04ー4.1990年代のこと(高校~就職まで)

祖母が亡くなり、身内で大きな拗れやトラブルを起こしながらも、私は何とか高校入学までこぎ着けた。

当時はWindowsPCの走り。私は大学まで行く事を全く考えていなかったため、簿記やプログラム、情報処理といった教科を主力とする「情報処理科」がある高校に入学した。もちろん、公立だ。

当時から親に必要とされていない、愛されていない、この一族にすら不要な存在だと感じていた私は、高校進学の時から、「一刻も早く就職し、自分1人で生活を立ちゆかせること」を最大の目標として動いていた。

プラス、親や祖父にこれ以上「恩を売る」こともしたくなかった。祖母の死後、遺産相続やら保険受け取りやらで、祖父、実両親から双方で「~してやったのに」という言葉を飽きる程聞いていた。だからこそ、決してそんな恩を売り、グチグチと文句を言わせは絶対にしない、というある種の「意地」のようなものもあったのかもしれない。


祖母の死後、祖父は豹変した。


実両親の同居の申し出を断り、私との2人暮らしを選択した。そこに私が口を挟む余地は無く、祖父との生活を約10年経験した。

祖父は、まるで祖母が乗り移っていたかのような振る舞いをしだした。いや、元々そういう性質があったものの、祖母の圧力と個性に押し殺されて出ていなかっただけなのかもしれない。

神経質で潔癖気味、友達との外出や遊びに行く事も基本許可しない。祖母のように直接文句や虐待めいた発言をすることはなかったものの小声ながら聞こえるようにブツブツと呟き続ける。

病的な掃除と洗濯。洗濯においては干し方にまでこだわりがあり、私が代わりに干そうものなら舌打ちをして全部やり直される始末。これも、一種の「虐待」だろう。

食事という食事は作らなかった。基本的にはコンビニやスーパーの惣菜。白米と味噌汁だけは作っていたが、後は双方学校や職場で食べるだけ。

祖母とはまた違った「苦痛」を感じる日々。一緒にいるだけで息が詰まり、無言のままとにかく日々をやり過ごすような感覚で、毎日を過ごしていた。


ただ、幸いな事に、祖父はまだ仕事をしていた。しかも、給料が良いからと、日勤と夜勤があるシフト制の部署へ配置転換していたのだ。これが私の中で、唯一の「救い」となっていく。

祖父のシフトは壁に貼ってあったため、いる時といない時が容易に把握できた。高校の友人は今でも付き合いがあるほど信頼できる、気の置けない仲間が揃っている。時には土曜日の昼から遊び、19時近くまで学校に残っていたり、お喋りができた。

まるで、小学校・中学校時代の「失われた時間」を取り戻すかのように、高校3年間を過ごせたように記憶している。学科も最新の技術と知識、機材が揃った中での勉強だ。担当する教師達も若く、生徒達に対する理解力や、指導における緩急の付け方、メリハリも「今時」。友達半分、先生半分のような大人の理解者や頼れる友人達に囲まれ、高校はあっという間に終わってしまった。


私の所属している科は、情報処理科という耳障りの良い名前だったが、簡単にいえば「商業科」。当時の学科における就職率は95%程度だったはずだ。中には短大や大学に進学する生徒、専門学校に動く生徒もいたが、それはほんの数人。

私は学校からの推薦で就職先を決め、早々に社会人になることを選択。その職場は同校同科の先輩が何人も就職していることもあり、面接も人柄と資格内容を簡単にチェックされただけで、後は雑談。

職場から学校に帰って面接が完了したという報告をした頃には、既に会社から内定の通知連絡が届いていた、という状況だ。

私の就職は、高校3年生の7月末で確定。後はのんびり日々を楽しむだけになる。


一応、実両親にも折りを見て報告はしていた。そして、就職が決まるまでは、そんな高卒の馬鹿頭で決まるわけがないだの、就職難で無職になられたら困るだの、散々いっておきながら、就職の内定、会社の公開、保証人欄を記入する書類を出したら、父親がしたり顔でこう言った。

「別に、俺は強制していないぞ。今の技術を極めたっていいんだからな?」

専門学校でも、大学でも行っていい。金も出してやる。という暗喩だろうか。

私は鼻で笑った。

「高校の学費で60万かかって困っていたんでしょ?○○○(妹)は芸術関係だからお金もかかるだろうしね。あんたらにこれ以上迷惑はかけないよ。どうせ行ったら行ったで、金がかかるだの無駄だの言うんでしょ?その手には乗らない。

私は、私だけの力で生きていく。邪魔しないで」

実父は顔を真っ赤にしながら言葉を飲み込み、実母は台所で洗い物をしながら鼻をすする音だけが聞こえた。

沈黙の中、私は2人を交互に無表情な目で見ながら、長年吐けなかった言葉を吐いた。


「これが、あんた達がやってきた【子育て】の結果だよ。満足でしょ?」


子育てをしていない人間が、したり顔で物を言うな。金しか出していないくせに。

私の苦しみより、我が身の可愛さと保身に走ったくせに。

父母はこの就職以降、私の一切合切の行動に口出しをしなくなった。それでも、結婚前は大揉めに揉め、夫にも迷惑をかけたのだが、それはまだ先の話。

私は実家を出て、祖父の元へと戻った。ここから1年近く、両親との連絡は途絶える事になる。


1998年、4月。


私は叩きつけられた保証人の書類と、真新しいスーツに身を包んで、東京の本社へと足を運んでいった。

ついに、私が選択した、私のためだけの人生が始まる。

その大きな大きな期待と喜び、そして今までの乗り越えた苦労と苦難に、想いをはせながら。

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