原点・前編

 白い砂を敷き詰めた浅い海中に陽射しが降り注ぐような、鮮やかな青い空間。

 その茫洋とした果てへと目を向けたのは、この殺風景な世界のあるじだ。

 未だ当人にその自覚はないのだが、恐らくこの空間を意のままに操ることができるだろう事実だけは受け入れていた。


 晴れやかな色彩とは反対に、の心はやや沈んでいる。

 けれど、それを表情から読み取る者などいない。

 足元に開いた穴から、彼が二度目の生を受けた世界を見下ろした。そこで成長した彼は、死ぬまでの半生を革の兜で顔を隠して過ごした。

 その習慣を、死後の世界といってよいこの場でも続けているためだ。


 とはいえ、この空間に存在するのは、もう一人だけ。

 ときに彼を邪神と呼ぶ、助手――もしくは、赤の他人の魂を変質させてしまうという、己のしでかした過ちを忘れないために招いた者。

 こちらの世界ではタロウと呼ばれていた、その人物を探して振り返る。


 そこには背を丸めて膝を抱え、寝転がっている姿があった。

 むすっとして口を引き結び、この世の終わりかのような目をして身じろぎもしない。

 思わず苦笑をもらしていた。


 今晩はやけに静かだと彼も感じていたのだが、いよいよ理由を問えばタロウは「彼女と喧嘩した」とだけ、蚊の鳴くような声を喉から押し出した。


「そのくらいで、嫌になったわけではないだろう?」

「……もちろん」


 少しばかり気落ちしているだけなのだろう。彼は慰めになるだろうかと提案する。


「手土産でも持って、謝りに行けばどうかな。どちらが悪かったかなんて、些細なことだ」


 実際にどのようなやり取りがあったか知らずとも、決定的な何かがあったようではない。何が発端かなど分からない小さな言い争いに思えた。

 相手に許容を求める、少し行き過ぎた甘えからくる衝突など、ままあることだろう。まだ若いのだから。互いの距離感が分かれば、その内に治まるようなもののはずだ。

 彼は自分にもあった、結婚前の妻との他愛ない言い合いを思い出していた。思わず彼が微笑んだところで、タロウは居たたまれない様子で眉間を寄せると呟くように言う。


「……そういえば、俺から連絡すること、あんまなかったな」

「男の悪いところだ。なら改める良い機会だと思うといい」


 頷いたタロウは、唸りながら迷いを口にする。


「プレゼントか、プレゼントね……」

「何も高価な物ではなく、そうだな、洒落た店の洋菓子でも喜ばれるものだ」

「えっ! いやぁ、お菓子は、どうかなー……」

「甘いものが嫌いな子なのか」

「そういうわけじゃ……あ」


 愕然とした表情を浮かべたと思った次には、気まずそうに口を歪めて、タロウは体を起こした。胡坐をかいて座り直すと膝に肘をつき顔を背ける。

 話すつもりはなく、口が滑ってしまったと思ったのだろう。


「俺のことはいいんだよ……で、あんたはさっきから何やってんだ。なんでまた、ここに戻ってきた」


 言いながらタロウの視線は足元へと向かう。

 地面に開いた穴から見下ろせるのは、黒い山の抉れた頂上。


 ジェッテブルク山だ。


 その深い亀裂を目にする時、タロウの表情はわずかに強張る。

 どうしても、最期の時を思い出してしまうらしかった。タロウがこちらの世を去ってから、まだ、そう時は経っていない。


 タロウにまだ処理できない気持ちが残っているように、彼には長い年月を閉じ込められた牢獄のような地ということもあって、これまでは、この場を避けるように遠くへと出かけていた。

 だが、少しばかり行き詰まったというべきか、見直したいことができたのだ。


 この空間で自由に距離を短縮できるのは、実際に足を運んだ場所でなければならないらしかった。

 そこで、まずは過去に聖魔素を探し歩いた旅をして引き返した辺りから、人の住む地の外へと旅立った。その時も断念したのは、とてもこの砂漠を渡って戻ってこれるとは思えなかったためだ。

 その判断は間違っていなかった。実際に、地上は半透明の赤い粒が堆積した砂漠がどこまでも続くばかりだ。

 幸いにも、現在の魔素による体でも、地上を歩きさえすれば記録されるようだった。生前との共通点は、どちらにも存在する魔素。そこで彼は、魔素が結合することによる結果だと考えている。

 だから彼は地上を延々と歩き続けた。

 タロウを呼ぶ約束の時間外も暇を見つけては歩き続けたのだ。

 しかし、そこで途方に暮れてしまった。どこまで歩いても、空との境は赤く煙るだけなのだ。


 その広大な砂丘の砂粒を、タロウは魔技石を砕いたようだと言う。

 過去に生きていた時代にはなかったものだから、彼が直接目にし触れたことはない。亡霊となって街を徘徊していたときに、道具屋に置かれたものを眺めたことがあるだけだ。

 だが彼の目には、それとも違うものに映っていた。

 その砂粒は、魔素の成れの果てだ。しかも、邪質の魔素のみの。

 聖魔素の世界の主となればこそ、そのように捉えられるのだ。


 五種類あると判明している魔素。

 それらが、この世の物質に多大な影響を与えるどころか、魔素がなければ存在しえない世界のようだった。


 タロウが地上で暮らした際に契約したという聖獣から、生物に関与するのは聖質と邪質の魔素の二種類だと知れた。

 他の三種は、人からは生命のあるものとは呼べない事柄に関与するのだろう。


 その事実が、この青い空間で聖質の魔素だけの存在となってから、地上の物体に触れられないことの理由に思えた。


 すぐに答えが返らないことを不思議に思ったらしいタロウが、顔を上げて不審に彼を見る。


 なぜ、ジェッテブルク山へか――その問いに、咄嗟には答えが出なかった。

 今回立ち戻った件だけを伝えるのでは、足りない気がするのだ。


「……恐らく私、いや、我々にとって原点となるからかな」

「まぁ、そうかな」


 考えあぐねて出た彼の言葉を、タロウは特に訝るでもなく相槌を打つ。

 タロウは、真っ直ぐに物事を見る。

 彼のように、多くを知るからこそ目に映るものを歪めてしまい明瞭でない何かを、タロウは直感しているのかもしれなかった。

 それを踏まえて、彼は曖昧な考えを紡いでいく。今後の方針を定めるために。


「君も、未踏破地域を見て気付いたろう。地上は、まるで邪魔素しか存在しなかったかのようだ」

「空以外はそうだな」


 空――すぐに返ってきた言葉は、見落としていたものだ。彼は全くだと大きく肯いていた。


「あ、邪竜が現れた時は、空も赤く染まってたか」

「それもあったな」


 浸透性が高い。それが邪魔素の特徴だ。ただし聖魔素に対してだけは反発しあい、一定以上の侵食をすれば互いに破壊する。

 しかし尋常ではない地上の赤の広がり方を見れば、聖魔素以外の他の魔素に対しては変質させる特性があり、その結果ではないかと思えるのだ。


 何かの反応を起こした成れの果てといえるような赤の砂漠。

 邪魔素の化身というべき邪竜を目にした者からすれば、あれが活きた状態などと呼べはしない。


「邪魔素も、他の魔素と支え合いながら、存在を保てるということなのではないかと思うんだ」


 かつて、始祖人族と呼ばれる肉体を持っていた己のようにと、彼は内心で形作られていく答えに納得をしていた。


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