Day 2

#10 霧

 霧には独特の匂いがある。

 それは場所によっても時間によっても異なるし、もちろん嗅ぐ人によっても異なる。

 俺の場合、それは土と火薬と鉄の匂いだ。

 二十代のほとんどを過ごした戦場の匂い。北方連合との間に起きた、民族紛争を端緒とするその戦争に、俺は従軍記者として赴いていた。それは、今はもう無い国と今はもういない人々の為の戦いだった。


 だが、俺が今歩いているのは戦場ではない。貧民街の路地裏だ。火薬の匂いも無ければ血の匂いもしない。地面の匂いはするが、それはどちらかと言えばヘドロのような腐った匂いだ。あの青々とした匂いではない。

 呼び起される記憶を脳内に押しとどめ、俺はひたすらにその中をまっすぐと歩いた。シエルの影はない。霧の中には、誰もいない。

 

 歩き続けると、壁に行き当たった。

 貧民街を他の街区と隔てる壁だ。レンガを積み重ねてある。その壁に、よじ登ったような泥の足跡がいくつかついている。

 俺は迷うことなくその壁を登る。衛兵に見つかれば、最悪の場合その場で処刑され、良くても拘禁だ。

 壁の高さは、背丈の3倍ほどだったが、その足跡をたどると、簡単に上ることができた。俺は重たい体を持ち上げ、その頂上から街並みを見下ろした。


 まるで雲海だ。霧が町全体を覆っている。西の方に見えるのは、貧民街の大通りだろう。赤いランタンの光が、霧を照らし出し、そこだけを血のにじんだガーゼのように染め上げている。だが、俺の目はすぐに目的の物を見つけ出した。雲海から突き出た山々の尾根を渡るように、人影が一つ、屋根を飛び移っていくのだ。普通の人間なら足を滑らせてしまうような屋根の上を、軽々と渡っていく。時折、月光がその影の髪を照らし出す。灰色の髪は、月光の下では銀色によく映える。

 

 シエルだ。間違いない。


 俺は彼女が走っていく方向に見当をつけ、壁を降りた。とても彼女のように屋根の上を走ることなどできない。だが、彼女を見失ったとしても、行先まで分からなくなることは無い。なにしろ、彼女は屋根の上を走っているのだ。街の道沿いを歩いているわけではない。

 

 壁を降りた俺は、死んだように静かな、戒厳令下の街を歩き始めた。深夜0時を過ぎ、霧の中には俺の足音だけが響く。霧の中では、ところどころにある街灯の明かりは全く用を為さない。薄い明りがまんべんなく広がり、足元や数m先までは見通せるのだが、そこから先は闇の中だ。

 

 しばらく歩き、路地を曲がる。

 見覚えのある通りに出た。霧の中でもそうと分かるのは、通りの両脇に背の高い街路樹が立っているからだ。そこは、俺が昔、妻と住んでいた街区だった。

 もう何年も、そこを避けて俺は暮らしてきた。記憶が蘇ってくるからだ。だが、今はここを通り抜けなければならない。迂回すれば、かなり遠回りになってしまう。考えている暇などない。

 俺は霧の中に足を踏み入れた。どの家も、あの頃と何も変わらない。中心街からは少し離れているが、暮らしやす街だ。どの家も俺と同じような、上流とはいえないまでも、それなりに裕福な家族が住んでいた。


「――――、ねえ、今日の晩御飯、どうする?」

 そんな声が、今にもどこからか聞こえてきそうだ。

 

×  ×  ×


 妻になった女性は、俺が勤めていた新聞社で、事務と受付をしていた。栗色の髪をポニーテールにしていて、それがよく似合っていた。普段は裸眼だったが、時々細かな作業をするときは眼鏡をかけていた。それもまた、俺は好きだった。


 俺より数年後に入社してきた彼女を、俺は初めて見たその日のうちにデートに誘い、半年と経ない間に男女の関係になった。周りは俺の手の早さに驚いていたが、俺は自分が従軍記者として戦地に送られると踏んでいた。だから、あまりゆっくりとしてはいられなかったのだ。


「帰ってきたら結婚しよう」


 とまでは言わなかったが、俺はそれに似たような言葉と約束を残して、北方の戦地へと赴き、いくつかの記事を書き、一本の長いルポルタージュを社に送った。見送った死体も、見殺しにした兵士の数も、俺は数えていない。凄惨な戦場では、すぐにその数は常に更新されていたからだ。

 その一つ一つの肉体に、親があり、子があり、愛すべき人があったのだとしても、命を失ってしまえばそれはただの物だ。そして、自分もまた、ただの肉体モノであるのだ、と言うことを知るためには十分な時間でもあった。


 戦争がこちらの敗戦で終わり、約束通り俺たちは家族になった。

 俺たちは中心街から少し外れた住宅街に家を買い、犬を飼った。子供はいなかったが、いずれは作ってもいいと考えていた。まだ二人だけの暮らしを楽しんでもいいだろう、だって、俺達は5年間も離れ離れになっていたのだ、と俺たちは話し合った。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る