第25話 和泉式部
「こっち、
小さな声で誰かが呼んでいる、ような気がした。
気のせい、ということにした。
何しろ、首が回らない。
「こっちや、こっちを見よ。」
いらだって早口でしゃべっている。
だってこれ、下ろしたらもう、一人では持てないもん。
「気のせい、気のせい。」
自分に言い聞かせた。
「気のせいやないわ、止まれ。」
声の
仕方なく、止まった。
「それは、そこへ置け。そなたはこちへ。」
やっと首を
慶寿院が、
仕方なく膳の山を廊下の隅に下ろした。
紅が近づくと、口に扇を当てて小声で言った。
「はい?」
聞こえない。
「○○○。」
「何でしょう?」
「
心底がっかりしたように言う。気を取り直して、
「
「……。」
小侍従にきつく言われている。
あのひとにお酒を頼まれても、絶対あげちゃ駄目。うわばみ、なんだから。
慶寿院は、むっとした。
「ははあ、小侍従に義理立てしとるのやろ。どちらが上やと思うとるのや。」
「それはもちろん、慶寿院さまです。」
「ならば……」
「でも小侍従さまは、私に直接、命令を下す立場のお方です。私に御用でしたらまず、小侍従さまにお命じください。そして小侍従さまが」
「もうよい、わかった。小侍従に言い
うるさそうに手を振った。
紅が下がろうとすると又、手招きをする。
まだ用は済んでいないらしい。
「
「はい、少しでしたら。」
読んでみよ、と書き物を差し出された。
声に出して読んだ。
「ほう、
「これ以上難しいと無理です。」
「これだけ読めれば十分や。」
「眼鏡って、南蛮人が使っている……。」
京に出てきて、初めて見たときには、びっくりした。目が四つあるのかと思ったのである。
武衛陣には、南蛮人のバテレンも出入りしている。
「あの者たちに献上された。
紅みたいな
バテレンたちは布教の許可を求めに来たのだが、きちんと話を聞いて、許可してやることを息子である義輝に進言したのも、この母だという。
「知っとるか?あの者どもは、
「へえ……。」
「夫ばっかり大勢の妻を持っていい、などという制度が妙や、と言う。考えてみればそうや。逆もあり、やろ。妻が、大勢の夫を持っても良かろう。」
「えっ?」
何言ってんの、この婆さん。
「昔は、そうやった。
「私には想像もつかないことです。」
紅は大人しく言った。
書き物を順々に読んでいった。
「ふうん、浄福寺に与えられた文書は、
「はい、そう書いてございます。」
「妙やの。」
慶寿院は考え込んでいる。
「この手の書類は、修理太夫が自ら
紅の顔を見て、
「不思議か、かような物を読んでいるのが。」
「あ、はい。」
素直に言った。
「女子は詩歌を読み、
「母上は、もっと色々なことをなさった。」
慶寿院は言った。
「
黙ってしまったので、紅は聞いた。
「お亡くなりになられたのですか?」
「何の。当年とって八十四歳におなりやけど、
あっさり言った。
「
紅が感心しているのを見て、言った。
「
「今だって、女城主のお国もございましょう。」
「それは、主が亡くなって、
「へえ……。」
「紅。女子やからとて、あきらめるな。奥に
とてもそこまでの覚悟をもってやる仕事など、今の彼女には無かった。
膳は廊下の隅に積みあがったままである。
紅が
でも慶寿院は、なかなか離してくれない。
「
「は?」
「やから……あれよ、細長い顔をして、似顔絵やったら、目と鼻と口が
「ああ。」
関白殿下ですか、と言おうとして、危うく言葉を飲み込んだ。
「あれも情けない、あっという間に都に舞い戻って来おって。おまけに山内の
どうやら前久の
「殿下は誠実なお方です。御自分のお立場に前向きでいらっしゃいます。
慶寿院は紅の顔をつくづく見て言った。
「そなたに話したのか。
「……。」
女の童なんぞ、で悪かったですね。御自分だってたった今、あたしにお説教なさってたじゃないですか。
「あの」
そうだ、この人なら何か知っているかもしれない。
「私について、公方さまや小侍従さまは、何か
「何か、とは何や。」
「山内の、何だと。」
慶寿院は言った。
「預かり物やと。そうそう、
これで粗略に扱われていないんだったら。
(粗略に扱われていた日には、どうなっていたんだろう)
「今、申しとったことは
御台所、
慶寿院や小侍従のような強烈な個性の持ち主の陰に
(姫君といっても、様々よね)
「さあ、用は済みや。行ってええ。」
慶寿院はさばさばと言った。
あの、お膳はどうなるんでしょう。
とても
(あたしが持って立っている上に、残りを重ねてくださると有難いんだけど)
なんて、言えないし。
あきらめて立ち上がった。
二度に分けて運ぶしかない。
又、取りに来よう。
天下国家の片付けが義輝や慶寿院の仕事なら、彼女の仕事はとりあえず、膳の片付けなのであった。
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