ。」

 夏休みの初めの頃だ。僕のいままでの人生の中でもとびっきりに奇妙だった出来事。その解決を依頼したのが室長との関係の始まりだった。

 「その時に解決してもらった代償というか、アフターケアサービスのために僕はここで室長の手伝いをしているんだよ」

 いうだけなら簡単だ。夏休みだけでも何度か死にかけているが、そのことには触れない。触れた場合は笠酒寄に危害が及ぶ可能性が出てくるからだ。そういうのは、好きじゃない。

 「室長さん、ううん、ラングナーさんが空木君の何かを解決してくれたっていうのはわかったんだけど、なんでそれで手伝うことなんかになっているの?」

 む、なかなか答えづらいことを聞いてくる奴だ。第一印象とは違って結構ぐいぐい来る方だったらしい。

 「言っただろ? 代償というかアフターケアだって。こうして手伝っているのにはちゃんとしたわけがあるんだよ。決して僕が室長に弱みを握られているとか、依頼料がとても払えそうになかったから助手として無給で働いているとかではないんだよ」

 「そうなの? それにしてはかなり扱いが雑だったような気がするんだけど……」

 「大体室長はあんな感じだよ。例外なのは昔の知り合いとか依頼人とかだけだよ。そして僕は室長の昔の知り合いでも依頼人でもない。今はね。だからあれでいいんだよ」

 「ふうん……そうなんだ」

 なんだか釈然としないといった様子で笠酒寄は呟く。

 なんでこんな話を僕に振ってきたのだろうか? もしかして依頼料とかについて心配だったとかだろうか? まあ、その辺、室長はふんだくれる人間からはふんだくるが、払えない奴についてはそれなりの代償しか求めないので安心だろう。世の中は平等ではないというのが室長のモットーだ。

 しかし、僕にも気になることがあるといえばある。

 「なあ、笠酒寄。君の言っている『オオカミの呪い』っていうのは一体何なんだ? 僕にはさっぱりだ」

 そう、笠酒寄は百怪対策室にくる道中にもその内容に関しては言及しなかった。

 呪い。

 現代社会においてはそんなことを言おうものならば一笑に付されるような単語である。しかし、僕は知っている。が存在しているということを。

 室長と関わってから、僕は眉唾物の現象に、物品に、存在に出会ってきた。もはや笑えないレベルではあるのだけど、笠酒寄がそういったモノで困っているというのならば力になってやりたいと思うぐらいの甲斐性は持っているつもりだ。それが一体どんなものなのかは知らないが、室長はすでに何らかの心当たりがあるようだったし、早いところ安心させてやりたい。わからないということがどれだけ不安なのかを僕は知っているのだ。

 「う、うん……わたしも実はよくわかっていないんだけど、夏休みに入ってから始まったの。初めは気のせいだと思っていたんだけど、だんだんはっきりしてきて……誰にも相談できなかったんだけど、そんなときに空木君の噂を聞いたから……」

 どうも、呪いとはいっても笠酒寄自身も確信はないようだった。当然だろう。もしこれがなんらかの魔術に関しての事態だったとしたら知識のない笠酒寄に対処のしようはない。専門家を頼るしかないのだが、そうそう魔術の専門家というものは存在しておらず、その上に表社会には登場しない。笠酒寄が僕のことを知ったのは幸運だったというべきなのかもしれない。

「空木君はなんだかすごい事件を解決したって聞いたし、その他にも最近起こった変な事件には空木君が関わっているっていう噂も聞いていたし、だからわたしのこともどうにかできるかもって考えたの」

 あんまり頼りにされても困る。あくまでも僕は助手であり、受付窓口みたいなものなのだ。多少の戦闘能力はあるかもしれないが、室長にはあらゆる分野でかなわない。僕よりも室長のほうが頼りになるのだ。なぜか、僕のことばかりがピックアップされているけれども。

 「ねえ、空木君。空木君はわたしの呪いも消してくれるよね?」

 「……僕じゃない。その役目は僕じゃない。だけど、室長がきっとどうにかしてくれるよ」

 かなり近い距離で上目遣いに問われたので内心はどきどきモノだったのだが、どうにか態度には出なかったと思う。

 クールな人格を気取りたいお年頃なのだ。

 それにしても、室長遅いな。そろそろ一体何を取りに行っているんだろうか? 僕の方から探しに行った方がいいのだろうか?

 目のやり場に困ってドアの方を見ると室長がにやにやと笑いながら立っていた。

 「お楽しみのところを邪魔してしまったか?」

 そう言ってまるで三日月のようになっている口をさらにこっちの神経を逆なでするように変形させてくる。室長じゃなかったらぶん殴っている顔だ。

 「戻ってきてたんなら言ってくださいよ。もう少しで探しに行くところだったんですよ」

 イラっと来たのでやや窘める(たしなめる)ような口調になってしまったが、それでも室長はにやにや顔を辞めない。

 「いやあ、男女の青春グラフィティを邪魔してしまっては悪いと思って空気を読んだんだよ。大事だろう? そういう技能は」

 「?」

 その言葉で僕は現在の状況を分析開始。

 他に誰もいない(と思っていた)部屋の中でクラスメイトの女子と同じソファに座り、なんだかその女子から上目遣いで見られている。しかもなんだか女子は身を乗り出している。ちなみに時刻は午後七時四十五分。

 「笠酒寄、ちょっと離れてくれないか?」

 「え? なんで?」

 「あらぬ誤解を生んでしまうからだよ!」


  4


 「さて、笠酒寄クン。キミのいう『オオカミの呪い』については心当たりがある」

 数分後、僕と笠酒寄は再び室長と対面して座っていた。

 なぜ数分後なのかというと、なぜか笠酒寄がほんの少し位置をずらすということをやってくれなかったからである。なぜだ。

 とにかく、少しはにやにやが薄れた顔の室長が余裕たっぷりにそう宣言して白衣のポケットからあるものを取り出した。

 石……だろう。

 黒っぽくて、ごつごつしていて、冷たい質感の石。見た目からは何らかの特殊な物体という印象はなく、その辺に転がっていそうだ。

 室長の白い肌に対してその黒っぽい石はなんとも対照的だったが、そんなことには意味はないだろう。重要なのはこれが一体何のためにここに持ってこられたのか、ということだ。

