悪魔(短足)×人狼

紫魚

第1話 孤独の傷を舐めあえば痛み

 「ノーラ・ノーマ」というのが店の名前だった。城下の歓楽街たる外は陽気で穏やかな喧騒に包まれていたが、この酒場は土の下のように、年代物のレコードから在りし日のカンタトリスの歌声が聞こえるほかに声という声、音という音が失せていた。そうであるから狼の電話の呼び出しバイブがやけに響いたのだった。カウンターでウイスキーを傾けていた狼獣人の男は、端末のディスプレイをちらと見て舌打ちし、「マスター」と呼びながら無造作に(ひどい折り皺のついた)紙幣を置いてさっさと店を出てしまった。カウンターの下からのろのろと小さな腕が伸び、代金を回収した。


 「何の用だ」

 応答するなり狼、不機嫌な様子を隠さず。

 「今どこに」

 臆した様子もない電話の向こうの声――短足クリネラ・クリムゾン・スプラウト――

 「飲んでいた。用はあるのか」

 「ない。きみの部屋の前にいる。眠れなくて」

 狼は短く息を吐いた。

 「どうしてお前は、俺に構ってほしいと思うのか、一度聞いてみるべきだとは思っていたが」

 「誰かいるのか」

 「ひとりだ、飲むか」

 「いや。散歩しよう」


 城の北には森が広がる。ある程度は魔王が管理する城の敷地だが、奥深くはこの地の本来の姿のまま、ゆえに人気のない森は時期を問わず底知れない不気味さを漂わせていた。この森を好んでふらつく趣味の悪さはふたりの数少ない共通項である。

 悪魔は小柄な体を背中の羽でもって宙に浮かせ、音もなく「散歩」している。体のバランスは悪いが顔は整った金髪碧眼で、その翼が蝙蝠でなければ天使か何かといった趣き。狼は(仲間に比べればそうでもないが)大柄で筋肉質、顔の半分は眼帯が覆っている上に黒髪を被せているが、もう片側の目は必要以上に鋭い。そういうふたりは職場が同じ(魔王城勤務)でなければ電話番号を交換する仲にはなかっただろうが、切っ掛けはそこまでありふれた形ではなかった。「森に来て」と言われた時、その我がままを承諾したのも、ここが只ならない因縁の場所であったからか。そこまで深くは考えていなかったが。

 「そもそも無理に眠る必要はない。我々は夜の生き物だから。ここの夜は長いのだし、何かを焦ることはない」

 狼は少し、普段よりは饒舌だった。

 「だから飲んでたの。狼さん」

 短足の悪魔は勤務中と変わらず白衣姿だった。狼の方は流石に制服は着ていない、ハイネックのセーターに細身のズボン。この頃少し肌寒くなってきた。

 「そういう習慣でね」

 「いつもひとりで」

 「そういう習慣だよ」

 適当に森を進む。足元で苔、茸がほのかに光り、明るくはないが暗闇ではない。それに、狼は隻眼よりも鼻からの方がよく「見える」。

 「どうしてお前は」

 「いや、俺はね」

 少し、普段よりは余裕なさげな様子で、悪魔は、

 「寂しい孤独を分かち合うのは狼さんがいいと思って」

 それにどうして俺が付き合うのか、と狼は言いたかったが、何となく黙って聞いてやることにした。

 「現し世から繋がりを絶たれて、人生の目的を失って――いや果たして――しかし憎むべきものは憎み終わったし、何よりも欲しいものはもはや天国の門の向こう側だよ。いや、いや……今、俺が取り戻したいんじゃない、だって今俺は悪魔だし」

 悪魔の独り言。碧眼が暗闇の遠く向こうを見ている。

 「母はたった一人の家族だった。礼拝の時間に空襲が。非道いよな、礼拝堂に爆弾落としていくなんて。悪魔だな。神に祈りながら爆死なんて洒落にならないが、不幸にも俺の脚は梁に潰されていて幸運にも身体には母が覆いかぶさっていて――ねえここ」

