32.それは恋なのか、恋に恋する乙女心なのか
ハルとキョウのマンションのダイニングテーブルで、伊織は紙面いっぱいに数式が散りばめられたノートへと目を凝らしている。
「ここで-2x<3ってなるとこまでは分かった?」
「はい、なんとなく……」
「ここまでのところで、質問あるかな」
「あ、うん……あのさ」
伊織はちらりと廊下のほうへ視線を走らせ、声を潜める。喫茶ベルツリーで夕食を済ませ、部屋に戻るなり「風呂入って寝る」と言って引っ込んでしまったキョウを気にして。
「……あの、お嬢はキョウのことが好きなんだよね?」
「……伊織くん、今の俺の説明聞いていたかな」
「は! え! あ、はいえっと、-2xの話だったよね……!」
唐突にノートの上に身を乗り出した伊織に、ハルは小さくため息をつく。
「まあいいや、ちょっと休憩にしようか」
「はあ、すみません……」
苦笑を残してハルはキッチンに立つと、「もう少しやるでしょ? コーヒーでいい?」とケトルに湯を汲み火に掛けた。
「で、お嬢がキョウのことを好きかって? ま、そう見えるね」
カウンターの向こうで手を動かしながらさらりと答えたハルに、伊織はやっぱり……と思う。
「そうだとするとさ」伊織は少し考えて、「小早川さんを応援するよりも、真野さんと深町くんがくっついてくれたほうが、お嬢にとっては安心なんじゃないのかな?」
「だよねえ。そうならないのが、お嬢のいいところであり困ったところでもあるよね」
カップの音をさせながら、ハルは苦笑いの混じったような調子で答えた。
まあ、そうかな、と伊織も思う。良い意味でも困った意味でも、あおいは打算がないように見えた。裏表がないというか。
「ちなみにこれって、みんな知ってる話?」
「知らないのはキョウだけなんじゃないの?」
「あ、で、やっぱキョウは知らないんだ……」
「その方面にはてんでお子ちゃまだからねえ」
可愛いよねえ、とにっこり笑うハルに、伊織は「ははは」と曖昧な笑いを返した。
「そのキョウが真野さんのことを好きとか、お嬢もまだまだ分かってないよね。そんなんじゃ、キョウはあげられないな」
「はははは……」
キョウの恋のお相手は、まずハルに認められなければならないらしい。
「あでも、恋は盲目とも言いますから。相手がキョウだと、つい焦っちゃって客観的に考えられなくなっちゃう……のかも……」
一応弁明を試みる伊織だが、女性の気持ちや色恋沙汰になど詳しくもなく、言葉が続かなかった。
「だけど」言いながら、ハルは手元に視線を移し、「お嬢のあれが、本当に『恋』っていうものなのか、『恋に恋する乙女心』ってのなのか、よく分からないんだよね」
ぼんやりとした口調で、ハルは伊織の目の前の数式よりもずっと複雑なことを言う。
「は、はあ……?」
ちょっと返答に迷って、
「お嬢は本当は、キョウが好きなわけじゃないかもしれない、ってこと?」
「そういう意味ではね……」
やはりぼんやりとした口調で答えるハル。キッチンからコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「お嬢はキョウに『負い目』を感じていることがあってね」
「……え?」
そのまま説明が続くのかと思ったら、ハルはそう言ったきり口を閉ざしてしまう。コーヒーを注ぎながら、考えているようだった。それは、伊織にここから先を話すべきかやめるべきか、なのか。それともどこまでをどう説明しようか、なのか。
だから伊織は続きを促すことはせずに、テーブル上のxやyに視線を落としてしばらく待つ。
やがてカップの音を鳴らしながらハルが出てきて、伊織の目の前に良い香りのする琥珀色の液体がなみなみと注がれたカップを差し出した。
礼を述べて受け取ると、自分もカップを持ってハルはそれを軽く揺すりながら、
「あの二人は、というか俺もだけど……」
少し考えるようにして、続ける。
「なんていうのかな。幼馴染、って言っていいのかなあ、これも」
「へえ……」
初めて知らされようとしている彼らの関係に、伊織は目を見開いていた。
「幼馴染って……え、家が近所だったとか、親どうしが知り合いとか、そういうこと?」
思わず訊いてしまい、だが言葉を捜しているようなハルの表情を見て、どうもそんな気楽な関係でもないらしいと直感する。気軽に質問してしまったことを少々後悔し、誤魔化しにコーヒーカップに口をつけた。
「うーんとね」
けれどハルは伊織の戸惑いは気に留めず、斜め上に視線をやって、
「遠い親戚、かな」
「えっ、親戚?」
驚いた伊織に、ハルは片頬だけ上げるようにして笑う。
「……あのね、俺たちの生まれたとこはね。――山奥の小さな村だよ。そこじゃ村の人間のほとんどは、元々同じ家だった人たちなんだ。って言っても、千年とか続いている家らしいから、もう血の繋がりなんかほとんど分からない。で、俺は本家の人間で、お嬢は分家筋の有力な家の子で。仲良く遊ぶような関係じゃなかったけど、近くの家に住んでる同い年の子供だしね、小さい頃から知ってはいたよ」