 「世の中の奇妙なことには必ず原因がある。キミの『オオカミの呪い』とやらも例外ではない。そしてこの石はとある可能性を検証することができる。まあ、試金石みたいなものだと思ってくれ」

 笠酒寄の方を見ながらそういうと室長は石を持った手を笠酒寄のほうに伸ばす。

 「笠酒寄クン、持ってみてくれ」

 「あ、はい」

 石が室長の手から滑り落ちて、笠酒寄の手に収まった瞬間だった。

 笠酒寄の腕が毛むくじゃらの、まるで獣のような腕に変化したのだった。

 「な⁉」

 僕は辛うじてそんな声を発することができたのだが、笠酒寄に至っては絶句してしまっている。室長は当然だといわんばかりの表情をしていた。

 「これではっきりしたな。笠酒寄クン、キミを悩ませているモノの正体、それは君自身の血だ」

 血? 血液? いや、この場合は多分、遺伝子とか先祖とかそういった意味での血だ。受け継がれてきたものだ。だが、そんなことが見た目は普通の人間である笠酒寄に関係あるというのだろうか?

 そしてこれは当然のように、室長の分野、怪なるモノの領域だ。

 「どれ、返してくれ。このまま接触しておくのはまずい」

 そう言って室長は笠酒寄の手から石を取り上げる。

 するとゆっくりと溶けるように一瞬で変質した笠酒寄の腕は元の人間の腕に戻っていった。

 「……いや、なんなんですか、これ。わけがわからないですよ」

 常識なんてものはかなりぶっ壊されているつもりだったのだが、それでもここまでのモノは動揺する。こんなのは想定外だ。

 「うん? ああ、これはいま笠酒寄クンに起こっていることだ。単純にそれを人為的に発現させたというだけのことだ」

 石をポケットにしまいながら室長はなんでもないように言う。

 これが笠酒寄に起こっていること? どういうことだ? これが『オオカミの呪い』なのか? 

 頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、該当する項目が出てこない。

 一体、笠酒寄には何が起こっているというのだろうか?

 「どうだい? 笠酒寄クン。『これ』がキミの悩みなんだろう?」

 至極落ち着いた声音で室長は笠酒寄に問いかける。

 笠酒寄はしばらく沈黙していたのだが、やがて観念したかのように口を開いた。

 「……はい。『これ』が毎日起こっているんです。初めは指先だけだったんですけど、だんだん腕まで広がってきて、今は両腕まで広がっています。もう、私どうしたらいいのかわからなくて……」

 最後のほうは消え入りそうな声になって笠酒寄はうつむいてしまった。

 肩が震えているのが僕にもわかる。

 きっと怖かったのだろう。

 誰にも相談できなかったのだろう。

 まだ高校一年生の女子に降りかかる災難としては大きすぎる気がする。

 潰されそうになりながら、僕という希望に縋ったのだろう。

 だから僕はこの少女を助けてあげたいと思った。

 「室長、笠酒寄の呪いを解くことは可能なんですか?」

 「無理だ。そもそも呪いじゃないんだからな」

 ばっさりと室長は否定した。笠酒寄が目を赤く腫らした顔を思わず上げる。

 「そんな⁉ それじゃあ笠酒寄は一生こんなことに悩んでいかないといけないんですか⁉」

 あまりにも無慈悲に思える室長の回答につい語気を荒げて食い下がる。希望を与えておいて、それをいきなり目の前で消すなんてことはあまりにも残酷だ。

 「あのなあ、コダマ。人狼っていうのは種族なんだ。呪いとかじゃない。人狼をやめるなんてことは人間に対して『人間をやめろ』っていうようなもんだ」

 人狼? オオカミ? それが笠酒寄の『呪い』の正体だろうか? 聞いたことがある気がする。

 「……なんなんですか、人狼って。それが笠酒寄にどうかかわってくるっていうんですか?」

 自然と責めるような口調になってしまった。これは後でおしおき確定かもしれない、と僕の中のまだ冷静だった部分が告げた。

 「そうだな。そこからだな。コダマや笠酒寄クンには人狼というものの説明から入らないとまずかったな。スマンスマン」

 全然心がこもっていない謝罪をしながら、室長はいつもの動作を行う。

白衣のポケットに入れていたシガレットケースからリトルシガーを一本取り出して、咥える。

 逆のポケットから精緻な細工が施されたライターを取り出して、火を点ける。

 火打ち石が擦れる音がしてオレンジ色の炎が灯る。

 そのまま咥えていたリトルシガーの先端を炙り、火が移るとライターの火を消し、優雅な動作で元のポケットにしまう。

 一連の動作の後に、ぽう、と煙を吐き出して室長は、さて、という宙に視線を移した。

 「始まりはかなり昔になる。人間という種、まあ学術的にいうならばホモ・サピエンスだな。これとは近くて別の種が存在していた。彼らは見た目には人間と変わりなかったんだが、一つの特徴があった。獣の因子を取り込んでおり、それゆえに獣と人間の中間にあたるような姿に変身する能力を有していた。彼らはいろんな呼ばれ方をしていたんだが、特に知られているのが狼への変身能力を有している種族だったため、彼らは人狼と呼ばれるんだ」

 他にもライカンスロープとかワーウルフとかだな。

 室長はそんなことも付け加えたのだが、はっきり言って僕は聞いていなかった。

 別の種族。

 人間じゃない。

 見た目は人間だけど、ヒトとは違う生き物。

 そう室長はいった。

 「だけど、笠酒寄はどうみても人間ですよ? 人間の女の子です!」

 「まあ、推測になるんだが、笠酒寄クンのご先祖様に人狼がいたんだろうな。遺伝子的には人間だろう。しかし、人狼の末裔であることには変わりない。先祖返りみたいなものだろうな」

 そんなことでこんなに苦しまないといけないのだろうか? たまたま先祖に特殊な要素があったということだけで、押しつぶされそうになりながら藁にも縋る思いで誰かを頼らないといけないのだろうか? そんなのってあんまりじゃないか。

 ぐるぐるとそんな考えが僕の頭の中を支配する。

 僕も、もう普通の人間とは言えない。しかし、それでもどうにか人間らしい生活を送って、それなりに楽しみもあるというのに、笠酒寄には一生この人狼という要素に悩んでいかなくてはならないのだろうか? いつだって自らの中にある人狼という名の暗い影におびえないといけないのだろうか? あまりにも理不尽じゃないか!