 突然悪魔は立ち止まって狼を振り返る。不意を突かれてぶつかりそうになる。目の前には死んだ巨木が横たわり、開けた空に月光が滲んだように輝く。少しだけ明るかった。

 「ここ、狼さんが俺を見つけたところ。ファーストコンタクト記念日だ」

 「なるほど」

 狼の鼻も覚えていた。5年前だ。

 「お前、誕生日か」

 「そう言っていいのなら」

 ふふふ、と悪魔は笑った。よく響く鐘のような心地好い声で。天使のような相貌に月のような微笑みを浮かべて。狼の右腕を掴み取り、引き寄せ、そのまま身体を引き倒して、地面に押し付ける。


 「何のつもりだ!」

 声を荒らげる狼、当然だろう。しかし怒りよりも、体格で遥かに勝る己が(短足悪魔の体重なんて半分しかなさそうなくらいである)あっさりと組み敷かれていることに驚いた。悪魔は狼の腰の上に跨り、右腕右肩を地に押さえつけている。その右腕右肩が、全く動かない。無理矢理起き上がろうと試みるが立てない。飲み過ぎたか、油断が過ぎたか。腰にナイフを仕込んでいる――

 「ごめんねえ、手荒で」

 言いながら悪魔は尻尾の先に引っ掛けた手錠を手慣れた様子で狼の手首へ。後ろ手に固定すると「これでやりやすくなった」

 「何をするつもりだ」

 「ナニでしょ」

 太陽は西から昇るでしょ、とでも言いそうな顔。狼は青褪めた。

 「お前、本当に、俺を、そういう?」

 「そうだよ、そう……好きだよ狼さん」

 天使的な笑み。

 「性的に」

 ひっ、と情けなく引き攣った声が狼の喉から漏れた。本気だったのか。

 「土の上にありては逆らわず、深淵の鍵持つ真の支配者、汝の御元へ全ては『落ちる』アバドンの金の冠」

 「重力感を強める」魔法である。非常に高位な存在の名を用いて実現する大層な術を、こともなげに使って悪魔は狼の抵抗を無力化した。ただ、この段になると、狼の方も命奪われる訳ではないと諦めも湧いてきていたが。悪魔は本当に、狼のズボンを下穿きごと下ろした。

 「尻尾で股間を隠す。そういうのもあるのか」

 

 「どうして俺に欲情できるのか意味が分からない。意味が分からない……」

 「そういう思い込みの方が甘いよね」

 中年を佳境に差し掛かっても世の中にはまだ理解できない怪奇があるものだ。

 「だってきみ、精悍な顔つきで目つきも鋭くて、でも肌が白くて、そうやって怒りか羞恥か分からないって感じで顔真っ赤にして睨まれるのはぞくぞくするよ。睨むくらいしかできないってことを踏まえると余計にね」

 言いながらあちこちをゆっくり撫でる手つきに、ぞわりと総毛立つ。

 「ほら、肌が白いからね、毛が黒々していてきれい、尻尾はふわふわだしね。ほら、見てるよ、君が見たこともないところも」

 そういう趣味の悪さは悪魔らしいと言えた。

 「もう俺我慢ならないんだけど」


「その辺で止めとけ野郎、ぶっ殺すぞ」「冥土の土産にいい思い出になりそうだ」「殺す、必ず」殺害予告。

 「殺す前にきみが俺のことぶち犯してくれたら嬉しい」

 興奮して、興奮だけで息が荒くなっているのに、世迷言は遺言じみて不気味な色味が付いていた。異物感が気持ち悪く、首の後ろが冷えるような感覚。後ろ手の掌が汗ばむ。狼は息を吐きながら「やめろ」。「やめない、やめない」

 

