運は天に在り
日暮れにはまだ時間があるけれど、そろそろ起こした方がいいだろうか。まだもう少し寝かせてあげようか。考えながら四半刻が経った頃。
いきなりガバッと起き上がっ菫は息を吐く暇もなく人の姿を取ると私を押し倒した。
腰掛けていた倒木から転げ落ちて体を地面に打ち付ける。
痛いっ! 声を上げたが口元を押さえた彼の手の内で籠る。
いったい何? どうしたの?
そんな疑問を抱くより先に勢い良く飛んできた『何か』が凄まじい轟音と共に周囲の木々を薙ぎ倒し、驚いた私は身を固くした。
うう、濁音混じりの声で『何か』が唸る。
聞き覚えがある気がして、まさかと血の気を引かせている間にも影から様子を伺った菫が「マズいな」と言わんばかりに顔を顰めた。
「おいおい、最近の若鬼はこんなものかい? あの手この手で逃げ回る狸の方がまだ追い掛け回し甲斐があるってもんだ」
聞こえてきたのは女性の声だった。
誰かは分からない。
そもそも人? それとも妖?
想像した通り鬼だったらしい『何か』を相手に呆れた調子を滲ませている辺り、既に色々普通じゃないことだけは確かだ。
あと一つ。
「うっわ、そういうことかよ」
なんて呟いてから一拍置いて、サァと顔色を悪くさせた菫には心当たるものがある様子だ。
知り合い?
こちらを振り返った彼は上から退くと焦りを滲ませた。
「急いでここから離れる。動けるか?」
返事の代わりに差し出された手を取った。
正直、何がどういう状況に置かれているのかはさっぱり分からない。
把握している彼が急ぐと言うならそれに従うのが賢明だろうと、それだけで。
「どこに行こうって言うんだい、幸之助」
さらりと艶やかな黒髪が揺れた。
すぐ側から聞こえた声に反射的に振り返ると、倒木に体を預けて頬杖をつく美女の姿が……。
「どどどどこでもねぇよ!」
サッと腕を広げた菫が私の姿を隠そうと動く。
形のいい唇でゆるやかな弧を描いている美女は「へぇ?」と言いながら目を細めた。
ゾッと背筋が凍るほどの冷笑。
その視線の先にいるのは自分ではないのに、思わず震え上がって菫に縋り付く。
「お……? なんだいその娘、拐って来たのかと思ったが――」
不意に影が差す。
見上げると額から血を流している鬼が今にも振り下ろさんと槌を掲げていた。
「ひっ!」
私の小さな悲鳴にドゴッという鈍く重たい音が続く。
……それは、私の目では追えない動きで美女が鬼の腹に蹴りを入れた音で。瞬きの間に影が消えたかと思うと再び木々を薙ぎ倒す轟音が響き渡った。
「清の子! 片付けておけ」
「おやおや……よろしいので?」
背を向けた美女が叫ぶとまた新たな声が増えた。
今度は男性のようだ。
「辺りを荒らすだけの愚図をまた連れて来ようものならお前ごと蹴るぞ」
「それはご容赦願いたいですね」
「仕留め損なうことも許さん。早く行け」
何がなんだか分からない内にそう言って急かされた相手は消えた鬼の後を追い掛けて居なくなってしまったので、姿を見ることもなく終わったが。
後から聞いた話、鬼の言っていた陰陽師とはその男性のことだったらしい。
「さて」
濡れ羽色の髪を靡かせてこちらに向き直った美女がにこりと笑う。
「話を聞かせてもらおうか、幸之助」
見惚れる程に美しい笑みが、やっぱり背筋を震わせた。
――美女の名を
新宮村に祀られた氏神である。
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