 もし神様なんていうモノが存在しているんだとしたら、そいつはきっととんでもないサディストで不平等主義者だ。もしいま僕の目の前に現れたのならば、きついパンチをお見舞いしてやったうえで室長直伝のお仕置きを食らわせ続けて自分の行状を心から悔いるまで責め立ててやる!

 「……というわけで、これを使って笠酒寄クンの悩みを解決してあげよう」

 「……は?」

 どうも僕は一人で遠い世界に飛んで行ってしまっていたらしい。戻ってきたときにはなんだかすごく軽い感じで室長がすごいことを言っていた。

 「なんですかそれ! さっき人狼は種族だからやめることなんてできないって言ってたじゃないですか!」

 思わず身を乗り出して叫んでいた。

 というかいつの間にか笠酒寄のほうもなんだか明るい顔をしている。

 どんだけ僕は自分の世界に浸っていたのだろうか? 完全に間抜けだ。

 「なんだコダマ、聞いていなかったのか? どうせ勝手に笠酒寄クンを悲劇のヒロインにでも仕立て上げて現実逃避でもしていたんだろう?」

 図星だ。

 しかし、ここでそれを悟らせてはいけない。あとでどんないじり方をされるのか分かったものじゃないからだ。

 「そ、そんなことよりもどうやって笠酒寄の人狼を解決しようっていうんですか? もしかして僕と同じ方法をとる気じゃないですよね?」

「そんなことするか。キミの場合は例外中の例外だ。今回はこれを使う」

 そう言って室長は僕の鼻先に一つの指輪を突きつける。

 「指輪……ですか?」

 僕のその疑問に室長はふふんと鼻を鳴らして答える。

 「そうだ。名づけるなら『服従の指輪』とでも言うべき代物だな。まあ、間違いなく呪いのアイテムに分類されるだろうな」

 服従。なんだかとても嫌な響きだ。しかも呪いときたものだ。

 「それで、その指輪がどう解決してくれるんですか?」

 嫌な予感を覚えた僕は室長に質問する。この手のアイテムに関してはろくな思い出がない。夏休みは僕じゃなかったら死んでいたような事態になったこともある。もし、そんな危険な代物だったとしたら、笠酒寄に対して使わせるわけにはいかない。

 「まさか毒を以て毒を制す、の精神で呪いには呪いをとか思っているんじゃないですよね?」

 「そのまさかだ。正確に言うと人狼は呪いではないのだが呪いのアイテムで人狼という悩みを解決しようというのは正解だ」

 本気で言っているのだろうかこの人は。

 ただでさえ危うい状態の笠酒寄にこれ以上負担をかけるとか正気の沙汰ではない。ここは僕が男らしく静止すべきだろう。

 「そ……」

 「お願いします! 室長さん。わたしにできることなら何でもします!」

 んなことできるわけないじゃないですか! という僕の言葉は笠酒寄に遮られてしまった。

 「ちょっと待て、笠酒寄。いいか? 室長が持ち出すようなアイテムっていうのはとんでもないモノばっかりなんだよ。お前、どうなってもいいのかよ?」

 忠告のつもりだった。しかし、笠酒寄は予想もしていなかった言葉を放ってきた。

 「大丈夫だよ。私は頑張れる。っていうか頑張るのは空木君だし」

 は?


 5


 服従の指輪。

 製作者は『つまらんことしいのナブレズ・オズガ』。

 見た目は普通の金属製の指輪だが、魔力を付与されたいわゆるマジック・アイテムである。

 効果は指輪をはめられた者が、はめた者の命令に対して一つだけ絶対に服従してしまうというもの。

 これだけならば、本来は統一魔術研究機関においてしかるべき方法で保管されなくてはならない危険なアイテムではあるが、この効果が発動するためにはある条件がある。

 全力で戦って相手を負かして、その上で指輪をはめる、という条件である。

 この『全力で』という部分が曲者で、これは殺意を持って、かつ全力で向かってくるという意味合いになってくるらしい。

 つまりは殺す気満々の相手を殺さない程度にぼこぼこにして、一つだけ命令に従わせることができるというアイテムなのである。

 そもそも、殺す気で向かってくるような相手に対して殺さないようにぼこぼこにできる時点で絶対的な実力差があるわけだし、そんな相手にたった一つしか命令を下せないというのは労力に合わない。

 さらに言うなら、殺意を持って向かってくるような相手を命令だけして放っておくということはかなり危険だ。どんな方法で寝首をかかれるのか分かったものではない。

 明らかに格下である上に、敵対しているような奴に対してしか効果がないのだ。

 そんなわけで、このアイテムは魔力こそ本物ではあるが、これを使うぐらいなら普通に脅した方が効率的である、という判断を下され室長に二束三文で買われてしまったらしい。

 製作者にとってはなんとも不本意な結果なのではないだろうか?

 だが、今回はこれが笠酒寄の人狼に対して有効なのだ。

 この効果を用いて笠酒寄の人狼の能力の暴走状態を制御しようというのが室長の考えたプランらしい。僕は聞いていなかったので笠酒寄からの又聞きだ(結局室長は教えてくれなかった)。

 しかし、一つ問題がある。

 なぜ僕なのか?