「へえぇ……」
思わず感嘆の声を上げていた。山奥の小さな村に暮らす、千年も続く一族。なんだか小説か映画みたいじゃないか。
そういえば、と楠見が以前言っていたことを思い出す。神月家は、サイの業界じゃ名家なのだと、たしか。あおいもその、神月家の一族の娘、というわけか。
「あの、どこの出身なのか、訊いてもいい?」
「京都だよ。って言っても京都市じゃなくてね、観光地の市街からはずーっと離れた、どちらかというと日本海のほうに近い山の中なんだ」
「へええぇぇ……」
「凄く寂れたところだよ。……出てきてから、一度も帰ってないけどね」
口元だけで、ハルは小さく笑って続ける。
「だけどキョウは、別の場所で生まれて育ったんだよ。俺とキョウとは母親が違ってね。あいつの母親は子供が生まれる前に村を出ちゃったから、俺も七つぐらいになって初めてキョウに会うまで、弟がいるって知らなかったんだ」
考えながら、という様子を消し去って、ハルはさっぱりとした口調で言って軽く肩を竦める。だからつい「ふうん」となんでもないような相槌を打ちそうになって、遅れてその内容が物凄く深刻なものだったことに気づき、伊織は内心で少し慌てた。
「育ててくれた人が亡くなって、あいつが村にやってきたのは九歳の時だよ。お嬢はそれで初めてキョウと会った」
伊織の内心の動揺は知らない素振りで、ハルはやはりさらりと続ける。
「でも結局、キョウは半年ぐらいしか村にいなかったし、俺もその後すぐこっちに来ちゃって。再会したのはお嬢が中学生になって東京に来てからで……だから、小早川さんと深町くんみたいに『家が近所で小さい頃から一緒に育った幼馴染』って言うのとは、ちょっと感じが違うよねえ」
「へえ……」
なんと言っていいのか分からず、話の内容を咀嚼しながら伊織は頷いた。
「でね」
コーヒーで喉を潤すようにして、ハルは伊織へと視線を向けて続ける。
「キョウが村を出るきっかけになった事件っていうのに、衣川の家が関わっていて……」
「は、はい」話がまた核心に戻ってきたことを察し、伊織は背筋を伸ばした。
「お嬢はそのことでキョウに負い目を持っていて……それは、まったく彼女のせいじゃないし、俺もキョウも全然そんな風には思ってないんだけど」
そこで視線を下げて、また一口、コーヒーを啜る。
「でも、もしも俺がその立場だったら……やっぱり気にしちゃうし、どこかで申し訳なく思っちゃうかもしれないな」
わずかばかりに苦笑を滲ませるハル。
それは――と伊織は思い出していた。先日この家で見た、彼らの過去。怪我を負っていたキョウ。――これからここで、ずっと一緒だよ――そう言って、ハルはキョウを抱き寄せた。
(あれは、その『事件』に関係あるんだろうか……)
引っかかったが、あれが伊織の夢や妄想であったという可能性も捨てきれず、さらに質問を重ねる気分にもなれず、伊織は内心で首を振るって今の考えを頭から追い出すと曖昧な笑顔を作る。
「あ、あのさ。だけどその……あれは申し訳なく思って負い目を感じている人の言動には見えないっていうか、あの……」
どう見ても、あおいのほうが強く出ているような気がする。
言うと、ハルは笑った。
「昔っからあんな感じだけどね、お嬢は。まあ、キョウに対して申し訳なく思っているけど、キョウはそれを否定するしどちらかといえばお互いに触れたいことではないから、その感情を常に表には出さないようにしようっていう気持ちが一周まわってああなっているわけだ」
「はあ……複雑なんですね」
「そ、複雑なんだ。ああ見えてお嬢も意外と。だからさ」
コーヒーカップを口元に持っていって、ハルはまた宙に目線を上げて、
「お嬢が本当にキョウに恋心を抱いているのか、そういうあれこれがいろいろあって放っておけない気持ちを恋愛感情だと錯覚してしまっているのか、よく分からないんだ」
いつもの笑顔でにっこりと言って、ハルはカップを置いた。
「さ、それよりも続きやろっか。まだ基礎の基礎だよ、伊織くん。試験に出るのは応用問題だからね?」
「すっかり遅くなっちゃったわね」
心持ち早足で歩きながら、あおいは苦笑いを浮かべた。
「うん、ごめんね、送ってもらっちゃって。あおいちゃん、帰り一人でしょ? 大丈夫?」
「大丈夫よ」
「だけど道、暗いよ?」
「平気。あたし強いの」
心配そうな目で見る志穂に、あおいはにっこりと笑いかけた。
神月の村に生まれて、サイの能力も武術も物心つく前から訓練している。ハルやキョウのレベルの能力を持ったサイが相手なら分からないが、そんな人間はそういるものではないし、女性の体や金品が目的のそこらへんのゴロツキなら気にするまでもない。
