第3話 静御前

 ……心など、疾うに捨てました。

 貴方を無くしたこの現世うつつよに、心などもう必要ございませぬ……。


 娘は、閉ざした目蓋をそっと開いた。はらはらと風に散ってゆく、薄紅の花弁が見えた。微かな息を洩らし、物憂げに佇む。

 手にした扇に風の重みを感じ、気怠けだるく視線を下ろした。眼の覚めるような、緋色の袴が風に打たれていた。娘の心とは裏腹に、鮮やかに咲き誇るように映えている。

 遠く、眼差しを移す。

 澄まし顔でそこに座すは、あの人のかたき


 ……私からかけがえのないものばかり奪い、これ以上まだ何を求めるのか……。


 この現身うつせみは、酷く空虚で儚い。


 娘は空を仰ぎ見た。

 重く雲間から覗く天に、在りし日の彼の人の貴い姿を映し描いて見る。

 只一人、貴方を奪った敵陣の中で。


 水干すいかんの上に花弁が散った。

 風が、烏帽子の下の黒髪を撫でる。娘の白い頬に、春の風が触れた。

 彼の日の、いとしい指先を想う。


 灰色の雲が、天の岩戸のように重厚に空を動いていく。


 嗚呼、天照大御神よ……。


 意にそぐわず人目に晒された娘の姿を照らすように、雲間に光が満ちていく。

 雨。

 霧のような微かな雨。

 柔らかな陽射しを纏い、天より舞い降りる。

 それはまるで、光の剣のように鋭く娘の頭上に降り注いだ。

 湿気を帯びた風が、娘の耳元を掠める。


 虚ろに揺れていた娘の眼が、はっきりと見開かれた。

 ……聲。

 吹きゆく風の中に、確かに聞いた。

 忘れえぬ、彼の人の聲。


 ……静……


 嗚呼、其処に居られたのですね。


 娘の口元が、穏やかに綻んだ。

 扇を持たぬもう一方の手で、慈しむように水干の下の腹を撫でる。両の眼に、得も云われぬ憂いを秘めて。

 俄に娘は強い光を纏い、しかと前を見据えた。


 ……今一度、この私を見ていて下さいませ。貴方のお傍に参る前の、私の最後の舞い姿を。そして、再び相見あいまえましょう……。


 娘は紅の唇から、ぬるい空気を吸い込んだ。たゆたうように、扇を手にした腕を揺らし上げる。 

 眼の先には、貴い人の敵。


 ……私を殺したければ、殺すがよい。あの方のお命を奪い去った、そなたの思い通りにはなりませぬぞ……。


緩やかな笑みを浮かべた口元が、鈴の音と共に開かれた。


しずや、しず……。


                      ❬終劇❭ 

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