 普通に考えたらこういったことのプロである室長が相手をするのが道理ではないのだろうか?

 しかし、そこは天下のヴィクトリア・L・ラングナー。きちんと考えはあったのだ。

 「人狼なんかと思いっきりバトルやって誰かに目撃でもされてしまったらどうする?」

 言われたのはそれだけだ。しかし、僕には理解できた。

 今回は室長が隠蔽工作というか、裏方にまわらざるを得ないのだ。

 正体不明の化け物が暴れまわっていたという噂が立ってしまったらそれ自体が新たな怪を生みかねない。室長にとっては飯のタネだが、同時に悩ましい事態でもあるのだ。

 僕としてもこの町が魑魅魍魎の溢れるカオスのるつぼと化してしまうのは避けたい。

 ゆえに今回の件では僕が笠酒寄をぶちのめすという役割を負うのが正着手になってしまうのだ。

 そういうことで一度は納得した。納得はしたものの……。

 「僕が目指しているのは平穏な生活のはずなのになぜかどんどん離れていってしまっている気がする。いいのか、これで?」

 いまだに僕は自問自答している。

 ちなみに今は百怪対策室の中ではない。笠酒寄を家に送っていく途中だ。

 「きっと空木君はバトルの女神様に気に入られているんだよ」

 なぜかちょっと嬉しそうに笠酒寄が横から言ってくる。

 「そんな血生臭い神様に気に入られたくはないな。どっちかというと僕は平穏無事に一生安泰に暮らしていけるような神様に気に入られたい」

 やけに尾をひくため息を吐きながら猫背気味になって歩いているのは非常に胡散臭く感じられるだろうが今の僕にはそのあたりを配慮している余裕はなかった。精神的に。

 「大体、なんで僕が笠酒寄を送っていかないといけないんだよ。小学生じゃないんだからおうちに帰るぐらいは一人でやってくれよ」

 「あー、ひどい。だって室長さんがこんな時間の女の子の一人歩きは危ないからって言うからこうなったんじゃない」

 「それもそうだな……」

 正直、僕の周りの存在というものはどいつもこいつも襲われても簡単に撃退してしまうような奴らばかりなのでその考えはなかった。

 特に最近は室長がらみの人物たちのせいで年齢とか性別とかいうものはまったく当てにならないということが身に染みている。

 経験というやつは役にも立つが、時には思い込みにもなってしまうらしい。

 「そういえば、なんで空木君は百怪対策室で働いているの?」

 唐突にそんな質問が笠酒寄から飛んできた。

 「別にどうでもいいことだろ」

 「ううん、気になっちゃうよ。だって空木君は普通の高校一年生じゃないの?」

 まあ、確かに普通の高校一年生はあんな怪しげな場所で働かないだろう。ファミレスとかコンビニぐらいか? しかし、僕には事情があるのだ。

 「僕は普通の高校生じゃない。君と同じでまっとうな人間じゃないんだよ」

 「そうなの? じゃあ、空木君も魔術師なの?」

 室長が魔術師ということを一体いつ聞いたのだろうか? 女子の情報伝達速度は凄まじいものだ。

 「ちがう。僕は魔術師じゃない。室長曰く、才能ゼロだってさ」

 「じゃあ、実は伝説の勇者の家系の末裔ですごい剣術の才能を秘めているとか?」

 想像の方向性が中学生男子みたいになってしまっているが、この際気にしないことにする。

 「違う違う。そんなファンタジックな方向……ではあるか、多少は」

 「どういうこと?」

 わからない、というオーラを発しながらこっちを見るのは止めてほしい。

 とはいうものの、たしかに僕は笠酒寄の言っていることを否定しているだけでなにも説明はしていない。

 「あー、そうだなー。見てもらうのが一番わかりやすいか」

 とりあえず運動能力を示すのは見られる可能性があるのでこっちにするか。

 僕は右手の親指の腹を思いっきり噛んで破る。

 軽くやるつもりだったのだが、思いのほか深かったらしくかなり出血する。

 「う、空木君?」

 「騒がずに見てろって」

 ベルトを通してあるポーチから取り出していたポケットティッシュで慌てずに血をふき取る。

 すると僕の親指は拭き残しの血の跡があるだけで、傷なんてまったくない状態になっていた。

 「事情があって、半分ぐらいは吸血鬼なんだよ。だから再生能力とか、運動能力とかが人間とは比べ物にならない。日光を浴びるとかゆくなっちまうけどね」

 唖然としている笠酒寄に説明してやる。

 「……いるんだね。吸血鬼って。なんかファンタジー」

 「魔術師の吸血鬼もいるけどな」

 しかもヘビースモーカーで悪戯好きで性格が悪くて無駄に偉そうな。

 そんなどうでもいい話をしながら十五分ほど歩いたころだった。

 突然、笠酒寄が歩みを止めた。

 「なんだよ? 突然地面から瞬間接着剤でも湧いてきたのか?」

 「違うよ。ここだよ。私の家。っていうか瞬間接着剤が湧いてくるって。それって立派な『怪』になるんじゃない?」

 それもそうだな、なんてことを思いながら笠酒寄の立っている右側を見るとそこそこ立派な一軒家が建っていた。

 どうやら割とお嬢様であらせられるようだ。

「んじゃ、またあとでな」

 お役御免となった僕はとっとと家路につくことにする。

 とはいっても数時間後には出ることになるのだが。

 一旦は家に戻ってアリバイを作っておかなくてはならない。

 ただでさえ最近は百怪対策室関係で家にいないので親に小言を言われることが増えているのだ。こっそりと抜け出すぐらいの小細工は弄しておいた方がいいだろう。主に家庭内の立場的に。

 「うん。きっと私をぼこぼこにしてね」

 笑顔で言わないでほしい。っていうか人が聞いているかもしれないのにそういう発言は控えてほしい。お前の両親とかに今のセリフ聞かれたら僕はかなり厄介なことになると思うんだが。