帰りが遅くなるとハルたちが送ってくれることもあるが、あれはあおいの身が心配だからというよりは、あおいが不埒な輩を過剰に叩きのめして警察沙汰になるのを警戒しているのだということを理解している。
……なんてことを、志穂に詳しく説明するわけにもいかないが。
「それより志穂ちゃんのほうこそ、大丈夫? おうちの人、心配してない?」
「うちは問題なし。放任主義なんだ」
「そう?」
「うん。歳の近い兄貴と弟がいてね。なんとなく一緒くたにほったらかしにされてる感じ」
「そうなの」
一人っ子のあおいとしては、兄弟の多い志穂が少々うらやましい気もして、それになんだか男兄弟に囲まれた志穂というのがしっくり来る感じがして、笑って頷いた。
「昔はよく、兄貴と弟とタカと、四人で遊んだんだよー」
「ふうん。なんだか楽しそうだわ」
「ね。下らない遊びばっかだけど、楽しかったなあ」
本当に楽しそうに笑う志穂は、微笑ましかった。だから率直に、
「いいなあ」
笑い混じりにそうつぶやいた。
と、志穂はあおいに視線を向ける。
「あおいちゃんだってさ、神月くんや成宮くんと仲良さそうだったじゃない」
「まあ……腐れ縁っていうほうが近いような気がするわ」
「えー、贅沢。ほかの女子が怒るよぉ?」
悪戯っぽく言って、志穂は思い出したように笑った。
「あおいちゃん、『お嬢』って呼ばれてるんだね」
「子供の頃からのあだ名なの」
「へえ。なんだかぴったり。あおいちゃんって『お嬢様』って感じだもの」
「あら、そうかしら」
「ほら! その言葉遣いとか!」
人差し指を立てて、志穂は声を上げて笑う。
「子供の頃からってことは、やっぱり、幼馴染とかそういうのなの?」
「どうなのかしら。子供の頃から知ってはいるんだけど。志穂ちゃんたちみたいな『幼馴染』とはちょっと違うような気もするわ」
「そう?」
不思議そうな顔で首を傾げる志穂。
ハルのことは幼い頃から知ってはいたが、彼は生まれた時から「神月家の当主」であって、村の最重要人物であって、一族の中では有力な家のあおいでさえ気軽に口を聞いていいような相手ではなかった。関係が変わったのは、キョウが村にやってきてから。けれど村の中でのその関係は、半年ほどしか続かなかったから――。
思い出すと、暗い雲が心の中を覆いだす。けれど、
「だけど、あおいちゃんのほうが羨ましいなあ」
あっけらかんとした口調の志穂の一言で、暗い気持ちはすぐに拭い去られた。
「え、羨ましいって?」
「だって、あんなカッコいい幼馴染が二人とか、すごいよ! 頼りになりそうだし。タカとは大違い」
「そうかしら?」
「そうそう。絶対。ねえ、あの二人のどっちが好きなの?」
「えっ!」
唐突な質問に、ドキリと胸が鳴った。
「どっちか好きなんでしょう」
「え、そんなこと……」
「ううん。こういう時はどっちかのことが好きって相場が決まってるの」
「ち、違うわ」
「ほらほらー、顔が赤くなってる!」
ニヤリと笑った志穂に、あおいは唇を尖らせる。
「いじわるね」
「あははー、あおいちゃん、可愛い!」
志穂はひとしきり笑って、それからふう、と息をついた。
「あおいちゃんとこんなに仲良くなれるって、思わなかった。なんだか手の届かない人って感じがしてたんだ」
「え……そう?」
「うん……あ! ううん、悪い意味じゃないよ。気さくで親切な人だな、とは思ってたけど、……でも、なんていうのかな。美人でお嬢様で……なんとなく住んでる世界が違うような気がしちゃってた、かも。それ言ったら、神月くんも成宮くんもなんだけど。なんていうのかな――」
言いながら、志穂は斜め上に視線をやる。
「例えば、別の世界の王子様とかお姫様とかそういう人が、お忍びでこの世界に住んでみんなと同じ学校に通ってる……みたいな?」
それは深いところまで察した上で発した言葉ではないのだろうが、しかしあおいたちの特殊な立場が的確に悟られているかのような気分になって、あおいは一瞬黙ってしまう。
「あっ、そんな真剣に考えないでね」
言葉を失ってしまったあおいに、志穂は慌てたように両手を振った。
「ごめん、変なこと言って。なんだかそんな、漫画みたいな想像しちゃうような人たちだってこと。だから、仲良くなれて嬉しいってことだからね」
「……うん」
心の中に去来したものを払いのけて、あおいも笑い返した。
「ねえ、今度あおいちゃんのおうちにも遊びに行っていい? 学校からそんなに遠くないんでしょ?」
「あ……うん」
ほんの少し迷ったのを隠すように、すぐにあおいは笑って、
「ねえ、試験勉強とか、編み物とか、しに来ない? 良かったら、週末にでも泊まりで来て。さっきのあの店の近くなの」
「えっ、いいの? うちは平気だけど、あおいちゃんちは? おうちの人、大丈夫?」
「大丈夫よ。一人暮らしなの」
そう言うと、志穂は少し驚いたように目を見張った。
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