恋には身をやつせ

 穂付神社を後にする際。人の姿を取った彼はいつもとは違って白髪ではなく、鳶色の髪をした極々平凡な面立ちの男に変わった。それがこの村で過ごす幸之助としての姿なのだそう。

 年は二十代の後半か。これまで同じ年の頃の、決まった姿でいた彼がいきなり成長して別人になってしまい、驚いて思ったまま「他の姿も取れたんだ……」と呟いたら、自慢気な顔を覗かせた穂付様が「私から名を給わるだけの狸だ。お前が思う以上にこれは優秀だぞ」と仰られた。

 その言葉を証明するように、村長に顔を見せに向かうと言う彼について行くと「久しぶりだなぁ! いつ戻ったんだ?」なんて目を丸くした相手の言葉から始まって、淀みない言葉運びに軽い近況報告を交えつつ、私の紹介によろしくしてやってくれと一言添える社交性を見せつけられた。

 十年来の友と言ってもその大半は狸としての彼であり、人としての彼についてまったく知らないのは確かだ。けれど森での態度と違いすぎて、村長さんの前でなければ君は誰だと真顔で疑ったことだろう。

 穂付様が仰られていたように菫は幸之助の名で村に馴染んでいるらしく、しばらくすると帰省した彼に会おうと集まった村人たちに囲まれた。

 次から次に人が訪れるので気を利かせた村長さんが家の広間を開けて下さり、誰が言い出したか酒や食材が持ち寄られ宴の準備に女衆が立ち上がる。

 なので私も何か手伝いを、とその輪に加わった。

「いやぁしかし、まさかこんな若い娘を余所で引っ掛けてくるなんてねぇ」

「お咲紀さきちゃんが聞いたら騒ぐだろうね」

「それを言うならお奈津なつちゃんだって」

 くりやにて、何を作ろうかと料理の相談がなされる傍ら。勝手が分からないので指示を受けつつ聞き手に回っているとそんな会話が耳に入った。

 お咲紀さんにお奈津さん?

 誰だろう。

 詳しい話が続く前に話題が変わって名前以外分からずじまいに終わる。

「そういや婚儀はもう済ませたのかい?」

 なんて尋ねられて、二人の女性について気に留めている場合じゃなくなってしまったのだ。

「えっと……」

「まだなら衣装も道具もあるから日の良い時にお挙げよ」

 何でも穂付神社にて貸し出しが行われているそう。

 新宮村の起こりは穂付姫神様にあり、村人は荒御魂のかの神を鎮めるべく今は隣の稲出村いないずむらから人身御供よろしく移り住むよう告げられた者たちを祖先とする。故に産まれ得た身は穂付様の物として人生の節目には必ず儀式を執り行いご報告を申し上げるのが慣わしとなっており、村の者が須らく慣わしに則ることができるよう整えられているのだとか。

 これから村で暮らすのならご挨拶とご報告は忘れずに、とのことだった。

 神社でのあれを挨拶と数えて良いものかは少し悩んだが、村に着いてすぐ伺うには伺ったことを伝えると「そりゃあ良かった」と相手の女性は笑った。

 婚儀については追及がなかったので、済ませたものと勘違いさせたかもしれない……。

 嫁入りするかも未定なのだけれど。

 どう訂正を入れたものか。考えている内に、熱燗が仕上がったと前菜の和え物と共に運ぶよう頼まれてしまって、一度広間に戻ることになる。

「幸之助さん! お嫁を連れて戻ったってどういうこと!」

 廊下を進んでいると女性の叫ぶ声が響いてきた。

 広間の襖が開け放たれており、菫の驚いたような声が続く。

「お咲紀? 嫁って何の話――」

「私、あなたのことずっと待ってたのに……こんなのあんまりだわ」

「って、うわ!」

 ドタン、と重たい音がしておいっ大丈夫か幸之助、落ち着けってお咲紀と慌てる周りの声で騒がしさが一気に増した。

 何事かと覗き込めばお咲紀と呼ばれていた相手だろう女性に押し倒されている菫の姿が……。

 私に気付いた誰かがあ、と声を漏らした。

 視線がこちらに集まる。

 不味い。

 彼らの表情から読み取れるものを言葉に直すならその一言に尽きるだろう。

 何が不味いのか教えて欲しいところだ。

 固まった空気に気配を察して体を起こした女性が振り返る。

  涙に濡れた紫紺の瞳。おそらく私より年は下だろう。成熟しきらない少女の面影を残した顔は美しく、どこか穂付様を彷彿とさせるものがある。

「あなたが幸之助さんがお選びになった方?」

 強く、敵意の滲む視線で睨まれる。

 けれど穂付様の冷笑と比べればずっと可愛らしい。

 立ち上がった彼女が私に向かってくる――が、一歩踏み出したところで手首を菫に掴まれ、それ以上足を進めることは叶わなかった。

「おい、何をする気だ」

「何って――」

 ため息一つ。

「何か思い違いをなされているご様子ですが」

 お咲紀さんの言葉を遮るように少し声を張りながらようやっと広間に入って熱燗と前菜の和え物を配って回る。

 席がてんでバラバラだったので村長さん以外の方々の分はそれっぽくまとめて置いた。

 ……数が足りないところには後から運ばれてくることだろう。流石に全員分の熱燗と前菜は持たされていない。

 刺さる視線を無視して口を動かす。

「私共の間に男女の仲はございません故、皆様におかれましてもどうぞあまりお騒ぎになられませんよう、ただ彼にご紹介いただきましただけの新参者としてこれからよしなにしていただければと存じます」

 部屋の入り口まで戻って膝をつき、頭を下げた後で襖を直してから立ち上がる。

 怒ってる? 悲しんでる?

 いいえ、別に何とも思っちゃいない。

 彼から答えをもらえていない以上、述べた言葉だけが事実だ。

 厨の方へ体を向けると追加分を持ってやって来た方と目が合った。

 驚いたような顔を向けられたが会釈に留めて下がらせてもらう。

 ああそうだ、厨に残っている方々の誤解も解いておかないと。


 ……怒ってはいない。悲しんでもいない。

 ただ説明が欲しいとは思う。

 幸之助としての君は一体どんな人?

 お咲紀さんとの関係は?

 じわりと胸に広がる重たい痼りのような感情に深く、肺が空っぽになるまで息を吐き出した。

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