 だけど、その笑顔は百怪対策室に行く前の顔に比べたら僕は好きだ。

 



 深夜。午前二時十五分前。

 草木も寝静まる丑三つ時。

 二階の僕の部屋の窓から飛び降りて、家からの脱出に成功した。

 無駄に回転を入れてしまったのは深夜ゆえの変なテンションのせいだろう。

 ともあれ、向かう先は笠酒寄と待ち合わせていたあの稲木公園だ。




 午前二時五分前。

 約束の時間には五分速いが、すでに入り口には室長がいた。

 「珍しいな、コダマ。時間通りに来るなんて。これは明日あたりにグングニルが降るな」

 「人を勝手に遅刻魔みたいに言うのは止めてくれますか。っていうかさらっと無茶苦茶なものを降らせないでください」

 人類をどうしたいんだこの人は。

 深夜、ということもあるのだろうが稲木公園は静まり返っている。その上に人影もまったく見当たらない。まあ、いても困るが。

 「笠酒寄はまだみたいですね」

 室長の姿しか見えないので確認をとってみる。

 「ん? 笠酒寄クンならもう中だ。いまごろ準備万端でキミを待っているだろうな」

 「はい? どういうことですか?」

 何をするのか、ということに関しては結局、稲木公園で午前二時に笠酒寄をぼこぼこにする、ということしか僕は知らないのでなぜ先に笠酒寄が中にいるのかわからない。

 「どういうことって、完全に人狼化した状態じゃないと笠酒寄クンの全力が発揮できないだろうが」

 「そんなに人狼化って時間がかかるんですか?」

 「本来はそうでもないんだが、今日は条件がそろってないからな。無理やりに完全変身をするのには時間がかかるんだ」

 「じゃあ、もしかしてけっこう室長はここで待ってたんですか?」

 「そうだな。結界を張る準備も含めるとざっと四時間ぐらいか」

 どうやら、室長は室長なりに今回の件に関して骨を折ってくれているようだ。

 室長の専門は付与系列の魔術だということだったし、結界は得意じゃないというようなことも前に聞いたことがある。

 それでもやってくれたのだ。

 だったら、僕もやることはやらなくちゃならないだろう。

 「室長、張ってくれた結界はどのくらいまで大丈夫なんですか?」

 室長はふふんと鼻をならして答えた。

 「安心しろ。ここで私が維持している限りは、中に誰も入れないし出られない。音すらも行き来できない強力なのを張ったからな」

 「それ、僕が入れなくないですか?」

 「だからキミは午前二時に来いと言ったんだ。結界が安定している今なら人ひとりが通るぶんの隙間ぐらいは作れる」

 なるほど。単にたまには外で思いっきりタバコが喫いたいとかいう理由だけではなかったようだ。だが、野外用の灰皿まで持ってきているのはどうかと思う。野外の喫煙所とかにあるやつだろう、あれは。気にするだけ負けかもしれないが。

 「ありがとうございます、室長。頑張って人狼を解決してきますよ」

 「指輪はきちんと持ったか?」

 「持ちました」

 指輪はいま僕の左手の中指にはまっている。

 「あきらめない根性と熱いソウルはどうだ?」

 「……必須じゃないですよね? ソレ」

 「必須じゃないが、あると便利だ」

 「努力します」

 いつもの軽口も、今だけは緊張をほぐすために行ってくれるように感じる。

 午前二時三十秒前。

 「室長」

 「なんだ?」

 「僕は笠酒寄に勝てますか?」

 結局のところ、僕はこれが不安だったのだろう。

 人狼化した笠酒寄に僕が負けたら、計画はおじゃんだ。成功か失敗かは僕にすべてかかっている。そんな責任を負うようなことは苦手なのだ。

 「ふん、所詮は人狼。キミが本気をだしたら楽勝だ」

 小馬鹿にしたような言い方だったが、その一言に僕はなによりも頼もしさを感じた。

 「二時だ。行ってこい」

 室長が軽く指を振ると公園の入り口のあたりの空間がほんのわずかに揺らいだ。

 それを確認して僕は稲木公園に足を踏み入れた。


 6


 前にこの公園に来てから数時間しか経っていないということが信じられない。

 いま、ここには猛烈な殺気が満ちている。

 どうやら室長の張った結界は中の音だけではなくて外の音も遮断してしまうものだったらしい。

 虫の声も、人間の生活音も、ない。

 厳密にいえば、少しは虫の鳴く声はするのだが、結界内部の虫たちはどうやらこの充満する殺気に鳴りを潜めているようだった。

 迷うことなく僕は中心に歩いていく。

 どうせ戦うことになるのならば開けていたほうがいい。

 それに、明らかにこの空気の発信源はそこだ。

 吸血鬼の視力は夜でも昼間と対して変わらずに視える。

 だから、僕が笠酒寄を見つけるのには時間はかからなかった。

 というよりもそれはもう笠酒寄ではなかったが。

 灰銀の毛に全身を覆われたそれは人間の体に似てはいたが、シルエットが違っていた。

 ……明らかに体格が変わっている。

 笠酒寄は僕よりも頭一つ分ちかくは背が低かったはずだ。目測でしかないが、それが今や僕が見上げないといけないぐらいにはなっている。二メートル近いだろう。

 自分よりも巨大な存在を相手にすることは生物的な本能で避けたいところなのだろうが、そうはいかない。とっととこいつをぼこぼこにして笠酒寄を開放してやらないといけない。

 僕は笠酒寄に頼まれたのだ。理由はそれでいい。

 深呼吸を一つ。

 それに反応したのか人狼の耳がピクリと動いた。

 ぐるり、とこちらを向く。

 どう猛さをこれ以上ないぐらいに表現した瞳が僕をとらえる。ぬらりと唾液に濡れた牙は獲物を待ち構えていたのだろう。その呼気はこっちまで生臭いにおいが漂ってきそうだった。

