考察1-01.戦前・戦後日本の被害者【祖母】

昭和7年、七人姉弟の三女として生まれた祖母。彼女の上には二人、姉がいる。

東北生まれの祖母一家は、まさに「日本の地方農家」の典型的一族だった。

所謂「本家」「分家」という概念。地区丸々1つがほぼ全て親戚縁者という濃密なコミュニティ。

先に生まれた者(姉)、後に生まれた者(妹にあたる祖母)への差別。

男性のみが跡取りとなり、生まれなかった場合は婿をもらって家を継ぐ家長制度がそのまま残っている時代だ。

七人もの姉弟の中で、唯一男の子は一番最後に産まれた末っ子。上六人は全員女の子。そのため、祖母の両親は、末の男子が生まれるまで、長女を跡取りとし、その「保険」として次女を・・・と考えていたようだ。


つまり、それ以降の子供達・・・三女(祖母)、四女~六女(大叔母)はいずれ嫁に出して終わる「家としては対象外」の子供達。そしてそれは、最後の最後に男の子が生まれた事でさらに加速した。


長女・次女・長男と、それ以外の子供達では徹底的な差別化が行われた。特に三女にあたる祖母は、基本的に畑仕事の手伝いと妹達の子守り、裁縫、食事の支度、掃除洗濯等の雑事。

上記の三名が当時のマナーや礼儀作法、勉学、教養を覚え、楽しそうに暮らしているのを、祖母は嫉妬と憎悪の目で見ていた。

6才で子守をさせられ、8才で畑仕事。10才になる頃には家の雑用全てを、祖母と妹達でこなしている状態だったという。

彼女は理不尽さを覚えていた。不公平感を覚えていた。たかだか2~3年先に生まれただけの人間と、自分との扱いの差。

お金のかけられ方の差、服装の差、勉学の差。


親の愛情の差。


これが、彼女の歪みを決定的にしたのでは、と遠戚の親族にまで話を聞いた私は感じた。彼女は、本来与えられるべき親からの愛を得る事ができなかった。

感じる事もできなかった。

姉2人と弟は目に入れても痛くない程の溺愛ぶりに比べ、ひたすら雑用をこなし、それを評価すらしてもらえない自分の何と惨めなことか。

「愛情への飢餓」は、年を追うにつれて彼女を加速度的に歪ませていった。姉達とは成人後も険悪な関係が続き、それは老年になっても変わらなかったという。

姉が病に伏せっても、亡くなっても、見舞いはおろか葬儀にも出向かなかった。彼女は姉達が嫁いだ後、生前には一度も顔を合わせていない事になる。


「胸がスッとした」


祖母の機嫌が良い時、そして祖母の妹(大叔母)がいた時に、晴れ晴れとした声でそんな言葉を呟いたのを覚えている。自分の肉親が亡くなり「胸がスッとした」と言えるその歪みは、他者には到底計り知れない憎悪が渦巻いていたのだと予測ができた。

親からの愛がもらえない「飢餓感」は、ここまで人を狂わせる。

そして、その「飢餓感」は、見事に息子(父)に、そして孫(私)へぶつけられ、連鎖していった訳だ。


そして、彼女を、太平洋戦争という大波が襲う。

昭和16年、開戦。彼女は9才で、自国の宣戦布告を耳にした。

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