 「ふふ、やっぱり、気持ちいいよね」

 「い、や」

 「それとも衝撃的?」

 衝撃的なのは間違いなかった。

 「それともそれとも、俺のことぶち犯したいと思う?」

 「ない!」

 厭な音だけが響いている。狼に、試みていた手錠抜けを継続する余裕はなくなっていた。魔法の影響で思ったよりも疲労している。


 悪魔的作業の間、交わされる言葉ときたら、

 「やめ、や、クソ、あ、やめてくれ」

 「嫌だ、やめない、やめない」

 「やめて、やめて……」

 自らの責めが効果を挙げていることを見てとり、悪魔は狼の伏せた耳に向かって、

 「ずたずたにしてくれるほど、憎んで殺してもらうか、一周周って好きになってもらうか、あんたのことぶっ壊すまで、やめない」

 と宣言した。

 「どうして!おれが!」

 だからこうして声を荒げているうちは止めるつもりがない。

 「憎しみの焔に身を焦がすっていうの、復讐と殺意でいっぱいになるっていうの、分かってくれるとおもう、寂しさを、わかちあって、

 嬌声のように、悲鳴のように、子犬のように、「ああ!」と叫んで、「おまえ、!」地鳴りのように低く唸り、その瞬間だけ痛みも快楽も彼方にあったのである。

 「きみのこと、好きだもの、知ったさ。名前を隠して、魔王に復讐するためにやってきて、牙を抜かれて、爪を鈍らせた、腰抜けが!」

 「う、う、う」

 もはや何のために出ている声なのか分からなかった。

 「気持ち好いよ、気持ち好い。最高。きみ、こんなところから血を流して、地に頭を擦り付けて、無様に蹂躙されてるきみ、好き」

 

 しばらくして、すっかり忘れていたという調子で、悪魔は狼の手に掛けていた手錠を外した。そして狼は真っ先にズボンを引き上げ、次に悪魔の胸倉を掴んだ。

 「なあ」

 「うん?」

 「右がいいか、左か」

 「うーん、蹴りだな」

 お望み通り、腹部に蹴りを入れられて悶絶する悪魔。

 「すごい、尻穴が大変なことになってるはずなのに、これはすごい」

 実際、痛みで狼は顔を顰めていた。

 「それで、どう」

 「最悪に決まってるだろ」

 「俺のこと殺したい?」

 「ああ……」

 殺意の焔に燃えていると言うよりは、心底困っている目だった。

 「殺すとすれば先にやらねばならんのが。お前に俺の名前を教えた奴は誰だ」

 「魔王様に決まってるだろ」

 「だろうな」

 ならば魔王が焚きつけたようなものであろう、こんな手段を予想していたとは思わないが。

 「腰抜けだから魔王様殺すのやめたのか」

 悪魔がにやにやと笑っている。

 「確かに俺では力及ばず、だが、理由はそうではない」

 否、それは虚勢で多少図星を突かれたところはあるが、

 「お前はよく分かると思うが、復讐を遂げたところで孤独は癒し得ぬから」

 「うん、そうだな。そうだった……」

 復讐に人生を捧げ、悪魔的な兵器を造り上げたはいいものの暗殺され、「悪魔にならないか」と囁かれた男が答えた。仕事始めに世界中に死の灰を降らせた悪魔が、それから目的を失って自棄を起こした悪魔が笑った。

 「ごめんね」

 「それで赦されると思っている訳ではないだろうな」

 「いいや。きみのことぶち犯したかったし、ぶち犯されたかったし、殺されるならそれでも」

 「処置なしか」

 率直に述べて強姦されたのに、どうにも憎み切れないと思っている狼が処置なしだった。

 一族郎党焼き殺され、帰る場所もなくただ憎しみを道程にするほかなかった幼い頃に比べれば、大概のことは決して赦せない訳ではなかった。最中は本気で殺意をもって「殺す」と言っていたけれども。

 「ねえねえ仕返しに俺の××《チョメチョメ》開拓しない?」

 「しない」

 それに多分既に開拓されている。

 狼はゆっくりと帰路を歩きはじめ、悪魔が慌てて後を追う。「おぶろうか」「遠慮しておく」大丈夫とは言えなかった。

 「あと、ゆきさんって呼んでいい?」

 「やめろ。それに幼名だ。恥ずかしい」

 「じゃあ名前は何なの、三番じゃないでしょ」

 「魔王陛下に貰ったのがある」

 「それで呼んでいいの」

 どうにかして、できれば森を抜ける前に、この惨事への赦し方を考えておこう。蹴りを入れたくらいでは済まないが死んでほしくはない。狼も忘れていた孤独を呼び覚まされて感傷的になっていた。

 「クロスさん」

 「呼び捨ててくれ」

 魔界の夜は長く、焦ることはないのだ。


 「そうだ、尻に回復魔法かけたらいいんじゃん」

 「それで解決すると思うなよ」

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