 狼の顔を無理やり乗せたとびきり野蛮な大男。僕が抱いたのはそんな印象だ。

 ひ弱そうで、不安がっていた笠酒寄の面影はない。

 よかった。

 遠慮なくズタボロにできる。

 「さっさと終わらせて帰らせてもらうぞ。笠酒寄」

 やや大きめの声での宣言。

 聞こえたのか聞こえてなかったのかはわからないが、人狼は咆哮した。

「■■■■■■■■■■■■■■‼」

 同時に砂煙が上がり、人狼の姿が掻き消える。

 いや、消えたんじゃない。

 すさまじい速さで動き出したのだ。

 ぎりぎりで、それなりには吸血鬼の僕の視力はそれを捉えた。

 ガードの体勢を取ると同時に右からの衝撃。

 「がッ⁉」

 それなりに予想はしていたつもりだった。

 しかし、まさかガードしていても宙を舞う羽目になるほどの威力だとは思っていなかった。

 そのまま吹っ飛ばされて僕は街灯にたたきつけられ、地面に這いつくばる。

 背中から打ち付けられたのが幸いだった。これが頭からだったらしばらくは動けなかっただろう。それでもダメージはあるが。

 というか、防御した右腕もどうやら折れていたらしい。めちゃくちゃかゆくて熱を帯びている。

 それも数秒で消える。修復完了だ。

 「!」

 すさまじく嫌な予感を覚えて地面を転がる。

 ドゴン、という音とともに地面が揺れた。

 回転を利用して立ち上がると拳を大地に突き刺した人狼がいた。

 (ったく、でたらめな速さだ)

 アレを食らっていたら流石に死んでいたかもしれない。どこが楽勝なんだ。

 ぐるるるる、と唸りながら腕を引き抜こうとしているが、そうはいかない。

 攻めるなら今だ!

 僕は駆ける。

 人狼ほどではないけれど、人間には不可能なスピードで。

 そのままの勢いで顔面にパンチを食らわせてやるつもりだったのだが、直前になって開けられた口を見て中止。

 あれに食いつかれたら腕を持っていかれそうだ。

 腕全部を再生するのには時間がかかる。その間にラッシュをかけられたら終了だ。

 体を無理やり捻る。

 攻撃部分を首から下に変更。

 後ろ回し蹴りもどきを放つ。

 手応え(足応えか?)はあった。

 しかし、足を掴まれる。

 「■■■■‼!」

 これまでの人生でもこんなに滞空時間が長いのは初めてだった。

 僕の体重は六十キロ以上あるのだが、そんなことはどうでもいいといわんばかりの無造作な投げ方だった。

 今度はなにもないところに着地、というか落下する。

 受け身は取れたのでそれほどのダメージもない。

 まずい。こっちの攻撃を食らわせることはできるが、その前にぶち殺される可能性のほうが大きい。

 速度は圧倒的に向こうの方が上。しかし、こっちには回復能力があるからといって、消耗戦を仕掛けてなにかの拍子に頭を砕かれでもしたらそこから回復できる保証はない。流石に頭を砕かれたことはない。となると―――

 「うぉッ!」

 とっさに身をかがめた。

 その上を風を切りながら剛腕が通過する。通過なんて生やさしいものじゃなかったが、そんなことを考えている状況ではない。

 距離をとる? いや、またあの速度の餌食だ。このまま接近戦でどうにかするしかないだろう。

 そう考えてとっさに選択したのは足払いだった。

 地面を削るように脚を伸ばして円を描く。

 どすり、と重い感触がした。

 チャンス! 今しかない!

 倒れている人狼に馬乗りになる。ラッキーなことに相手はうつ伏せになっていてくれた。これで牙を警戒する必要はない。

 「おおおおおぉぉぉぉお!」

 連打。

 身体能力をフル活用してのありったけの打撃を叩き込む。

 腰の入っていないパンチでもこれだけの数を後頭部に食らったらただでは済まないだろう。

 普通の人間だったら死んでいても不思議じゃない。だが、ここで普通の人間基準で考えるのは間違っている。相手は人狼なのだ。

 全力で打ち込んで、呼吸のために手が停まった一瞬だった。

 僕は再び空に投げだされていた。しかもこんどはきりもみ回転をしながら。

 どうやら上半身のバネだけで僕ぐらいならば吹っ飛ばせるらしい。呆れるほどのスペックだ。

 本日三度目の墜落。

 今度も幸運なことに頭からではなかったので即座に体勢を立て直す。

 距離をとれば奇襲、組み付いても引きはがされる。となると、一撃で動きを止めるしかない。

 僕は走り出す。

 『あれ』を目指して。

 ほどなくして見つかった『それ』を背にして僕は叫ぶ。

 「来いよ、この犬モドキ! 鎖でつないで目の前でビーフジャーキーを食ってやるからな!」

 理解しているのかどうかはわからないが、どこからか咆哮が響く。

 公園内には飛び道具になりそうなものはなかった。つまり、やつは直接攻撃しかない。だからこそ、有効な手段だ。

 静寂。

 狙っているのだろう。

 捕食する動物はまず観察する。そして、獲物の隙をついて仕留めるのだ。

 だからこそ、わざとそれを誘う。

 誘って、刺す。

 ちらりと視線を横に向けた瞬間だった。

 瞬間移動でもしたかのように奴が目の前にいた。

 掠めただけで肉を抉られそうな剛腕が振るわれる。

 しかし、それが僕の狙いだ。

 紙一重でしゃがんで回避すると、伸びきった腕に突き上げるような掌底を放つ。

 ごぎり、と嫌な感触が伝わる。

 普通にやっただけではここまでの結果は生まれなかっただろう。しかし、今僕の後ろにはあるものが存在していた。

 ジャングルジム。

 その隙間に入り込んだ腕に下からの力を加えたらどうなるか?

 しかもそれは普通の人間の何倍もの力だ。

 当然、関節ぐらいは破壊される。人狼のそれも例外ではなかった。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■ー‼」

 間違いなく、それは悲鳴だった。

 痛覚はあったらしい。まあ、なくても腕は使えなくなるだろうが。

 生憎と容赦している余裕はない。

 痛みでのけぞった人狼の右ひざに踏み抜く要領で蹴りを放つ。

 ばぎり、という生々しい音とともに膝の皿が砕けたようだった。

 体重を支え切れなくなったのか、膝が落ちそうになるところをもう片方の膝にも同じ攻撃を加える。

 先ほどと同じような音と感触。

 涎をまき散らしながら巨体が倒れる。右腕、両膝破壊。人体に近い構造をしているだろうから、これでまともに動くこともできないだろう。

 言葉にならない声で喚き散らす人狼の四肢のうち唯一の折れていない部位、つまりは左腕を踏みつける。すさまじい殺気がぶつけられるのだが、知ったことではない。

 これだけやれば十分だろう。

 「わかったろ? 僕の方が上だって」

 大分手こずらせられたが、この状況に持っていったら確定だろう。

 「手間かけさせるんじゃない。後でこの借りは返してもらうからな」

 笠酒寄に人狼の間の記憶があるかどうかはわからないが、とりあえず言っておく。

 いよいよ大詰めだ。

 左手にはまっている指輪を外す。

 あとはこれを嵌めさせて『命令』すれば完了だ。

 迅速に任務を遂行するためにかがんだ瞬間だった。

 人狼がわらった気がした。

 同時に僕の腹に獣の右腕が突き刺さった。


 7


 「がっ……は……っ」

 ごぼり、と喉奥から鉄さびの味がする熱い塊があふれ出す。

 貫手のような状態で刺さっていた手が抉るような形に変わり、重く、鈍い痛みが強まる。

 関節を折ってやったはずの右腕は全く問題なく動いているようだった。

 再生能力。

 僕が持っているのだから、こいつが持っていても不思議ではない。

 流石に一瞬で治るとまではいかないものの、すさまじい再生速度ではある。

 内蔵は痛点があまり存在しないということを聞いたことがあるが、痛いものは痛い。正直、気絶したいぐらいだ。

 再生能力があるとはいえ、突き刺さっている部分は再生しない。融合して再生しだしたらそれこそホラーだ。

 ぐるぐると頭の中が回転する。

 考えがまとまらない。

 この負傷はまずい。腕を抜かないと再生もできない。いまも上ってくる血液で呼吸困難に陥りかけている。

 そんな僕を嗤いながら人狼は立ち上がる。僕の腹に腕をぶっ刺したまま。

 足が浮く。

 宙づりになってやっと頭の位置が同じぐらいになる。

 ぐるるるる、と嬉しそうに唸りながら人狼が僕の頭のほうに空いている右手を伸ばす。

 僕の頭を握りつぶすつもりだろう。

 流石にそれをやられたら生きている確信はない。室長はどうだか知らないが。

 死ぬわけにはいかない。まだ僕は死ねない。まだまだやりたいことは沢山あるし、ここで僕を殺してしまったら、たとえ人狼が解決しても笠酒寄は僕を殺したという業を背負っていくことになっていく。

 人にそんな重いものを負わせるのはごめんだ。

 だから僕は手段を選ぶのをやめることにした。

 僕の頭に伸ばされていた右腕の動きが停止する。

 不思議そうに自分の腕を見る人狼の動きは無視する。

 まるでリンゴを握ろうとするように開かれていた指が手の甲のほうに反っていき、やがてぱきりという軽い音を立てて折れる。

 「■■■!」

 驚きなのか、恐怖なのかはわからないが人狼が声を上げた。

 指が使い物にならなくなった右腕が今度はあらぬ方向に曲がる。前腕が、上腕が、ぼきぼきと音を立てて変形する。最終的に肩を外したのでだらりと脱力する。

 視線を腹に突き刺さっている左腕に移す。

 今度はいっぺんに曲げる。

 あっけなく僕には見えない、刺さっている部分以外がぼきぼきと音を立てて変形する。

 人狼の左腕から力が抜けて僕の足が地面に着く。

 動くだけで鈍い痛みが走るが、歯を食いしばって腹から人狼の手を引っこ抜く。内蔵が多少引きずりだされたようだが無理やり突っ込んで戻す。どうせそのうちに再生する。ついでに左の指も全部折っておく。少しの間ぐらいは時間稼ぎになるだろう。

 「■■■■■■‼」

 大口を開けて噛みついてくるが、喉元を掴んで制する。

 気道を握りつぶすようにしておいて両脚のほうにかかる。

 右足、左足。どちらも瞬時に複雑骨折を起こす。

 人狼が再び倒れる。

 さっきはなかった怯えの色が顔に現れていた。

 腹の穴がふさがるまで多少は時間がかかりそうなのでそのまま見下ろして四肢を折り続ける。

 一切、僕は触れていない。

 これは僕の能力だ。

 触れることなく物体に干渉する能力。

 室長曰く、サイコキネシスらしい。

 干渉する対象を目視する必要があるが、視線さえ通ればそのまま干渉することができるという人間には過ぎた能力だ。

 自分がとんでもない危険な存在だということを確認させられているようで使いたくなかったが、もはやそういったことは言ってはいられない状況だ。仕方がない。後悔しないように行動すると僕は決めたのだ。

 二分もすると腹の穴もふさがったらしく痛みが消えた。その間、ずっとぼきぼきと人狼の骨を折り続けていたのでもはやこちらに攻撃しようという意思は感じられなかった。

 そこにあったのはただの怯えだ。

 獣も恐怖を感じるらしい。

 そして、今度こそ十分だろう。

 なんとか落とさずに握り締めていた指輪を今度こそ使う時だ。

 「少しでも抵抗したら今度は首から下をベキベキに折ってやるからな」

 宣言しながら右腕を折る。

 もう悲鳴も上げられなくなっているが知ったことじゃない。

 今度は割り込まれないように素早くかがんで左手の中指に指輪をはめる。

 「命令だ、笠酒寄。人狼の能力を制御しろ。僕たちはそうして生きていくしかないんだ」

 かすかに指輪が光った。

 同時に人狼の身体が縮んでいく。僕の二回りは大きかった体躯が小柄な少女のそれに変化していく。

 数秒後にそこにいたのは凶悪な人狼ではなく、ほっそりとした体躯たいくの女の子だった。

 目を閉じて、気を失っているらしい笠酒寄の肩を掴んで揺り起こす。

 「おい、起きろ。夏でもこんなこんなところで寝ていたら流石に体調を崩すぞ」

 「ん……んぅぅ……」

 どうやら気づいたらしい。全く、最後まで手間をかけさせてくれる。

 「……あれ? 空木君?」

 目を開けたものの、いまだに意識ははっきりとはしていないらしい。

 「終わったよ。これでお前の『怪』は終了だ。あとで室長に礼を言っとけよ」

 依頼料のこともあるしな。

 どんな対価を払うことになるのかを僕は知らないが、それなりのものを払うことになるのだろう。

 しかし、それは笠酒寄が負わないといけない。

 残酷なのかもしれないが、それがなにかを求めるということだ。

 ヴィクトリア・L・ラングナーという人外に助けてもらうための条件だ。

 「あの……空木君、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど……」

 人が感傷に浸っていたのに無粋な奴だ。

 「なんだよ? 言っとくけどおんぶして連れて行ってくれっていうのは却下だぞ。そのうちに回復するだろうからそれを待って行けよ」

 「そうじゃなくて、あの、ベンチの下にあるから、とってきてほしいの」

 「あん? 何をだよ? 秘密の日記帳でも置いていたのか?」

 寝転がって向こう側に体をむけて笠酒寄ははっきりとは言わない。なにかもごもごとつぶやいているだけだ。肩のあたりまで真っ赤になっている……ん?

 人狼は服のようなものを纏っていなかった。

 何も着ていない状態から人狼化が解けたらどうなるか?

 当然、服が自動的に生成されるなんてことはあるまい。

 「悪い! 今すぐとってくる!」

 反転からの全力ダッシュで僕はベンチに向かっていったのだった。



 服をとってきてから渡すのにひと悶着あったのだが、それ以外はすんなりいってくれた。

 服を着て、骨折も治った笠酒寄と一緒に公園の出口に向かう。

 「ん、どうやら終わったようだな。しかし、なんだか時間がかかった気がするなぁ。どうせ最初から本気を出せなくて不覚を取ったといったところか?」

 室長がニタニタしながら待っていた。

 「いいじゃないですか、そんな細かいことは。解決したんだから結果的には同じでしょう」

 「おぉーっとぉ、これは図星だったな? そうだろう? しかもそのあとに笠酒寄クンの裸を見てしまってドキドキのCHTだったかな?」

 「なんですかCHTって」

 「ちょっとエッチタイム」

 「ギャグセンスが中年のおっさんレベルですよ……」

 「約四百歳だ」

 「そうでしたね……」

 疲れる。人狼の相手をしていた時とは違うベクトルで疲れる。

 「というか結界はどうしたんですか? 誰も入れないんじゃなかったんですか?」

 室長は外で結界を維持していたはずだ。それなのにいま公園の入り口とはいえ、中で待っているということはおかしい。

 「なあに、結界の中で指輪の魔力が発動したのがわかったからな。終わったのはわかる」

 なるほど。結局は僕がまた甘かった、というだけだったらしい。

 室長の助手になって一か月ぐらいにはなるし、色々な『怪』にも関わってきたつもりだったが、まだまだ敵わないらしい。

 ハン、と僕を鼻で笑って室長は笠酒寄の方をみる。

 「どうだ? 笠酒寄クン。なにか体に異常はないか? 服はちゃんと全部あったか? ないならコダマの所持品チェックをしたほうがいいぞ」

 「一回色々と話し合わないといけないみたいですね」

 「あ、あの、異常はありません。服もあります」

 笠酒寄も微妙にしどろもどろになるのはやめてほしい。身に覚えのない疑いがかかりそうだ。

 だが、室長はその辺はいじることなく、

 「そうか、なら帰ろう。明日も学校だろう?」

 「は、はい!」

 無駄にいい返事だった。

 だが、確かにまだ新学期が始まったばかりだというのにいきなり遅刻というのは参る。

 僕たちはまだまだ生きていくのだ。

 こうして九月最初の『怪』、人狼は幕を閉じたのだった。



 百怪対策室。

 放課後に僕はここで室長の手伝いをする。

 特に取り組んでいる案件がなければ大体はお茶くみと室長の無駄話と容赦のないからかいに対応するのが仕事だ。一応給料はでる。

 今日も先日仕入れたパイプの自慢をうんざりしながら聞き流していた時だった。

 キンコーン、とチャイムが鳴った。

 「あれ? また通販ですか?」

 「んー、今は何も注文していないんだがな」

 めんどくさそうに室長はインターホンに対応する。

 「だれだ? ああ、キミか。鍵は開いているから入れ」

 そのままパネルの映像を消すと再びお気に入りのソファに座り直す。

 「誰だったんですか?」

 「すぐわかる」

 室長の言ったとおりに訪問者はパタパタと足音を立ててこの応接室を目指しているようだった。

 扉が開けられ、そいつはずかずかと室長に近づいて行った。

 「こんにちはヴィクトリアさん。大変です! 変な噂が立っているんです!」

 笠酒寄だった。

 人狼が解決して以来、百怪対策室に入り浸るようになってしまったのだ。

 稲木公園で会った時のあの暗い影はない。

 多少、引っ込み思案なのは変わってないが、今は日常生活を満喫しているように見える。

 はあ、とため息を一つ。

 それから僕は笠酒寄の分のコーヒーを淹れにキッチンに向かうのだった。

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